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年号の起源の謎? どうしてそんなことを始めたのか

いわゆる年号(現在日本の法律用語では元号)という制度は、漢の武帝の時に始まったとされる。ただし明代以降(日本では明治以降)の一世一元制は、実質的には君主紀年法(某王の何年といった数え方)に回帰するもので、本来の年号制とはかけはなれた面がある。

漢の武帝の年号は、在位約五十四年間に十一を数える。一世一元以前の歴代の年号は、十年に及べば長い方であり、君主の治世を細切れにする点に本来の特色があると言える。統治権力の象徴という意味では、君主紀年の方が直接的で明確であり、年号制はそれより後退しているとも言える。

漢の武帝には建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元の年号がある。このうちで初期のものは、後からさかのぼって付けたものであるとする説が有力である。ただ実際の最初の年号は、元狩とする説の他、元鼎や元封とするものなどがあり、はっきりしない。

また、年号が用いられる様になった当初から、改元と新年号の決定が同時に行われていたとも限らない。今では改元は年号と不可分のものだと思われているが、そもそも改元とは年号を改めることではなく、紀年を一から数え直すことである。在位中に改元すること自体は年号よりも早くから行われていた。

武帝の二代前の文帝は、その十八年を改元して後元年とした。一代前の景帝は、その治世で二度改元している。文帝の時には、『史記』や『漢書』の本紀によると、祥瑞があって改元を決めたという。しかし祥瑞があったらなぜ改元するのかは判らない。景帝が改元した理由は明らかでない。

武帝の時に年号を用い始めたことについては、『史記』封禅書や『漢書』郊祀志によると、それまでは改元するごとに一元、二元、三元といった呼称を使っていたが、「一二といった数を用いるのは宜しくない」ためにそうしたという。しかしなぜそれが宜しくないのかは判らない。

古代中国の文化を考えると、一二三四が良くないなら、甲乙丙丁といった十二支を当てることはありそうだが、それを避けたかの様に、年号という捻った制度が出来た。理由付けは、何となく習慣になったことに対して後からなされることもある。おそらく後世の学者が難しく考える様な大層な意図は無いのかもしれない。

参考
  • 秦漢帝国 (講談社学術文庫)
    なお元号武帝のときから始まり、建元は武帝の最初の元号。ただし実際に元号が制定されたのは、元鼎四年すなわち前一一三年に汾陰から銅鼎が発見されたときに命名されたものであって、それ以前の建元・元光・元朔・元狩という年号はさかのぼって命名されたものである
  • 年号 - 维基百科,自由的百科全书

    在中国歷史上,第一个年号出现在西汉汉武帝时期,年号为建元(前140年—前135年)。此前的帝王只有年数,没有年号。據清朝趙翼的《二十二史劄記》考證[3],年號紀年是在漢武帝十九年首創的,年號為「元狩」。《漢書》上記載說,前122年十月,漢武帝出去狩獵,捉到一隻獨角獸白麟,群臣認為這是吉祥的神物,值得紀念,建議用來記年,於是立年號為「元狩」,稱該年為元狩元年,并追認元狩前的年號建元、元光和元朔[4]。可是,過了六年,又在山西汾陽地方獲得一只三個腳的寶鼎,群臣又認為這是吉祥的神物,建議用來紀年,於是改年號為「元鼎」,稱那年為元鼎元年,後來,人們把這記錄年代的開始之年稱为「紀元」,改換年號(或帝王紀年時代改稱元年)叫做「改元」。首實行改元(改稱元年)者為漢文帝,但未取年号。此后,每次新皇帝登基,常常会改元,并同时改变年号。一般改元从下诏的第2年算起,也有一些从本年年中算起。

    辛德勇《改订西汉新莽纪年表》以為,太初改元之初可能還沒使用年號紀年,而是在五月與改正朔、易服色的改制措施同時實行。

  • 元狩 - 维基百科,自由的百科全书

    元狩年號問題,學界目前有兩種看法:

    其一認為年號為漢武帝後來追命,此派依據《史記·封禪書》、《漢書·郊祀志》的記載「有司言元宜以天瑞命,不宜以一二數。一元曰『建』,二元以長星曰『光』,三元〔以日月復始曰『朔』,四元〕[1]以郊得一角獸曰『狩』云」,認為在武帝元鼎三年時新作出來,再往前追加所定的。宋代的司馬光,清代的錢大昕、王先謙、周壽昌,近代的辛德勇均支持此論。辛德勇認為當時以一、二、三、四數紀元,太初元年以前,現實生活中一直沒有正式採用以年號紀元的方式,並舉例漢代銅器銘文有「四元七年正月甲寅造」一文以証明此論。

    其二認為年號為漢武帝登基時創制使用,並舉出《筠清馆金石记》、《小校經閣金文》、《藤花亭鏡譜》收錄的金文中有銘刻「建元」、「元朔」、「元光」、「元狩」等年號,認為這些文物上的款识都应该是当时所记,从而判断出元鼎之前年号并非追加的。李崇智即謂「以上諸器年款足以証明漢武帝建元、元光等並非後來追命」。赵翼《廿二史剳记》及王樹民《漢代的兩個年號問題》均认为元狩是中國第一个年号,之前年号是追记的。但是目前观点认为建元才是中國第一个年号。辛德勇從銘文形式、器制、管理制度,認為這些漢代器物多數皆出自後人所偽造的贗品,不能証明當時已使用年號紀元。

  • 元鼎 - 维基百科,自由的百科全书

    史記》卷十二《孝武本紀》:「其後三年,有司言元宜以天瑞命,不宜以一二數。一元曰建元,二元以長星曰元光,三元以郊得一角獸曰元狩云。」從宋代劉攽《兩漢刊誤》、司馬光資治通鑑》,認為元鼎四年得寶鼎,是元鼎年號的來歷。也因此推斷元鼎才是年號的開始,之前的年號都是追加的。辛德勇認為當時以一、二、三、四數紀元,太初元年以前,現實生活中一直沒有正式採用以年號紀元的方式。現今目前的觀點認為建元確是第一個年號。

  • 漢書 : 紀 : 文帝紀 - 中國哲學書電子化計劃

    秋九月,得玉杯,刻曰「人主延壽」。令天下大酺,明年改元

  • 史記 : 書 : 封禪書 - 中國哲學書電子化計劃

    後三年,有司言元宜以天瑞,不宜以一二數。一元曰「建」,二元以長星曰「光」,今郊得一角獸曰「狩」云。

  • 漢書 : 紀 : 武帝紀 - 中國哲學書電子化計劃

    六月,得寶鼎后土祠旁。秋,馬生渥洼水中。作寶鼎、天馬之歌。

  • 史記 : 本紀 : 孝武本紀 - 中國哲學書電子化計劃

    五月,返至甘泉。有司言寶鼎出為元鼎,以今年為元封元年。