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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

天武天皇評伝(八) 孝徳父子の死にぎわ

 阿倍倉梯麻呂あへのくらはしまろが逝去し、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかはのまろが謀殺された後、大化五年四月、巨勢徳陀古臣こせのとこだこのおみ左大臣に、大伴長徳おおとものながとこのむらじが右大臣に任命され、欠員を補充した形にはなった。

 翌年二月、穴戸国あなとのくにから白い雉子が現れたと報告があり、百済王子豊璋ほうしょうや国博士僧旻そうみんらに諮問したところ、みな吉祥であるとしたので、これにちなんで改元し、白雉元年と号した。白雉年間には、大化中に発布された法令の実施が進められ、班田や造籍に一定の進展が見られた。また白雉五年には約二十年ぶりの遣唐使長安に到り天子に拝謁した。この年は唐の高宗の永徽五年に当たる。高句麗百済新羅の争いが重要な外交課題であり、高宗は倭王に対して新羅へ援兵を出すことを要求した。

 こうして政治が大きく回転する中で、孝徳王は役割を失いつつあった。大伴長徳は白雉二年に死んだとされるが、その後任が置かれることはなかったらしい。孝徳王の内閣は二度ともとの形を回復することはなかった。白雉四年、太子中大兄王子なかのおほえのみこは、難波から倭国やまとのくにに王宮を戻すことを提案した。孝徳王はこれを是としなかったにも関わらず、中大兄は、皇極王や王后間人王女はしひとのみこに、大海人王子おほしあまのみこらも連れて、飛鳥の行宮かりみやへ去ってしまった。公卿大夫・百官の人々もそろって遷るのに随った。

 孝徳王は引退することを考え、隠居の宮も造ることにした。そこで間人王女に歌を送って曰く、

 舸娜紀都該かなきつけ 阿我柯賦古麻播あがかふこまは 比枳涅世儒ひきでせず 阿我柯賦古麻乎あがかふこまを 比騰瀰都羅武箇ひとみつらむか(鉗着け 我が飼ふ駒は 引き出せず 我が飼ふ駒を 人見つらむか)

 翌五年、大臣に授ける紫冠が中臣鎌足に与えられたので、巨勢徳陀古もこの時までに事実上解任されていた可能性がある。孝徳王はすでに王者としての実態を何らの意味でも持たなかった。

 白雉五年十月一日、中大兄は、孝徳王が病で伏せっていると聞き、皇極王・間人・大海人らとともに難波宮を訪ねた。孝徳王はその十日に没した。十二月六日に葬礼が終わると、皇極王・中大兄らはその日に倭国へ帰ってしまった。

 孝徳王は決して暗愚な王者ではなかった。鎌足を見いだしたことは慧眼と言うほかないし、自身の役割をよく理解してそれを踏み外さず、待遇に不平を抱いて乱を起こすこともなかったのは、凡庸な人物にはなかなかやりおおせないことである。そして自身の働きによるより、むしろ若い中大兄にその才能を働かせられる場を与えたことによって功績を挙げたと言われなければならないだろう。


 さて、日本書紀の記述では、古くから一時代に一人の天皇が君臨していたという印象を与えるように意図されているので、皇極天皇孝徳天皇に“譲位”し、孝徳天皇の死後に復位したという書き方をしている。しかし記事の内容をよく読むと、実際の孝徳王は皇極王のある面での代理にすぎず、皇極王はこの期間を通して、名目が何であったかはともかくとしても、一貫して本質的な最高権力者であったと考えられる。この見方によると、孝徳王の死後に中大兄がそのまま王位を継承しなかったことも別に不審ではない。

 なお、八世紀後半に選定された歴代天皇のいわゆる漢風諡号において、その前期を皇極天皇、後期を斉明天皇と呼ぶ。王者の復位ということは海外にもあるが、復位したからといって複数の諡号を作るという例は中国にはない。また日本書紀の本来の表記においても、その前期と後期で呼び方を変えてはいない。ここでも一貫性を重視して以後も皇極王とし、白雉五年の翌年を皇極王の後期元年と呼ぶこととする。


 大化・白雉の約十年間を通して進められた改革は、ここにおいて民衆の身の上に関わるところまで具体的になってきた。皇極王の後期七年間には、東北地方への侵攻や大規模な宮苑の造営が興された。これは強化された王権による動員力を試し、誇示し、また人々を新しい体制に従うことに慣れさせるという狙いがあったとみられる。しかしこれは反発を起こさないではなかった。特に、香山の西より石上山まで溝を掘らせ、舟二百隻に石上山の石を載せて、溝の流れによって後飛鳥岡本宮の東の山まで届け、その山に石垣を巡らせた一連の工事は、世上の注意を惹いたらしい。時の人がこれを謗って、

「もの狂いの溝は損ねる工夫三万あまりなり、垣を造るに費やす工夫は七万あまりなり、宮の木は枯れ、山の頂は埋まる」

 とか、

「石の山を作って、作ったそばから壊れてしまえ」

 だとか言ったそうだ。この年は皇極王の後期二年である。

 ところで孝徳王が世を去ったことにより、命の危険を感じなければならない人がまた一人いた。それは、孝徳王と阿倍前左大臣の息女小足媛をたらしひめとの間に生まれた一粒種、有間王子ありまのみこだった。中大兄から見てはいとこに当たり、歳案配はちょうど古人大兄を殺した頃の弟大海人を思わせた。中大兄は名族阿倍氏の血を引くこの王子を睨んだ。天性鋭敏な有間は、壮大なことばかり言ったり、温泉遊びをしたりして、政治に関心がないふうを装っていた。

 後期四年十月、皇極王は有間に奨められた紀国きのくに牟婁むろの湯へ出かけた。中大兄は皇極王の供をして行った。王宮の留守を任されたのは蘇我赤兄そがあかえのおみという者だった。

 皇極王が牟婁の湯に逗留している間、十一月三日、赤兄は有間王子を訪ねた。そして、恐れながら申し上げます、とでも切り出したのだろう、あろうことか、

「王の政治には三つの過ちがございます」

 と思い切ったことを口にしたものだ。

「大いに倉庫を建てて百姓の財産を集積したこと、これが一つ、遠く溝を掘って国家の租税を浪費したこと、これが二つ、舟に石を積んで運び積んで丘を作ったこと、これが三つでございます」

 そこまで聞いて有間はようやく安心し、

「我が齢十九にして、始めて兵を用いるべき時だ」

 と言って歓びを表した。

 五日、有間は赤兄の家に行き、人払いをして計画を謀った。こういうことはやると決めたら下手でもすぐに動かなければならない。今日にでも旗揚げをしようという話だ。ところが有馬の使った脇息の脚がわけもなく折れたので、不吉だとしてこの日は引き取った。赤兄にはケンカは速いに限るということがよく分かっていた。この日の夜半、赤兄は却って宮苑工事の人夫に兵器を持たせて有間の家を囲んだ。また早馬を走らせて、このことを有間王子謀反のこととして牟婁の湯の皇極王へ報せた。

 以上のことは日本書紀には確かにそう書いてあるが、赤兄の主張に沿って記録されたはずだから、どこまで本当だか分からない。

 九日、捉えられた有間は牟婁の湯へ送られた。中大兄が親ら問うて曰く

「どうして謀反気など起こしたのだ」

 有間の答えて曰く

「天と赤兄が知っているのでしょう。私にはちっとも解りません」

 後日、有間王子は藤代の坂で絞首刑に処された。またこの事件に連坐して二人が斬首、もう二人が流刑となった。赤兄は後に天智政権で重用される。(続く)