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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

天武天皇評伝(十四) 藤原を散らす冬の風

 外交能力は最高の戦力である。ここ数年、倭国の朝廷は唐や高句麗などからの使節をいつも迎えている。丁度平壌城が陥落したかしないかの頃にも、近江の大津宮新羅からの使者金東厳こむとうごむが訪れた。この時は天智天皇の即位元年・唐の高宗の総章元年九月中旬。その下旬、中臣鎌足なかとみのかまたりからは新羅最大の功臣金庾信こむゆしん宛てに船一隻、天智天皇から文武王宛てにも船一隻を贈ることとし、東厳に預けられた。平壌城の陥落は、十月までには確かなこととして大津宮にも伝えられたらしい。東厳は十一月に帰国し、これに際して文武王へ絹五十匹・綿五百斤・革百枚を贈り、東厳ら使節団にもみやげが与えられた。また道守臣麻呂ちもりのおみまろ吉士小鮪きしのをしび新羅へ遣わされた。

 この時期の新羅の政治は極めて戦略的だった。そもそも半島がいつも不安定で紛争が多かったのは、この地域に三ヶ国が割拠し、互いに利害を争う所があったからである。今、百済高句麗は滅んだが、そこを唐が占領したのでは問題の解決にならない。ことの勢いは、新羅も滅ぶか、さもなくば唐を追い出すかに帰着する。文武王には早くからこのことが分かっていたに違いない。

 新羅が唐から離反する直接のきっかけは、対高句麗戦後の論功行賞にあった。唐は新羅の貢献を十分に評価しなかっただけでなく、行軍中の若干の行き違いによって新羅を問責する動きさえ見せた。これは唐の立場としては、法の正しい適用にすぎないとも言える。かつてはあの劉仁軌りうじんくゐさえ同様の理由で罷免されたことがあるし、今回の戦争でも劉仁願りうじんぐゑんが流刑に処されている。しかし文武王としてはこれは承服できない。またしかし、文武王はここで単純に憤りに任せてむやみな反抗はしない。

 唐の占領統治はうまくいかなかった。総章二年二月、もと高句麗高蔵かうさうの庶子、安勝あんしょうが、四千戸あまりの人々を率いて、新羅に身を投じた。文武王はこれを受け入れて保護した。高句麗の遺民には離反する者が多く、唐は騒乱を防ぐために三万八千戸もの住民を江州・淮州の南や山南・京西諸州の空き地に移住させる措置をとらなければならなかった。

 また、かつて百済鬼室福信くゐしちふくしんら反抗軍が鎮圧された後、高宗の勅命により、熊津うしん(こむなり)において劉仁願が立ち会い、もと王子の扶余隆ふよりゅうと文武王は、白馬を犠牲にして血をすすって誓い、領地の境界を画定して互いに侵さないことを約束した。しかし文武王の主張によると、総章元年、百済側からこれを破る動きがあり、国境の標識を動かし、新羅側の田地や奴婢を侵取し、百姓を誘引したりした。またこの頃、唐が軍船を修理し、それは倭国を征伐するためだとして、その実は新羅を打とうとしているのだという噂がたったという。文武王は唐との交渉を絶やさず形式的には恭順を示す一方、百済地方へ進出を始める。

 軍事力とは軍隊や兵士に関することだけではない。政治力、中でも外交能力は戦争の行方を左右する決定的要素の一つである。文武王は巧みな外交を展開して政治力の高さを発揮しはじめ、唐にとってにわかに新しい脅威としての姿を現してきた。こうした不穏な国際情勢の中にあって、時ならぬ風があたら咲きごろの花を吹き散らすように、天は一人の希有な人物を召そうとしていた。

 中臣鎌足が二度と癒えることのない病を患って床に伏したのは、この晩秋のことであったらしい。即位二年冬十月十日、天智天皇は親ら鎌足の私邸を見舞い、天帝に命を請うて効を求めた。しかし祈誓の甲斐なく、病はいよいよ重かった。そこで詔して曰わく、

「天の道理は仁を輔けるというが、それは嘘なのであろうか。積善の家には余慶ありというのに、どうして効験がないのであろう。余にできることがあれば、何でも申してみよ」

 鎌足の答えて曰く、

「臣はもういけませぬ。何を申し上げることがござりましょう。ただ死んだ後は、どうか厚く葬らないでくだされよ。生きていてもこの事態の役には立ちませぬのに、死んでさえ百姓に苦労をかけることはなりませぬぞ」

 言い終えると眠ってまた言葉を継ぐことがなかった。

 十五日、天智天皇大海人おほしあま皇子を鎌足の家に遣わし、詔を伝えて曰わく、

「はるかに前代を思うに、執政の臣は、時々世々、一二のみではないのだ。しかれども労を計り能をくらぶるに、だれも公にならぶに足りない。ただ朕が汝の身を寵するのみではないのだ。わが後嗣ぎの帝王とも、実に子孫までも恵むこと、忘れず遺さず、広く厚く酬い答えよう。この頃は病が重いと聞き、朕がこころはいよいよいたむ。汝が得るべき任になそう」

 かさねて大織の冠と大臣の位を授け、姓を賜って藤原ふぢはら氏とした。これにより鎌足藤原内大臣ふぢはらのうちつおほおみと通称される。

 十六日、藤原鎌足は再び日の光を見ることはなかった。時に五十六歳だった。天智天皇はこれにいたく慟哭し、朝堂を閉ざすこと九日に及んだ。そしてこの十二支一つ分ほど年上の功臣の死にあたって、自身の命があとどれだけあるかを思わないではなかっただろう。

 十九日、天皇藤原鎌足の家をおとない、恩詔を下して悲痛を述べ功績を讃えた。

「内大臣は思いがけず忽然と殂去した。どうして天よ、我が君子をほろぼしたのか。痛きかな悲しきかな、朕を棄てて遠く逝くこと。怪しきかな惜しきかな、朕に乖き永く離れること。別れを送る言葉も届かないとはこのことだ。
 日夜相携えて伴をなし、ことを任せて心配なく、言動に間違いはなかった。国家のことは、大小となくともに決し、八方ともやすく静まり、万民みなうれうことがない。これほどの讃辞を贈ってもまだ足りないのだ。ああそれなのにどうして。公が朝堂に説を献じれば、民には自ずから利となる。内裏に意見を交わせば、必ず朕と合う。これこそは千載一遇というものだ。周の文王が太公望を任じ、漢の高祖が張良を得たということも、どうしてわれら二人におよぼう。これだから朝晩手を握り、愛でて飽かず、出入りするに車を同じくして、遊んでも礼があった。
 大河をまだ渡りきらないのに、舟楫ふなかじは沈んでしまい、やっと大家の基をすえたばかりなのに、棟梁はかく折れてしまった。誰とともに国を統べ、誰とともに民を治めよう。この念に至るごとに、痛切なることいよいよ身にこたえる。
 ただ“無上の大聖でも避けられない”と聞き、それでわずかに痛みを慰め、やや安穏を得た。もし死者にも精神があり、まことに先帝と皇后にまみえ奉ることができたなら、聞かせよ、“我が先帝陛下は、平生の日、淡海あふみと平浦の宮地を遊覧されたこと、今も昔のままです”と。朕はこのものを見るごとに、見渡して心を傷めないということはないのだ。一歩も忘れず、一言も遺さず、仰いでは聖徳を望み、伏しては係恋を深くする。
 加えて、出家して仏に帰するには、必ず法具がある。それで純金の香炉を賜う。この香炉を持って、汝の誓願のとおり、観音菩薩くゎんおんぼさちの後より、兜率陀天とそちだてんの上まで、日々夜々、弥勒みろくの妙説を聴かせ、朝々夕々、真如しんにょの法輪を転じよう」

 鎌足は智謀の人、稀代の先覚者であって、しかもつねに主君の陰にあってこれに功を取らせた。そして、氏族の勢力を代表して政治に参与するのではなく、個人の才覚によって抜擢され活躍するという、この列島にあっては全く新しい人間の型を創った。しかるにその子孫が大貴族となり層をなして朝廷をほとんど占有したのは、決してこの人物の望んだことではなかっただろう。

 それにしても、大織冠を授けたときは、天皇は自身で行かず、弟に訪わせたというのは、何か深い意味があるのだろうか。やはり鎌足と大海人の間にはまだ確執があり、鎌足をはさんだ兄弟のわだかまりを解消する最後の機会となることを望んだのではないだろうか。もし弟がこの兄と心を一つにしてくれなければ、兄にとっては恐るべき結果が待っているかもしれないのだ。

 同じ冬、高祖・太宗・高宗の三代に仕えた唐初最大の労将、李勣りせきが病気にかかって容態は重かった。高宗は李家の子弟で都外にある者をことごとく召し帰して病床に付かせた。はじめ高宗と皇太子が薬を賜うと、勣はこれを取って服用していたが、家の者が医者を呼ぼうとすると、門に入れることを許さなかった。

「わしはもとただの田夫だのに、たまたま名君に用いられ、位は三公に到り、歳は八十を超えたこと、もう分を過ぎておるのじゃ。命は天に係るもの、どうして医術によって活を求めることがあろう」

 弟のひつが顔を見せると、

「今日は少し具合がよい。みなで酒でも呑みたいものじゃ」

 と語り、家族を集めてともに楽しんだが、遺言をするとまた伏して再び物を言うことがなかった。

 時代の節目に天は不思議と偉人の命を終えさせることがある。冬の風は飂々と空を吹き渡り、春の芽はまだ蕾を養っていた。(続く)