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海東の護法天子――推古天皇(前編)

 推古天皇が即位したのは、大臣おほおみ蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくねによる崇峻天皇暗殺の後を受けた、隋の開皇十二年(592)に当たる歳末で、南朝の陳が滅ぼされてから約四年後のことだった。推古天皇の母は堅塩媛きたしひめ、堅塩媛の父は蘇我稲目宿禰そがのいなめのすくねで、稲目の息男が馬子である。

 この頃、長く続いた大型古墳の造営は下火になり、入れ替わるように仏教が現れてきた。百済の聖王(在位523~554)が仏像や経典をよこしてこれを勧めてきたのは、《日本書紀》では欽明天皇の十三年のことにしてある。聖王の代、百済高句麗の侵攻をたびたび受け、新羅も力をつけて脅威となっていた。また、南朝梁の太清三年(549)、朝貢に出した使節が侯景の乱に遭遇して帝都建康の荒廃を目の当たりにするという事件もあった。

 梁の武帝(在位502~549)の治世は、晩年こそ乱賊侯景に荒らされたが、自ら捨身するほど入れ込んだこの皇帝の庇護のもと、仏教が大いに栄え、寺院や僧侶も増えた。それは後に唐代の杜牧が《江南春》を作り

千里鶯啼綠映紅 千里はるばるうぐいすこのははなかげ

水村山郭酒旗風 水村かわばた山郭やまべ酒旗さかばうたい

南朝四百八十寺 南朝四百八十寺なんちょうしひゃくはっしんじ

多少樓臺煙雨中 多少いくばく楼臺たかどのあるか煙雨きりさめうち

 と詩ったのでその盛時が偲ばれる。この余恵が倭国にももたらされたのである。

 欽明は仏教を礼拝することについて群臣に諮問し、物部大連尾輿もののべのおほむらじをこし中臣連鎌子なかとみのむらじかまこが異議を述べたのに対して、稲目が擁護して仏像などを託されたと伝えられている。このときの稲目の言葉は、

西蕃諸國一皆禮之。豐秋日本豈獨背也。

西蕃諸国はひとしく皆これをうやまっております。豊秋日本とよあきづやまとがどうして独り背けましょうか。

 というので、蘇我氏は進取の国際派であって、物部・中臣両氏はここでは守旧派を代表している。反対の理由は、「天地社稷百八十神」を恒に祭ることが王権の基礎なので、それを改めれば「国神之怒」を招くだろうというのにあった。両氏が守ろうとした旧来の祭祀は、古墳に象徴されるものであったろう。

 日本式のいわゆる古墳は、後の五畿七道の広い範囲に多数が分布し、一部は韓国南部にも存在する。この古墳が分布する全体に、その大きさや様式を規制するような統一的な権力が及ぼされていたとは考えられない。もしそんな体制があったなら、古墳の数はずっと少なかっただろう。むしろ各地の有力者が独立性を保っていたからこそ、自由に流行の墓制を取り入れたのである。こんな時代の信仰からは統一の思想的根拠が得られない。

 稲目の仏教擁護は馬子に受け継がれるが、欽明の次の敏達のときにもこれを巡って対立があり、まだ蘇我氏の私祀にとどまっていた。推古天皇の治世、馬子はあまり表立った活動を見せないが、大臣としての地位を保つ。仏教はこの時期に始めて興隆する。

 この仏教は単なる信仰ではなく、種々の学問や美術を伴う総合文化だった。しかも中国社会は全く中世の段階に達していたので、古代の日本に中世の文化が仏教の形をしてやってきたのだ。その思想は銅像・絵画や建築の形で具体的に表現されるから、古代的社会に属する人々にも威厳が感じられるものだった。古代の段階では、質にこだわるほどの文化の下積みがないので、競争になるととにかく大きさや量で差をつけようとしがちだ。それは古墳そのものや銅鏡状の副葬品などによく表れている。中世の文化は、小さくても品質の高いものを好むので、その落差は歴然としていた。

 欽明天皇が初めて仏像を見たとき、

西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。

西蕃の献じた仏の相貌は端厳としていて、全く未だ曽て看たことがない。

 と歎じたというのも、もっともなことである。

 推古天皇は、その元年(593)、かねて飛鳥に建設中の法興寺に仏舎利を安置したのを皮切りに、二年には三宝興隆の詔を発し、三年には高句麗百済両国から高僧を招聘するなど、仏教振興の姿勢を示す。これは新しい外交政策を打ち出すための準備ともなった。外交面では、任那の権益を巡って新羅との間にともすると衝突を起こしそうな関係が続いており、書紀によると八年に改めて緊張が高まる事件があった。この年は随の開皇二十年(600)である。

 随の高祖文帝(在位581~604)の開皇二十年、《隋書》及び《北史》によると、倭王が初めて遣使してみかどいたった。文帝の下問に対して、倭王の使者が「倭王は天を兄とし日を弟とする」云々と答えたことが不興を買ったととれるように史書には記されている。この前後のことは前にも述べたから詳しくは繰り返さない。

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 この所には、倭王から隋朝に対して何か要求があったのかどうかには触れられていない。また《日本書紀》には、この遣使のあったことそのものが載せられていない。しかしよく考えてみると、南朝宋への遣使も載せていないので、冊封されることを目的としたものは載せないというのが書紀編集上取捨選択の方針だったのであり、この時はまだ倭王としての授爵を求めていたと推測してよいかもしれない。そうだとすれば、加えて、かつて倭王武が認められた新羅加羅などにおける軍事指揮権の再確認も要求しなかったとは考えにくい。しかし新羅はすでに加羅諸国を実質的に支配していたし、開皇十四年には上開府・楽浪郡公・新羅王を与えられている。また、南方に偏していた宋とは違い、隋は高句麗と接しており、朝鮮・韓国方面の情勢は切実な問題である。そのため倭王の要求を過分なものとして却けたというのが、「此れ太だ義理無し」とされたことの真相ではないだろうか。

 同じ年の十二月、文帝は仏教と道教を保護する詔を発する。これより前、北周武帝(在位560~578)は儒教を偏重して仏・道に厳しく当たったが、仏法尊重はすでに東洋の広い範囲で国際的常識になっているし、在来の思想である道教に配慮することも欠かせない。もちろん儒学も引き続き奨励されている。倭王の使者はこうした状況を見聞して帰ったのである。以下、次回に続く。