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天武天皇評伝(二十七・完) 後継者たち

 大津おほつ皇子は、天武天皇大田おほた皇女の子で、この年二十四歳というから、天智天皇の称制二年に生まれている。鸕野うの皇后にとっては姉の子で、草壁くさかべ皇子からは一歳下の弟ということになる。草壁と大津の関係は、『日本書紀』からはよく分からない。ただ『万葉集』に載せられた107~110の歌とその題詞によると、大津は草壁の恋人を奪って密通したことがあったと読み取れる。大津は体格がよくてはきはきしていたといわれるが、放蕩でもあったという。天性温和な草壁はこの弟が苦手だったのだろうし、皇后としても我が子のことを思いやれば大津の存在を快しとしなかったのだろう。

 大津皇子謀反のことは、『懐風藻』によれば、新羅人の僧侶行心ぎやうしむが、

「あなたの骨相は、どうも人臣のものではありませんね。下の位に甘んじていると、かえって身を滅ぼすかもしれませんよ」

 と言ってそそのかしたということになっている。川嶋かはしま皇子もこの謀議に加わったが、返り忠をしたとも書いてある。これらは本当かどうか分からない。

 朱鳥元年の秋頃、大津は姉の大来おほく皇女を訪ねて伊勢に行っていたらしい。大来は斎王として伊勢に遣わされていた。これは『万葉集』105・106の歌から読み取れることで、正確にはいつのことかは分からない。しかし天武天皇の死に目に帰らなかったり、もがりをすっぽかすようなことになると、鸕野皇后を怒らせることは間違いない。大津には迂闊なことをして後からくよくよするような所がある。ともかくやまとへ戻らなければならない。大来にはこれが最後の別れになると分かっていた。

 鸕野皇后は大津皇子を除こうと決めていた。決心したことを実行する機敏さと意志の強さは父譲りのものを持っている。表立って闘うよりもむしろ隠謀によって問題を処理することは、この国の伝統と言ってよい。それは確かにより多くの血と涙が流されることを防いでいる。天武天皇の殯が始まって間もない十月二日、皇后は大津の身柄を確保し、共謀者として三十人余りを捕らえた。早くもその翌日、皇后は大津に死を賜った。自刃させたようである。大津の辞世の句、

  百伝ももづたふ 磐余池尓いはれのいけに 鳴鴨乎なくかもを 今日耳見哉けふのみみてや 雲隠去牟くもがくりなむ(百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ)

 これは今の世にもよく知られている。

 このとき大津の妃山辺やまのへ皇女が駆けつけて殉死した。他の者の処分は軽いものだった。

 天武天皇の殯は、およそ二年間にわたって行われた。この間、供養のために無遮大会むしやだいゑを開いたり、遺品の着物を袈裟に直して三百人の僧侶に贈るといったこともした。仏教が日本の成立に及ぼした影響は既に大きい。崩御から二年後の十一月十一日、天武天皇の棺は大内おほうち陵に納められた。今、奈良県高市群明日香村の野口王墓古墳で、天皇陵古墳の比定が確実な数少ない一つである。

 さて鸕野皇后は、殯が明ければ草壁皇子天皇の跡を継がせるつもりだったのか、それともまずは自身が皇位に即いてから譲位するつもりだったのだろうか。空位の状態が続くうち、草壁皇子は皇太子のまま、この翌年の四月十三日に薨去した。死因は伝えられていない。皇后は皇太子の死に当たって、柿本人麻呂かきのもとのひとまろや皇子の舎人らに歌を作らせただけであった。皇太子の死は、この後の鸕野の政治に影を落とさなかった。

 この年の六月二十九日、諸官司に令一部二十二巻が班布された。いわゆる浄御原令で、律はまだ法典の形にはならなかった。

 翌年正月一日、皇后は天皇の位に即いた。これが持統天皇である。『日本書紀』は天武天皇崩御の翌年を持統天皇の元年として年を数える。持統天皇の即位はその四年である。七月五日、高市たけち皇子を太政大臣とした。

 いわゆる藤原京は、当時は新益京しんやくのみやこと呼ばれ、五年十月に地鎮祭が行われた。その実態は近年の発掘によりかなり明らかになってきた。新益京の王宮が藤原宮で、これが京域の中央やや北寄り乃至ほぼ中央に置かれた点は、『周礼』に記された上古の理想的都城を思わせる。それは、

  方九里,旁三門。國中九經九緯,經涂九軌。左祖右社,面朝後市,市朝一夫。

  〔全体の面積は〕方九里、旁(側面)には三つ〔ずつ〕の門。国(城)中は九径九緯(南北九本ずつの街路)、経涂(道幅)は九軌。〔王宮の〕左には祖(宗廟)右には社(社稷)、面(前)には朝(朝庭)後には市(市場)、市・朝は一夫〔ずつの面積を占める〕。

 とあるのである。自然の地形をものともしないような直線的設計は、やはり理想的都城がそのまま現出したかのような観を呈している。周囲に城壁と言えるほどのものはなく、あったとしても土塀くらいのものだった。都市に城壁を巡らせることは古代世界の常識と言ってよく、くどくなるので『周礼』でもことさらには書かない。日本はこの常識の外にあったので、文字通りに読んで城壁などない方が理想に近いと考えたのだろうか。新益京の設計思想はやや変化しながら平城京平安京に受け継がれる。

 八年十二月六日、持統天皇は藤原宮に遷る。十年七月十日、高市皇子薨去した。十一年春、珂瑠かる皇子を立てて皇太子とした。珂瑠皇子は草壁皇子阿倍あへ皇女の子で、阿倍皇女は天智天皇蘇我氏姪娘めひのいらつめの子である。八月一日、持統天皇は位を譲り、珂瑠皇子が皇位に即いたが、これが文武天皇である。この年を文武天皇の元年とする。

 文武天皇の五年三月、元号を建てて大宝元年とした。これが現在まで連続する年号の始まりとなる。同時に新令の施行、官名・位号の改正が行われる。八月には律法典ができ、ここに大宝律令が完成した。十二月、持統太上天皇崩御した。大宝四年五月、改元して慶雲元年とした。慶雲四年六月、文武天皇崩御したが、まだ二十五歳の若さだった。

 七月、阿倍皇女が皇位に即いたが、これが元明天皇である。草壁皇子文武天皇の相次ぐ夭折は、天武天皇の血を引く男子による権威の再生を必要とするこの王朝にとって大きな危機であった。このためにおそらく元明天皇のもとで、史書編纂の方針が、天武天皇の功績を賞賛するよりも、皇統の永続性を強調する方へ、重点を移したもののようである。翌年正月、改元して和銅元年とした。和銅三年三月、平城京に遷都した。和銅五年正月二十八日、太安万侶おほのやすまろが『古事記』を撰上した。

 和銅八年九月、元明天皇は皇女氷高ひたか内親王に譲位したが、これが元正天皇である。和銅八年を改めて霊亀元年とした。霊亀三年十一月に至り、改元して養老元年とした。

 養老四年五月、舎人とねり親王らが『日本書紀』の完成を奏上した。かつて天武天皇が川嶋皇子・忍部おさかべ皇子らに詔して「帝紀及び上古の諸事を記定」させるということを始めてから、約四十年が過ぎていた。近年の学者が深く分析する所によれば、この書は雄略天皇紀から編纂が始められ、それより前の部分が当初はなかった。一方で『古事記』は雄略天皇没後のいざこざを述べたのが主な内容の最後で、そのあとは推古天皇までの簡単な系譜を記すに過ぎない。このあたりに両書が並行して編まれた理由がありそうに思われる。この両書は王権の由緒を証明する思想書としての性格を色濃く持っており、今日から見ると史料としては扱いに注意を要する。しかしこの段階の社会において、単なる資料の集積ではなく、大きな構想に基づく歴史を編みえたことは驚嘆に値する。それは当時の必要に応じて作られた歴史であった。

 養老五年十二月、元明太上天皇崩御した。

 養老八年二月、元正天皇おびと皇子に位を譲るため退位した。首皇子文武天皇宮子みやこ夫人の子で、宮子夫人は藤原不比等ふぢはらのふひとの息女である。和銅七年六月に立てられて皇太子となった時は十四歳だった。禅りを受けて即位したが、これが聖武天皇で、養老八年を改めて神亀元年とし、宮子夫人を尊んで皇太夫人と称した。

 神亀四年閏九月、聖武天皇に皇子が生まれた。これはこの王家の人々にとってこの上ない慶賀だった。皇子の誕生を祝って、十月には恩赦を発布し、また諸々の官人に物を賜い、さらに天下の皇子と同日に出産した者に布・綿・稲が配布された。十一月には朝堂で祝宴を催し、皇子を立てて皇太子とすることも発表した。しかし翌年、皇太子は病気にかかり、九月、いまだこの世のものになりきらぬ齢のままあの世へ還った。

 神亀六年八月、改元して天平元年とし、光明子くゎうみやうし夫人を立てて皇后とした。これが光明皇后である。皇后は皇太夫人の妹で、皇族でない皇后は当時異例だった。かつて仁徳天皇葛城襲津彦の息女を皇后にしたという伝説的故事を引いて、前例のないことではないと聖武天皇は主張しなければならなかった。

 天平十年正月、阿倍内親王を立てて皇太子とした。女性の皇太子はこれが初めてで、もし次に現れれば二例目になる。

 天平二十年四月、元正太上天皇崩御した。

 天平二十一年二月、陸奥百済王敬福くだらのこきしきやうふくより、その土地に黄金を産出したとの報告がもたらされた。これまで日本列島に黄金が出ることは知られていなかった。敬福は百済義慈王の曾孫である。四月、改元してこの年を天平感宝元年とした。ほどなく黄金九百両が届けられたが、これはかねて建造中で形がほぼできあがっていた大盧舎那仏像の鍍金に要する量の約一割であった。

 七月、阿倍皇太子が禅りを受けて皇位に即いたが、これが孝謙天皇である。天平感宝元年を改めて天平勝宝元年とした。四年四月、大仏が完成し、開眼供養の儀式が盛大に催された。その様子は『続日本紀』に「いまだかつてこのように盛んだったことはない」と記されている。

 八年五月、聖武太上天皇崩御し、遺詔により道祖ふなど王が皇太子に立てられた。道祖王新田部にひたべ親王の子で、新田部は天武天皇藤原氏五百重娘いほへのいらつめの子である。九年三月、道祖王は素行が悪く教えても改悛しないとして、皇太子を廃された。四月、大炊おほひ王を立てて皇太子とした。大炊王舎人親王当麻山背たいまのやましろの子で、舎人は天武天皇と新田部皇女の子である。大炊王の妃は故藤原真従の未亡人で、真従の父が仲麻呂である。この立太子には仲麻呂の力があった。

 五月、養老律令の施行が命じられた。これは藤原不比等が養老年中に大宝律令を修正したものだということになっている。日本の律令は、唐の律令をもとに日本の実情に合わせて改めたものだと説明されるが、実際にはまだ至らない所も多い。戸籍の造り方は当時の親族組織に適していないようだし、班田法などはむしろより多く理想的でさえある。養老律令は改正されることなく実際上の制度としては形骸化していくものの、法秩序の規範としては長く武家時代にも意識されていた。ひょっとすると今でも我々の規範意識のうちに律令が生きているのかもしれない。

 八月、改元して天平宝字元年とした。

 天平宝字二年八月、孝謙天皇の譲位を受けて大炊王皇位に即いたが、これが淳仁天皇である。八年九月、孝謙上皇仲麻呂が大逆を謀ったとしてこれを討ち、十月には淳仁天皇も捕らえて廃位し、淡路国に追放する。孝謙上皇が復位し、これを称徳天皇と呼ぶ。翌年一月、改元して天平神護元年とした。天平神護三年八月、改元して神護景雲元年とした。

 神護景雲四年八月、称徳天皇崩御した。この時、血縁から言えば最も皇位に近いのは、聖武天皇の皇女井上いのへ内親王だった。この人はおそらく政治的才能がなかったのだろう。藤原永手らは天皇の遺志だとして、井上内親王の夫白壁しらかべ王を皇太子に擁立した。天皇が死んでから皇太子を立てるというのはおかしいようだが、これには事情がある。天武天皇の時よりこのかた、皇位を継承する資格を認められたのは、まず第一にその血を引く男子だった。天武の血を引く男子で適当な者がない時は、皇后か皇女が皇位に即いた。天智天皇の血を引くだけの者は、言わば二級皇族としての扱いを受け、皇位継承候補になることはこれまでなかった。白壁王は、天智天皇の孫で、施基しき皇子と紀橡姫きのとちひめの子であり、もしにわかに即位すれば不測の事態を招かないとも限らない。

 およそ二ヶ月を空けて、十月、白壁王が位に登って天皇となった。これが光仁天皇である。神護景雲四年を改めて宝亀元年とした。光仁天皇にとっては、井上内親王と結婚し、二人の間に他戸をさべ親王が生まれていたことが資格となった。十一月、井上内親王を立てて皇后とし、二年正月には他戸親王を立てて皇太子とした。やがて他戸親王天武天皇の子孫として皇位を継ぐだろうと思われた。

 ところが宝亀三年、光仁天皇は皇后と皇太子に厭魅大逆の疑いをかけ、その地位を廃して京外に幽閉する。四年正月、光仁天皇山部やまべ親王を立てて皇太子とする。山部親王光仁天皇高野新笠たかののにひがさの子で、高野氏は百済武寧王の子孫を称する渡来系氏族である。六年四月、井上と他戸は同じ日に死んだ。宝亀十二年を改めて天応元年とした。

 天応元年四月、高齢光仁天皇は位を譲り、山部皇太子が即位したが、これが桓武天皇である。十二月、光仁太上天皇崩御した。

 天応二年正月、氷上川継ひかみのかはつぐが反乱を謀ったとして捕らえられた。桓武天皇は喪に入ったばかりで刑を論ずるに忍びぬとして、死罪に当たる所を一等減じて伊豆国の三嶋に配流とした。川継は、天武天皇の孫塩焼しほやき王と聖武天皇の皇女不破ふは内親王の子で、その血統のために桓武天皇の疑いを受けたのに違いない。この年は壬申の乱より百十年を経ている。桓武天皇の血すじは、昔日の大友皇子よりも一層不利であった。しかし、大化以来の法制度的改革と内的発展の結果として、今度は社会の方がようやく変わってきていた。天の福禄は永遠に天武天皇の血統を離れ、暦数は桓武天皇を選んだ。桓武天皇はやがて山背遷都を成功させ、政治を刷新して新しい体制を築くはずだ。桓武天皇は天武朝の正統性を否認し、天智天皇の望みを実現したつもりであった。だがこの時に至ってこれが可能になったのは、天武天皇天智天皇の改革を穏当な発展の路線に引き戻したからなのである。

 天武天皇の日本は百年余りにして歴史の中に閉ざされたが、その期間の短さ故に特異な光彩を放ち、日本人と日本に関わる人々が解き続けなければならない謎をこれからも問いかけるだろう。(了)