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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

天武天皇評伝(十八) 大友皇子と大海人皇子

 天智天皇が死に瀕していた十一月二日、唐から法師道久だうく筑紫君薩野馬つくしのきみさちやまら四人が対馬国つしまのくにのみこともちのもとへ来着した。道久はおそらく前の遣唐使の一員として渡った僧侶。薩野馬は百済への出兵に従って捕虜になっていたもので、他の二人も同じであるらしい。道久らが語った所によると、今、唐朝の使者郭務悰くゎくぶそうら六百人・送使沙宅孫登しやちやくそんとうら千四百人が、船四十七隻に分乗して比知ひち嶋に停泊している。そして、

「今われらは数が多く、突然に行くと倭の防人が驚いて防戦しようとするかもしれない。そこで道久らをやって、予め来意が知られるようにしておこう」

 と相談しているという。比知嶋というのは今のどこか未詳だが百済沿岸の小島の一つであることは分かる。このことは十日には筑紫大宰府に伝えられた。この時、筑紫率つくしのかみには栗隈くるくま王が赴任していた。栗隈王は敏達帝の孫に当たる。

 この報は十一月中には近江国大津宮にももたらされたろうが、まもなく天智天皇崩御し、大友皇子はまずその葬儀に当たらなければならなかった。新羅の使者金万物こむもんもつもがりを見届けて帰国した。

 明くる年は、唐ならば高宗の咸亨三年、干支は壬申である。近江の朝廷には主君がない。残された大友皇子は二十五歳になった。

 大友皇子については、『懐風藻』に小伝が載せられているものの、その評価はありきたりな賛辞を並べただけで、あまり実感がないという印象を受ける。そこで残された二首の短い漢詩から強いてその人柄を覗うと、父から期待をかけられてきただけに気負いと表面的自信が強い反面、自分の実力に対する不安から心を離すことができないという性格が見えるようである。

 そんな大友皇子がこの年の初めにしなければならない仕事は、郭務悰らに天皇の喪を知らせることだった。それも三月になってようやく使者を筑紫へ派遣したのである。この時、務悰は那の津、今の博多湾岸に留められていた。務悰らは喪服を着て哀悼の礼を行い、因って書翰と進物を渡した。

 郭務悰というのは、唐の百済占領統治に関係した人物で、これまでにも何度か来訪している。しかし今回は特に多くの人数を引き連れて来たというのはどういう事情によるものだろうか。当時通常の使節団がどのくらいの人数で行動したかはよく分からない。だからこれが普通よりどのくらい多いのかもよくは分からない。しかし今回は紛争発生の折なので、郭務悰ら六百人というのは相当数の護衛をも含むものだろう。沙宅孫登は百済人で、かつて義慈王とともに唐に投降した。沙宅孫登ら千四百人というのが、特に別に記されている所に何か意味がありそうである。これについては当時の状況からこう考えることができる。

 そもそも遠征軍においていつも問題になるのは兵站つまり軍需物資の輸送である。孫子も言うように、遠方への輸送は効率が悪く、できるだけ戦地の近くで物資を獲得するのが鉄則である。現に唐は高句麗との戦争において新羅から援助を受けなければ勝利することができなかった。かつて隋の煬帝が戦争に備えて掘らせた、南は杭州から北は涿州まで通じる大運河は機能していたが、これとて十分なものではなかった。そこで今度は新羅を相手に事を構えざるをえなくなると、別に補給の口を求める必要が出てくる。ところで新羅王のように天子から冊封され爵位を受けている者には、その恩のために天子の行う征伐には必要とあらば協力する礼儀的義務が生じる。しかし倭の国主という者は冊立されることを拒み自ら天子を称している。これ自体が唐にとっては問題だが、今は時が時なのでとにかく補給が要る。義務を負わない者に援助を求めるにはそれなりの支払いをしなければいけない。

 沙宅孫登ら千四百人というのは、おそらく百済で捕虜にした倭兵や亡命百済人の家族などで、彼らを送り届けるのと引き替えに物資を購ったのだろう。沙宅氏にも亡命した者があり、孫登自身もあるいはこれを機に亡命を希望したのかもしれない。これに対する近江の朝廷からの供給は、さらに五月まで遅れた。十二日、甲冑・弓矢の他、ふとぎぬ千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤が引き渡された。このおよそ半年間は郭務悰にとっては長すぎる時間だった。唐の百済占領統治は今や文武王の戦略によって窮地に追い込まれている。三十日、務悰らはようやく帰路に就くことができた。


 大海人おほしあま皇子は、昨年十月末以来、倭国やまとのくにの吉野宮にいる。倭国には伝統的な王権の基盤があり、それは王宮が近江に遷っても変わっていない。まずはここを押さえることが制覇への第一歩となるのだ。

 今この列島では、内外に政治上の課題が多い上に、王位継承法を巡って、天智天皇が進めてきた改革に与する人々と、これに抵抗を感じる人々とが衝突しようとしている。しかもそれは天智天皇の死によって急激に先鋭化してきそうである。人の心裡には変わりたいという望みと変わりたくないという想いが常に同居しており、そのどちらが強く出るかで保守派になるか改革派になるかが決まる。そしてこういう時にはおよそ保守派の方が強い。変えるより変えない方がさしあたり余計な面倒が少なくて済むような気がするからだ。

 ここで大海人皇子が吉野に隠棲する姿勢を示したことは、どちらに付くかを予め決めていたわけではない多くの人々を刺戟したはずだ。あの古人大兄王子が吉野で殺された事件は、もう二十七年ほど前のことになる。当時その報に触れて何らかの印象を胸に刻んだであろう若者たちは今、大海人もそうであるように、十分指導的地位に立つ年齢になっている。しかも今度は逆に純血の皇子が吉野に退き、近江の朝廷には伊賀の采女などが生んだという皇子が居座っている。当然帝王として立つべき人が、不当にも大友皇子によって殺されようとしているのではないか。

 大海人皇子は早くに近江の朝廷を脱け、こうした情況の中で先手を打って有利な地位を占めることができるという見通しを持っている。一方大友皇子は今やいやおうなく政治の当局者となって多忙である。自分はただ勝利を得ることに集中すればよいのだ。『日本書紀』は壬申の年五月までに何があったかについて多くを語らないが、こんな沈黙はやはり裏面で駆け引きが行われていたことを示していると見るべきだろう。

 ところで天智天皇の陵墓は、大津宮からそう遠くない山背国やましろのくに宇治郡山科郷に造ることが生前に決められていたらしい。その地は藤原内大臣の陶原すゑはらの家に近く、今の京都市山科区にある御廟野古墳に比定されている。この墳墓の造営がこの時は終わっておらず、もし工夫に鍬に替えて矛を持たせれば、ずっと南下して倭国に攻め入ることができる。そして大友方が少しでもそういう気配を見せれば、大海人方にとってはむしろ行動を起こす絶好の機会となる。

 あるいはこの頃のものかと思われる歌が天皇御製歌として『万葉集』に載せられている。

  三吉野之みよしのの 耳我嶺尓みみがのみねに 
  時無曽ときなくぞ 雪者落家留ゆきはふりける 
  間無曽まなくぞ 雨者零計留あめはふりける 
  其雪乃そのゆきの 時無如ときなきがごと 
  其雨乃そのあめの 間無如まなきがごと 
  隈毛不落くまもおちず 念乍叙来おもひつつぞくる 
  其山道乎そのやまみちを

 五月、大海人に従う舎人で朴井連雄君えのゐのむらじをきみという者が一つの報告を吉野宮にもたらした。

「私用があって美濃国にまかりましたところ、朝廷から美濃・尾張両国のみこともちに“御陵を造るによって予め人夫を選んでおけよ”と命じられたとか。されば人ごとに兵器を持たせている様子。わたくしが思うに、御陵を造るにはあらで、必ずくせごとがあるかと」

 またこれとは別にある人の告ぐらく、

「朝廷は大津より飛鳥までところどころに斥候を置き、また菟道うぢ橋守にも命じて、殿下の舎人が食料を運ぶのを遮らせておりますぞ」

 大海人皇子はこれをいぶかしみ、事実を探らせると、果たしてその通りだった。そこで曰わく、

「余が位を譲り世を遁れたのは、ただ病を治め身を全うし、平穏に一生を終えたいからだ。しかるに今せんすべなく禍いを受けようとしている。どうしてこのまま身を亡ぼそうか」

 さても相手が先に不当な行動をしたと主張するのは、挙兵に名分を立てるための常套手段である。もし大友皇子をして歴史を書き残させれば、大海人方から先に怪しい動きがあったのだと記すだろう。こういう場合、真実はだいたいにおいて有利な側から手を出したと見てよいだろうか。大海人は勝利への算段を固めつつあったが、韜晦することが得意なこの皇子は、まだそれを身内にも漏らさずにいるらしい。(続く)