古代史を語る

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「証拠があるからこの主張は正しい」というものではないという話

「ネコとナマコは似ている」という論

ある人が「ネコとナマコは似ている」という論を立てた。理屈はこう。ネコもナマコも前に口、後に尻があり、基本的な構造は円筒形で、口で食べて尻で排泄をする。こんなに共通点があるのだからネコとナマコは似ているのだ、と主張する。もちろんこんな共通性は地球上のほとんどの動物に当てはまるので、ネコとナマコだけを取り上げて類似を強調するのは間違いであり意味が無い。

この「ネコとナマコ」の論からはいくつかの教訓を取り出せる。この議論には証拠があり、説明自体は合理的で矛盾が無い。しかしこの論は、ネコやナマコとより似ている他の動物、トラやヒョウ、ウニやヒトデを反証として取り上げないことによってしか成り立たない。結論に都合の良い証拠だけを選択しているし、証拠に関わる全てを前提とした検討を忘れているし、より妥当さの高い他の説との比較を拒んでいる。そしてそうすることによって、証拠に基づいて合理的に間違っている。証拠があって合理的であることは結論の正しさを保証はしない

この人はなぜこんな意味の無い議論をしてしまったのだろうか。この人はナマコ愛好者で、家でナマコを飼って可愛がっていた。そのことでこの人は変わり者だと思われていた。ネコは多くの人に好かれている社会的地位の高い動物なので、「ネコとナマコは似ている」と主張することによってナマコに対する評価を変えることができれば、それはこの人にとって好ましいことだった。つまりこの人は自分にとっての好ましさと正しさを混同することによって誤ったのだ。

このように客観的には無意味で妥当しない「ネコとナマコ」論には、それでも一定の支持者が付いた。この支持者たちにしてもそうだが、普通はネコとナマコが似ているとは思わない。ネコとナマコに対する普通の印象と、「似ている」論の間には、大きな落差がある。落差は人にある種の面白さを感じさせる。多くの娯楽は落差を作ることによって人を笑わせたり泣かせたりする。要するにこの支持者たちは、面白さを正しさより優先させることで道を外れている。

知的詐欺というもの

ところでこんなずさんな議論の材料もネコとナマコにとどまっている内は大して罪も無いし間違いに気付きやすいが、世の中にはもっと複雑で重要な問題について「ネコとナマコ」式の主張をする人もいる。たとえば邪馬台国の位置論で、恣意的な証拠の選択をしたり、蓋然性の比較をしない人が少なくない。聖徳太子など有名な歴史上の人物が実在しなかったという説は、落差が有って面白いからある程度の支持を得やすい。人気の芸能人が裏では悪どいことをしているという噂とか、まずいことをしたとされる政治家が実は潔白であるといった言説は、一部の人にとって好ましかったり面白かったりするためにしばしば正しさとは無関係に信じられている。

こういう「ネコとナマコ」式の論を善意の過誤で言う人もいるが、故意に唱えるのは知的詐欺というものだ。詐欺といって金を騙し取るのはすぐに足が付くから下手の方で、上手の詐欺はもっと知的なものを詐取する。そして一度「ネコとナマコ」式の論に騙された人は、自分が愚かにして誤ったとは思いたくないので、正しさを証明しようとして繰り返し同じような知的詐欺に引っかかったり、味方を増やそうとして片棒を担いだりして、ますます泥沼にはまりやすい。

「騙されている時は騙されていることに気付かない」というのは誰もが承認することだろうが、もう一歩進んで「騙されている時は騙されていることに気付かないので、今まさに自分が何ものにも騙されていないとは断言できない」というところまで注意するのは意外に難しいことらしい。傍から見ると滑稽なことだが、それを嗤う人は次に騙される人かもしれない。かく言う私も過去に「ネコとナマコ」に騙されたことが無いとはとても言えないし、これからも騙されることが有るかもしれない。敢えて皆様に忠告するとともに、叱咤をも請う次第。