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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

天武天皇評伝(四) 乙巳の変

 皇極王の四年は、唐の太宗の貞観十九年に当たる。太宗は、先年より高句麗新羅の争いを調停すべく外交的介入を試みていたが、高句麗の権臣いり蓋蘇文かすみが従わないので、ついに親征を決意した。太宗には、内は全国を平定し、外は突厥とっくつを臣服させたという自信があった。唐の軍勢は、海からは平壌、陸よりは遼東を攻める計画で、水兵四万、歩騎六万と号し、太宗は二月に東都洛陽を発って北東へ向かった。夏四月、先方を務める英国公李勣が遼水を渡って高句麗の蓋牟城を落としたのを皮切りに、五月から六月にかけて沙卑・遼東・白崖の各城を抜き、安市城に迫って郊外での緒戦に勝利を収めた。太宗の遠征は順調に見えた。

 こうした事情が倭国にはどれほどの時間で伝えられたか明らかには分からない。しかし当時の外交網は平安朝などより優れたもので、高句麗にも学問僧を送り込んでおり、それによって様々な情報が知らされていたらしい。この年の前半、日本書紀には大した記事がない。こんな空白はむしろその間に策謀が巡らされていたことを物語るようだ。六月になる頃には、唐軍の優勢が伝えられていただろう。中大兄なかのおほえ王子は二十歳、中臣鎌足なかとみのかまたりは三十二、大海人おほしあま王子は十代後半になっていた。

 六月十二日、高句麗百済新羅からの外交文書を上聞すると称して、そのための式典の場が飛鳥板蓋宮に設けられた。これは中大兄と鎌足の詐計である。皇極王は正殿に臨御し、時を告げて舎人に蘇我入鹿そがのいるかを喚びに行かせた。入鹿は靴を履こうとして足に着かないこと三度に及んだので、不吉を感じて還ろうかと逡巡しりごみした。舎人が頻りに呼ぶのでやむをえず馳せ参じ座を取った。これも呼び出されたのだろう、古人大兄ふるひとのおほえも正殿に侍していた。

 中大兄は、衛兵に命じて四方の門を閉ざし、出入りを禁じさせた。鎌足の推挙した佐伯子麻呂さへきのこまろ稚犬養網田わかいぬかひのあみたという二人の勇士には、剣を与え、入鹿の隙を見てためらいなく斬れと命じてある。子麻呂らは腹ごしらえに湯漬けをかきこんだが緊張してのみこめない。鎌足が叱って励ました。中大兄は自ら長いほこを執って正殿の陰に隠れた。鎌足らは弓矢を持って脇を固めた。入鹿を裏切った蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかはのまろが三国の表文を読み上げる。

 入鹿はなかなか油断のない人物だ。子麻呂らは畏れて進めない。表文はもうすぐ読み終わる。子麻呂らがなかなか出てこないので石川麻呂は焦って声が乱れた。入鹿がいぶかしむ。中大兄は見かねて「やあ!」と声を挙げ、子麻呂らを急かしてともに入鹿の不意を突いた。剣が入鹿の頭と肩をかすめる。入鹿は驚いて立つ。子麻呂が手を巡らして剣を振り入鹿の片脚に切りつけた。入鹿は王座にすがりついた。

 「私に罪はありません。どうか明らかにしてください」

 皇極王は大いに驚き、中大兄に問うて曰わく、

 「さあ知らない。何事かあったかな?」

 これは悪い冗談だ。皇極王も計画に加わっていなかったなら、中大兄たちだけでどうしてこんな場を作ることができたのか。中大兄は伏して言上した。

 「入鹿は王族を滅ぼして帝位を傾けようとしています。どうして王子を入鹿に代えることができましょう」

 入鹿にとっては言いがかりである。たしかに山背大兄王子は殺したが、それは王家のためにしたことだ。入鹿は罪を知らない。しかし中大兄と鎌足にとって入鹿は悪人でなくてはならない。皇極王は何も言わず、すっと立って殿中に入った。「よきにはからえ」という意味だ。子麻呂と網田が入鹿を斬り殺した。古人大兄は恐れて家に帰り、門を閉ざして寝室にこもったという。

 こういうことは一度動き出したらうかうかしていられない。殺害の理由などは後からどうとでも言えるが、それは相手にとっても同じことなので、反撃を受けるより先に押し切ってしまわなければならない。もう翌日に中大兄は法興寺を本陣として諸王子・群臣を集め、蘇我大臣家を攻めて蝦夷えみしをも殺してしまった。策略はすべて鎌足の頭脳から出て、中大兄の名において行われた。この時、大海人王子はどこにいたか、この事件に接して何を思ったかは、伝えられていない。


 こうして蘇我大臣家を取りつぶすという計画は成就し、一つの矛盾は解消された。しかし蘇我氏は大貴族であり、稲目の代から百数十年にわたって政治に重きをなし、列島諸国との折衝に自ら歩き回ったこともあって顔が広い。したがって倭王家が蘇我大臣家を滅ぼすという事件は、放置すれば社会不安を招くおそれがあり、王権の強化という方向への革新的な歩みにもかかわらず、動揺を防ぐための守旧的な体制を作る必要があるという、新たな矛盾が生じてくる。

 六月十四日、皇極王は位を同腹の弟であるかる王子に譲った。この際、はじめ皇極王は位を中大兄に譲ろうとしたのだという。中大兄は鎌足に相談した。鎌足は、

 「古人大兄というお兄様が今はおいでになるのですから」

 兄を越して弟が位を受けてはいけない。だから、

 「しばらく叔父である軽王子をお立てになればまあよろしいでしょう」

 と言った。どうも話の筋がおかしい。中大兄はこの意見を密かに皇極王に申し上げた。皇極王は改めて軽王子に位を譲ろうとしたが、軽王子は再三固辞して、述べた。

 「古人大兄命は、先王のお子であり、歳も十分です。この二つの理由によって、王位に相応しいでしょう」

 これも悪い冗談だ。古人大兄は母方から言えばつい一昨日に殺された蘇我入鹿のいとこなのだ。殿中には、皇極王をはじめ、軽、中大兄や大海人など父母ともに王族である純血主義の人々が座を占めている。古人大兄が、名目上は国王になるとしても、その中に入ってどうなるだろうか。彼には後ろ盾となるべき蘇我大臣家ももうない。このやりとりは脅迫じみている。古人大兄は恭順の態度を示して、

 「ありがたいお言葉をうけたまわりましたが、どうして私などに敢えて位を譲られるのでしょう。私は出家して吉野に入り、仏道を修行して国家をお助けしとうございます」

 と伸べ、逃げ隠れるように僧形を装い南へ向かった。

 ついに軽王子が王位に即いたが、これが孝徳王である。皇極王の四年を改め、年号を立てて、大化元年と称した。(続く)