読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

天武天皇評伝(十五) 文武王の反撃

史伝

 唐の高宗の咸亨元年、倭の天智天皇の即位三年、この春にはいよいよ新羅と唐の間に緊張したものが表面化してきた。晩春から初夏にかけて、新羅高句麗の反抗軍を支援し、唐側の靺鞨兵と戦って大いに勝利した。

 夏になると、高句麗の遺臣剣牟岑こむむじむが唐に叛き、安舜あんしゅんなる者を君主として立てた。この安というのは、もと高句麗高蔵かうさうの外孫といわれるが、新羅の歴史では安という字で記され、先年新羅に帰順したという、高蔵の庶子とされる安勝あんしょうと同一人物ではないのかどうかよく分からない。新羅の歴史では、牟岑は、唐が高句麗に派遣した役人などを殺害した後、船を浮かべて新羅に向かい、仁川沖の史冶しじ島で安を見つけ、文武王に信書を送ってこう述べたことになっている。

「滅びた国を興し絶えた世を継がせることは、天下の公義でありまして、これは大国でなければお頼みできません。我が国の先王は道を失って滅ぼされ、今わたくしらは国の貴族安勝を得まして、君主として立てたいと思います。どうか藩屏となって永く世々忠を尽くさせてください」

 牟岑がいかに窮迫していたとはいえ、この嘆願は新羅側に都合がよすぎると言うべきかもしれない。中国に伝わった所では、高宗が左監門大将軍の高侃かうかんを遣わして牟岑を撃つと、安舜は牟岑を殺して新羅に逃げたことになっている。要するに旧高句麗王家と何らかのつながりのある人物を文武王が見つけて保護したことは事実らしい。

 七月、文武王は、百済の残衆が反乱を起こそうとしている、という疑いをかけた。この疑惑についての話し合いのため、唐が百済に置いた熊津都督府から、禰軍ねくんという人が文武王の所へ来た。禰軍というのは、百済人で、唐の占領統治に協力し、熊津都督府の司馬つまり軍務長官という役に就いている。文武王は、禰軍がわれを暗殺しようと謀ったとして、留めて帰さず、そのすきに兵を挙げて百済へ攻め入り、多くの城市を占領した。

 八月、文武王は安勝高句麗王として封じた。その冊書に曰く、

新羅王が高句麗の嗣子安勝に命を致す。きみの太祖中牟ちうむ王は、徳を北山に積み、功を南海に立て、威風は青丘に振るい、仁教は玄菟を被った。子孫は相継ぎて、本支とも絶えず、地を開くこと千里、年は八百にならんとした。男建・男産兄弟に至り、禍いは内輪に起こり、争いは血で血を洗い、祖国は破れて滅び、宗廟は潰えてしまった。人々は道に迷い、心のよりどころもない。公は危難を山野に避け、単身を隣国に投じた。難を避けることは晋の文侯に同じく、国を再興することは衛の侯爵に等しい。それ百姓には君主がなければならず、昊天には必ずなさけがある。先王の跡を嗣げるのは、ただ公だけだ。先祖の祭祀は、公でなくて誰がする。謹んで使者を遣わし、ついては公に策命を与えて高句麗王としよう。公は遺民を集めてよく知らしめ、宗家を継承し、永く善隣をなせ。兄弟同然につきあおう。よく慎みたまえよ」

 しかしこれは奇妙なことではないか。王を冊封するというのは、天子たる者の権能であって、一介の国王にすぎない文武王にはできるという原理がない。だから安勝は国際的には全く認知されない高句麗王だった。これは安勝の地位も生命もほとんど新羅王に依存することを意味する。文武王にとって、自分が認める高句麗王にすぎない安勝をどうするかは、その意思一つで決められる。つまり文武王は旧怨ある高句麗の遺民を懐柔するための手駒を得たのだ。

 翌咸亨二年にかけて、新羅軍は百済地方へ侵攻を続け、唐の正規兵とも交戦に及んだ。この時、かつて対高句麗戦で活躍し勇名をはせた薛仁貴せつじんくゐは、前年に吐蕃チベットとの戦争で大敗した責任によって、本来なら死罪の所を特に容赦されて免官となっていた。高宗は仁貴を再び起用して、鶏林道行軍総管に任命し、新羅へ差し向けた。鶏林とは新羅の別名であり、この名は新羅への進軍を意図している。

 秋七月、仁貴は文武王に書を送り、その非を問い道を外れることを惜しみ、行為を改めるように諭した。文武王は報書をしたため、先代からの唐とのよしみを挙げ、百済高句麗との戦争における新羅の功績を述べ、それについて評価が十分でないために国内に不満や危惧があることを訴えながら、だからとて叛意はないとし、直近の状況について伝える中でこう説く。

新羅百済は代々敵対しており、いま百済の形勢を見ると、自立して一国をなしているかのようで、百年の後、わが子孫が呑滅されないともかぎりません。新羅は全く皇帝の臣下となっており、両国が分かれている理由はありません。願わくば一家となり、長く後の憂いをなくしたいものです」

 そして今まで折り合いがつかず事情を申し上げられなかったことを詫び、叛逆とされるのは誤解だとして、あくまで恭順な姿勢を示した。文武王は中国的形式主義をうまく利用して鋭鋒を避けたのだ。唐としても新羅があくまで臣従するというなら攻撃の名分が立たないし、また本当は実力に自信がないので戦わずにすむならそれに越したことはない。

 しかし文武王は欲する所のものをあきらめるつもりはさらさらなかった。高句麗では高侃が率いる唐軍と高句麗遺民の反抗軍との戦いが続いていたし、十月には新羅も唐の船団七十艘ほどを攻撃し、兵船郎将の鉗耳大侯けむじたいこうと士卒百人あまりを捕らえ、水に没した死者は数えられないほどだった。

 さて、天智天皇が病気で床に臥し、もう治らないと思われたのは、ちょうどこの頃のことだった。(続く)