五世紀の倭新関係(中編)
(承前)
前回までに述べた所のあと、《日本書紀》と《三国史記・新羅本紀》の双方に、相互の関係についての記事がいくつかある。その中に、個別の対応が確認できるものが、もう一つある。
それは、神功皇后紀摂政五年の条で、微叱許智が一時帰国だと偽って新羅に逃げる話がある。この事件は、新羅本紀には、訥祇麻立干の二年に、
秋 王弟未斯欣 自倭國逃還
秋、王の弟の未斯欣が倭国から逃げ還った。
と簡単に載せられているだけだが、同じ《三国史記》に収録された「朴堤上伝」にやや詳しい記事があり、そのいきさつは書紀のものと大筋で一致する。この事件は日韓両国の史乗によって確からしさが認められる。訥祇麻立干の二年は、西暦418年に当たる。
ただし、ここにも一つの問題がある。書紀では葛城襲津彦が微叱許智を送る使者としてついて行ったことになっている。朴堤上伝では単に倭人などとあって名前はない。名前が出ないのは良いけれども内容に問題がある。書紀では欺かれたことに気付いた襲津彦が新羅の使者三人を焼き殺す。朴伝では、朴堤上が未斯欣を逃がした後でやはり焼き殺されて、そこでこの事件についての話は終わっている。書紀にはこの続きがある。神功紀摂政五年三月条の全文は、
五年春三月癸卯朔己酉、新羅王遣汙禮斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等朝貢。仍有返先質微叱許智伐旱之情。是以、誂許智伐旱、而紿之曰、使者汙禮斯伐・毛麻利叱智等、告臣曰、我王以坐臣久不還、而悉沒妻子爲孥。冀蹔還本土、知虛實而請焉。皇太后則聽之。因以、副葛城襲津彦而遣之。共到對馬、宿于鉏海水門。時新羅使者毛麻利叱智等、竊分船及水手、載微叱旱岐、令逃於新羅。乃造蒭靈、置微叱許智之床、詳爲病者、告襲津彦曰、微叱許智忽病之將死。襲津彦使人令看病者。既知欺、而捉新羅使者三人、納檻中、以火焚而殺。乃詣新羅、次于蹈鞴津、拔草羅城還之。是時俘人等、今桑原・佐糜・高宮・忍海、凡四邑漢人等之始祖也。
というのだが、この最後の所、
乃詣新羅、次于蹈鞴津、拔草羅城還之。是時俘人等、今桑原・佐糜・高宮・忍海、凡四邑漢人等之始祖也。
そして新羅に詣り、蹈鞴津に次って、草羅城を抜して還る。この時の俘人らは、今の桑原・佐糜・高宮・忍海の凡て四つの邑の漢人らの始祖である。
とあるのが、意義がよく分からない。欺かれたことに対する報復は、新羅の使者を殺すことで済ませたはずで、これほどの行動を起こす理由がない。君命も受けずに無辜の人間を略取するとはどういうことか。これは本来は別の事件だったものを一条の文にまとめてしまったか、あるいは襲津彦が使命に便乗して私的に掠奪をしたということだろうか。
襲津彦の名は、《日本書紀》の神功摂政六十二年、応神天皇十四年及び十六年、仁徳天皇四十一年などに現れる。また、神功摂政六十二年の条に引く《百済記》に沙至比跪という名が見え、襲津彦と同一人物であるらしい。《古事記》には葛城長江曾都毘古とか葛城之曾都毘古という名前が見えるが、名前が出るだけで活動は伝えられていない。
応神十四年の記事では、襲津彦は帰化する百済人を迎えに加羅国に行ったまま三年も戻らなかったという。十六年八月の条では、その理由を新羅の妨げによると推量しているが、いちいち新羅を敵視するのが書紀の例だから額面どおりには受け取れない。仁徳四十一年の条では、「紀角宿禰を百済に遣わした」という書き出しの文中に、襲津彦が唐突に現れ、あたかも韓国に住んでいるかの印象を受ける。《百済記》の沙至比跪は、それどころか新羅国に懐柔されかえって加羅国を攻めたことになっている。
書紀の内容からすると、葛城襲津彦はかなり自律的な活動をしていて、朝廷の正式な大臣とか将軍といった者らしくない。もちろん葛城は奈良平野の地名で、葛城氏はその土地の豪族とされているが、五世紀代の早い時期において既にそうだったかどうかは定かでない。襲津彦その人の行動は、むしろ遊侠的であり、時に海賊的行為をするような遊漁民勢力の一派を率いる首長を思わせる。ただその一方で、君命を受けて出動したり、記では息女が仁徳天皇の皇后となっていることなどからすると、脚色はあるにしても、全く無関係の伝承を無理に付会したということではなさそうである。
こういう人物について、参考になりそうな事例を世界に探せば、それがロシア史にある。
リューリク朝のイワン四世は、ロシアで初めて皇帝を称した人物で、その治世は日本の織田信長の頃と重なっている。長く遊牧民の勢力によって頭を抑えられてきたロシアは、この時代にようやく帝国的体制を築く端緒を開いていた。しかし国内にはまだ大貴族との抗争があり、辺縁にもまた遊牧民の脅威が無くなってはいなかった。
この時代、ロシアの辺境には、カザークと呼ばれる勢力があった。カザークとは、ロシアの農耕的社会からあぶれた無頼者で、遊牧文化を摂取して騎馬を得意とした。農村に対しては、掠奪をすることもあれば、遊牧民の襲撃から守ることもあった。本来の遊牧民ではないが、外形的には遊牧民的勢力の亜種とも言える。
イワン四世の頃、カザークの有力な一派を率いる首長で、イェルマークという者があった。カザークは公権力から見れば破落戸集団であり、イェルマークも官軍に追われていて、ある土地に逃げ込んだ。そこはストロガノフ家の領地だった。ストロガノフ家は辺境の毛皮商で、数多くの労働者を保有し、毛皮を獲るための土地の領有と、それを守るための武装をすることさえ勅許されていた。日本史に類例を求めれば、それは松前藩と似た所がある。
この頃、ウラル山脈の東には、シビル・ハン国があって、モンゴル帝国の余勢を駆っていた。その方面をロシアではシベリヤと呼んだ。ストロガノフ家は毛皮資源のためにシベリヤが欲しかった。そこにカザークの一味を率いたイェルマークが逃げ込んだのだった。窮鳥懐に入れば猟師も殺さずというが、商家ならではこれを殺さぬどころか存分に活かした。ストロガノフ家はイェルマークをシビル・ハン国に差し向けたのである。かつてロシア人の弓矢は遊牧民に及ばなかったが、この時には銃器によって力関係が逆転していた。これは1580年代のことで、長篠の戦いに時期が近い。
この最初のシベリヤ征服はストロガノフ家が私的に始めたが、獲得した領地は形式的には皇帝に献上された。皇帝にとっては大貴族の手垢が着かない純粋な天領となり、王権拡張の象徴ともなった。征服された土地の住民には租税として毛皮の物納が課される。商人がこれを裁いてヨーロッパに輸出する。シビル・ハン国の滅亡により東方への道が開け、皇帝の領土は日一日と拡大した。その遠征の計画は政府がすることもあれば商人が立てることもあった。賊徒だったカザークもようやく栄誉ある直参として征服に従事することとなる。
このロシアの場合と上古の日本とでは、もちろん事情が大きく異なる。しかし煎じ詰めて言えば大きく共通する要素があるのではないか。
この話しはもう少し続くが、長くなってきたのでまた次回に分ける。