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天武天皇評伝(五) 頤で王子を殺す

 中臣鎌足なかとみのかまたりがともに天下のことを図るべき人物と見こんだ本命は、あくまで中大兄なかのおほえ王子だった。それにも関わらずここで孝徳王を推戴したことには、いくつかの理由がある。それはまず第一には、孝徳王からの破格の礼遇があってこそ鎌足の今の地位があるということだった。恩は返さなければならない。恩というものは、現代では非常にあやふやなものになってしまっているが、それは貨幣経済が極度に発達して、金銭があらゆることの媒介になった結果であって、昔はそうではなかった。受けた恩を返さないのは、借金を踏み倒すようなものであり、きちんと返せば社会的信用になる。返し方によってはかえって自分が恩を貸す側に入れ替わることもできる。

 もう一つには、蘇我大臣家を滅ぼした後の動揺を防ぐには、まだ二十歳の王子ではなんとしても若すぎるということがある。孝徳王は、中大兄の叔父だから、おそらく三十代後半から四十いくつくらいの年齢になっていただろう。こういうときには、まず人が見て安心する顔であるかどうかが重要で、そのためにはやはり四十近いくらいの方が適任ということになるのだろう。

 孝徳王は、姪の間人はしひと王女を王后に、側室には、阿倍倉梯麻呂あへのくらはしまろの息女小足媛をたらしひめと、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかはのまろの息女乳娘ちのいらつめを入れた。小足媛は有間王子ありまのみこを生んだ。この新体制において、倉梯麻呂は左大臣、石川麻呂は右大臣に就いた。この布陣は、欽明王蘇我大臣・物部大連が権力の頂点を形成した、百年前の三角体制を思わせる。そして、倉梯麻呂は王家と関係の古い名族の代表として、石川麻呂は蘇我氏一門への抑えとして、ともに政治的動揺を防ぐための任命という保守的な色が濃い。

 しかし、こうした“顔”を見せておきつつ、改革の歩みを緩めるつもりは中大兄にも鎌足にもなかった。また進みよどむことはもはや許されなかった。中大兄は、太子に立てられて、王位継承を約束されるとともに、実際政治上に重みを得た。鎌足内臣うちつおみという異例の地位に任じられたが、これは王家の顧問といった役割であるらしい。さらに僧旻そうみん高向玄理たかむこのぐゑんり(くろまろ)という本朝随一の学識者がここに加わる。これが言わば“改革本部”であり、改革に関わる重要な法令はここで策定された。

 この時期の皇極王の役割は史乗に明確ではない。ただ中大兄側と孝徳王側を仲介して全体を一つの政府として総裁する存在が必要だったはずで、それは皇極王をおいては他にできる人がいない。後の行動から考えても、皇極王は譲位することで引退したのではなく、むしろ事実上もう一段高い位置に登ったのだと考えられる。だとすれば、中大兄の“改革本部”から奏上された法案は、皇極王の裁可を経て、孝徳王が執行に当たった。ここには、従来とは違う、王族の者だけが要石となる三角体制が、守旧的な三角体制の背後にできていたことになる。

 新体制の発足は大化元年六月十四日、その五日後、皇極王・孝徳王・中大兄太子は、法興寺の大槻の樹の下に群臣を召し集えて、天神地祇に盟誓を告げた。その誓詞に曰く、

「天は覆い地は載せる。帝道は唯一つ。而るに末代は澆薄うすらかにして、君臣はついでを失う。皇天は我に手を仮りて、暴逆をほろぼしくさん。今共に心血をそそぐ。而して今より以後、君は政を二つにすること無く、臣はみかどふたごころもつこと無し。若し此の盟いにそむけば、天は災いし地は妖かし、鬼はころし人は伐たん。きよきこと日月の如し也。」

 それから一月をまたいで八月、早くも重要な法令が次々と発布される。その内容は、東国あづまのくにこと東方諸国に対する政策、訴訟に関するもの、男女関係と子どもの身分についてのもの、諸国諸氏における寺院の建立を王朝が指導することなど。中でも注目されるのは、東国の国司くにのみこともちを任命して、その権限と任務を申しつけたものである。この時の国司というのは、律令時代の国司の先蹤をなすものだが、常任の知事のようなものではなく、ある政策を実行するために任命された使者という性格を持っている。

 その政策の眼目は、各地に倉庫を作って、諸国の所有する兵器を収納するということだった。兵器を供出させるというのは、単に刀や甲冑や弓矢などを取り上げるというだけではなく、それらの兵器を用いる権利を、延いては有事の際にそれらを持つべき人を徴発する権利をも差し出させるということである。そのために、戸籍を造り、耕地を調べるということも同時に命じている。これを文字通りに執行すれば、各地域ごとの権力というものを廃止して、全ての東国の人民を倭国の直接統治下に置くことになる。辺境で蝦夷の国と接する所では兵器を一旦収納した上でもとの持ち主に仮綬せよとも命じてあるのは、いずれ戦争があることを示唆し、協力して戦争をすればそれだけ利得があるということで各地の権力者を誘い込む狙いがあったとみられる。

 しかしこうした処置は、法令を出せばただちに従われるというほどの統治能力を、この王権はまだ持っていない。それでもともかくも天下統一へ向けた明確な第一歩がここに踏み出された。この新しい政策が忙しく動き出す中で、中大兄には他に気にかかることがあった。それは他でもない、政争を避けて吉野の山に出家した、蘇我大臣家の血を引く王子、古人大兄ふるひとのおほえのことだ。

 九月三日、古人大兄は、蘇我田口臣川掘そがのたぐちのおみかはほり物部朴井連椎子もののべのえのゐのむらじしひのみ吉備笠臣垂きびのかさのおみしだる倭漢文直麻呂やまとのあやのふみのあたひまろ朴市秦造田来津えちのはだのみやつこたくつらと謀反の相談をしたのだと、日本書紀には書いてある。十二日になると、垂が自首したのでこのことが中大兄に知られたのだという。これはどうだろう。古人大兄はどうも弱気な人物で、出家したのも何とか命を長らえようとしたためであって、謀反など考えたかどうか疑わしい。だが中大兄にしてみると、おとなしく目の届く所にいればいいものを、吉野の山へなど入られては動きがつかみにくい。たとえ古人大兄にそのつもりがなくとも、改革に伴って発生するだろう反対勢力が不遇の王子を結集の核として担ぎ出さないとも限らない。こんな小さな可能性でも、権力がかかると殺人の十分な動機になる。

 中大兄は、部将を派遣して、古人大兄を殺させた。このことは九月の条に記されているが、十一月のことなのだともいう。殺害のことは実に簡単に触れられているだけで、入鹿殺しの場面のような生彩ある叙述はない。中大兄や鎌足といった主立った人物は殺害を命じただけで、現場には事件を語り伝えるような人が少なかったのだろう。中大兄と古人大兄は同じ父を持つ兄と弟であるとはいえ、母の違いからできた溝は、もう埋めようのない広さになってしまっていたのだろうか。ただ古人殺害事件は、まだ多感な年頃の大海人王子の胸にこそは、深い影響を残したのだと思われる。(続く)