古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

神功皇后と海の権益

《日本書紀》によると、晩年の景行天皇は、纏向まきむくの日代宮ひしろのみやから志賀の高穴穂宮たかあなほのみやに移って、そこで崩御までの三年を過ごした。《古事記》の方にはこのことは見えないが、次の成務天皇が高穴穂宮で天下を治めたとある。穴穂と…

建国の王者―崇神天皇の時代

古代史の発展段階における領土国家時代は、後世の観念から見ても国らしい国ができてくる時期である。都市国家時代には、今の小売店と商圏の関係のような、古代都市とその勢力圏があるだけだったが、領土国家は領土と国境を持つ。かといってこれをあまり近代…

一字の考察「餅」

「餅《へい》」という漢字を日本では「モチ」に当てている。おモチは米を粒のまま搗いて作るから、穀物の粒食の一種と言える。ところが現代中国語の餅《ビン》は麺粉《こむぎこ》を捏ねて作るものを指す。これは昔からそうで、後漢の劉熙が編んだ《釈名》に …

極端な追尊の歴史 ― 日本と北魏

日本の“天皇”号がいつ創案され制度化されたかについては明確な記録がない。随・唐と比肩しようとした者が相手と同じく“天子”かつ“皇帝”を称したとすれば理解しやすいが、なぜ“天皇”が使われることになったかもよく分からない。五胡十六国などでしばしば用い…

日本史上の“都市国家時代”

証明することは難しく、仮定することは易しい。仮定はいくらでも任意に置いて構わないが、仮定の数が増えるだけ仮説の質は落ちることを覚悟しなくてはならない。しかしわずかの仮定によって多くの事実をうまく説明できるときは、それを置くことをためらう必…

日本書紀の冒頭を読む

《日本書紀》の冒頭は天地創生の説話から始まる。 古天地未剖,陰陽不分,渾沌如鷄子,溟涬而含牙。及其清陽者薄靡而爲天,重濁者淹滯而爲地,精妙之合搏易,重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後神聖生其中焉。 古には天地が未だ剖《さ》けず、陰陽は分か…

日本書紀の“革命思想”

天武天皇が即位した頃(673)、唐は高宗の咸亨年間で、実権は武皇后の手にあった。隋唐統一の安定期は、安史の乱が玄宗の天宝十四年(755)に起きているから、その巨大な印象に反して余り長くない。だがこの頃は、政界の確執はともかく、内政はわりあい平穏…

日本書紀を読む

《日本書紀》は日本における古代帝国的段階の成立までを通観できる唯一の古籍である。その歴史段階上の意義としては《史記》と比較すべきものだが、その性格は大きく異なっている。それが単なる過去の出来事の集積でなくて企図された編集物であるという点は…

卑弥呼の死と都市国家時代の終焉

魏の少帝の正始六年(245)、天子から倭の大夫難升米に黄幢を賜い、帯方郡に付託して授けさせることになった。ところがたまたま帯方郡と諸韓国の間に紛争があり、帯方太守の弓遵は戦死した。この前後のことは、“魏志倭人伝”に 其六年,詔賜倭難升米黃幢,付…

卑弥呼と東洋的古代王権

(承前) kodakana.hatenablog.jp 漢末、倭人諸国間の秩序が乱れ、やがて一人の女子を「共立」して王とした。ここの共の字は《太平御覧》の引用にはなく、どちらが正しいか分からない。しかしもし元から共立であったとすると、「自立」との対比から卑弥呼の…

女王卑弥呼と乃の字の事情

女王の都する所・邪馬台国を訪れた梯儁は、金印や賜物を引き渡すという使命を果たすだけでなく、女王卑弥呼の政治や来歴について調査することも怠りなかった。梯儁はどんな眼でそれを観ただろうか。 そもそも中国の歴史は、古代帝国的段階の前半までは、万事…

「当在会稽東冶之東」を読み解く

《魏志・東夷伝》には、帯方郡からの道のりの他に、邪馬台国の位置に関係する情報がいくつかある。その一つは、 計其道里,當在會稽、東冶之東。 というものである。やや意味を取りにくい書き方で、なぜここに会稽の東冶を持ち出す必要があるのかも分かりに…

邪馬台国への針路

ここまでの里数・方位・日数についての検討で、邪馬台国への道をたどる一応の準備ができたと思う。出発地は、帯方郡であり、その正確な位置はともかく、ひとまず今のソウル付近の河口で船に乗ったと想定しておく。現行本《魏志・東夷伝》によってその経路を…

「泛海南去三佛齊五日程」

我々は張政や梯儁の跡を追って邪馬台国にたどりつきたい。そこで、これまでに里数や方位について検討してきた。ところが《魏志・東夷伝》では肝心のところに里数がない。末廬国に上陸後、伊都国・奴国・不弥国を経て、 南至投馬國,水行二十日 そして 南至邪…

古代人の方位観を捉えるために

《魏志・東夷伝》には、帯方郡から邪馬台国までの行程が示されており、そこには「又南渡一海千餘里」とか「東南陸行五百里」のように多く方位を付けてある。これを信じればその順路をたどることができそうだが、そのためにはまず方位観の発達について考えて…

《魏志・東夷伝》による面積と距離の認知

《魏志・東夷伝》によると、魏から倭への公式の使節は、正始元年(240)の梯儁と同八年の張政の二回の記録がある。実際にはもっと多くの往来があったかと思われるが、この二回は、詔書を奉じており、天子の命によって行われたために、特に史乗に残されたので…

《魏志・東夷伝》における倭韓両地の境界

およそ歴史上の謎というものには二種類ある。一つは史実そのものに説明がつきにくいというものであり、もう一つは史料の読み方を誤ったためにありもしない謎を発見してしまうというものだ。そして私の考えでは、この謎というもののほとんどは後者ではないか…

歴史時代の始めに―史料を分析して論資とすること

古代日本に関する事件が、同時代的記録によって、絶対年代付きで知られる初めは、《魏志・東夷伝》の景初二年六月、倭の女王が大夫の難升米を帯方郡に遣わして、天子への朝献を申請した、という記事である。ただし、ここの景初二年は三年の誤写とするのが定…

南北朝時代の倭国(後編)

(承前)南朝宋の元嘉二十年(443)、倭王済は遣使奉献し、五年前に珍が受けた安東将軍・倭国王の爵号を引き継ぐことを認められた。これに続く動きは、二十八年、そして大明四・六年に記録されている。永初から大明まで、何らかの事情で遅れることや記録の漏…

南北朝時代の倭国(前編)

五世紀の南朝宋・北朝魏の対立から六世紀末の隋の統一までの約一七〇年間を普通に中国史の南北朝時代と呼んでいる。これを中国史の南北朝時代とはいっても、その状況は国際的なものであり、周辺諸国をも巻きこむものだった。だから二十世紀後半の日本を「冷…

弥生文化式都市国家論

かつては日本の都市は飛鳥・奈良時代の政治的計画都市に始まるとして誰もあやしまなかった。氏族制度の社会から都市国家の段階を経ずに領土国家ないし古代帝国的段階へ進んだと考えられていた。しかし弥生文化時代のいわゆる環壕集落の実態がだんだん明らか…

古代における歴史学的年代観への展望

ある時代について、その時代に対する歴史学的年代観が立たない、ということは、その時代は歴史学的には扱えないということを意味する。ジュラ紀には歴史学的年代観は立たない。縄紋時代もその点では恐竜時代と変わらない。遺跡があっても史料がないという時…

古代史を読む

日本語に対する計量的調査は、二十世紀に生長した研究領域の一つである。 日本語の系統に関しては未だ充分な証明が与えられてはいない。隣りあう韓国語の間でさえ、その隔たりは、英語とドイツ語やフランス語の距離では比較にならず、印欧祖語が分岐を始めた…

Test

その四年(二四三)、倭王は復た大夫の伊声耆イシェンギ・掖邪狗イェクヤクら八人を遣使し、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木򠐂ふ・短弓矢を献上した。掖邪狗らは壱ひとしく率善中郎将の印綬を拝領した。

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