天武天皇評伝(二十六) 崩御
天武天皇の治世十五年七月二十日、年号を立てて朱鳥元年と称した。孝徳王の白雉以来、改元は久しく忘れられていたことである。朱は赤色の類に属し、赤は五行説では火の色とされる。白は金の色である。かつて戦国から漢の頃にかけて五行説が流行すると、歴代の王朝も木火土金水のいずれかの徳を帯びるものとされた。漢が五行のどれに当たるかは古くから議論があったが、末期には火徳を持つものと考えられた。漢から禅譲を受けた魏が、土徳の王朝に当たるとして、象徴の色として黄色を採用したのは、五行相生説による。五行相克説を採れば、火は金に克つという関係にある。したがって朱鳥とは白雉に克つという意味を込めた年号であり、天武天皇の革命思想が改めて示されたことになる。
朱鳥の新年号はしかし、天武天皇にとってその偉業を記念する最後の一つであった。すでに十四年の秋から体調を崩していた天皇は、十五年五月にその病気が重くなる。折り悪く同じ頃に侍医の一人である百済出身の億仁が病気して瀕死になり、天皇を診ることができない。侍医は一人しかいないわけではないとはいえ、このことは天皇の心に暗いものを投げかけたに違いない。天皇が医術の他に頼みとしたものはおもに仏教であった。十四年九月二十四日には、快復を願うために大官大寺・弘福寺・法興寺に三日にわたって経を誦ませた。十五年五月二十四日には、弘福寺に薬師経を説かせ、宮中でも講説を行う。
六月十日、天皇の病気を占うと、草薙剣の祟りと出た。そこで草薙剣を尾張国の熱田社に納める。今の熱田神宮である。これは効能がなく、病気は良くなる兆しを見せない。
十六日、伊勢王らを法興寺に遣わして勅し、
「このごろ朕が身は和らがぬ。三宝の霊威に頼り、身の安らぎを得んことを願いたい。これにより僧正・僧都そのほかの僧らは、誓願をしてくれるように」
と曰い、寺に宝物を献じる。
七月八日、百人の僧侶を宮中に招き、金光明経を読ませたが、その二日後に落雷があって民官の倉庫が焼け、かえって不吉の感を強くする。十九日には、昨年以前に貧乏のため出挙を受けた者の返済を免除することを詔する。これは恤民を功徳として病気平癒のために仏の利益を請うものだろう。改元のことはこの翌日で、宮を名付けて飛鳥浄御原宮としたのも同じ日である。またいろいろの読経・造像・悔過や天神地祇に祈るといったこともした。悔過とは過ちを悔いて罪の報いを避けることを願う仏教の儀式である。天皇が何を懺悔したのかは伝えられていない。
朱鳥元年九月四日、皇子や諸臣らはそろって弘福寺に集まり、天皇の病のために誓願をした。しかし全て効験はなく、九日、天武天皇は崩御した。歳は五十五、六歳だったと思われる。
立法・修史・造都は天武天皇が志した三大事業だが、このどれもその生存中には完成しなかった。この三つはどれも社会のあり方と大きな関わりを持っている。人の作る社会は伝統を引きずる。伝統は何世代もかけて形成されるので、その弊を改めるにも人の一生を以て計るに超える時間を要することがある。だからその事業が成し遂げられなかったことは、天武天皇の失点に数えられるべきではない。晩年になっても焦りを見せず、功業を後世に託したことは、その構想の大きさを示している。こういう構想力のある人物は日本史に例が少ない。
天武天皇が往生した時、鸕野皇后が詠んだ歌は『万葉集』に載せられている。
八隅知之 我大王之(八隅知し 我ご大王の)
暮去者 召賜良之(暮去れば 召し賜ふらし)
明来者 問賜良志(明け来れば 問ひ賜ふらし)
神丘乃 山之黄葉乎(神丘の 山の黄葉を)
今日毛鴨 問給麻思(今日もかも 問ひ給はまし)
明日毛鴨 召賜万旨(明日もかも 召し賜はまし)
其山乎 振放見乍(其の山を 振り放け見つつ)
暮去者 綾哀(暮去れば あやに哀しみ)
明来者 裏佐備晩(明け来れば うらさびくらし)
荒妙乃 衣之袖者(荒妙の 衣の袖は)
乾時文無(乾る時も無し)
かく悲しみを歌いながら、皇后は後継体制について考えなければならない。
鸕野皇后は、天智天皇と蘇我氏遠智娘の子である。草壁皇子を産んだのは、大海人皇子との結婚から六年目、天智天皇の称制元年、筑紫国の那の津にあって百済の役に臨む緊張した雰囲気の中でのことだった。天智天皇の末年、大海人皇子に従って吉野に入り、壬申の年、挙兵の謀議をともにした。天武天皇の治世二年、皇后に立てられ、天皇の政治を終始輔佐したといわれる。
天武天皇が崩御したあと、王朝を主宰する権利は皇后の手にあった。皇后はまず天皇の葬礼をその偉業にふさわしいだけ荘厳に執り行い、しかるのち確実に皇太子草壁を皇位に即かせなければならない。鸕野皇后は天智天皇が持った過ぎるほどの聡明さと果断さを受け継いだただ一人の子だった。もしこの時に当たって草壁皇子の妨げになる者があるとすればそれは誰か。天武天皇の死を好機として事を起こす動機が誰かにあるとすれば、それは天智天皇の遺児である川嶋・施基両皇子ではないだろうか。少なくとも疑いをかける理由がなくはない。しかし皇后が睨んだのは、この二人ではない。それは皇后の姉の子、大津皇子である。
朱鳥元年九月二十四日、天武天皇の殯がまさに始まろうという中にあって、宮廷には恐るべき隠謀が巡らされた。大津皇子が皇太子に謀反を企んだというのである。(続く)