月令七十二候集解(正月~六月)
※元の呉澄による二十四節気七十二候の解説/試訳/()内は訳注/意味が取りにくい所はふんわり訳/字音のふりがなは全て漢音
それ七十二候は、呂不韋が『呂氏春秋』に載せ、漢の儒者は『礼記』「月令」に入れて、六経と同じく不朽に伝えられている。北魏はこれを暦に載せて、人民がみな知って節気の秩序を確かめるようにした。さればその禽獣草木は、多くが北方に出るものだ。だいたい漢以前の儒者は、みな長江より北の者である。だから江南の老師や宿儒には正確に識ることが難しい。陳澔の註などはいわずもがな多く謬説をなしているし、康成や穎達にしても誤った所がある。だからわたしは広く諸家の解や『説文』『埤雅』などの書に取り、しかもまた農民牧夫にたずねて、正解を得るに近づいた。そこで二十四気をそろえて稿にまとめ、識者の鑑別をまつものである。
○立春
立春は、正月の節気である。「立」はなり始めをいう。五行の気の往く者は過ぎ来る者はこれに続く。また春木の気が入り始めるので、これを「立」というのである。立夏・立秋・立冬も同じ。
東風解凍(春の風が氷を溶かす) 冬に凍結したものは、春風にあえば解けちる。「春風」ではなく「東風」というが、『呂氏春秋』にこうある。東方は木に属し、木は火の母である。火の気は温かい。それで東風解凍という。
蟄虫始振(籠もれる虫が動き始める) 「蟄」とは蔵れることをいう。「振」は動くこと。穴にこもった虫が、春の気が入ることで、蘇生して動くのである。鮑氏の曰く、動いても未だ出でず、二月に至り、ようやくはっとして走るのだと。
魚陟負氷(魚が浮いて氷を負う) 「陟」は昇ること。魚は寒さの盛んなときには水底に伏して暖をとるが、正月になって陽気がさせば、浮かび上がって氷に接する。これを「負」という。
○雨水
雨〔去声〕水は正月の中気。天一(易学の用語)は水より生まれ、春の始まりは木に属するが、木より生まれる者は、必ず水である(五行相生説をいう)。それで立春の後には雨水が続き、かつまた東風が全く氷を溶かしたれば、散って雨水となるのである。
獺祭魚(獺が魚を供える) 獺は、別名を水狗といい、魚を食う者である。祭魚とは、魚を取って天に祭ることをいう。いわゆる「犲や獺も本に報いるを知る」というやつで、歳の始まりに魚が浮かび上がれば、獺は取り初めをして祭る。徐氏の曰く、獺の祭りは円に鋪く、円は水の象である。犲の祭りは方に鋪く、方は金の象である、と。
候鴈北〔『月令』『漢書』は鴻鴈北に作る〕(候鴈が北する) 鴈は時を知る鳥で、熱ければ長城の北に帰り、寒ければ長江の南に来る。砂漠こそその家である。初春の陽気が全く達すると、候鴈は彭蠡(湖の名)より北へ向かう。
草木萌動(草木が萌え動く) 天地の気が交わって泰然とし、そのため草木の萌生が発動するのである。
○驚蟄
驚蟄は二月の節気である。『夏小正』正月の項に「啓蟄、蟄より発するを言う」とある。万物は震動から出て、震動は雷をなす。それで驚蟄という。巣穴の虫がはっとして走り出ることである。
桃始華〔『呂氏春秋』は桃李華に作る〕(桃が咲き始める) 桃は果物の名で、花の色は紅、この月に開き始める。
倉庚鳴(倉庚が鳴く) 庚は鶊にも作り、黄鸝(チョウセンウグイス)のこと。『詩』に「有鳴倉庚」というのがこれである。『章亀経』に曰く、倉は清であり、庚は新である。春陽清新の気に感じて初めて出るのでこの名がある、と。その名はとりわけ多く、『詩』には黄鳥といい、斉人は搏黍、また黄袍とも呼び、僧家は金衣公子とし、その色は黒に黄であり、また鵹黄とも呼ぶ。諺に黄栗留、黄鶯鶯児などいうのも同じである。
鷹化為鳩(鷹が化して鳩になる) 鷹は猛鳥であり、鷂・鸇(ハイタカやハヤブサなど)の類である。鳩は今の布穀。『章亀経』に曰く、仲春の時、木々が生い茂ると、くちばしが柔らかくなり、鳥を捕ることができず、目をカッとさせて飢えを忍びたわけのようになって化する、それで名を鳲鳩という、と。『王制』に曰く、鳩が化して鷹となるのは、秋の時なり、と。ここで「鷹が化して鳩になる」と言うのは、春の時である。粛殺の気が盛んになると、猛禽にはそれに感じて変じるのだ。孔氏の曰く、「化」とは反復して旧の形に帰るものをいう、と。だから鷹が化して鳩となり、鳩が化して鷹となるとは、田鼠が化して鴽となれば、鴽も化して田鼠となるというようなものだ。腐れる草が蛍となる、鴙が蜃となる、爵が蛤となるなどは、みな「化」と言わないのが、再び本の形に復することがないからである。
○春分
春分は、二月の中気である。分は半である。ここは三ヶ月の半ばに当たるので分という。秋分も同義。夏・冬には分と言わないのは、そもそも天地間の二気だからということである。方氏はいう。陽は子に生まれ、午に終わり、卯に至って中分する。故に春をば陽中とし、そして仲月の節は春分とする。正に陰陽が適中し、故に昼夜には長短が無い。
元鳥至(元鳥が至る) 元鳥とは燕である。高誘はいう。春分にして来たり、秋分にして去る、と。
雷乃発声(雷がようやく声を発する) 陰陽は互いに迫って雷を生じるが、ここに至ると、四つの陽気が次第に盛んになるも、まだここに陰気が有り、されば互いに迫ってようやく声を発する。「乃」とは、『韻会』によると、象気の出難きことである。註疏に曰く、「発」は「出」の意味である。
始電(いなびかりが始まる) 「電」は陽気の光である。四つの陽気が盛んになると、気が泄れる時に光が生じる。『歴解』によると、凡て声は陽であり、光も陽である。『易』に、雷電合して章なり、とある。『公羊伝』には、電は雷光これなり、とある。徐氏はいう。雷は陽で電は陰というのは、あたらない。だいたい盛夏にして雷が無い時、電もそうであること、知るべきである。
○清明
清明は三月の節気。『国語』を按じると、時により八つの風が有るというが、暦では清明風が三月の節気を示すだけで、それはこの風が巽(八卦の一つ)に属するからである。万物は巽に斉い、この時になるとみな潔斎して清明となる。
桐始華(桐が咲き始める) 桐は木の名で、三種が有る。華さいて実らない者は白桐という。『爾雅』に「栄桐木」というのがこれである。皮が青くて実を結ぶ者は梧桐といい、または青桐という。『淮南子』の「梧桐断角」というのがこれである。山岡に生え、実が大きくて油が有る者は油桐といい、『毛詩』に「梧桐は山岡に生えず」というのがこれである。今華さき始めるというのは、このなかで白桐のみ。『埤雅』を按じると、桐の木は日・月・閏年を知り、平年には一枝に十二葉を生やすが、閏なれば十三葉になり、天地と気を合わせる者である。今琴瑟を造るには、花さく桐の木を用いるが、これこそ白桐である。
田鼠化為鴽〔音は如〕(田鼠が化してフナシウズラになる) 『爾雅』を按じると、註に曰く、鼫鼠というのは、形・大きさは鼠の如く、頭は兎に似て、尾には毛が有り、青黄色で、好んで田の中に在り粟・豆を食む。これを田鼠という。『本草』『素問』に曰く、鴽は鶉である。鴿に似て小さい。『爾雅』「釈鳥」に曰く、鴽は鴾母(ミフウズラ)である。郭註に、䳺(ウズラの類)のことで、青州の人は鴾母と呼ぶ、とある。鮑氏はいう。鼠は陰類であり、鴽は陽類で、陽気が盛んになると化して鴽となるが、陰類が陽気の為に化するのであろう。
虹始見〔去声〕(虹が現れ始める) この虹とは虹と蜺のことである。『詩』のいわゆる螮蝀。俗に去声に読む。註疏に曰く、これは陰陽交会の気で、故に昔の儒者は雲から漏れた日が雨の滴を照らすと虹が生じると考えた。今水の噴くところで側からこれを視れば日暈に虹ができる。朱子の曰く、日は雨と交わり、たちまち質を成す、陰陽が交わるに当たらずして交わるのは、天地の淫気である。虹は雄であり色は赤白く、蜺は雌であり色は青白い。されば二字はともに虫偏に従う。『説文』に曰く、螮蝀の状に似る、と。諸書にも云う、かつて虹が渓谷に入り水を飲むのを見たが、その首は驢馬の如し、と。恐らく天地の間にはこの種の生物が有るのだろうが、ただし虹の気はこれに似ているので名を借りたのである。
○穀雨
穀雨〔去声〕は三月の中気。雨水より後、土は膏って脈動し、今また雨がその土に植えられたものをやしなう。雨の読みをば去声に作ること、「雨我公田」の雨の如くする。だいたい穀物はこの時期に種を播くが、それは上からして下ろすのである。それで『説文』によると、雨は本来去声。今「風雨」の雨は上声だが、「雨下」の雨は去声である。
萍始生(ウキクサが生え始める) 萍は水草である。水面に水平に浮かぶので萍という。流れに漂い風に随うので漂ともいう。『歴解』によると、萍は陽物で、静かにして陽気を承けるのである。
鳴鳩払其羽(鳴く鳩がその羽根を払う) 鳩は鷹が化した者で、布穀である。「払」とは撃ちつけることである。『本草』に、羽を払い飛んで翼はその身を拍つこと、指揮するかのようである、と云う。三月の頃にもなれば、農耕に取りかかることが急で、鳩はそこで追いはらわれて鳴き、羽を鼓してサッと飛び上がる。それで俗に布穀と呼ぶ。
戴勝降于桑(戴勝が桑に降る) 戴勝はまたの名を戴鵀という。『爾雅』の註に曰く、頭上には勝れた毛が有り、この時期にはいつも桑にいる。けだし蚕がこれに生まれるのをうかがうのであろう。「降」と言うのは、これに重なること天の如くして下り、やはり指揮するかの様子をいうのである。
○立夏
立夏は四月の節気。立の字の解は春の項に述べた。夏は、仮である。物がこの時に至ってみな仮大(ひろがってゆとりがある)なるをいうのである。
螻蟈鳴(螻蟈が鳴く) 螻蟈は、小さい動物で、土の中で穴に生まれ、好んで夜に出る。今の人が土狗と呼ぶものがこれである。またの名は螻蛄、またの名は石鼠、またの名は螜〔音は斛〕。各地方で呼び方が違っている。『淮南子』に、螻蟈が鳴き、邱蚓が出る、とある。陰の気が立ってこの二つが応じるのだ。『夏小正』三月の条に、螜が鳴く、というのはこれである。また五つの能を有するも、一つの技をも成すことができない。飛んでも屋根を越えることができず、取りついても木を登りつめることができず、泳いでも谷を渡ることができず、潜っても身を覆うことができず、走っても人に先んじることができない。だから『説文』では、鼫を称して五技の鼠としている。『古今註』はまた螻を鼫鼠と呼んでいること、知るべし。『埤雅』『本草』はともに臭虫とし、陸徳明と鄭康成が蛙だと考えているのは、どれもあたらない。
蚯蚓出(ミミズが出る) 蚯蚓は地竜である。別名は曲蟺。『歴解』に曰く、陰にして屈する者は、陽に乗じて伸び現れるのである。
王瓜生(王瓜が生える) 『図経』に云う。王瓜はそこかしこに有り、平野・田宅および牆垣に生える。葉は栝楼・烏薬に似て、丫型に欠けたところが無く、刺のような毛が有る。蔓をのばし、五月には黄色い花を開かせ、花の下には弾丸のような実を結び、生りたてには青く熟れては赤い。根は葛に似て、細くて糝(?)が多い。またの名は土瓜、別の名は落鴉瓜、今の薬中が用いる所である。『礼記』鄭元註に曰く、即ち萆挈。『本草』が菝葜に作るのを、陶隠居はまちがいだと弁じて、菝葜には自ずから根と枝が有るといったが、ことに王瓜にも自ずから根と枝が有るのを知らず、先儒がその時に書を検めずして謾言したのは、おかしいことだ。
○小満
小満は四月の中気。小満とは、物がここに至るとやや充足するということである。
苦菜秀(苦菜がめぶく) 『埤雅』は荼を苦菜とする。『毛詩』に「誰謂荼苦」とある〔荼は茶であり、故に韻は今の茶、註本では荼に作る〕のがこれである。鮑氏は火の気に感じて苦みができるのだといっている。『爾雅』に「栄えずして実る、これを秀といい、栄えて実らず、これを英という」とあるのによれば、苦菜は英と言うべきことになるか。蔡邕の『月令』が苦蕒菜のことだとしているのはあたらない。
靡草死(靡草が死ぬ) 鄭康成・鮑景翔はそろって、靡草とは葶藶の類だと云う。『礼記』の註には、草の枝葉で靡細なる者、とある。方氏はいう。凡そ物は陽気に感じて生きる者なれば強くして立つが、陰気に感じて生まれる者なれば柔かくして靡く。これを靡草といい、それは陰気の至りに生まれる所のものであり、故に陽気の至りに耐えずして死ぬ。
麦秋至(麦秋が至る) 秋とは百穀が成熟する時期だが、この時はまだ夏だといっても、麦にとっては秋だから、それで麦秋と云うのである。
○芒種
芒種〔上声〕は五月の節気である。芒が有る種類の穀物を植えるべき時期をいう。
螳螂生(カマキリが生まれる) 螳螂は草の虫である。風を飲み露を食い、陰の気に感じて生まれ、よく蝉を捕らえて食べ、それで別に殺虫とも呼ばれる。また天馬といい、その飛捷すること馬の如くなるを言う。また斧虫とは、両前足が斧の如くなるをいう。まだ一つならず名がつき、各地方によって呼び方がある。秋深くに林木の間に子を生むこと、一殻に百子、この時期になれば殻を破って出る。薬中の桑螵蛸というのがこれである。
鵙〔音は局〕始鳴(鵙が鳴き始める) 鵙は百労である。『本草』は博労に作る。朱子の『孟』注に曰く、博労は、悪声の鳥で、蓋し梟の類である。曹子建の『悪鳥論』には、百労は五月に鳴き、その声は鵙鵙と聞こえ、故にこれを以て名を立てること、俗称の独温と似ている、とある。『埤雅』「禽経」の註に云う。伯労は高く翔ぶことができず、まっすぐに飛ぶだけだ。『毛詩』に「七月鵙鳴」とあるのは、周暦の七月が夏五月だからである。
反舌無声(舌が反って声が無い) 諸書は百舌鳥のことで、舌をひっくりかえすことができるので名づけられたとする。ただ註疏は蝦蟇(ガマ)のことで、蛙類の舌は尖って内に向いているからその名があるのだろうとする。今それがあたらないと論じる者は、この時期に鳴くではないかといって、考えちがいに気づかずにいる。『易通卦験』にも「蝦蟇無声」としている。五月に鳴くではないかというのは、初旬に姿を現した後、また隠れるのを知らないのだ。陳氏はいう。螳螂・鵙はともに陰類で、かすかな陰気を感じてひとつは生まれひとつは鳴く。舌が反るのは陽気に感じておこり、かすかな陰気に遇うと声が出なくなるのである。
○夏至
夏至は五月の中気である。『韻会』に曰く、夏は仮であり、至は極である。万物がここにみな仮大にして極みに至るのである。
鹿角解〔音は駭〕(鹿の角が解ける) 鹿は、体が小さくて山の獣で、陽に属し、角が前向きに出ていることは黄牛と同じ。麋は、体が大きくて沢の獣で、陰に属し、角が後ろ向きに出ていることは水牛と同じ。夏至には一陰が生じ、陰気に感じて鹿の角は解ける。解とは、角が退落することをいう。冬至には一陽が生じ、麋は陽気に感じて角が解ける。これは夏至は陽気の極み、冬至は陰気の極みだからである。
蜩〔音は調〕始鳴〔『月令』の註疏は蝉始鳴に作る〕(ヒグラシが鳴き始める) 蜩は、蝉の大きくて黒色の者で、蜣螂(フンコロガシ)が脱皮して成り、雄はよく鳴き、雌は声が無い。今俗に知了と呼んでいるのがこれである。蝉類の名について調べると、夏に鳴く者は蜩といい、『荘子』に「蟪蛄は春秋を知らぬ者」とあるのがこれである。蟪蛄は夏の蝉なので春秋を知らぬというのであろう。秋に鳴く者は寒蜩といい、『楚辞』に謂う所の寒螿である。『風土記』には「蟪蛄は朝に鳴き、寒螿は有に鳴く」とある。今秋の初めの夕陽の時に、小さくて緑色をし声が急激なる者で、俗に都了と呼んでいるのがこれである。それで『埤雅』が各々その義を解説しているとおり、この物は盛陽に生まれ、陰に感じて鳴く。
半夏生(半夏が生える) 半夏とは、薬草の名で、夏の半ばにあって生えるのでその名がある。
○小暑
小暑は六月の節気。『説文』に曰く、暑は熱である。熱い時期を分けて大小とし、月初は小、月中は大とする。この時は熱気がまだ小さいからである。
温風至(温風の至り) 至は極である。温熱の風がここに至って極まるのである。
蟋〔音は悉〕蟀〔音は率〕居壁(コオロギが壁に住む) またの名は蛬〔音は拱〕、またの名は蜻蛚、今の促織である。『礼記』の註に曰く、土中に生まれて、この時期には羽根が次第に成り、洞穴の壁に住み、七月になれば遠く飛んで野にいる。粛殺の気が初めて生じれば穴に在り、これに感じること深ければ野に在って闘うのであろう。
鷹始撃〔『礼記』は鷹乃学習に作る〕(鷹が撃ち始める) 撃は捕激することである。応氏はいう。殺気がいまだ粛ならぬとき、猛禽の鳥は撃つことを練習し始め、殺気を迎えるのである。
○大暑
腐草為蛍(腐れ草が蛍になる) 丹良といい、丹鳥といい、夜光といい、宵燭というも、みな蛍の別名。明を離れるの極みなれば幽陰が微小の物に至りまた化して光をなすのである。『毛詩』に「熠耀宵行」というのは、別の一種である。形は米虫の如く、尾にはやはり火が有る。「化する」と言わないのは、原形に戻らないからで、その解説は前に述べた。
土潤溽〔音は辱〕暑(土が潤って蒸し暑い) 溽は湿である。土の気が潤い、それで蒸鬱して湿気となる。暑というのは、俗に齷齪と呼ぶもので、熱がそれである。
大雨時行(大雨が時に降る) 前候には湿暑の気が蒸鬱し、今候になれば大雨が時々降り、それで暑気が退行するのである。
原文
書評:松本克己『世界言語のなかの日本語』(2007年)
日本語の系統を探る試みは、語彙の比較を中心とする従来の方法では十分な成果をあげることができなかった。それはそうした方法によって遡れるのはせいぜい5~6000年程度の長さであり、もっと古い時代に他の言語と分離したらしい日本語の起源には及ばないからだと考えられる。松本氏は「言語類型地理論」と呼ぶ方法によって、従来の方法では手が届かなかった言語間の遠い親族関係を明らかにしようとする。
第1章では新しい方法の必要と見通しを述べ、第2章は大野晋の「タミル語起源説」に対する批判、第3章はかつて盛んに行われた「ウラル・アルタイ説」を再検討し却ける。本書にとっては予備的な内容だが、古い方法の陥りやすい所について読者に教える形となっている。
第4章「類型地理論から探る言語の遠い親族関係」は本書の中で中心的な内容を持つ。ここでは「流音のタイプ」や「形容詞のタイプ」といった言語の類型的特徴を比較し、世界の言語がいくつかのまとまりに分かれること、そして日本語は太平洋沿岸言語圏の中で、朝鮮語・アイヌ語・ギリヤーク語とともに「環日本海諸語」を形成すると考えられることが明らかにされる。この点で結果としては安本美典の所論(第360回活動記録-邪馬台国の会)とおおむね一致はするが、結論に至る筋道は全く異なる。結論の導き方としては松本説の方が堅牢で着実ではないかと思う。第5章は第4章の分かりやすい要約で、あるいは先に読んだ方がよいかもしれない。
第6章では人称代名詞を取り上げて言語の区分を検証し、それが第4章の考察とよく一致することが示される。人称代名詞というのは語彙の一部で、語彙の比較という古い方法に戻ったかのようだが、「語彙のまとまり」を比較するのとは違い、人称代名詞は各言語の中で変化に耐えてきわめてよく保存されている点に着目する。人称代名詞が言語の「生きた化石」だとは気付かなかった。
第7章「太平洋沿岸言語圏の先史を探る」では、これまでとはやや違い歴史学的性格の強い内容で、日本語や中国語を含む東アジア言語の来歴について考察される。この中で中国語の組成についての説は、岡田英弘や白川静の所論を参考にすると分かりやすいだろう。
語彙の比較という方法は、語呂合わせに似ているだけに素人にも手が出せそうな感じがして、分かりやすい面白さがある(実際にはそう簡単ではないのだが)。それに比べると松本氏の「言語類型地理論」は、ずっと専門的で難しさを感じさせる所がある。本書の刊行から10年が経っているが、こうした進んだ知見をどう一般の常識に及ぼしていけるかには社会的な課題がある。とりあえずこの本はそろそろ文庫に収めてほしいと思った。
稲荷山古墳出土鉄剣銘文の問題点
銘文の概要
1968年、埼玉県にある稲荷山古墳前方部の発掘調査が行われ、発見された出土品の中にこの鉄剣はあった。刀身には錆と木製の鞘が膠着しており、当初は銘文が刻まれていることは知られなかった。1978年、出土品の錆が進んで、保存処理をするために、それらの鉄製品は元興寺文化財研究所に送られた。その処理の過程で金象嵌の一部が露出し、レントゲン撮影による確認が行われた。考古学でレントゲン撮影を使うことは、出土した時にはまだ普及しておらず、この頃の新しい方法だった。その結果、鉄剣に銘文のあることが判明し、表面の付着物を落として補修することとなった。
銘文の釈読には岸俊男・田中稔・狩野久の三氏が当たった。名文は金象嵌で、字体は無論今日の活字体のようなくっきりしたものではなく、一部に問題もあるが、大体次のような合意が得られた。表57文字、裏58文字で一続きの漢文になっている。
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
銘文の読み方
この銘文をどう読むかだが、岸俊男氏はその著作の中で「銘文の全文と、私なりの読み方を掲げよう」として、次のように読んでいる(『日本の古代6 王権をめぐる戦い』)。
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比、(表)
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也、(裏)
「辛亥の年七月中記す。ヲワケの臣、上つ祖名はオホヒコ、其の児タカリのスクネ、其の児、名はテヨカリワケ、其の児、名はタカハシワケ、其の児、名はタサキワケ、其の児、名はハテヒ、其の児、名はカサハヨ、其の児、名はヲワケの臣。世々杖刀人の首として、事え奉り来り今に至る。ワカタケル大王の寺、シキの宮に在る時、吾天下を左け治む。此の百練の利刀を作らしめ、吾が事え奉る根源を記すなり」
この読み方は大体において現在も通説になっているようだ。しかし古典漢文にある程度慣れ親しんだ目で見ると、この読み方はどこか不自然な腑に落ちない感じがする。私などが言うのは失礼かもしれないが、どうも日本史を専攻にしている学者というのは必ずしも漢文に習熟していないという印象がある。私にとって心強いことに、東洋史の宮崎市定氏もそう思ったらしく、かつて日本古代の鉄剣銘文について一冊の著作を残し、次のような異説を提示している(『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』)。
辛亥年七月中、記乎獲居臣。上祖名意富比垝。其児多(名?)加利足尼。其児名弖已加利獲居。其児名多加披次獲居。其児名多沙鬼獲居。其児名半弖比。(以上表面)
其児名加差披。余其児名乎獲居臣。世々為杖刀人首。奉事来。至今獲加多支鹵大王。寺在斯鬼宮時。為左治天下。令作此百練利刀。記吾奉事根原也。(以上裏面)
辛亥の年の七月中、記ノ乎獲居臣。上祖は名は意富比垝。其の児の名は加利足尼。其の児の名は弖已加利獲居。其の児の名は多加披次獲居。其の児の名は多沙鬼獲居。其の児の名は半弖比。(以上表面)
其の児の名は加差披。余は其の児にして名は乎獲居臣。世々杖刀人の首と為り、奉事し来りて、今の獲加多支鹵大王に至る。侍して斯鬼宮に在りし時、天下を治むるを佐けんが為に、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記せしむる也。(以上裏面)
宮崎説の要点は、第一に表面第7字の「記」を動詞(しるす)ではなく記という乎獲居臣の氏名ではないかとすること、第二に裏面第7字の「余」を下文につけて乎獲居臣の一人称とすること、第三に裏面第34字の「寺」を名詞ではなく動詞(はべる/さもらう)に読むこと、第四に裏面第40字の「吾」とされているものを補修前のレントゲン写真と文脈を根拠として「為」と判読することである。
宮崎説は古典漢文の読み方としてひねったところがなく、それだけにこの方向で読むことはより蓋然性の高いものとして認められるべきではないかと思う。
「寺」字の問題
宮崎氏が言及しなかったことで「寺」字の問題について少し補足しておきたい。「寺」という字は、本来はある種の役所を指す。これが仏教の「おてら」つまり「伽藍」をも指すことになったのは、漢の時に西方から来た僧侶を初め「鴻臚寺」という役所に泊めたことに由来するという説が古くから行われている。唐の時には太常、光祿、衛尉、宗正、太僕、大理、鴻臚、司農、太府といった「寺」があり、中央官庁の一種である。また宦官のことを「寺人」ともいう。何にせよ役所としての「寺」は君主に仕える役人が勤務する所であり、「太極殿」とか「紫宸殿」のような王者の座所を指さない。
銘文中の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」という部分について、古墳の発掘に当たった柳田敏司氏が、発見直後の講演会のこととして、
……その上の文字「寺」は「朝廷」を示すと述べておいた。
と言っているのは(『鉄剣を出した国』)、この字が動詞として読めることを忘れて、名詞としての解釈に固執するあまりの奇想ではないか。通説のような「獲加多支鹵大王の寺が斯鬼宮に在る時」という読み方はかなり苦しい。こうした理由によっても、宮崎説の方がより良いと思う。
「治天下」の主権者は誰か
この銘文についてもう一つ私が感じている問題点について書き留めておく。最後の方、「吾(為?)左治天下」という部分を、通説的な解説では「吾は獲加多支鹵大王が天下を治めるのを左け」という風に訳しているのを目にする。しかし構文的には上文の「獲加多支鹵大王」が「治天下」に掛かっていないのは明らかで、簡単にそうは読めない。
辛亥年は西暦471年とし、獲加多支鹵は古事記/日本書紀の雄略天皇、宋書の倭王武に当たるという通説は、ここでは疑わないこととしておく。471年に武なる人物がすでに倭王であったとすると、最初の朝貢記事は順帝紀の昇明元年(477)十一月の条に「倭国が遣使して方物を献じた」とあるもので、上表文を引用した夷蛮伝の有名な記事は昇明二年(478)のこととなっている。
この上表文も有名ではあるが、どうも威勢の良い所だけが注目されて、倭王武が宋の天子に対して下手に出て、宜しく正式に爵位を賜らんことを願っているという肝心の所をよく読まない人が多いらしいのは困りものだ。上表文の内容を要約すれば、「倭王武とその家来は天子の徳を辺土に及ぼすために努力しているので、爵位を賜ることでお墨付きを与えて下さい」というものである。宋書による限り、当時の倭王の体制はまだ中国王朝の権威を援用しなければならない段階にあったと見える。
倭王と南朝宋の天子との関係は、孝武帝の大明六年(462)、倭王の世子である興を安東将軍にしたという記事から間が開いている。471年はこの空白期の後半に当たり、昇明元年の記事より6年前で、久々の朝貢の時機を窺っていた頃だと見て良いだろう。宋書のと鉄剣銘文の二つを整合的に考えるなら、「治天下」の主権者は宋の天子であり、乎獲居臣は獲加多支鹵=倭王武に仕えながら、天子に対しては陪臣という立場で「治天下を左けん」としていた、ということになる。一つ一つの証拠を正しく読むのとともに、複数の資料を突き合せた時にどういう状況が見えるかということをなお慎重に考える必要があるだろう。
参考文献
過去30年ほどの衆議院議員総選挙から
戦後の新制度下において、衆議院議員総選挙は、昭和二十二年(1947)の第二十三回から、平成二十六年(2014)の第四十七回まで、合計25回実施されている。このうち任期満了に伴う総選挙は、昭和五十一年(1976)の第三十四回だけで、他の全ては任期途中の解散によって行われている。従って四年の任期が全て満了された場合に比べて、いくらか選挙回数が増えている。
ここ30年ほどについて見ると、昭和六十一年(1986)の第三十八回から、平成二十六年の第四十七回まで、10回の総選挙が実施されている。第三十八回は、昭和五十八年(1983)の第三十七回から、わずか二年半ほどで行われた。もしこの時の解散がされずに任期満了まで議員が務め、またその後も途中解散がなかった場合は、1987、1991、1995、1999、2003、2007、2011、2015の各年に総選挙が行われたはずである。実際には、1986、1990、1993、1996、2000、2003、2005、2009、2012、2014の各年に総選挙は行われている。早期解散により増えたのは2回である。
この間の選挙執行経費の平均は約588億円、2003年以降に限ると約691億円である(同時に行われる最高裁判事国民審査などの費用は除く。以下同じ)。最低は1986年の264億円余りで、最高は2005年の745億円余りに達している。前回2014年では616億円余りである。過去30年間にこれが2回分余計に使われたことになる。この金額が高すぎる支払いか、いや妥当かということは、なかなか難しい問題で、簡単に答えることはできないだろう。
しかし早期解散が慣習化していることによる害は、税金の消費だけとは限らない。衆議院議員が有権者から代議士として委託される任期は4年と定められているが、過去30年間の実際上の任期は平均して3年程度である。本来なら2期目を終えるまでに、すでに2回改選をして3期目に入る計算である。特に21世紀に入ってからは、2年も務めずに解散した例が、2005年と2014年の2回ある。2003年総選挙以降、2014年解散までの平均任期は、1000日にも満たない。
このように早期解散があたりまえになり、2年もせずにまた選挙をすることも頻発すれば、議員は当選した直後から次の選挙を意識するようになる。議場では問題の核心に迫ることよりも、支持者にアピールすることが優先される。与党は野党の主張を斥けることを重視し、野党は与党を非難することに集中する。選挙戦術として解散の時期が決定され、ために国会での言動が何よりも予備選挙運動として捉えられ、だからまた選挙戦術としての解散が行われるという循環に陥る。
集団的にあるパターンの行動を繰り返せば、それが文化的風土になる。早期解散の繰り返しは、このように日本の政治的風土を形成していると理解できるのではないだろうか。
「証拠があるからこの主張は正しい」というものではないという話
「ネコとナマコは似ている」という論
ある人が「ネコとナマコは似ている」という論を立てた。理屈はこう。ネコもナマコも前に口、後に尻があり、基本的な構造は円筒形で、口で食べて尻で排泄をする。こんなに共通点があるのだからネコとナマコは似ているのだ、と主張する。もちろんこんな共通性は地球上のほとんどの動物に当てはまるので、ネコとナマコだけを取り上げて類似を強調するのは間違いであり意味が無い。
この「ネコとナマコ」の論からはいくつかの教訓を取り出せる。この議論には証拠があり、説明自体は合理的で矛盾が無い。しかしこの論は、ネコやナマコとより似ている他の動物、トラやヒョウ、ウニやヒトデを反証として取り上げないことによってしか成り立たない。結論に都合の良い証拠だけを選択しているし、証拠に関わる全てを前提とした検討を忘れているし、より妥当さの高い他の説との比較を拒んでいる。そしてそうすることによって、証拠に基づいて合理的に間違っている。証拠があって合理的であることは結論の正しさを保証はしない。
この人はなぜこんな意味の無い議論をしてしまったのだろうか。この人はナマコ愛好者で、家でナマコを飼って可愛がっていた。そのことでこの人は変わり者だと思われていた。ネコは多くの人に好かれている社会的地位の高い動物なので、「ネコとナマコは似ている」と主張することによってナマコに対する評価を変えることができれば、それはこの人にとって好ましいことだった。つまりこの人は自分にとっての好ましさと正しさを混同することによって誤ったのだ。
このように客観的には無意味で妥当しない「ネコとナマコ」論には、それでも一定の支持者が付いた。この支持者たちにしてもそうだが、普通はネコとナマコが似ているとは思わない。ネコとナマコに対する普通の印象と、「似ている」論の間には、大きな落差がある。落差は人にある種の面白さを感じさせる。多くの娯楽は落差を作ることによって人を笑わせたり泣かせたりする。要するにこの支持者たちは、面白さを正しさより優先させることで道を外れている。
知的詐欺というもの
ところでこんなずさんな議論の材料もネコとナマコにとどまっている内は大して罪も無いし間違いに気付きやすいが、世の中にはもっと複雑で重要な問題について「ネコとナマコ」式の主張をする人もいる。たとえば邪馬台国の位置論で、恣意的な証拠の選択をしたり、蓋然性の比較をしない人が少なくない。聖徳太子など有名な歴史上の人物が実在しなかったという説は、落差が有って面白いからある程度の支持を得やすい。人気の芸能人が裏では悪どいことをしているという噂とか、まずいことをしたとされる政治家が実は潔白であるといった言説は、一部の人にとって好ましかったり面白かったりするためにしばしば正しさとは無関係に信じられている。
こういう「ネコとナマコ」式の論を善意の過誤で言う人もいるが、故意に唱えるのは知的詐欺というものだ。詐欺といって金を騙し取るのはすぐに足が付くから下手の方で、上手の詐欺はもっと知的なものを詐取する。そして一度「ネコとナマコ」式の論に騙された人は、自分が愚かにして誤ったとは思いたくないので、正しさを証明しようとして繰り返し同じような知的詐欺に引っかかったり、味方を増やそうとして片棒を担いだりして、ますます泥沼にはまりやすい。
「騙されている時は騙されていることに気付かない」というのは誰もが承認することだろうが、もう一歩進んで「騙されている時は騙されていることに気付かないので、今まさに自分が何ものにも騙されていないとは断言できない」というところまで注意するのは意外に難しいことらしい。傍から見ると滑稽なことだが、それを嗤う人は次に騙される人かもしれない。かく言う私も過去に「ネコとナマコ」に騙されたことが無いとはとても言えないし、これからも騙されることが有るかもしれない。敢えて皆様に忠告するとともに、叱咤をも請う次第。
プロレスリングの歴史と経済 ~体力/試合数*期待値~
1896年、第一回近代オリンピックがアテネで開かれ、その中でグレコローマン・スタイルのレスリングが行われたのが、いわゆるアマチュア・レスリングの始まりとされる。フリースタイルは1904年のセントルイス大会で導入された。当初のアマレスのルールは、当時のプロレスリングから一部の危険と見なされた要素を除いただけで、他はほとんど同じだったという。ここからアマレスが現在に至るまで大きく変化したこと、またプロレスも現在のスタイルとは大きく異なるものだったことが察せられる。現在のプロレスからアマレスが派生することは考えられそうにない。ではプロレスはなぜ、どのようにして現在のかたちに変化してきたのだろうか。
かつてのレスリングは、時間制限や判定などはなく、決着が付くまで延々と闘うのが本式だった。1916年に出版された『How To Wrestle』に次の記述がある。
体育競技の多くの他の種目では、動く時間は、ルールとして、短く、休憩ができるインターバルによって分けられているが、レスリングの試合は十五分で終わるか一時間続くかわからず、その全ての瞬間は困難な仕事に費やされる。
実際、1881年に行われたウィリアム・マルドゥーン対クラレンス・ホイッスラーの試合は7時間15分を経てやむなく引き分けとなったし、1912年ストックホルム五輪のアンデルス・アールグレン対イヴァル・ボエリングは9時間闘って両者に銀メダルが与えられた。オリンピックはともかくとして、プロの試合でこれが興業として成立したのは、19世紀的な未来への楽観的な雰囲気の中でのことだった。19世紀的なプロレスの時代は、20世紀初頭までは続いた。当時のレスラーがどう試合に対応していたかを示す記述が『How To Wrestle』にある。
レスラーの練習活動は大会の性質と予期される勝負までの時間の重要さによって変化するべきである。その一ヶ月より前になると、男は中程度の要求される反復から始めて、試合が決められた時が近付くのに連れて活動の量と厳しさを徐々に増やさなければならない。練習期間が二週間を切るほどになると、当然、より高度な技法を伴う準備を始める必要がある。普通のプロレスラーは、どんな時も軽い練習をやめることは滅多にない。彼らは急な連絡でも速やかにリングに上がれる様に、試合が決まっていない時でさえ相当な状態を保つ様に常に気を付けている。
これによると、プロではないレスラーは多くても一ヶ月に一回程度の試合を行いうるのが普通だった。しかしプロレスラーとなると、金を稼ぐためにより多くの試合をこなし、不意の出場依頼にも応えていたことが窺われる。ここで注意されるのは、試合数の増加によって一試合あたりに消費できる体力が小さくなることである。つまりレスラーが一試合に消費できる体力は、一定期間に用いることのできる体力の総量を、その期間内に求められる試合数で割った値である。これは試合数の増加が試合の質を低下させることを予想させる。しかしこれは試合数の増加が甚大でないうちは、レスラーの鍛錬によって吸収されるだろう。試合数の増加は、レスラーが一試合あたりに得られる報酬が高いほど抑制される。レスラーが得る報酬の高さは、観客や後援者が一試合あたりにどれだけの価値を認めるかで決まるだろう。試合数の増加が甚大にならなかった時期は、まだ19世紀的プロレスに十分な価値が認められていた時期である。
ところが1920年代に入ると、経済や国際関係などの問題が影響して、のんびりレスリングを楽しめる環境が失われてくる。人々はもはや何時間かかるかも分からない大会、しかも面白いとは限らない試合を観に行く価値を認めなくなってくる。認められる価値の低下は、試合数増加の抑制を緩め、同時に一試合あたりに消費する体力を抑制し、試合の質を低下させる可能性を生む。これは観客の満足度を低下させ、なおさら価値の低下に歯止めが利かなくなる危険をはらむ。新しい観客の嗜好は試合時間と満足度の確実性を望んでいる。しかしレスラーやプロモーターたちは巧妙な手法で試合時間の不確実性を減らし、同時に満足度を高めることにも成功した。体力量を試合数で割り、その中で可能なスタイルをうまく選択できたのである。ここにプロレスの新しい時代が開かれることとなった。
次に訪れた大きな変化は、1950年代、敗戦後の日本にプロレスが導入されたことから始まる。相撲や柔術の伝統を受け継いだ日本のレスラーは、プロレスに受け身の概念と技術を確立し発達させた。これはレスラーの交流を通してアメリカやメキシコにも大きな影響を及ぼす。受け身の存在はより大きな動きのある技の使用をより容易にし、観客に新たな驚きを与えた。大技を使うことで映像映えも良くなり、テレビ時代の波に乗ってプロレス人気を拡大させた。
ところで受け身とはそもそも身を守るための技術だが、受け身の存在を前提にすることはより危険性の高い技の使用を促進した。特に1990年代以降の日本プロレス界では、有力な競合商品としての総合格闘技の勃興がこの傾向を顕著にさせ、過激なプロレスが一世を風靡した。技の過激化は受け身を取る技術の向上によって吸収できる範囲を超え、体力消費の増加を招いた。総合格闘技の人気が頂点に達した2000年前後、プロレスラーのこなす試合数は減少する傾向にあったが、人気の低落を伴っていたこともあり、一大会あたりの収益を増やすのは困難な状況だった。こうした深刻なプロレス不況の中で、レスラーは好ましくない状況に置かれ、試合中に重大な傷害を負う選手も出た。この時期の傾向は、総合格闘技が凋落した2010年代にも影響を残した。
近年、新日本プロレスの努力による人気回復は、主要なレスラーの身体的負担を増大させている。1980年代の人気レスラーは年間200試合以上をこなすこともあったと聞くが、観客の期待値が変化しているため、その試合数を単純に今のレスラーに要求することはできない。考えられる対策の一つは、団体の努力によって一選手あたりの試合数を抑制することだが、もう一つは観客を成長させることだろう。
この場合参考になるのはメキシコの老舗団体 CMLL である。CMLL の大会を観ると、その華やかな雰囲気と比べて、試合内容は意外と地味なもので、基礎的な技術が生み出す展開の豊富なバリエーションを見ることができる。CMLL は非常に多くの選手を抱え、大会も多く開いている。すると大きな技や大きな動きの連発ではすぐ飽きられてしまう。観客にも目の肥えた人が多いので、底堅い内容が求められ、それによってルチャ・リブレが日常的娯楽としての地位を獲得できている。日本ではまだたまにしかプロレスを見ない観客の目を驚かせる必要があり、それが選手の危険に繋がる要因になっているようである。選手の安全と、事業の持続性のためにも、この点を課題として認識し、解決していくことが望まれている。