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天武天皇評伝(十三) 高句麗の崩壊

 高句麗では、この三年ほど前、長く権柄を握った大臣の泉蓋蘇文ぜんかいすもん(いりかすみ)が卒去し、長子の男生なむしゃうが後を継いで国政を統べた。あるとき、男生は各地を巡察するため、その留守には弟の男建なむこん男産なむせんに国政を任せた。ところが男生が王都平壌城を出た後、ある人が男建らにこう告げ口をした。

「大臣はお二人が己の地位に迫るのを悪んで排除しようとしているのです。先手を打つに越したことはありませんぞ」

 男建らはまだこれを信じなかった。

 一方、男生の所へも告げ口をする人があって、

「弟がたは大臣の代理という地位に味を占めて、城を閉ざして貴公を追い出そうとしているのですぞ」

 と言った。そこで男生は間者を遣って平壌城の様子を覗わせたが、男建らはこれを知って捕らえ、ここに兄と弟が互いに互いを猜疑することとなった。男建らは宝蔵王の命令だとして男生を呼び寄せようとしたが、男生は偽計のあることを危惧して敢えて帰らなかった。男建らはついに兵を発してこれを討った。男生は逃げて国内城にこもって自ら守り、子の献誠こんじゃうを遣わして唐に降り、天子の慈悲を請うた。

 乾封元年六月、高宗は、鉄勒出身の秀才、右驍衛大将軍の契苾何力けいひつかりょくを遼東道安撫大使とし、兵を率いて男生を救援させた。また右金吾衛将軍の龐同善はうとうせんと営州都督の高侃かうかんをそれぞれ行軍総管とし、同じく高句麗を攻めさせた。この作戦は成功し、九月には男生が唐軍に合流した。高宗は詔して男生を特進・遼東大都督・平壌道安撫大使とし、玄菟郡公に封じた。またこの年には新羅の文武王も高句麗を討つため唐に出兵を請うた。高宗はいよいよこの機に乗じて高句麗を討ち滅ぼしてしまおうと決意を固めた。

 その冬、唐初三代の皇帝に仕えた老将、司空・英国公の李勣りせきが遼東道行軍大総管に任じられ、大いに軍を興して高句麗に押し寄せた。年末には蓋蘇文の弟浄土じゃうつらが十二城を以て新羅に来投し、新羅はそのうちの八城に軍を送り込んで確保することができた。

 この時代、「遼水を渡る」ということは高句麗に攻め入ることを意味した。遼水は、今、中華人民共和国の東北地方南部を流れる遼河である。李勣ははじめ遼水を渡るとき、

「新城というのは、高句麗西辺の要害じゃで、まずこれを陥とさねば、余りの城をば易々と取ることはできまいぞ」

 と諸将に語った。

 二年二月、勣は新城の西南に至り、山に拠って柵を築き、ここを根拠として、かつは攻めかつは守りして戦った。やがて城中が窮迫すると、数々投降する者があり、九月になると、ついに城主を縛り門を開いて降伏した。勣はさらに兵を進めて他の十六城をも下した。男建は新城を奪回しようとして軍を送ったものの、殿軍を務める左武衛将軍の薛仁貴せつじんくゐがこれを破ったので失敗した。

 これとは別に、積利道行軍総管の郭待封くゎくたいほうは、水軍を率いて海から平壌城へ向かった。李勣は馮師本ほうしほんを別将として待封へ食糧や兵仗を補給しようとした。しかし師本の船が難破したので期を失い、待封の軍中は困窮した。待封は勣につなぎを付けようと思ったが、敵に知られることを恐れて、詩に暗号を隠して送った。勣はこれを受け取って、その意を汲まず、

「なんでこの軍事の急なときに、詩など作るのじゃ。必ず斬ってくれよう!」

 と怒ったが、舎人の元万頃ぐゑんばんけいがその義を解釈して取りなしたので、再び糧杖を送ることとした。しかし結局、通信が漏れて鴨緑水で迎え撃ちにされ、うまくいかなかった。

 十月、勣は自ら平壌城の北二百里に到った。南からは百済鎮将の劉仁願りうじんぐゑんらが新羅兵を併せて平壌に迫っていた。勣は新羅の文武王とも連絡して作戦を打ち合わせたものの、冬のことで寒気が入り、十一月になると一旦兵を引き返した。十二月、高宗は仁願を通して文武王に大将軍の旗印を授けた。

 翌総章元年一月、かつて白江で倭の水軍を破った名将で、このとき右相になっていた劉仁軌りうじんくゐが、遼東道副大総管兼安撫大使・浿江道行軍総管に任じられ、李勣を補佐することとなった。

 二月、薛仁貴は金山の会戦で高句麗軍を破り、勢いに乗って三千人を率い扶余城に寄せた。諸将は兵が少ないからというので城攻めには反対した。そこで仁貴は、

「兵はなにも多数が必要だとは限らぬ。むしろ用兵の如何によるのだ」

 と言って、先鋒となって進み、敵を大いに破って、ついに扶余城を抜き、戦果は殺獲する者一万人余りと宣伝した。扶余地方の四十城余りは戦わずしてみな降伏を請うた。

 この頃、侍御史の賈言忠こげんちゅうは連絡のため前線から東都洛陽に還り、高宗は戦況について訊ねた。言忠が「高句麗は必ず平定できます」と言うと、高宗はかさねて「君はなぜそれが分かるのかね?」と問うた。言忠は答えた。

「隋の煬帝が東征して勝てなかったのは、人心が離れ怨まれていたからであります。
 我が先帝の問罪之師つみをとういくさが志を得なかったのは、高句麗がまだ盤石だったからであります。
 今、高句麗王は微弱で、権臣が専断しましたが、その蓋蘇文も死に、跡継ぎの兄弟は不仲です。それで男生は心を傾けて内附し、我が郷導となったので、敵の内情は尽く我が方に知れております。陛下の明聖のおかげをもちまして、国家は富強となり、将士は尽力しており、それで高句麗の乱に乗じたのですから、この度は必ず成功すると申し上げたのです。
 そしてまた、『高句麗秘記』という書物には、“九百年に及ばずして、八十の大将がこれを滅ぼすだろう”とあります。高句麗は漢のときから国があって、いま九百年になろうとしており、李勣は歳が八十であります。
 さらに、高句麗は連年飢饉で、妖異がしばしば起こり、人心は恐れおののいておりまして、その滅亡はすぐそこまで来ておりましょう」

 高宗はまた「遼東の諸将では誰が優れているかね?」と問うた。言忠が答えて、

「薛仁貴の勇は三軍に冠たるものであります。
 龐同善は闘いはうまくないといっても、軍を主持することは厳整としたものです。
 高侃はまじめで判断ができ、忠勤果敢で智謀もあります。
 契苾何力は沈毅にして能く断じ、やや前進をためらう所はありながら、統御の才能を持っております。
 しかしながら、朝から晩まで心を配り、身を忘れて国を憂うことでは、みな李勣には及びますまい」

 と述べると、高宗はこれを深く然りとした。

 前線では、男建が扶余城を奪回しようとして五万人と号する兵を出したが、今度は勣らが薩賀水のほとりでこれ迎え撃ち、斬首五千・捕虜三万、戦利品の数もこれに準じた。勣はさらに進んで大行城を攻め、これを抜いた。

 六月、文武王は弟の金仁問こむにんもんを遣わして劉仁軌を迎え、二十万と号する大軍を繰り出して唐軍に加勢した。

 秋までに唐・新羅の諸軍は各地で勝利を重ね、何力がまず平壌城下に至り、勣がこれに継いだ。九月、包囲すること一月余りにして、宝蔵王は男産らを遣わして白旗を持たせ降伏を請い、勣は礼を以てこれに接した。しかし男建はなお門を閉ざして城を守り、頻りに兵を出して戦いを挑んだが、そのたびに敗れた。男建のもとで軍事を総管していた僧信誠しんじゃうは、密かに人を遣って勣と内通した。後五日して、信誠は門を開き、よって勣は兵を入れ、鼓を鳴らしつつ城に登り、門楼を焼いた。四面に火が起こり、男建は窮迫して自刃したが死ねなかった。ついに平壌城は陥落し、宝蔵王こと高蔵かうざうや男建も捕らえられた。

 高句麗は、東夷諸国第一の大国であり、その中で最も領域的国家としての歴史が古く、中国が漢末から中世的混沌に陥って以来は、東アジア全体でも最も安定した勢力を長く維持した。北朝の圧力によく耐え、隋唐の度重なる侵攻もはねのけた。しかしどんな強国にも命数の尽きるときは来る。そういうときには政治が乱れて秩序が狂い、内側から国を潰して他人にくれてしまうものだ。

 一方で唐は、連戦して連敗を喫してきた高句麗をようやく倒したとはいえ、敵の自滅に乗じた上、新羅から多大な援助を受けなければ成功を得られなかった。その実情に触れる機会の多かった文武王や金仁問らにとっては、唐の軍事的実力の限界を見抜き、意を決する所があったかもしれない。

 十二月、高宗は京師長安において高句麗の捕虜を引見し、高蔵は脅制されていただけだとして、特に恩赦して司平太常伯を授けた。泉男産には司宰少卿、僧信誠には銀青光禄大夫、男生には右衛大将軍が与えられ、男建だけは黔州に流罪とされた。高句麗の五部・百七十六城・六十九万戸余りは、九都督府・四十二州・百県とし、安東都護府平壌に置いて統治することとした。

 この年は天智天皇の即位元年に当たる。(続く)