天武天皇評伝(十二) 近江の朝廷
天智天皇の即位元年は、唐は高宗の総章元年、新羅は文武王の八年、高句麗は宝蔵王の二十七年に当たる。
天智天皇は、かつて抹殺した古人大兄王子の息女、倭姫王を皇后とした。『日本書紀』による限り、王族から娶った妃はこの一人だけで、子はなかった。
側室には名族出身の女性四人があった。
妃造媛は、大化五年に父蘇我倉山田石川麻呂の事件によって憤死し、大田皇女・鸕野皇女・建皇子の二女一男を遺していた。このうち建は八歳で夭折し、大田も、大海人皇子の室に入っていたが、この一年ほど前に物故している。鸕野はやはり大海人に嫁ぎ、この三子の中でただひとり長く生きた。
造媛の妹姪娘は、御名部皇女と阿倍皇女を産んだ。阿倍は、大海人と鸕野の間に生まれた草壁皇子の妃になる。
妃橘娘は、故阿倍倉梯麻呂の息女で、飛鳥皇女と新田部皇女を産んだ。新田部も大海人の妃になる。
妃常陸娘は、蘇我赤兄の息女で、山辺皇女を産んだ。山辺は、大海人と大田の間に生まれた大津皇子の妃になる。
また女官を召して子を産ませた者は四人あった。
忍海造小竜の息女、色夫古娘は、大江皇女・川嶋皇子・泉皇女を産んだ。
栗隈首徳万の息女、黒媛娘は、水主皇女を産んだ。
越道君伊羅都売は、施基皇子を産んだ。
伊賀采女宅子娘に生まれたのは、大友皇子である。
『続日本紀』によると、他に三人ほどの男子があったと思われるが、詳しくは伝わっていない。
この他に、額田姫王という女性があり、はじめ大海人の妃となっていたが、後に天智天皇の室に入ったといわれる。その時期や事情について詳しくは分からない。額田と大海人の間には十市皇女が生まれていた。十市は大友皇子の妃になっていて、母子ともに天智一家に入ったことになる。額田と天智の間に子はなかった。
この年の五月五日、天智天皇は、琵琶湖の東、蒲生野に遊猟し、大海人をはじめ諸王、中臣鎌足ら群臣がそろって供をした。この時に額田姫王が詠んだという歌が『万葉集』に収められている。
茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流(あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖ふる)
大海人皇子がこれに答えて、
紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾恋目八方(むらさきの 匂へる妹を 憎くあらば 人妻故に 吾れ恋ひめやも)
と詠んだ。
またこれもこの時期のことであるはずだが、天智天皇は、琵琶湖の浜に築いた楼観で酒宴を催した。宴もたけなわ、大いに酒興が乗って歓を極めた頃、どうしたことか、大海人皇子は長槍を執って、敷板を刺し貫いた。天智天皇はこれに喫驚して大いに怒り、あるいは死罪を命じようかというくらいの剣幕であったところ、中臣鎌足が固く諫めたのですぐに思いとどまった。大海人は鎌足の処遇が高いことを憎んでいたが、これより後はすっかり見直して重んじるようになったという。このことは『藤氏家伝』に記されている。
やや想像を広げると、常に兄の傍らにあって政略をともにする鎌足に対して、そこは本当は自分の居場所なのに、という怒りを大海人は持っていたのだろう。もしそうなら、それは鎌足を重く用いる兄への複雑な感情ともなり、長い間、鬱積していたはずだ。家伝の語るごとく、この一件で本当に気持ちがほぐれたのだろうか。
この複雑さを潜ませた兄弟関係の中に、大友皇子が存在感を増してきたのも、この頃のことになる。大友皇子は、『懐風藻』によると、壬申の乱の時に二十五歳とあるから、天智天皇の即位元年には二十歳。敗戦後、百済系の貴族や僧侶などが倭国の宮廷に仕えるようになった時期に、十代の多感な数年間を過ごした。沙宅紹明・木素貴子・答本春初・吉大尚・許率母といった高名な百済人が大友と親しく交際した。紹明は法制度、貴子と春初は兵法、大尚は医薬、率母は儒学に詳しく、大友に学識を授けたらしい。これはもちろん父の指図によるものだったのだろう。
大友皇子については、諸書の記述に不可解な点がある。大友は『懐風藻』によると歳が「弱冠」で太政大臣に任じられ、二十三歳のとき皇太子に立てられたという。「弱冠」とは二十歳を指す。しかし『日本書紀』では大友が太政大臣になるのは、天智天皇の最晩年のことだから、二十四歳のはずで、一致しない。
また書紀では、天智即位元年に大海人皇子が「東宮」に立てられたことになっている。「東宮」とは、古代中国で太子の居処を王宮の東側に建てるのが常例であったことから、皇太子を指す代名詞である。太子を立てるというのは、あらかじめ王者の後継者を指名することによって、王者の死後に継承争いが起きるのを防ぐための制度だから、同時に二人の皇太子がいたはずはない。もし両書のどちらもが真であるとすれば、大海人は皇太子を廃されたことになる。あるいはどちらもが偽であるのかもしれない。歴史の上にも化かし合いということがある。
ただ天智天皇が大友皇子に次世代の天皇として期待をかけていたのは確かで、そのことは大海人の心情だけではなく、当時の政治に関与する人々の多くに、やや不安を伴う波紋を広げなかったかどうか。
ときに、近江の宮廷では漢詩が流行した。大友皇子の小品二首が『懐風藻』に収められている。
五言 侍宴 一絶
皇明光日月 帝德載天地(皇明は日月のごと光やき 帝徳は天地に載ちる)
三才並泰昌 萬國表臣義(三才〔天・地・人〕は並びに泰昌しく 万国は臣義を表す)
五言 述懷 一絶
道德承天訓 鹽梅寄真宰(道徳は天訓を承け 塩梅〔諸臣の補佐〕は真宰〔天子の政治〕に寄する)
羞無監撫術 安能臨四海(監撫の術が無きことを羞じ 安んぞ能く四海に臨まん)
この詩は特に上手というものではないようだが、新しい文化に触りたてというみずみずしさがある。
同じ頃、天智天皇が「春山の万花の艶と秋山の千葉の彩ではどちらが美しいか」という題を出し、額田姫王が和歌によって答えた。これは『万葉集』に載っている。
冬木盛 春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼杼 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曽思努布 青乎者 置而曽歎久 曽許之恨之 秋山吾者(冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 執りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山吾は)
外来文化の刺戟によって在来文化の自覚と洗練も進み、ようやくここに日本らしいものが姿を現しつつあった。(続く)