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天武天皇評伝(七) 因果応報やみがたし

 唐の太宗がその崩御につながる病に襲われつつあった頃、倭国では左大臣阿倍倉梯麻呂あへのくらはしまろが卒去した。倉梯麻呂の死については特に伝えられていることはない。大化五年三月十七日のことだった。この頃までに、改革の方向性を示す法令の発布は、その実効性は別としても、一通り完了していた。そして蘇我大臣家を滅ぼしたことによる影響も、心配したほどではなかったと感じられてきていたようだ。

 三月二十四日、蘇我臣日向そがのおみひむかなる者が、

「私の腹違いの兄めは、太子が浜で遊ぶのを伺って、殺害しようと企んでおります。いまにそうするでしょう」

 と中大兄なかのおほえに告発してきた。

 日向は一名を身刺むざしといい、右大臣蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかはのまろの弟である。かつて石川麻呂が長女を中大兄に嫁がせようとした時、日向はその娘を連れ去って姦通したということがあった。思慮のない小人物だったのだろう。どうしてこんな日向の言うことを信じて、入鹿殺し以来の協力者である石川麻呂を疑うことがあるだろうか。ところが日本書紀には、中大兄はこれを信じたと書いてある。どうやら蘇我派が再結集する可能性を最終的に絶つことを狙った中大兄と中臣鎌足の謀りごとに違いない。

 即日、孝徳王の名において、大伴狛連おほとものこまのむらじ三国麻呂みくにのまろのきみ穗積噛臣ほづみのくひのおみらが石川麻呂の所へ遣わされ、謀反の虚実を問うた。石川麻呂の応えて曰く、

「問われたことの答えは、私が直に王のみもとへ申し上げよう」

 中大兄には相手の言い分を聞くつもりはない。もう殺すことは決めているからだ。同じ問答をもう一度くりかえした。石川麻呂は入鹿殺しの謀議に加わった仲だから、こちらも相手の考えはもう分かっている。孝徳王は兵を興し、石川麻呂の家を囲もうとした。家というのは遷都に従って難波に設けた住居である。石川麻呂は二人の子を連れて倭国やまとのくにに逃げた。日本書紀倭国と書くのは後の大和国の範囲である。この時、石川麻呂の長男興志こごしは、寺院の造営をするため、山田の本宅に住んでいた。今の奈良県桜井市山田に寺址がある。興志は父を迎えてともに山田寺に入った。

 興志は無実の罪で殺されるのを待つに忍びず、

「こちらから進み出て、来兵を迎え撃ちましょうよ」

 と請うたが、石川麻呂は許さなかった。蘇我氏が官軍を進んで迎え撃てるほどの兵力をこの時期にも保有していたとするとこの発言は注目に値する。興志はなお士卒を集めて変事に備えたという。

 翌日、石川麻呂は興志に語りかけて曰く「おまえは身がしいかな」。興志答えて「しみもしません」。難波からは大伴狛と蘇我身刺を将領とする追手が迫っている。石川麻呂はかさねて興志と山田寺の僧侶ら数十人に説き聞かせ、

「さあ、人臣たる者、どうして君主に逆らえようか。おまえも父に孝たることを失うのではないぞ。そもそもこの伽藍は、自分のために造るのではない。王のおんために作るのだ。今わしは身刺に讒言され、横暴に殺されようとしている。どうにか望むことは、黄泉へも忠誠を懐いて罷りたい。ここまで来たのは、最期を安らかに遂げるためなのだ。」

 言い終えて、金堂の戸を開き、仏を仰ぎ誓いを発して曰く、

「輪廻転生するとも、君王を怨むことなし」

 石川麻呂は自ら首を絞めて死に、妻子の殉死する者が八人あった。

 身刺らが丹比まで来たとき、石川麻呂はもう三男一女ともろともに自殺して果てたと報せが届いたので、そこから引き返した。

 二十六日。石川麻呂の妻子や従者で自殺する者がさらに数を加えた。身刺らは兵を率いて山田寺を囲み、物部二田造塩もののべのふつたのみやつこしほという猛者を呼んで石川麻呂の首を切らせた。塩は太刀を抜いて遺骸を刺して掲げ、えいや、おう! と叫びつつこれを斬った。

 三十日、石川麻呂に連坐して、田口臣筑紫たぐちのおみつくし耳梨道徳みみなしのどうとこ高田醜雄たかたのしこを額田部湯坐連ぬかたべのゆゑのむらじ某・秦吾寺はだのあてらら二十三人が死刑、他に十五人が流刑に処された。

 こののち、石川麻呂の資産を没収するために使者を遣わしたところ、蔵書の中で好い書物には「太子の書」、財宝の中で貴重なものには「太子の物」と札が付けてあった。死者が還ってこのことを報告すると、中大兄ははじめて石川麻呂の冤罪を知り、追って悔い恥じることを生し、哀しみ歎くこと休み難し、日本書紀にはそう書いてあるからそのまま紹介する。

 そこで身刺は築紫太宰帥ちくしのおほみこともちのかみに任じられたが、世の人々は、

「これは穏流しのびながしというものだろうか」

 と噂した。実は栄転を装った左遷なんだということらしい。ともかくも蝦夷・入鹿なきあとの蘇我氏の領袖だった石川麻呂は死に、その弟の身刺も中央政界から遠ざけられた。

 ところでこの事件は、中大兄にとってはうまうまと目的を果たしたというだけでは済まされなかった。

 中大兄は石川麻呂の息女造媛みやつこひめこと遠智娘をちのいらつめを側室に入れていた。造媛は父が殺されたことを聞いて以来、ひどく心を痛め怨みを抱いたが、どうするすべもなかった。二田塩が父の首を切り落としたというので、塩ということばを聞くことさえ憎み、このため近侍の者は塩というのを避けて堅塩きたしといったほどだった。造媛はついに心痛のつらさから病気になって死んでしまった。

 造媛の死はさすがに改革派の闘士も心に堪えたのか、中大兄は哀しみに打たれて深く泣き濡れたという。ここに野中川原史満のなかのかはらのふびとみつが二首の歌を進上した。その歌に曰く、

 耶麻鵝播爾やまがはに 烏志賦拕都威底をしふたつゐて 陀虞毘預倶たぐひよく 陀虞陛屡伊慕乎たぐへるいもを 多例柯威爾鷄武たれかゐにけむ(山川に 鴛二つ居て 偶ひよく 偶へる妹を 誰か率にけむ)

 模騰渠等爾もとごとに 婆那播左該騰摸はなはさけども 那爾騰柯母なにとかも 于都倶之伊母我つくしいもが 磨陀左枳涅渠農またさきでこぬ(本ごとに 花は咲けども 何とかも 愛くし妹が また咲き出来ぬ)

 中大兄はこの歌を嘉して満に褒美を授けた。あるいはこんな情を見せることも政治的演技なのだろうか。この歌にふさわしいほどこの中大兄が造媛を気にかけていたなら、こんなことにはならなかったはずなのだ。因果の連鎖がやみがたいように、中大兄がたちどまることもなかった。(続く)