古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

稲荷山古墳出土鉄剣銘文の問題点

銘文の概要

1968年、埼玉県にある稲荷山古墳前方部の発掘調査が行われ、発見された出土品の中にこの鉄剣はあった。刀身には錆と木製の鞘が膠着しており、当初は銘文が刻まれていることは知られなかった。1978年、出土品の錆が進んで、保存処理をするために、それらの鉄製品は元興寺文化財研究所に送られた。その処理の過程で金象嵌の一部が露出し、レントゲン撮影による確認が行われた。考古学でレントゲン撮影を使うことは、出土した時にはまだ普及しておらず、この頃の新しい方法だった。その結果、鉄剣に銘文のあることが判明し、表面の付着物を落として補修することとなった。

銘文の釈読には岸俊男・田中稔・狩野久の三氏が当たった。名文は金象嵌で、字体は無論今日の活字体のようなくっきりしたものではなく、一部に問題もあるが、大体次のような合意が得られた。表57文字、裏58文字で一続きの漢文になっている。

亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

銘文の読み方

この銘文をどう読むかだが、岸俊男氏はその著作の中で「銘文の全文と、私なりの読み方を掲げよう」として、次のように読んでいる(『日本の古代6 王権をめぐる戦い』)。

亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比、(表)
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也、(裏)
「辛亥の年七月中しるす。ヲワケの臣、上つおや名はオホヒコ、の児タカリのスクネ、其の児、名はテヨカリワケ、其の児、名はタカハシワケ、其の児、名はタサキワケ、其の児、名はハテヒ、其の児、名はカサハヨ、其の児、名はヲワケの臣。世々杖刀人の首として、つかえ奉り来り今に至る。ワカタケル大王の寺、シキの宮に在る時、われ天下をたすけ治む。此の百練の利刀を作らしめ、吾が事え奉る根源を記すなり」

この読み方は大体において現在も通説になっているようだ。しかし古典漢文にある程度慣れ親しんだ目で見ると、この読み方はどこか不自然な腑に落ちない感じがする。私などが言うのは失礼かもしれないが、どうも日本史を専攻にしている学者というのは必ずしも漢文に習熟していないという印象がある。私にとって心強いことに、東洋史宮崎市定氏もそう思ったらしく、かつて日本古代の鉄剣銘文について一冊の著作を残し、次のような異説を提示している(『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』)。

亥年七月中、記乎獲居臣。上祖名意富比垝。其児多(名?)加利足尼。其児名弖已加利獲居。其児名多加披次獲居。其児名多沙鬼獲居。其児名半弖比。(以上表面)
其児名加差披。余其児名乎獲居臣。世々為杖刀人首。奉事来。至今獲加多支鹵大王。寺在斯鬼宮時。為左治天下。令作此百練利刀。記吾奉事根原也。(以上裏面)
辛亥の年の七月中、記ノ乎獲居臣。上祖は名は意富比垝。其の児の名は加利足尼。其の児の名は弖已加利獲居。其の児の名は多加披次獲居。其の児の名は多沙鬼獲居。其の児の名は半弖比。(以上表面)
其の児の名は加差披。余は其の児にして名は乎獲居臣。世々杖刀人の首と為り、奉事し来りて、今の獲加多支鹵大王に至る。侍して斯鬼宮に在りし時、天下を治むるをたすけんが為に、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記せしむる也。(以上裏面)

宮崎説の要点は、第一に表面第7字の「記」を動詞(しるす)ではなくという乎獲居臣のウヂ名ではないかとすること、第二に裏面第7字の「余」を下文につけて乎獲居臣の一人称とすること、第三に裏面第34字の「寺」を名詞ではなく動詞(はべる/さもらう)に読むこと、第四に裏面第40字の「吾」とされているものを補修前のレントゲン写真と文脈を根拠として「為」と判読することである。

宮崎説は古典漢文の読み方としてひねったところがなく、それだけにこの方向で読むことはより蓋然性の高いものとして認められるべきではないかと思う。

「寺」字の問題

宮崎氏が言及しなかったことで「寺」字の問題について少し補足しておきたい。「寺」という字は、本来はある種の役所を指す。これが仏教の「おてら」つまり「伽藍」をも指すことになったのは、漢の時に西方から来た僧侶を初め「鴻臚寺」という役所に泊めたことに由来するという説が古くから行われている。唐の時には太常、光祿、衛尉、宗正、太僕、大理、鴻臚、司農、太府といった「寺」があり、中央官庁の一種である。また宦官のことを「寺人」ともいう。何にせよ役所としての「寺」は君主に仕える役人が勤務する所であり、「太極殿」とか「紫宸殿」のような王者の座所を指さない。

銘文中の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」という部分について、古墳の発掘に当たった柳田敏司氏が、発見直後の講演会のこととして、

……その上の文字「寺」は「朝廷」を示すと述べておいた。

と言っているのは(『鉄剣を出した国』)、この字が動詞として読めることを忘れて、名詞としての解釈に固執するあまりの奇想ではないか。通説のような「獲加多支鹵大王の寺が斯鬼宮に在る時」という読み方はかなり苦しい。こうした理由によっても、宮崎説の方がより良いと思う。

「治天下」の主権者は誰か

この銘文についてもう一つ私が感じている問題点について書き留めておく。最後の方、「吾(為?)左治天下」という部分を、通説的な解説では「吾は獲加多支鹵大王が天下を治めるのをたすけ」という風に訳しているのを目にする。しかし構文的には上文の「獲加多支鹵大王」が「治天下」に掛かっていないのは明らかで、簡単にそうは読めない。

亥年は西暦471年とし、獲加多支鹵は古事記日本書紀雄略天皇宋書倭王武に当たるという通説は、ここでは疑わないこととしておく。471年に武なる人物がすでに倭王であったとすると、最初の朝貢記事は順帝紀の昇明元年(477)十一月の条に「倭国が遣使して方物を献じた」とあるもので、上表文を引用した夷蛮伝の有名な記事は昇明二年(478)のこととなっている。

この上表文も有名ではあるが、どうも威勢の良い所だけが注目されて、倭王武が宋の天子に対して下手に出て、宜しく正式に爵位を賜らんことを願っているという肝心の所をよく読まない人が多いらしいのは困りものだ。上表文の内容を要約すれば、「倭王武とその家来は天子の徳を辺土に及ぼすために努力しているので、爵位を賜ることでお墨付きを与えて下さい」というものである。宋書による限り、当時の倭王の体制はまだ中国王朝の権威を援用しなければならない段階にあったと見える。

倭王南朝宋の天子との関係は、孝武帝の大明六年(462)、倭王の世子である興を安東将軍にしたという記事から間が開いている。471年はこの空白期の後半に当たり、昇明元年の記事より6年前で、久々の朝貢の時機を窺っていた頃だと見て良いだろう。宋書のと鉄剣銘文の二つを整合的に考えるなら、「治天下」の主権者は宋の天子であり、乎獲居臣は獲加多支鹵=倭王武に仕えながら、天子に対しては陪臣という立場で「治天下を左けん」としていた、ということになる。一つ一つの証拠を正しく読むのとともに、複数の資料を突き合せた時にどういう状況が見えるかということをなお慎重に考える必要があるだろう。

参考文献

鉄剣を出した国 (1980年)

鉄剣を出した国 (1980年)

 
日本の古代〈6〉王権をめぐる戦い (中公文庫)

日本の古代〈6〉王権をめぐる戦い (中公文庫)