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天武天皇評伝(十一) 天皇の誕生

 白村江の会戦より前、皇極王が没した後、中大兄王子なかのおほえのみこは太子のままで「称制」し、七年目になってようやく位を継いだ。『日本書紀』にはそう書いてある。ここで言う「制」とは皇帝の発する命令のことで、「制を称する」とはその位にないものが皇帝になりかわって命令を発することである。しかしこの非常の時に丸六年も位を空けていたというのはちょっと信じがたい。おそらくはじめは倭王として位を継ぎ、七年目に号を改めて天皇と称したのではないだろうか。この年にはいわゆる近江令が制定されたと伝えられており、この中で初めて天皇号の使用が明文化されたのではないか。書紀には天皇制の成立に関係する事件については沈黙するという一貫した方針があったために、この間の事情がよく分からなくなってしまったのではないかと思われる。


 ともかくもその称制の二年は、唐の高宗の竜朔三年に当たり、白村江の会戦の後、余自信よじしん木素貴子もくそくゐし谷那晋首こくなしんす憶礼福留おくらいふくるなどといった百済のおもだった貴族や多数の難民が日本列島にやってきた。彼らは義慈王のように唐に投降することもできた。だから“倭王”中大兄にとっては、これら大勢の亡命者を受け入れたことは、高宗よりも自分の方の徳が彼らを引き寄せたのだということになる。戦死した人々にとっては何にもならないこととはいえ、勝算のない戦争から中大兄が得た利益は小さくなかった。しかしこんなことは大いに政治的な危険を伴う。さらに打つ手がなくてはならない。

 出兵の失敗という結果を受けて中大兄が最初にした大きな仕事は、書紀の記述による限り、称制三年二月、従来の十九階制の冠位を改めて二十六階制にすること、及び、「氏上このかみ民部かきべ家部やかべ等」についてのことだった。氏上とはいわゆる氏族の長のことで、この時に氏族を大小に分け、その資格の証として大小の刀などを与えるということが定められた。これまでは、各々の勢力の差によって、事実上、氏族の序列が決まっていたものが、これからは、王権の認知によって、その序列が制度化されることとなった。この制度は後に天武朝で“八色の姓”としてより細分化される。

 また民部・家部というのは、各々の氏族が持つ領民を指しているのだとすると、これは大化以来の改革で、少なくとも建前としては、廃止されてきたはずのものである。長く続けられてきた、倭王が列島諸国の全ての土地と人民を直接統治するという改革の方向からすると、これを回復させるというのは後退であるに違いない。だが改革を実現するには常に妥協することが必要だ。妥協の機微というものが分からなければ真の改革者にはなれない。領民の一部回復を、王者の側から与えるという形式によって認めることは、建前としては一歩後退でも、実質的には王権の強化を半歩は進めることになったと言えるかもしれない。この点においてこの時期の中大兄は確かに優れた改革派の政治家だった。

 そして、これらの政策は、「大皇弟に命じて」宣言させたとある。大皇弟とは大海人王子おほしあまのみこを指す独特の用語の一つであり、後の天武天皇がここに至ってようやく歴史上に具体的な姿を現したのである。

 またこの年には、「対馬つしま壱岐いきのしま筑紫国つくしのくに等にはさきもりすすみ(とぶひ)を置く。又筑紫には大堤を築いて水を貯え、名づけて水城みづきと曰う」といったことも始められた。この事業は翌年以降順次拡大され、倭国やまとのくにから西の各国の要衝に「」が築かれた。これらの築城には亡命百済人の技術が導入された。

 このように百済系の王族や貴族は中大兄の政治に協力することになったが、その他大勢の難民の処遇については、称制四年二月に「百済の百姓男女四百人を近江国あふみのくに神前かむさき郡にく」、五年冬に「百済の男女二千余人を東国あづまのくにに居く」、また即位二年に「男女七百余人を近江国蒲生かまふ郡に遷し居く」などと見える。記録に漏れたものもあるとして、その総数を約五千人と見積もり、人口比で換算すると、おそらく今の十万人以上に相当する。彼らは日本人の血を構成する一部となった。

 冠位の改制や、氏族勢力との妥協、海外からの侵攻を意識した軍事政策は、敗戦後の動揺を防ぐのと同時に、亡命者をも組み入れて倭王を頂点とする体制を強化していこうとするものだった。各地の築城には、現にそれを必要とする脅威があるというよりは、むしろ出兵によって実証された王権の動員力を維持し恒久化していこうとする狙いがひそんでいた。脅威があることにするのも政治技術というものだ。

 ではこの時期の唐との関係はどうだったか。唐からは、称制三年・四年・五年・六年と毎年、百済鎮将の劉仁願乃至唐本国からの使者を迎えている。倭国からは四年に遣唐使が送られている。この中でどんな交渉が行われたのかはよく分からないが、すぐ戦争になるというほどの緊張した感じでは必ずしもなかったらしい。唐としてはまだ本丸の高句麗を落としていないので、百済での敵対行為を責めるよりむしろ協力を取り付けたかったのだろうか。高宗の乾封元年、中大兄の称制五年、唐は高句麗の内紛に乗じて進軍を開始する。

 こうして敗戦後のほぼ四年間を切り抜けることができた中大兄は、称制六年三月、ついに近江国大津宮おほつのみやへの遷都を敢行する。琵琶湖の近辺は、北は若狭湾、南は伊勢湾、東は東山道に通じ、西は大阪湾へも決して不便ではない。東西交通の結節点としては、やや西に向きすぎている倭国やまとのくにに比べ、列島諸国の中心にふさわしい。また、より官僚主義的な体制を構築するため、倭国やまとのくにの地理的条件と結びついた古い氏族主義的な政治構造から脱却することが大きな狙いだった。

 ただこれは王権を支えている貴族たちにしてみれば大変迷惑な事業でもあった。彼らの多くは倭国やまとのくにに生活の根拠を持っている。まだ新しい体制はできていないのに、暮らしを成り立たせている土地から離れなければならないのだ。遷都によって改革は一挙に進められる可能性もあったが、王権がその権力の基盤から浮き上がってしまう恐れもある。

 兄は中庸を失って理想に邁進する方へ傾きすぎているのではないか。成功を急ぎすぎているのではないか。弟であるために権力の中枢からやや外れていた大海人は事態を兄よりもいくらか客観的に見ることができただろうか。

 新時代への期待と不安が入り交じる中で、翌年正月三日、中大兄は大津宮天皇の位に即いた。これが天智天皇である。


 この年に成ったとされるいわゆる近江令のことは、書紀にはそれと思われるふしがあるだけだが、後に藤原冬嗣が書いた弘仁格式の序に、立法の沿革を述べ、「降って天智天皇の元年に至り、令廿二巻を制する。世の人の所謂近江朝庭の令である」と記されている。『藤氏家伝』には中臣鎌足が「律令」を作ったとあるが、おそらく鎌足を持ち上げようとする誇大な修辞であり、律に当たるものはまだなかった。もしこの近江令の中で天皇号の使用が初めて規定されたとすると、書紀には近江令について明記されていないことと、書紀が天皇制の成立過程をぼかそうとしていること、それに天智天皇がこの年まで即位しなかったとされている不思議が符合する。考えられる他の場合にはこうした条件がないとすれば、天智天皇が最初の天皇である蓋然性が高い。(続く)