古代史を語る

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日本史上の“都市国家時代”

 証明することは難しく、仮定することは易しい。仮定はいくらでも任意に置いて構わないが、仮定の数が増えるだけ仮説の質は落ちることを覚悟しなくてはならない。しかしわずかの仮定によって多くの事実をうまく説明できるときは、それを置くことをためらう必要はない。そして誰も証明ができないことであるならば、最も質の高い仮説が共有の結論として採択されるべきである。

 記紀に見える天照大神の天岩戸隠れの描写が都市国家的情景ではないかという考えを前に述べた。

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 それは、都市国家的段階における事件から発生した説話に、日食に関する民話などが習合し、最終的には日本的王権の起源を説明するために整理されたものだと思われる。それは記紀の構成の中で、てんで見当外れの箇所にあるのではなく、都市国家から領土国家へという歴史的発展の経緯を示すかのような位置にある。

高天原の歴史的段階

 “高天原”は一つの都市国家が象徴化されたものとしての一面を持っているようである。しかも、天岩戸隠れの説話において、その中心的役割を日の神が演じていることは重要である。

 以前、私は、古代人の方位観について考えたときに、社会が広域化すると局所的なものに代わって太陽が方位の基準として選択されると述べた。

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 それは宗教についても似たことが言える。広範囲の社会的結合がより強まり、その精神的紐帯が必要とされたときには、それまでよりも普遍性の高い神が信仰の中心として選択されることがある。それは太陽神や天帝、あるいはより抽象的な神格として表現される。

 都市国家には、それぞれの都市の守護神があった。それは、その地域における名山だったり、その集団の祖霊であったりした。都市国家群が何らかの形で結合すると、諸国は必ずしも対等ではないので、神々の間にも序列ができる。そして結合が進んで、領土国家に近付き、社会が変動してくると、それは最高神を改めて選択する契機になる。

 天照大神がある程度の普遍性を持った太陽神であるならば、この説話は都市国家連合の進行した段階を象徴していると見なすことができる。もしそうであるとすれば、その歴史的段階は、“魏志倭人伝”に記された時代と一致する。

 こうした時期には、社会は古い構造と新しい構造の間で動揺している。素戔嗚尊は、天照大神と対立し、罪状を責められて高天原から追放されるが、出雲の一地域に下り、その土地の有力者を助け、八岐大蛇やまたのをろちという形で表象される何らかの問題を解決して、そこに地位を得る。有能な者が母国では受け入れられず、他の国で活躍することは、こうした状況ではありがちなことである。

都市国家は植民する

 都市国家都市国家たるゆえんは、その勢力範囲が狭いことにある。それは農業・軍事・通信などの水準によって制約を受けている。個々の都市国家の容量はさして大きいものではないので、ときとして植民活動が行われる。手頃な空き地があれば単に新たな都市を建設するが、さもなくば、先住者と協力したり、あるいは征服または駆逐して目的を達する。植民市といっても、近世の植民地とは違い、母国との制度的な従属関係は発生しない。新しい都市は、そのものが都市国家として独立し、当初は良好な関係を持つことが期待されるが、やがて疎遠になって敵対することもある。世界史の例によればそうである。

第一次植民時代

 さて高天原からの植民活動は、島根・鹿児島・奈良の三方面へ行われた。島根地方へのそれは、“国譲り”としてよく知られているから、ここで詳しくは述べないが、初めは融和的に、後には征服的に遂行される。鹿児島地方へは、天照大神の孫瓊瓊杵尊ににぎのみことが行き、在地の有力者の娘と結婚して定着し、後に神武天皇を輩出する。奈良地方へは、饒速日命にぎはやひのみことが下ってやはり在地の豪族と通婚し主君となっていた。これらが都市国家的段階の社会において行われたことだとすれば、彼らは各地方に新しい都市国家を建設したのであり、各地が高天原に併合されたのではない。だから各地方の服属が後に改めて記されることは別に説明を必要としない。

第二次植民時代

 植民活動の第二波は、鹿児島地方から起こる。それは一般に“神武東征”などとも呼ばれて一通りは知られているから、ここで詳しくは述べない。この行動は、瀬戸内海周辺の航行の要地を何カ所も経ていることなどからして、海上貿易との関係が一つの動機となったものらしい。しかもこれは、神武天皇がもといた鹿児島地方から奈良地方までを併せた領土を獲得したという話にはなっていない。このことも、これが都市国家時代のことだとすれば、別に説明する必要はない。鹿児島地方の勢力が各地に植民市を建設したことを伝えていると考えれば良い。

 この第二次植民時代については、後の回で考えたいこととも重複するので、これ以上は次回以降に述べたい。