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天武天皇評伝(二十) 壬申の乱・二

 近江の朝廷では、大海人皇子おほしあまのみこ東国あづまのくにに入ったということが聞こえると、動揺する者が多く、ある人は抜けがけして東国へ奔ろうとし、またある人は逃げて山谷に隠れようとしたという。

 そこで大友皇子おほとものみこは側近に、

「いまどう計るときであろう」

 と問うと、ある大夫が進んで、

「遅く謀れば後れを取りましょう。すぐに集められるだけの精鋭をそろえ跡を追って撃つに越したことはありますまいぞ」

 と献策した。近江方はすでに後手に回っている。今はたとえ味方の兵が少ないとしても、敵が十分の布陣をする前に早く叩くのがよい。これは上策であっただろう。この人の名前が記録されていないのは遺憾である。しかし大友はこの上策を用いることができず、自ら別の案を出して実行した。即ち韋那公磐鍬ゐなのきみいはすき書直薬ふみのあたひくすり忍坂直大摩侶おしさかのあたひおほまろを東国へ、穂積臣百足ほづみのおみももたりと弟五百枝いほえ物部首日向もののべのおびとひむかを飛鳥へ、佐伯連男さへきのむらじをとこを筑紫へ、樟使主磐手くすのおみいはてを吉備へ遣わし、諸国の兵を興させることにした。よって男と磐手に語って、

「筑紫太宰栗隈王くるくまのきみ吉備国当摩公広嶋たぎまのきみひろしまの二人は、もとから叔父に近いらしい。きっと叛くかもしれぬ。もし不服を顔に出しでもすれば、すぐに殺せ」

 と命じた。


 佐伯連男は筑紫大宰府に至ると、栗隈王に発兵を命じる官符を渡した。栗隈王は官符を受け取ったが、

筑紫国はもともと辺賊の難を防ぐものである。みよ、壁を高くし、溝を深くして、海に臨んで守るのは、どうして内乱のためであろう。ここで命令を請けて軍を貸せば、ここの守りは空しくなる。もしその間に何かあったらどうするのだ。取り返しの付かないことになってから余を百ぺん殺しても間に合うまいぞ。何も朝廷に背こうというのではないが、たやすく兵を動かせないのは、理由のあることなのだからな」

 と答えて譲らない。ときに栗隈王の二人の子、三野王みののきみ武家たけいへのきみが油断なく剣を佩き父の脇に立って動かない。男は剣に手をかけて進もうとしたものの、かえって殺されることを恐れ、使命を果たすことができず、とぼとぼと引き返した。

 吉備に赴いた樟使主磐手は、官符を渡す日、広嶋を欺いて刀を置かせ、そうして自分は刀を抜いて広嶋を斬った。しかし広嶋一人を殺したところで、吉備の軍団を動かして近江へ救援に駆けつけることはできなかった。何のことはない、どこもかしこも大海人方の根回しがとっくに回っていたのだ。

 東国へ向かった三人は、不破に入る頃、磐鍬だけ茂みにでも伏兵があることを危ぶみ、わざと遅れてゆるゆると進んだ。果たして伏兵が暗がりから躍り出て、薬らの後ろを絶った。磐鍬は薬らが捕らわれたのをみて、たちまち引っ返して逃げ、やっとの思いで免れることができた。


 二十七日、不破の高市皇子たけちのみこは、桑名にいる父大海人皇子に使いを遣わして、

「ここは居られる所に遠く、軍政を行うのに御相談もできません。どうか近くにいらしてください」

 と奏上した。その日に大海人は妃を桑名に留めて不破へ向かった。不破郡庁に及ぶ頃、尾張国小子部連鉏鉤ちひさこべのむらじさひちが二万と号する兵を率いて帰順した。大海人はこれを褒め、その軍を分けて要所々々の道を塞がせることとした。不破郡野上のがみに到ると、高市が関から出て父を迎えた。この辺りはあたかも後に関ヶ原と呼ばれる土地である。高市は近江方の使者書直薬・忍坂直大摩侶を捕らえたことを報告した。

 ところでここ不破郡には唐人が住んでいた。この唐人というのは、かつて百済の鬼室福信が救援を請うてきたとき、てみやげにに献上した捕虜百六人である。あるいは別の機会に捕虜になった者もあったらしく、それもこの土地に配置されていたとすれば、その人数はもっと多かったかもしれない。彼らは大陸に還っても大した待遇は受けられないが、この列島ではちょっと漢字漢文の読み書きができるというだけでもまだ重宝された時代である。こうした中にはちょっとどころではない知識人も混じっていて、続守言しよくしうげん薩弘恪さつこうかくという二人は、後に音博士こゑのはかせという役職に就く。弘恪は大宝律令の選定にも参加する。彼らが日本文化の底上げに果たした役割は、決して軽く視るべきものでないということを、特に付け加えておきたい。しかしそれはまだ先の話。

 このとき、大海人は唐人に問うて曰わく、

「汝らの故郷は戦争の多い土地であろう。必ず戦術を知っていよう。今どうすべきか申してみよ」

 ある人が進み出て、

「唐ではまず斥候をやって地形や消息を探らせ、それから軍を進めます」

 云々と一般論的に答えた。彼らは軍人としてはヒラの兵士に過ぎなかったのだろう。そこで大海人は高市に語りかけて、

「近江の朝廷では左右大臣や智謀の群臣がそろって会議していように、余には与に事を計る者がない。ただおまえたちがいるだけだ。さあどうしよう」

 高市は腕をぶして刀の柄に手をかけ、

「近江の群臣が多いといっても、なんで皇位に即くべき父上の威風に逆らえましょう。わたくし天神地祇のお力を借り、父上の勅命を請けて、諸々の将軍を率い、討ち払ってご覧に入れます。どうして防ぐすべがありましょうか」

 この年十九歳になる高市皇子はけなげだった。母親は筑紫の豪族胸形君徳善むなかたのきみとくぜんの息女尼子娘あまこのいらつめであり、その立場はむしろ伊賀の采女宅子やかこを母に持つ大友皇子に似た所がある。しかも大海人には王族の女性との間に生まれた男子が、高市よりも年少ではありながら育ってきている。それは草壁くさかべ大津おほつなが弓削ゆげ舎人とねりといった皇子たちである。従ってここで手柄を立てても将来の見込みはあまり多くを望めない。功績などあればあるほど、なおさら命の危険を増すことになるかもしれないのだ。

 しかし大海人は高市の心意気を誉め、手を取って背をかき撫で、「決して怠るのではないぞ」と教え、鞍のせた馬を賜り、軍のことを全て任せた。まあ名誉総帥といった所で、実際にはこの直後にも大海人自身が軍を指導している。高市は関に戻り、大海人は野上に行宮かりみやを定めてここに留まった。

 この夜、雷雨が激しくなり、大海人は祈誓して、

「天よ地よ、もし我を扶けたまう御心あらば、かみなり雨ふることをばめよ」

 と曰い、言い了わるとすぐに雷雨はやんだという。されば天神地祇大海人皇子に天下を任せようとしている。こういったことも宣伝し、味方の士気は高め、相手の戦意は挫いていこうというのだ。(続く)