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天武天皇評伝(十六) 天智天皇の焦り

 文武王の反撃が開始されて以来、各勢力間の外交も活発に行われた。天智天皇が送った遣唐使は、咸亨元年に高宗に謁見して高句麗の平定を祝賀したという。天智天皇のもとへも、即位四年・咸亨二年になると、新羅側と唐側の両方から複数の使節があり、いずれも状況を少しでも自己の有利に引き寄せようとしていた様子がある。

 この間、内政面では、即位三年二月、初の全国的な戸籍とされる、いわゆる庚午年籍が造られた。全国的というのは、少なくとも関東から九州までの範囲である。天智天皇にとって、この造籍事業の成功は、今まで苦労して進めてきた王権拡張の成果を実感させるものだったに違いない。藤原内大臣を喪った心の痛手も、これで少しは和らいだだろうか。同じ頃、天皇は琵琶湖の東蒲生野かまふの行幸した。蒲生野といえばかつて即位元年に大海人おほしあま皇子や藤原内大臣らを引き連れてともに娯しんだ思い出がある。日本書紀には「宮地を観る」と書かれており、より本格的な都城の建設を企てたものだろう。

 ところが同じ年の四月、倭国やまとのくに斑鳩法隆寺に火災があり、一つの屋舎も残さず焼けるという不吉なことがあった。法隆寺の火災については、その時期に異伝があるが、焼失の事実は発掘によって確かめられている。『日本書紀』の記述を信用すれば、あまたの仏像も焼けただれて、もし現場を看れば恐ろしいありさまだったと想像される。焼け落ちて顔だけになった薬師如来が、相変わらず涼しい眼差しで曇りゆく空を眺めていただろうか。天智天皇の心理にこの事件が響いたものかどうか、どうやらこの頃から、自身の死が近いことを予期して、跡目のことが気がかりになってきたものらしい。

 即位四年の正月五日、天智天皇は、大友おほとも皇子を太政大臣に任命し、蘇我赤兄そがのあかえ左大臣中臣金なかとみのかねを右大臣、蘇我果安そがのはたやす巨勢人こせのひと紀大人きのうし御史大夫に配置するという組閣を行った。大友皇子太政大臣任官については『日本書紀』と『懐風藻』で年が違い、事実としてあったのかどうかも疑えば疑えないこともない。ただ、大友皇子を事実上の皇位継承者として位置付け、生きている内に後継体制を固めておこうとしたのだとすると、この後の事件が理解しやすい。おそらくそうなのだろう。

 しかし大友皇子皇位継承者として指名されたとすれば、大海人皇子にとってそれは大きな懸念を招くことであったろう。それはひとり大海人自身が政治を執る機会を奪われるというだけではない。これまで慣習的に行われてきた倭王家の継承法は、親世代の有資格者が順に王座に就き、それが尽きて初めて次の世代に権利が回ってくるというものだったのである。だから天智天皇がもし崩御すれば、皇位を継ぐのは当然大海人皇子だと世の中では思っている。それに経験や年齢からいっても差があるし、何よりも問題なのは母親の身分が高くないことである。双系主義の傾向が強い社会では、子の資質には父母双方の血が関わると考えられる。だから従来倭王家の跡継ぎとして資格があったのは、王族でなければ蘇我や阿倍といった大貴族の女性が産んだ子である。王権を支える貴族や諸国の豪族が大友皇子を後継者として担いでくれるかどうかということは、当時の常識として当然懸念される。

 それにも関わらず天智天皇大友皇子を事実上の後継者に指名することを敢えてした。なぜだろうか。その理由はいくつか考えられる。

 第一にそれは、王権の強化というこれまで進めてきた改革の帰結として理解できる。従来の倭王家の継承法では、継承者の資格は父母双方の血によって決まる。これは天皇といっても子に皇位を伝える資格の半分しか持っていないことを意味する。もし天皇たる父の子でさえあればよいという、父権主義的な継承法を実現すれば、天皇皇位を伝える資格の全部を持つことになり、その権威は最大限に高められることになる。

 第二には、海外に対する意識がむしろ後世よりも強かった当時のことだから、継承法を東アジアの標準となっていた父子直系継承に合わせることで、わが国の国際的地位の上昇を図ることである。それはとりもなおさず、今や完全な内国となりつつある列島諸国に対する支配力をいっそう増すことにもなる。

 第三には、近親交配を避ける必要である。天智天皇の后妃・子女を見ると、王族の女性との間には子を作っていない。また大貴族の女性との間には成長した男子はない。近親婚はこの列島では昔から特に忌まれはせず、江戸時代になっても俗に「いとこどうしは鴨の味」などと言って、むしろ歓迎されていた。近親婚といっても、いとことの間に子を産むくらいでは、とにかく問題はない。しかし、近親交配に近親交配をかけあわせるということを何代も続けると、しばしば不妊になったり、普通はしないような病気の併発にかかるといったことが起きやすくなるという。いま天智天皇は父母ともに王族であり、その両親がまた王族の間に産まれている。近親婚がよくないという意識は、畜産文化の希薄なこの列島では醸成されなかったとはいえ、知識人である天智天皇は学んでいておかしくないし、近来の亡命人にも快ばれなかったことは想像にかたくない。こうなると昔から王家と関係の深い大貴族の女性もまずい気がしてくる。そこで特に縁のない伊賀国から献上された采女が生んだ大友皇子こそ健康的で頼もしいと思ってかわいがったのだろう。

 しかしこうした理由があるにもせよ、王位継承法を従来の世代平行段式から父子直系式へと早急に変えようとすることは、天智天皇自身との間に深刻な矛盾を生じさせずにはおかない。天智天皇の改革が今まで支持を失わなかったのもその純血のためだし、少しでも政敵となる可能性のある人物をまだそうならない内から抹殺するという、余りに果断な行為もまたそのために許容されてきたのではなかったか。もし死者にも精神があるなら、あの古人大兄王子は果たしてこれを見てどう思うだろうか。ましてや今を生きる人々が大友皇子に従ってくれるという保証はない。

 確かに父系主義への移行は方向性としては正しかったかもしれない。しかし今こうすることは、実際、時代を百年は先取りすることになる。今の社会制度の中で生きている人々にとってこれは困るのだ。みんなで王者として担ぎ上げている天智天皇がそんな急進的なことを敢えてするなら、それが旧来の相続法ではいい目を見られない立場の人々を刺戟して、世の中至る所で相続争いが起きないとは誰に言えるだろうか。社会には変われるときと変われないときとがあり、政治にも成るときと成らないときとがある。改革には進めることのできる最大速度というものがあり、どんな権力者でもそれを超えることはできない。もし超えようとすれば反動を食らって努力をふいにするだけだ。だから改革を進めることは常に妥協とともにあるのだ。

 では天智天皇は妥協の機微というものを全く忘れてしまったのかといえばそうでもない。大友皇子には、大海人皇子額田ぬかた王との間に生まれた十市とをち皇女を嫁に取らせている。大友と十市の間には、幸いにして葛野かどの王という男子が生まれている。だから大友には十市の婿としての資格もあるし、大友を通して葛野という純度の高い王子に帝位を伝えるのだと言えば、保守派を説得する材料になる。大海人に対しては、この孫のためにということで、何とか懐柔できるだろう。いやどうしてもしなければならないのだ。

 天智天皇の決意というのは、おそらくこういったものだっただろう。我が子大友皇子に跡を継がせることで、一生涯をかけた改革の完成とし、それを見て死にたい。しかし天は人の心など意に介さないものか。即位四年の秋頃から、天智天皇は病の床に臥せるようになり、十月にはもう先が短いと思われた。海外では新羅と唐の間に冷たい冬の風が吹き、それは海峡を渡って玄界灘にまで吹き付けてくるようだった。(続く)