読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

天武天皇評伝(十) 白村江に散る

史伝

 唐の高宗の顕慶五年九月、唐の大将蘇定方そていほう義慈王らを捕虜にして帰国すると、百済の遺臣鬼室福信きしつふくしんらの率いる反抗軍は、鎮将劉仁願りゅうじんがんの留まる旧都泗沘しひ城を攻めた。仁願が泗沘城に駐まる唐と新羅の兵を指揮して反撃したが、反抗軍は泗沘南方の嶺に砦を築いてなお隙を覗った。十月、新羅の武烈王は、自ら軍を率いて仁願を助け、南嶺の砦を攻略したものの、十一月になると高句麗の侵攻を受けて防戦のために帰国した。

 翌竜朔元年春、福信らはまた泗沘城を囲んだ。唐は行軍中の手落ちで罷免されていた劉仁軌りゅうじんきを帯方州刺史として遣わし、劉仁軌は途上で新羅軍と合流して仁願を救った。転戦して進むに、仁軌の軍容は整粛としており、向かうところはみな下した。福信らは泗沘城の囲いを解いて拠点に退いたとはいえ、仁軌もさらに追ってこれを討つことはできなかった。百済兵の意気は盛んで、唐の占領を脅かすかに見えた。

 六月、武烈王は薨去し、戦争の行方を見届けることはできなかった。武烈王は新羅の王権拡張と国益確保のために生涯を捧げ、韓国の歴史に忘れられることのない業績を刻んだ。子の法敏ほうびんが位を継いだが、これが文武王である。

 七月、倭の皇極王が殂去し、中大兄なかのおほえ王子が政治を執った。鬼室福信から王子豊璋を帰国させてほしいという要請があったのは、前年十月のことで、それはこの年の九月になってようやく実現することとなった。中大兄は豊璋に織冠を授け、多臣蒋敷おほのおみこもしきの妹を妻として与えた。大化五年に制定された十九階冠位では第一位を大織、第二位を小織とする。狹井連檳榔さゐのむらじあぢまさ秦造田来津はだのみやつこたくつが五千余りと号する軍団を率いて豊璋を護送した。福信は豊璋を迎え、稽首して王に立てた。

 竜朔元年夏から二年春にかけて、唐と新羅は主力を高句麗に向けて深く攻め入ったものの大功はなかった。泗沘城の仁願が孤立したのを見て、福信は使者を遣わしてこれを訪い、

「大使らはいつ西へ還られるのですか。そのときは送ってさしあげましょうが」

 と言ったほどで、勢いに乗ってやや勢力圏を広げた。倭国からも断続的に援兵や物資が届けられた。

 しかし七月になると、仁願・仁軌は反攻に転じ、熊津ゆうしんの東で福信の軍を破り、支羅しら城・いん城や大山たいさん沙井させいなどの柵を落とし、これを奪い返した。福信らは錦江に臨み高く険しい要衝である真峴しんけん城に退き、ここに兵を加えて守りを固めた。仁軌は新羅兵を指揮して夜闇に乗じて城壁を登らせ、明け方に城内へ侵入して百済兵を斬った。文武王もこれに呼応して将軍欽純きんしゅんらを遣わし、内斯只だいしし城を破ったので、新羅から泗沘に兵糧を送ることができるようになった。三年二月にも欽純らが兵を率いて百済居列きょれつ城・居勿きょぶつ城・沙平さへい城・德安とくあん城を下した。

 鬼室福信はすぐれた将軍であり、軍政を一手に裁いてよく働いた。豊璋はせっかく三十年ぶりで帰郷したのに、王として担がれているだけで別にすることもなかった。戦況が有利に見えた間はそれでもよかったが、事態が不利に傾いてくると、不安な環境に置かれた人間の弱さが表れてきた。豊璋は福信を疑うようになった。

 ある日、福信が体調を崩して寝室に臥せっていると、豊璋は自分が見舞いに行ったところを福信が待ち伏せて殺そうとしているのだという信念にとりつかれた。かえって寝室を襲って福信を捕らえたものの、互いに顔を見るとまた疑いが揺らいできた。そこで諸臣に問うて曰く、

「福信の罪はこのとおりだが、どうしたらよかろう」

 答えて、福信より位が一等下で徳執得とくしゅうとくという者があり、斬刑に処することを勧めた。福信は執得に唾して、

「この腐れ犬のばかものめ!」

 と怒鳴ったが、豊璋はついに福信を殺してしまった。父の義慈王が諫臣の策を用いずに国を滅ぼした失敗をくりかえしてしまったのだ。これが六月のことである。

 この頃、仁願は本国に増援を請い、高宗は右威衛将軍の孫仁師そんじんしを熊津道行軍総管とし、海を越えて七千人と号する兵を送った。百済側はこれを中路で遮ろうとしたが、仁師は突破して仁願と合流できた。そこで諸将を集めて会議を開いた。ある人の曰く、

加林かりん城は水陸両路の要衝だによって、まず撃ち破りとうござる」

 仁軌の曰く、

「兵法は実を避けて虚を撃つもの。加林は険にして固なれば、攻めれば戦士を損ない、破るにも日がかかる。周留する城は敵の本拠であるから、首領どもが集まっておる。これに克てば諸城はおのずと下るであろう」

 秋八月、仁願・仁師に文武王も合流して陸軍を帥い周留城を目指した。仁軌は水軍と糧船を率いて熊津から錦江を下った。この水軍には唐に投降したもとの百済太子扶余隆ふよりゅうも同行していた。錦江が海に注ぐ河口のあたりが白江で、また白村江はくすきのえとも呼ぶ。丁度豊璋の要請に応じた倭の水軍が白村江に集結しつつあった。名将仁軌の指揮で陣列の整った唐の水軍は倭兵と四度会戦して全勝し、その船四百艘を焼いた。火煙は天に漲り、海水は赤く染まった。味方が潰滅する中、田来津は歯を噛んで怒りを眼に表し、数十人を斬ったというが、ついに戦死した。戦争は個人の努力でどうにもなるものではない。始めから勝算のない戦争なのだった。

 やがて周留城も陥落し、王族の忠勝ちゅうしょう忠志ちゅうしや反抗戦に従事した韓・倭の人々は捕虜となった。逃げ散った倭の水軍や他の王族・貴族は数千人の難民を連れて海峡を南へ向かった。豊璋は北へ逃げたといわれるがそのまま行方知れずとなった。(続く)