古代史を語る

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稲荷山古墳出土鉄剣銘文の問題点

銘文の概要

1968年、埼玉県にある稲荷山古墳前方部の発掘調査が行われ、発見された出土品の中にこの鉄剣はあった。刀身には錆と木製の鞘が膠着しており、当初は銘文が刻まれていることは知られなかった。1978年、出土品の錆が進んで、保存処理をするために、それらの鉄製品は元興寺文化財研究所に送られた。その処理の過程で金象嵌の一部が露出し、レントゲン撮影による確認が行われた。考古学でレントゲン撮影を使うことは、出土した時にはまだ普及しておらず、この頃の新しい方法だった。その結果、鉄剣に銘文のあることが判明し、表面の付着物を落として補修することとなった。

銘文の釈読には岸俊男・田中稔・狩野久の三氏が当たった。名文は金象嵌で、字体は無論今日の活字体のようなくっきりしたものではなく、一部に問題もあるが、大体次のような合意が得られた。表57文字、裏58文字で一続きの漢文になっている。

亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

銘文の読み方

この銘文をどう読むかだが、岸俊男氏はその著作の中で「銘文の全文と、私なりの読み方を掲げよう」として、次のように読んでいる(『日本の古代6 王権をめぐる戦い』)。

亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比、(表)
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也、(裏)
「辛亥の年七月中しるす。ヲワケの臣、上つおや名はオホヒコ、の児タカリのスクネ、其の児、名はテヨカリワケ、其の児、名はタカハシワケ、其の児、名はタサキワケ、其の児、名はハテヒ、其の児、名はカサハヨ、其の児、名はヲワケの臣。世々杖刀人の首として、つかえ奉り来り今に至る。ワカタケル大王の寺、シキの宮に在る時、われ天下をたすけ治む。此の百練の利刀を作らしめ、吾が事え奉る根源を記すなり」

この読み方は大体において現在も通説になっているようだ。しかし古典漢文にある程度慣れ親しんだ目で見ると、この読み方はどこか不自然な腑に落ちない感じがする。私などが言うのは失礼かもしれないが、どうも日本史を専攻にしている学者というのは必ずしも漢文に習熟していないという印象がある。私にとって心強いことに、東洋史宮崎市定氏もそう思ったらしく、かつて日本古代の鉄剣銘文について一冊の著作を残し、次のような異説を提示している(『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』)。

亥年七月中、記乎獲居臣。上祖名意富比垝。其児多(名?)加利足尼。其児名弖已加利獲居。其児名多加披次獲居。其児名多沙鬼獲居。其児名半弖比。(以上表面)
其児名加差披。余其児名乎獲居臣。世々為杖刀人首。奉事来。至今獲加多支鹵大王。寺在斯鬼宮時。為左治天下。令作此百練利刀。記吾奉事根原也。(以上裏面)
辛亥の年の七月中、記ノ乎獲居臣。上祖は名は意富比垝。其の児の名は加利足尼。其の児の名は弖已加利獲居。其の児の名は多加披次獲居。其の児の名は多沙鬼獲居。其の児の名は半弖比。(以上表面)
其の児の名は加差披。余は其の児にして名は乎獲居臣。世々杖刀人の首と為り、奉事し来りて、今の獲加多支鹵大王に至る。侍して斯鬼宮に在りし時、天下を治むるをたすけんが為に、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記せしむる也。(以上裏面)

宮崎説の要点は、第一に表面第7字の「記」を動詞(しるす)ではなくという乎獲居臣のウヂ名ではないかとすること、第二に裏面第7字の「余」を下文につけて乎獲居臣の一人称とすること、第三に裏面第34字の「寺」を名詞ではなく動詞(はべる/さもらう)に読むこと、第四に裏面第40字の「吾」とされているものを補修前のレントゲン写真と文脈を根拠として「為」と判読することである。

宮崎説は古典漢文の読み方としてひねったところがなく、それだけにこの方向で読むことはより蓋然性の高いものとして認められるべきではないかと思う。

「寺」字の問題

宮崎氏が言及しなかったことで「寺」字の問題について少し補足しておきたい。「寺」という字は、本来はある種の役所を指す。これが仏教の「おてら」つまり「伽藍」をも指すことになったのは、漢の時に西方から来た僧侶を初め「鴻臚寺」という役所に泊めたことに由来するという説が古くから行われている。唐の時には太常、光祿、衛尉、宗正、太僕、大理、鴻臚、司農、太府といった「寺」があり、中央官庁の一種である。また宦官のことを「寺人」ともいう。何にせよ役所としての「寺」は君主に仕える役人が勤務する所であり、「太極殿」とか「紫宸殿」のような王者の座所を指さない。

銘文中の「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」という部分について、古墳の発掘に当たった柳田敏司氏が、発見直後の講演会のこととして、

……その上の文字「寺」は「朝廷」を示すと述べておいた。

と言っているのは(『鉄剣を出した国』)、この字が動詞として読めることを忘れて、名詞としての解釈に固執するあまりの奇想ではないか。通説のような「獲加多支鹵大王の寺が斯鬼宮に在る時」という読み方はかなり苦しい。こうした理由によっても、宮崎説の方がより良いと思う。

「治天下」の主権者は誰か

この銘文についてもう一つ私が感じている問題点について書き留めておく。最後の方、「吾(為?)左治天下」という部分を、通説的な解説では「吾は獲加多支鹵大王が天下を治めるのをたすけ」という風に訳しているのを目にする。しかし構文的には上文の「獲加多支鹵大王」が「治天下」に掛かっていないのは明らかで、簡単にそうは読めない。

亥年は西暦471年とし、獲加多支鹵は古事記日本書紀雄略天皇宋書倭王武に当たるという通説は、ここでは疑わないこととしておく。471年に武なる人物がすでに倭王であったとすると、最初の朝貢記事は順帝紀の昇明元年(477)十一月の条に「倭国が遣使して方物を献じた」とあるもので、上表文を引用した夷蛮伝の有名な記事は昇明二年(478)のこととなっている。

この上表文も有名ではあるが、どうも威勢の良い所だけが注目されて、倭王武が宋の天子に対して下手に出て、宜しく正式に爵位を賜らんことを願っているという肝心の所をよく読まない人が多いらしいのは困りものだ。上表文の内容を要約すれば、「倭王武とその家来は天子の徳を辺土に及ぼすために努力しているので、爵位を賜ることでお墨付きを与えて下さい」というものである。宋書による限り、当時の倭王の体制はまだ中国王朝の権威を援用しなければならない段階にあったと見える。

倭王南朝宋の天子との関係は、孝武帝の大明六年(462)、倭王の世子である興を安東将軍にしたという記事から間が開いている。471年はこの空白期の後半に当たり、昇明元年の記事より6年前で、久々の朝貢の時機を窺っていた頃だと見て良いだろう。宋書のと鉄剣銘文の二つを整合的に考えるなら、「治天下」の主権者は宋の天子であり、乎獲居臣は獲加多支鹵=倭王武に仕えながら、天子に対しては陪臣という立場で「治天下を左けん」としていた、ということになる。一つ一つの証拠を正しく読むのとともに、複数の資料を突き合せた時にどういう状況が見えるかということをなお慎重に考える必要があるだろう。

参考文献

鉄剣を出した国 (1980年)

鉄剣を出した国 (1980年)

 
日本の古代〈6〉王権をめぐる戦い (中公文庫)

日本の古代〈6〉王権をめぐる戦い (中公文庫)

 

過去30年ほどの衆議院議員総選挙から

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1986年以後の衆議院議員総選挙

戦後の新制度下において、衆議院議員総選挙は、昭和二十二年(1947)の第二十三回から、平成二十六年(2014)の第四十七回まで、合計25回実施されている。このうち任期満了に伴う総選挙は、昭和五十一年(1976)の第三十四回だけで、他の全ては任期途中の解散によって行われている。従って四年の任期が全て満了された場合に比べて、いくらか選挙回数が増えている。

ここ30年ほどについて見ると、昭和六十一年(1986)の第三十八回から、平成二十六年の第四十七回まで、10回の総選挙が実施されている。第三十八回は、昭和五十八年(1983)の第三十七回から、わずか二年半ほどで行われた。もしこの時の解散がされずに任期満了まで議員が務め、またその後も途中解散がなかった場合は、1987、1991、1995、1999、2003、2007、2011、2015の各年に総選挙が行われたはずである。実際には、1986、1990、1993、1996、2000、2003、2005、2009、2012、2014の各年に総選挙は行われている。早期解散により増えたのは2回である。

この間の選挙執行経費の平均は約588億円、2003年以降に限ると約691億円である(同時に行われる最高裁判事国民審査などの費用は除く。以下同じ)。最低は1986年の264億円余りで、最高は2005年の745億円余りに達している。前回2014年では616億円余りである。過去30年間にこれが2回分余計に使われたことになる。この金額が高すぎる支払いか、いや妥当かということは、なかなか難しい問題で、簡単に答えることはできないだろう。

しかし早期解散が慣習化していることによる害は、税金の消費だけとは限らない。衆議院議員有権者から代議士として委託される任期は4年と定められているが、過去30年間の実際上の任期は平均して3年程度である。本来なら2期目を終えるまでに、すでに2回改選をして3期目に入る計算である。特に21世紀に入ってからは、2年も務めずに解散した例が、2005年と2014年の2回ある。2003年総選挙以降、2014年解散までの平均任期は、1000日にも満たない。

このように早期解散があたりまえになり、2年もせずにまた選挙をすることも頻発すれば、議員は当選した直後から次の選挙を意識するようになる。議場では問題の核心に迫ることよりも、支持者にアピールすることが優先される。与党は野党の主張を斥けることを重視し、野党は与党を非難することに集中する。選挙戦術として解散の時期が決定され、ために国会での言動が何よりも予備選挙運動として捉えられ、だからまた選挙戦術としての解散が行われるという循環に陥る。

集団的にあるパターンの行動を繰り返せば、それが文化的風土になる。早期解散の繰り返しは、このように日本の政治的風土を形成していると理解できるのではないだろうか。

「証拠があるからこの主張は正しい」というものではないという話

「ネコとナマコは似ている」という論

ある人が「ネコとナマコは似ている」という論を立てた。理屈はこう。ネコもナマコも前に口、後に尻があり、基本的な構造は円筒形で、口で食べて尻で排泄をする。こんなに共通点があるのだからネコとナマコは似ているのだ、と主張する。もちろんこんな共通性は地球上のほとんどの動物に当てはまるので、ネコとナマコだけを取り上げて類似を強調するのは間違いであり意味が無い。

この「ネコとナマコ」の論からはいくつかの教訓を取り出せる。この議論には証拠があり、説明自体は合理的で矛盾が無い。しかしこの論は、ネコやナマコとより似ている他の動物、トラやヒョウ、ウニやヒトデを反証として取り上げないことによってしか成り立たない。結論に都合の良い証拠だけを選択しているし、証拠に関わる全てを前提とした検討を忘れているし、より妥当さの高い他の説との比較を拒んでいる。そしてそうすることによって、証拠に基づいて合理的に間違っている。証拠があって合理的であることは結論の正しさを保証はしない

この人はなぜこんな意味の無い議論をしてしまったのだろうか。この人はナマコ愛好者で、家でナマコを飼って可愛がっていた。そのことでこの人は変わり者だと思われていた。ネコは多くの人に好かれている社会的地位の高い動物なので、「ネコとナマコは似ている」と主張することによってナマコに対する評価を変えることができれば、それはこの人にとって好ましいことだった。つまりこの人は自分にとっての好ましさと正しさを混同することによって誤ったのだ。

このように客観的には無意味で妥当しない「ネコとナマコ」論には、それでも一定の支持者が付いた。この支持者たちにしてもそうだが、普通はネコとナマコが似ているとは思わない。ネコとナマコに対する普通の印象と、「似ている」論の間には、大きな落差がある。落差は人にある種の面白さを感じさせる。多くの娯楽は落差を作ることによって人を笑わせたり泣かせたりする。要するにこの支持者たちは、面白さを正しさより優先させることで道を外れている。

知的詐欺というもの

ところでこんなずさんな議論の材料もネコとナマコにとどまっている内は大して罪も無いし間違いに気付きやすいが、世の中にはもっと複雑で重要な問題について「ネコとナマコ」式の主張をする人もいる。たとえば邪馬台国の位置論で、恣意的な証拠の選択をしたり、蓋然性の比較をしない人が少なくない。聖徳太子など有名な歴史上の人物が実在しなかったという説は、落差が有って面白いからある程度の支持を得やすい。人気の芸能人が裏では悪どいことをしているという噂とか、まずいことをしたとされる政治家が実は潔白であるといった言説は、一部の人にとって好ましかったり面白かったりするためにしばしば正しさとは無関係に信じられている。

こういう「ネコとナマコ」式の論を善意の過誤で言う人もいるが、故意に唱えるのは知的詐欺というものだ。詐欺といって金を騙し取るのはすぐに足が付くから下手の方で、上手の詐欺はもっと知的なものを詐取する。そして一度「ネコとナマコ」式の論に騙された人は、自分が愚かにして誤ったとは思いたくないので、正しさを証明しようとして繰り返し同じような知的詐欺に引っかかったり、味方を増やそうとして片棒を担いだりして、ますます泥沼にはまりやすい。

「騙されている時は騙されていることに気付かない」というのは誰もが承認することだろうが、もう一歩進んで「騙されている時は騙されていることに気付かないので、今まさに自分が何ものにも騙されていないとは断言できない」というところまで注意するのは意外に難しいことらしい。傍から見ると滑稽なことだが、それを嗤う人は次に騙される人かもしれない。かく言う私も過去に「ネコとナマコ」に騙されたことが無いとはとても言えないし、これからも騙されることが有るかもしれない。敢えて皆様に忠告するとともに、叱咤をも請う次第。

カクヨムにて歴史小説『張政と姫氏王』を連載中

小説投稿サイト「カクヨム」にて歴史小説『張政と姫氏王』を連載しています。時は景初二年の秋、公孫淵が司馬懿に敗北した事で魏王朝に回収された帯方郡。郡の若手役人で倭人との交渉に従事する張政は、魏から派遣された新太守の劉昕に呼び出され、直々に一つの命令を受けた事から時代のうねりに吸い寄せられて行く。《三国志・魏書・東夷伝》――いわゆる「魏志倭人伝」を含む――を題材に、史料の隙間を想像で埋めて時代相を描き出してみたいと思います。お暇なら読んでね。

kakuyomu.jp

プロレスリングの歴史と経済 ~体力/試合数*期待値~

 1896年、第一回近代オリンピックがアテネで開かれ、その中でグレコローマン・スタイルレスリングが行われたのが、いわゆるアマチュアレスリングの始まりとされる。フリースタイルは1904年のセントルイス大会で導入された。当初のアマレスのルールは、当時のプロレスリングから一部の危険と見なされた要素を除いただけで、他はほとんど同じだったという。ここからアマレスが現在に至るまで大きく変化したこと、またプロレスも現在のスタイルとは大きく異なるものだったことが察せられる。現在のプロレスからアマレスが派生することは考えられそうにない。ではプロレスはなぜ、どのようにして現在のかたちに変化してきたのだろうか。

 かつてのレスリングは、時間制限や判定などはなく、決着が付くまで延々と闘うのが本式だった。1916年に出版された『How To Wrestle』に次の記述がある。

体育競技の多くの他の種目では、動く時間は、ルールとして、短く、休憩ができるインターバルによって分けられているが、レスリングの試合は十五分で終わるか一時間続くかわからず、その全ての瞬間は困難な仕事に費やされる。

 実際、1881年に行われたウィリアム・マルドゥーン対クラレンス・ホイッスラーの試合は7時間15分を経てやむなく引き分けとなったし、1912年ストックホルム五輪のアンデルス・アールグレン対イヴァル・ボエリングは9時間闘って両者に銀メダルが与えられた。オリンピックはともかくとして、プロの試合でこれが興業として成立したのは、19世紀的な未来への楽観的な雰囲気の中でのことだった。19世紀的なプロレスの時代は、20世紀初頭までは続いた。当時のレスラーがどう試合に対応していたかを示す記述が『How To Wrestle』にある。

レスラーの練習活動は大会の性質と予期される勝負までの時間の重要さによって変化するべきである。その一ヶ月より前になると、男は中程度の要求される反復から始めて、試合が決められた時が近付くのに連れて活動の量と厳しさを徐々に増やさなければならない。練習期間が二週間を切るほどになると、当然、より高度な技法を伴う準備を始める必要がある。普通のプロレスラーは、どんな時も軽い練習をやめることは滅多にない。彼らは急な連絡でも速やかにリングに上がれる様に、試合が決まっていない時でさえ相当な状態を保つ様に常に気を付けている。

 これによると、プロではないレスラーは多くても一ヶ月に一回程度の試合を行いうるのが普通だった。しかしプロレスラーとなると、金を稼ぐためにより多くの試合をこなし、不意の出場依頼にも応えていたことが窺われる。ここで注意されるのは、試合数の増加によって一試合あたりに消費できる体力が小さくなることである。つまりレスラーが一試合に消費できる体力は、一定期間に用いることのできる体力の総量を、その期間内に求められる試合数で割った値である。これは試合数の増加が試合の質を低下させることを予想させる。しかしこれは試合数の増加が甚大でないうちは、レスラーの鍛錬によって吸収されるだろう。試合数の増加は、レスラーが一試合あたりに得られる報酬が高いほど抑制される。レスラーが得る報酬の高さは、観客や後援者が一試合あたりにどれだけの価値を認めるかで決まるだろう。試合数の増加が甚大にならなかった時期は、まだ19世紀的プロレスに十分な価値が認められていた時期である。

 ところが1920年代に入ると、経済や国際関係などの問題が影響して、のんびりレスリングを楽しめる環境が失われてくる。人々はもはや何時間かかるかも分からない大会、しかも面白いとは限らない試合を観に行く価値を認めなくなってくる。認められる価値の低下は、試合数増加の抑制を緩め、同時に一試合あたりに消費する体力を抑制し、試合の質を低下させる可能性を生む。これは観客の満足度を低下させ、なおさら価値の低下に歯止めが利かなくなる危険をはらむ。新しい観客の嗜好は試合時間と満足度の確実性を望んでいる。しかしレスラーやプロモーターたちは巧妙な手法で試合時間の不確実性を減らし、同時に満足度を高めることにも成功した。体力量を試合数で割り、その中で可能なスタイルをうまく選択できたのである。ここにプロレスの新しい時代が開かれることとなった。

 次に訪れた大きな変化は、1950年代、敗戦後の日本にプロレスが導入されたことから始まる。相撲や柔術の伝統を受け継いだ日本のレスラーは、プロレスに受け身の概念と技術を確立し発達させた。これはレスラーの交流を通してアメリカやメキシコにも大きな影響を及ぼす。受け身の存在はより大きな動きのある技の使用をより容易にし、観客に新たな驚きを与えた。大技を使うことで映像映えも良くなり、テレビ時代の波に乗ってプロレス人気を拡大させた。

 ところで受け身とはそもそも身を守るための技術だが、受け身の存在を前提にすることはより危険性の高い技の使用を促進した。特に1990年代以降の日本プロレス界では、有力な競合商品としての総合格闘技の勃興がこの傾向を顕著にさせ、過激なプロレスが一世を風靡した。技の過激化は受け身を取る技術の向上によって吸収できる範囲を超え、体力消費の増加を招いた。総合格闘技の人気が頂点に達した2000年前後、プロレスラーのこなす試合数は減少する傾向にあったが、人気の低落を伴っていたこともあり、一大会あたりの収益を増やすのは困難な状況だった。こうした深刻なプロレス不況の中で、レスラーは好ましくない状況に置かれ、試合中に重大な傷害を負う選手も出た。この時期の傾向は、総合格闘技が凋落した2010年代にも影響を残した。

 近年、新日本プロレスの努力による人気回復は、主要なレスラーの身体的負担を増大させている。1980年代の人気レスラーは年間200試合以上をこなすこともあったと聞くが、観客の期待値が変化しているため、その試合数を単純に今のレスラーに要求することはできない。考えられる対策の一つは、団体の努力によって一選手あたりの試合数を抑制することだが、もう一つは観客を成長させることだろう。

 この場合参考になるのはメキシコの老舗団体 CMLL である。CMLL の大会を観ると、その華やかな雰囲気と比べて、試合内容は意外と地味なもので、基礎的な技術が生み出す展開の豊富なバリエーションを見ることができる。CMLL は非常に多くの選手を抱え、大会も多く開いている。すると大きな技や大きな動きの連発ではすぐ飽きられてしまう。観客にも目の肥えた人が多いので、底堅い内容が求められ、それによってルチャ・リブレが日常的娯楽としての地位を獲得できている。日本ではまだたまにしかプロレスを見ない観客の目を驚かせる必要があり、それが選手の危険に繋がる要因になっているようである。選手の安全と、事業の持続性のためにも、この点を課題として認識し、解決していくことが望まれている。

後宮についての雑記

皇位継承の安定性と後宮制度

天武天皇の後継者が百年ほどでほとんど絶えてしまった原因の一つは、産児の少なさにあり、これは後宮の制度が実際的に確立していなかったことに起因する所があるようだ。もっとも天武天皇自身は、十人の女性との間に十男七女を産んでいる。しかし若くして死んだ草壁皇子文武天皇については問わないにしても、聖武天皇でさえ二人の女性との間に二男三女を残したに過ぎず、しかも二人の男子は早くに死んでいる。なお元正・孝謙は独身で子がなかった。

法制度的には律令の中に後宮職員令というのがあり、側室としては「妃」二人、「夫人」三人、「嬪」四人が定員となっている。また後宮の職務に当たる役人として「宮人」約280人が仕える。宮人というのは女官の総称で、もちろん天皇の方にその気があれば「御手付き」ということがありうる。遡れば実際に天智天皇が「宮人」四人を召して三男三女を産ませている。しかし天武系にはこの実例はない。また天皇自身は律令に拘束されないので、必要なら側室を増員することもできる。そのために桓武天皇以後に設けられたのが「女御」や「更衣」という身分で、後には女御の子が天皇になる例も出てくる。前代の二の轍を避けるために考えられた措置だろうし、現に皇室の安定に寄与する一因となったと言ってよいだろう。

中国の後宮制度と実例

中国では古くから男系、特に父子継承にこだわる王権文化が形成され、これを支えるために後宮の制度が設けられた。《礼記・昏義》に、

古者天子後立六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻,以聽天下之內治,以明章婦順;故天下內和而家理。

という記述がある。つまり周の礼儀では「夫人」三人、「嬪」九人、「世婦」二十七人、「御妻」八十一人、総四等120人が後宮を形成する。御妻は或いは御女または女御ともいう。この役割分担については、《後漢書・皇后紀上》に、

夏、殷以上,后妃之制,其文略矣。周禮王者立后,三夫人,九嬪,二十七世婦,八十一女御,以備內職焉。后正位宮闈,同體天王。夫人坐論婦禮,九嬪掌教四德,世婦主喪、祭、賓客,女御序于王之燕寢。

とあり、世婦と御妻は側室というより侍女かと思う。

では歴史上の実例はどうかというと、《資治通鑑・漢紀四十六》に、

帝又徵安陽魏桓,〈安陽縣,屬汝南郡。〉其鄕人勸之行,桓曰:「夫干祿求進,所以行其志也。今後宮千數,其可損乎?廐馬萬匹,其可減乎?左右權豪,其可去乎?」〈去,羌呂翻。〉皆對曰:「不可」。桓乃慨然歎曰:「使桓生行死歸,於諸子何有哉!」〈賢曰:若忤時強諫,死而後歸,於諸勸行者復何益也。〉遂隱身不出。

という逸話を載せている。これによると、東漢桓帝の時、魏桓なる人物に朝廷から仕官の誘いがあった。近所の人が仕えたらいいじゃないかと勧めると、魏桓は世の中が非常に不景気なのに政府が贅沢をしていることを非難し、仕えて昇進してみてもそれをやめさせられる政情じゃないからというので、身を隠して出仕しなかった。その言葉の中に「後宮千数」とある。千数というのは、千を単位として数えるほど、ということだろう。

三国志・魏書・袁術伝》によると、袁術が帝号を僭称した時、

荒侈滋甚,後宮數百皆服綺縠,餘粱肉,而士卒凍餒,江淮間空盡,人民相食。

後宮には数百人を置き、みな綺麗な服を着て食糧も余るほど蓄えていたが、これは実際には一地方政権に過ぎない袁術には過ぎた贅沢で、士卒は飢えて凍えてしまうし、一般人民には食品が全く渡らず、互いに食うほどの有様だった。

三国志・呉書・孫皓伝》に付けた裵松之の注に《晋陽秋》を引いて、

濬收其圖籍,領州四,郡四十三,縣三百一十三,戶五十二萬三千,吏三萬二千,兵二十三萬,男女口二百三十萬,米穀二百八十萬斛,舟船五千餘艘,後宮五千餘人。

呉が晋に降伏した時、その後宮は五千人余りという規模だった。これもやはり呉の国力としては奢侈が過ぎたというものだろう。

下って唐代になると、《通典・職官十六・后妃》《旧唐書・職官三》《新唐書・百官二》などによれば、唐の後宮制度は始め隋の煬帝が欲を出して拡張したものを受け継いだが、次第に整理して、玄宗の時には「妃」三人乃至四人、「六儀」六人、「美人」四人、「才人」七人を標準とした。これに仕える女官は数え上げると270人ほどになる。ただし中国では後宮の職務のために宦官も入るが、宦官の所属する内侍省という役所が別にある。日本には宦官はないので、後宮の中に内侍司という部署があって女官が所属する。いずれにせよ案外規模が小さいという印象を受けるが、やはり皇帝は律令の拘束は受けないので、実際はどうかというと、白居易の《長恨歌》に、

後宮佳麗三千人,三千寵愛在一身。

という有名な句がある。これは詩的表現だから厳密には請け合えないが、他の例によって考えるとあながち誇張でもないようだ。跡継ぎを作るためだけなら、皇帝一人に女性三千人は、いくらなんでも必要がないだろうから大変な贅沢である。


血統を権力の根拠にする社会では、君主の後継者がなくなるとたちまちに体制の崩壊を招くこともある。昔は死産が少なくなく、嬰児の死も多く、せっかく成長しても病気や政争で殺される危険もある。そうした不安が根底にあって、贅沢をしたいという欲が加わり、権力がそれを実現し、また不安によって贅沢が許容される。そして人の感覚というものは、一度贅沢をすることに慣れてしまうと、どのくらいが必要最低限度なのかが分からなくなる。継承は男系で、それも父子継承が望ましいといったように、限定条件を付けることで、不安が増すことはあっても減ることはない。

天武天皇評伝 目次

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