過去30年ほどの衆議院議員総選挙から
戦後の新制度下において、衆議院議員総選挙は、昭和二十二年(1947)の第二十三回から、平成二十六年(2014)の第四十七回まで、合計25回実施されている。このうち任期満了に伴う総選挙は、昭和五十一年(1976)の第三十四回だけで、他の全ては任期途中の解散によって行われている。従って四年の任期が全て満了された場合に比べて、いくらか選挙回数が増えている。
ここ30年ほどについて見ると、昭和六十一年(1986)の第三十八回から、平成二十六年の第四十七回まで、10回の総選挙が実施されている。第三十八回は、昭和五十八年(1983)の第三十七回から、わずか二年半ほどで行われた。もしこの時の解散がされずに任期満了まで議員が務め、またその後も途中解散がなかった場合は、1987、1991、1995、1999、2003、2007、2011、2015の各年に総選挙が行われたはずである。実際には、1986、1990、1993、1996、2000、2003、2005、2009、2012、2014の各年に総選挙は行われている。早期解散により増えたのは2回である。
この間の選挙執行経費の平均は約588億円、2003年以降に限ると約691億円である(同時に行われる最高裁判事国民審査などの費用は除く。以下同じ)。最低は1986年の264億円余りで、最高は2005年の745億円余りに達している。前回2014年では616億円余りである。過去30年間にこれが2回分余計に使われたことになる。この金額が高すぎる支払いか、いや妥当かということは、なかなか難しい問題で、簡単に答えることはできないだろう。
しかし早期解散が慣習化していることによる害は、税金の消費だけとは限らない。衆議院議員が有権者から代議士として委託される任期は4年と定められているが、過去30年間の実際上の任期は平均して3年程度である。本来なら2期目を終えるまでに、すでに2回改選をして3期目に入る計算である。特に21世紀に入ってからは、2年も務めずに解散した例が、2005年と2014年の2回ある。2003年総選挙以降、2014年解散までの平均任期は、1000日にも満たない。
このように早期解散があたりまえになり、2年もせずにまた選挙をすることも頻発すれば、議員は当選した直後から次の選挙を意識するようになる。議場では問題の核心に迫ることよりも、支持者にアピールすることが優先される。与党は野党の主張を斥けることを重視し、野党は与党を非難することに集中する。選挙戦術として解散の時期が決定され、ために国会での言動が何よりも予備選挙運動として捉えられ、だからまた選挙戦術としての解散が行われるという循環に陥る。
集団的にあるパターンの行動を繰り返せば、それが文化的風土になる。早期解散の繰り返しは、このように日本の政治的風土を形成していると理解できるのではないだろうか。
「証拠があるからこの主張は正しい」というものではないという話
「ネコとナマコは似ている」という論
ある人が「ネコとナマコは似ている」という論を立てた。理屈はこう。ネコもナマコも前に口、後に尻があり、基本的な構造は円筒形で、口で食べて尻で排泄をする。こんなに共通点があるのだからネコとナマコは似ているのだ、と主張する。もちろんこんな共通性は地球上のほとんどの動物に当てはまるので、ネコとナマコだけを取り上げて類似を強調するのは間違いであり意味が無い。
この「ネコとナマコ」の論からはいくつかの教訓を取り出せる。この議論には証拠があり、説明自体は合理的で矛盾が無い。しかしこの論は、ネコやナマコとより似ている他の動物、トラやヒョウ、ウニやヒトデを反証として取り上げないことによってしか成り立たない。結論に都合の良い証拠だけを選択しているし、証拠に関わる全てを前提とした検討を忘れているし、より妥当さの高い他の説との比較を拒んでいる。そしてそうすることによって、証拠に基づいて合理的に間違っている。証拠があって合理的であることは結論の正しさを保証はしない。
この人はなぜこんな意味の無い議論をしてしまったのだろうか。この人はナマコ愛好者で、家でナマコを飼って可愛がっていた。そのことでこの人は変わり者だと思われていた。ネコは多くの人に好かれている社会的地位の高い動物なので、「ネコとナマコは似ている」と主張することによってナマコに対する評価を変えることができれば、それはこの人にとって好ましいことだった。つまりこの人は自分にとっての好ましさと正しさを混同することによって誤ったのだ。
このように客観的には無意味で妥当しない「ネコとナマコ」論には、それでも一定の支持者が付いた。この支持者たちにしてもそうだが、普通はネコとナマコが似ているとは思わない。ネコとナマコに対する普通の印象と、「似ている」論の間には、大きな落差がある。落差は人にある種の面白さを感じさせる。多くの娯楽は落差を作ることによって人を笑わせたり泣かせたりする。要するにこの支持者たちは、面白さを正しさより優先させることで道を外れている。
知的詐欺というもの
ところでこんなずさんな議論の材料もネコとナマコにとどまっている内は大して罪も無いし間違いに気付きやすいが、世の中にはもっと複雑で重要な問題について「ネコとナマコ」式の主張をする人もいる。たとえば邪馬台国の位置論で、恣意的な証拠の選択をしたり、蓋然性の比較をしない人が少なくない。聖徳太子など有名な歴史上の人物が実在しなかったという説は、落差が有って面白いからある程度の支持を得やすい。人気の芸能人が裏では悪どいことをしているという噂とか、まずいことをしたとされる政治家が実は潔白であるといった言説は、一部の人にとって好ましかったり面白かったりするためにしばしば正しさとは無関係に信じられている。
こういう「ネコとナマコ」式の論を善意の過誤で言う人もいるが、故意に唱えるのは知的詐欺というものだ。詐欺といって金を騙し取るのはすぐに足が付くから下手の方で、上手の詐欺はもっと知的なものを詐取する。そして一度「ネコとナマコ」式の論に騙された人は、自分が愚かにして誤ったとは思いたくないので、正しさを証明しようとして繰り返し同じような知的詐欺に引っかかったり、味方を増やそうとして片棒を担いだりして、ますます泥沼にはまりやすい。
「騙されている時は騙されていることに気付かない」というのは誰もが承認することだろうが、もう一歩進んで「騙されている時は騙されていることに気付かないので、今まさに自分が何ものにも騙されていないとは断言できない」というところまで注意するのは意外に難しいことらしい。傍から見ると滑稽なことだが、それを嗤う人は次に騙される人かもしれない。かく言う私も過去に「ネコとナマコ」に騙されたことが無いとはとても言えないし、これからも騙されることが有るかもしれない。敢えて皆様に忠告するとともに、叱咤をも請う次第。
プロレスリングの歴史と経済 ~体力/試合数*期待値~
1896年、第一回近代オリンピックがアテネで開かれ、その中でグレコローマン・スタイルのレスリングが行われたのが、いわゆるアマチュア・レスリングの始まりとされる。フリースタイルは1904年のセントルイス大会で導入された。当初のアマレスのルールは、当時のプロレスリングから一部の危険と見なされた要素を除いただけで、他はほとんど同じだったという。ここからアマレスが現在に至るまで大きく変化したこと、またプロレスも現在のスタイルとは大きく異なるものだったことが察せられる。現在のプロレスからアマレスが派生することは考えられそうにない。ではプロレスはなぜ、どのようにして現在のかたちに変化してきたのだろうか。
かつてのレスリングは、時間制限や判定などはなく、決着が付くまで延々と闘うのが本式だった。1916年に出版された『How To Wrestle』に次の記述がある。
体育競技の多くの他の種目では、動く時間は、ルールとして、短く、休憩ができるインターバルによって分けられているが、レスリングの試合は十五分で終わるか一時間続くかわからず、その全ての瞬間は困難な仕事に費やされる。
実際、1881年に行われたウィリアム・マルドゥーン対クラレンス・ホイッスラーの試合は7時間15分を経てやむなく引き分けとなったし、1912年ストックホルム五輪のアンデルス・アールグレン対イヴァル・ボエリングは9時間闘って両者に銀メダルが与えられた。オリンピックはともかくとして、プロの試合でこれが興業として成立したのは、19世紀的な未来への楽観的な雰囲気の中でのことだった。19世紀的なプロレスの時代は、20世紀初頭までは続いた。当時のレスラーがどう試合に対応していたかを示す記述が『How To Wrestle』にある。
レスラーの練習活動は大会の性質と予期される勝負までの時間の重要さによって変化するべきである。その一ヶ月より前になると、男は中程度の要求される反復から始めて、試合が決められた時が近付くのに連れて活動の量と厳しさを徐々に増やさなければならない。練習期間が二週間を切るほどになると、当然、より高度な技法を伴う準備を始める必要がある。普通のプロレスラーは、どんな時も軽い練習をやめることは滅多にない。彼らは急な連絡でも速やかにリングに上がれる様に、試合が決まっていない時でさえ相当な状態を保つ様に常に気を付けている。
これによると、プロではないレスラーは多くても一ヶ月に一回程度の試合を行いうるのが普通だった。しかしプロレスラーとなると、金を稼ぐためにより多くの試合をこなし、不意の出場依頼にも応えていたことが窺われる。ここで注意されるのは、試合数の増加によって一試合あたりに消費できる体力が小さくなることである。つまりレスラーが一試合に消費できる体力は、一定期間に用いることのできる体力の総量を、その期間内に求められる試合数で割った値である。これは試合数の増加が試合の質を低下させることを予想させる。しかしこれは試合数の増加が甚大でないうちは、レスラーの鍛錬によって吸収されるだろう。試合数の増加は、レスラーが一試合あたりに得られる報酬が高いほど抑制される。レスラーが得る報酬の高さは、観客や後援者が一試合あたりにどれだけの価値を認めるかで決まるだろう。試合数の増加が甚大にならなかった時期は、まだ19世紀的プロレスに十分な価値が認められていた時期である。
ところが1920年代に入ると、経済や国際関係などの問題が影響して、のんびりレスリングを楽しめる環境が失われてくる。人々はもはや何時間かかるかも分からない大会、しかも面白いとは限らない試合を観に行く価値を認めなくなってくる。認められる価値の低下は、試合数増加の抑制を緩め、同時に一試合あたりに消費する体力を抑制し、試合の質を低下させる可能性を生む。これは観客の満足度を低下させ、なおさら価値の低下に歯止めが利かなくなる危険をはらむ。新しい観客の嗜好は試合時間と満足度の確実性を望んでいる。しかしレスラーやプロモーターたちは巧妙な手法で試合時間の不確実性を減らし、同時に満足度を高めることにも成功した。体力量を試合数で割り、その中で可能なスタイルをうまく選択できたのである。ここにプロレスの新しい時代が開かれることとなった。
次に訪れた大きな変化は、1950年代、敗戦後の日本にプロレスが導入されたことから始まる。相撲や柔術の伝統を受け継いだ日本のレスラーは、プロレスに受け身の概念と技術を確立し発達させた。これはレスラーの交流を通してアメリカやメキシコにも大きな影響を及ぼす。受け身の存在はより大きな動きのある技の使用をより容易にし、観客に新たな驚きを与えた。大技を使うことで映像映えも良くなり、テレビ時代の波に乗ってプロレス人気を拡大させた。
ところで受け身とはそもそも身を守るための技術だが、受け身の存在を前提にすることはより危険性の高い技の使用を促進した。特に1990年代以降の日本プロレス界では、有力な競合商品としての総合格闘技の勃興がこの傾向を顕著にさせ、過激なプロレスが一世を風靡した。技の過激化は受け身を取る技術の向上によって吸収できる範囲を超え、体力消費の増加を招いた。総合格闘技の人気が頂点に達した2000年前後、プロレスラーのこなす試合数は減少する傾向にあったが、人気の低落を伴っていたこともあり、一大会あたりの収益を増やすのは困難な状況だった。こうした深刻なプロレス不況の中で、レスラーは好ましくない状況に置かれ、試合中に重大な傷害を負う選手も出た。この時期の傾向は、総合格闘技が凋落した2010年代にも影響を残した。
近年、新日本プロレスの努力による人気回復は、主要なレスラーの身体的負担を増大させている。1980年代の人気レスラーは年間200試合以上をこなすこともあったと聞くが、観客の期待値が変化しているため、その試合数を単純に今のレスラーに要求することはできない。考えられる対策の一つは、団体の努力によって一選手あたりの試合数を抑制することだが、もう一つは観客を成長させることだろう。
この場合参考になるのはメキシコの老舗団体 CMLL である。CMLL の大会を観ると、その華やかな雰囲気と比べて、試合内容は意外と地味なもので、基礎的な技術が生み出す展開の豊富なバリエーションを見ることができる。CMLL は非常に多くの選手を抱え、大会も多く開いている。すると大きな技や大きな動きの連発ではすぐ飽きられてしまう。観客にも目の肥えた人が多いので、底堅い内容が求められ、それによってルチャ・リブレが日常的娯楽としての地位を獲得できている。日本ではまだたまにしかプロレスを見ない観客の目を驚かせる必要があり、それが選手の危険に繋がる要因になっているようである。選手の安全と、事業の持続性のためにも、この点を課題として認識し、解決していくことが望まれている。
後宮についての雑記
皇位継承の安定性と後宮制度
天武天皇の後継者が百年ほどでほとんど絶えてしまった原因の一つは、産児の少なさにあり、これは後宮の制度が実際的に確立していなかったことに起因する所があるようだ。もっとも天武天皇自身は、十人の女性との間に十男七女を産んでいる。しかし若くして死んだ草壁皇子や文武天皇については問わないにしても、聖武天皇でさえ二人の女性との間に二男三女を残したに過ぎず、しかも二人の男子は早くに死んでいる。なお元正・孝謙は独身で子がなかった。
法制度的には律令の中に後宮職員令というのがあり、側室としては「妃」二人、「夫人」三人、「嬪」四人が定員となっている。また後宮の職務に当たる役人として「宮人」約280人が仕える。宮人というのは女官の総称で、もちろん天皇の方にその気があれば「御手付き」ということがありうる。遡れば実際に天智天皇が「宮人」四人を召して三男三女を産ませている。しかし天武系にはこの実例はない。また天皇自身は律令に拘束されないので、必要なら側室を増員することもできる。そのために桓武天皇以後に設けられたのが「女御」や「更衣」という身分で、後には女御の子が天皇になる例も出てくる。前代の二の轍を避けるために考えられた措置だろうし、現に皇室の安定に寄与する一因となったと言ってよいだろう。
中国の後宮制度と実例
中国では古くから男系、特に父子継承にこだわる王権文化が形成され、これを支えるために後宮の制度が設けられた。《礼記・昏義》に、
古者天子後立六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻,以聽天下之內治,以明章婦順;故天下內和而家理。
という記述がある。つまり周の礼儀では「夫人」三人、「嬪」九人、「世婦」二十七人、「御妻」八十一人、総四等120人が後宮を形成する。御妻は或いは御女または女御ともいう。この役割分担については、《後漢書・皇后紀上》に、
夏、殷以上,后妃之制,其文略矣。周禮王者立后,三夫人,九嬪,二十七世婦,八十一女御,以備內職焉。后正位宮闈,同體天王。夫人坐論婦禮,九嬪掌教四德,世婦主喪、祭、賓客,女御序于王之燕寢。
とあり、世婦と御妻は側室というより侍女かと思う。
では歴史上の実例はどうかというと、《資治通鑑・漢紀四十六》に、
帝又徵安陽魏桓,〈安陽縣,屬汝南郡。〉其鄕人勸之行,桓曰:「夫干祿求進,所以行其志也。今後宮千數,其可損乎?廐馬萬匹,其可減乎?左右權豪,其可去乎?」〈去,羌呂翻。〉皆對曰:「不可」。桓乃慨然歎曰:「使桓生行死歸,於諸子何有哉!」〈賢曰:若忤時強諫,死而後歸,於諸勸行者復何益也。〉遂隱身不出。
という逸話を載せている。これによると、東漢の桓帝の時、魏桓なる人物に朝廷から仕官の誘いがあった。近所の人が仕えたらいいじゃないかと勧めると、魏桓は世の中が非常に不景気なのに政府が贅沢をしていることを非難し、仕えて昇進してみてもそれをやめさせられる政情じゃないからというので、身を隠して出仕しなかった。その言葉の中に「後宮千数」とある。千数というのは、千を単位として数えるほど、ということだろう。
荒侈滋甚,後宮數百皆服綺縠,餘粱肉,而士卒凍餒,江淮間空盡,人民相食。
後宮には数百人を置き、みな綺麗な服を着て食糧も余るほど蓄えていたが、これは実際には一地方政権に過ぎない袁術には過ぎた贅沢で、士卒は飢えて凍えてしまうし、一般人民には食品が全く渡らず、互いに食うほどの有様だった。
《三国志・呉書・孫皓伝》に付けた裵松之の注に《晋陽秋》を引いて、
濬收其圖籍,領州四,郡四十三,縣三百一十三,戶五十二萬三千,吏三萬二千,兵二十三萬,男女口二百三十萬,米穀二百八十萬斛,舟船五千餘艘,後宮五千餘人。
呉が晋に降伏した時、その後宮は五千人余りという規模だった。これもやはり呉の国力としては奢侈が過ぎたというものだろう。
下って唐代になると、《通典・職官十六・后妃》《旧唐書・職官三》《新唐書・百官二》などによれば、唐の後宮制度は始め隋の煬帝が欲を出して拡張したものを受け継いだが、次第に整理して、玄宗の時には「妃」三人乃至四人、「六儀」六人、「美人」四人、「才人」七人を標準とした。これに仕える女官は数え上げると270人ほどになる。ただし中国では後宮の職務のために宦官も入るが、宦官の所属する内侍省という役所が別にある。日本には宦官はないので、後宮の中に内侍司という部署があって女官が所属する。いずれにせよ案外規模が小さいという印象を受けるが、やはり皇帝は律令の拘束は受けないので、実際はどうかというと、白居易の《長恨歌》に、
後宮佳麗三千人,三千寵愛在一身。
という有名な句がある。これは詩的表現だから厳密には請け合えないが、他の例によって考えるとあながち誇張でもないようだ。跡継ぎを作るためだけなら、皇帝一人に女性三千人は、いくらなんでも必要がないだろうから大変な贅沢である。
血統を権力の根拠にする社会では、君主の後継者がなくなるとたちまちに体制の崩壊を招くこともある。昔は死産が少なくなく、嬰児の死も多く、せっかく成長しても病気や政争で殺される危険もある。そうした不安が根底にあって、贅沢をしたいという欲が加わり、権力がそれを実現し、また不安によって贅沢が許容される。そして人の感覚というものは、一度贅沢をすることに慣れてしまうと、どのくらいが必要最低限度なのかが分からなくなる。継承は男系で、それも父子継承が望ましいといったように、限定条件を付けることで、不安が増すことはあっても減ることはない。
天武天皇評伝(二十七・完) 後継者たち
大津皇子は、天武天皇と大田皇女の子で、この年二十四歳というから、天智天皇の称制二年に生まれている。鸕野皇后にとっては姉の子で、草壁皇子からは一歳下の弟ということになる。草壁と大津の関係は、『日本書紀』からはよく分からない。ただ『万葉集』に載せられた107~110の歌とその題詞によると、大津は草壁の恋人を奪って密通したことがあったと読み取れる。大津は体格がよくてはきはきしていたといわれるが、放蕩でもあったという。天性温和な草壁はこの弟が苦手だったのだろうし、皇后としても我が子のことを思いやれば大津の存在を快しとしなかったのだろう。
大津皇子謀反のことは、『懐風藻』によれば、新羅人の僧侶行心が、
「あなたの骨相は、どうも人臣のものではありませんね。下の位に甘んじていると、かえって身を滅ぼすかもしれませんよ」
と言ってそそのかしたということになっている。川嶋皇子もこの謀議に加わったが、返り忠をしたとも書いてある。これらは本当かどうか分からない。
朱鳥元年の秋頃、大津は姉の大来皇女を訪ねて伊勢に行っていたらしい。大来は斎王として伊勢に遣わされていた。これは『万葉集』105・106の歌から読み取れることで、正確にはいつのことかは分からない。しかし天武天皇の死に目に帰らなかったり、殯をすっぽかすようなことになると、鸕野皇后を怒らせることは間違いない。大津には迂闊なことをして後からくよくよするような所がある。ともかく倭へ戻らなければならない。大来にはこれが最後の別れになると分かっていた。
鸕野皇后は大津皇子を除こうと決めていた。決心したことを実行する機敏さと意志の強さは父譲りのものを持っている。表立って闘うよりもむしろ隠謀によって問題を処理することは、この国の伝統と言ってよい。それは確かにより多くの血と涙が流されることを防いでいる。天武天皇の殯が始まって間もない十月二日、皇后は大津の身柄を確保し、共謀者として三十人余りを捕らえた。早くもその翌日、皇后は大津に死を賜った。自刃させたようである。大津の辞世の句、
百伝 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟(百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ)
これは今の世にもよく知られている。
このとき大津の妃山辺皇女が駆けつけて殉死した。他の者の処分は軽いものだった。
天武天皇の殯は、およそ二年間にわたって行われた。この間、供養のために無遮大会を開いたり、遺品の着物を袈裟に直して三百人の僧侶に贈るといったこともした。仏教が日本の成立に及ぼした影響は既に大きい。崩御から二年後の十一月十一日、天武天皇の棺は大内陵に納められた。今、奈良県高市群明日香村の野口王墓古墳で、天皇陵古墳の比定が確実な数少ない一つである。
さて鸕野皇后は、殯が明ければ草壁皇子に天皇の跡を継がせるつもりだったのか、それともまずは自身が皇位に即いてから譲位するつもりだったのだろうか。空位の状態が続くうち、草壁皇子は皇太子のまま、この翌年の四月十三日に薨去した。死因は伝えられていない。皇后は皇太子の死に当たって、柿本人麻呂や皇子の舎人らに歌を作らせただけであった。皇太子の死は、この後の鸕野の政治に影を落とさなかった。
この年の六月二十九日、諸官司に令一部二十二巻が班布された。いわゆる浄御原令で、律はまだ法典の形にはならなかった。
翌年正月一日、皇后は天皇の位に即いた。これが持統天皇である。『日本書紀』は天武天皇崩御の翌年を持統天皇の元年として年を数える。持統天皇の即位はその四年である。七月五日、高市皇子を太政大臣とした。
いわゆる藤原京は、当時は新益京と呼ばれ、五年十月に地鎮祭が行われた。その実態は近年の発掘によりかなり明らかになってきた。新益京の王宮が藤原宮で、これが京域の中央やや北寄り乃至ほぼ中央に置かれた点は、『周礼』に記された上古の理想的都城を思わせる。それは、
方九里,旁三門。國中九經九緯,經涂九軌。左祖右社,面朝後市,市朝一夫。
〔全体の面積は〕方九里、旁(側面)には三つ〔ずつ〕の門。国(城)中は九径九緯(南北九本ずつの街路)、経涂(道幅)は九軌。〔王宮の〕左には祖(宗廟)右には社(社稷)、面(前)には朝(朝庭)後には市(市場)、市・朝は一夫〔ずつの面積を占める〕。
とあるのである。自然の地形をものともしないような直線的設計は、やはり理想的都城がそのまま現出したかのような観を呈している。周囲に城壁と言えるほどのものはなく、あったとしても土塀くらいのものだった。都市に城壁を巡らせることは古代世界の常識と言ってよく、くどくなるので『周礼』でもことさらには書かない。日本はこの常識の外にあったので、文字通りに読んで城壁などない方が理想に近いと考えたのだろうか。新益京の設計思想はやや変化しながら平城京や平安京に受け継がれる。
八年十二月六日、持統天皇は藤原宮に遷る。十年七月十日、高市皇子が薨去した。十一年春、珂瑠皇子を立てて皇太子とした。珂瑠皇子は草壁皇子と阿倍皇女の子で、阿倍皇女は天智天皇と蘇我氏姪娘の子である。八月一日、持統天皇は位を譲り、珂瑠皇子が皇位に即いたが、これが文武天皇である。この年を文武天皇の元年とする。
文武天皇の五年三月、元号を建てて大宝元年とした。これが現在まで連続する年号の始まりとなる。同時に新令の施行、官名・位号の改正が行われる。八月には律法典ができ、ここに大宝律令が完成した。十二月、持統太上天皇が崩御した。大宝四年五月、改元して慶雲元年とした。慶雲四年六月、文武天皇が崩御したが、まだ二十五歳の若さだった。
七月、阿倍皇女が皇位に即いたが、これが元明天皇である。草壁皇子と文武天皇の相次ぐ夭折は、天武天皇の血を引く男子による権威の再生を必要とするこの王朝にとって大きな危機であった。このためにおそらく元明天皇のもとで、史書編纂の方針が、天武天皇の功績を賞賛するよりも、皇統の永続性を強調する方へ、重点を移したもののようである。翌年正月、改元して和銅元年とした。和銅三年三月、平城京に遷都した。和銅五年正月二十八日、太安万侶が『古事記』を撰上した。
和銅八年九月、元明天皇は皇女氷高内親王に譲位したが、これが元正天皇である。和銅八年を改めて霊亀元年とした。霊亀三年十一月に至り、改元して養老元年とした。
養老四年五月、舎人親王らが『日本書紀』の完成を奏上した。かつて天武天皇が川嶋皇子・忍部皇子らに詔して「帝紀及び上古の諸事を記定」させるということを始めてから、約四十年が過ぎていた。近年の学者が深く分析する所によれば、この書は雄略天皇紀から編纂が始められ、それより前の部分が当初はなかった。一方で『古事記』は雄略天皇没後のいざこざを述べたのが主な内容の最後で、そのあとは推古天皇までの簡単な系譜を記すに過ぎない。このあたりに両書が並行して編まれた理由がありそうに思われる。この両書は王権の由緒を証明する思想書としての性格を色濃く持っており、今日から見ると史料としては扱いに注意を要する。しかしこの段階の社会において、単なる資料の集積ではなく、大きな構想に基づく歴史を編みえたことは驚嘆に値する。それは当時の必要に応じて作られた歴史であった。
養老八年二月、元正天皇は首皇子に位を譲るため退位した。首皇子は文武天皇と宮子夫人の子で、宮子夫人は藤原不比等の息女である。和銅七年六月に立てられて皇太子となった時は十四歳だった。禅りを受けて即位したが、これが聖武天皇で、養老八年を改めて神亀元年とし、宮子夫人を尊んで皇太夫人と称した。
神亀四年閏九月、聖武天皇に皇子が生まれた。これはこの王家の人々にとってこの上ない慶賀だった。皇子の誕生を祝って、十月には恩赦を発布し、また諸々の官人に物を賜い、さらに天下の皇子と同日に出産した者に布・綿・稲が配布された。十一月には朝堂で祝宴を催し、皇子を立てて皇太子とすることも発表した。しかし翌年、皇太子は病気にかかり、九月、いまだこの世のものになりきらぬ齢のままあの世へ還った。
神亀六年八月、改元して天平元年とし、光明子夫人を立てて皇后とした。これが光明皇后である。皇后は皇太夫人の妹で、皇族でない皇后は当時異例だった。かつて仁徳天皇が葛城襲津彦の息女を皇后にしたという伝説的故事を引いて、前例のないことではないと聖武天皇は主張しなければならなかった。
天平十年正月、阿倍内親王を立てて皇太子とした。女性の皇太子はこれが初めてで、もし次に現れれば二例目になる。
天平二十一年二月、陸奥守百済王敬福より、その土地に黄金を産出したとの報告がもたらされた。これまで日本列島に黄金が出ることは知られていなかった。敬福は百済義慈王の曾孫である。四月、改元してこの年を天平感宝元年とした。ほどなく黄金九百両が届けられたが、これはかねて建造中で形がほぼできあがっていた大盧舎那仏像の鍍金に要する量の約一割であった。
七月、阿倍皇太子が禅りを受けて皇位に即いたが、これが孝謙天皇である。天平感宝元年を改めて天平勝宝元年とした。四年四月、大仏が完成し、開眼供養の儀式が盛大に催された。その様子は『続日本紀』に「いまだかつてこのように盛んだったことはない」と記されている。
八年五月、聖武太上天皇が崩御し、遺詔により道祖王が皇太子に立てられた。道祖王は新田部親王の子で、新田部は天武天皇と藤原氏五百重娘の子である。九年三月、道祖王は素行が悪く教えても改悛しないとして、皇太子を廃された。四月、大炊王を立てて皇太子とした。大炊王は舎人親王と当麻山背の子で、舎人は天武天皇と新田部皇女の子である。大炊王の妃は故藤原真従の未亡人で、真従の父が仲麻呂である。この立太子には仲麻呂の力があった。
五月、養老律令の施行が命じられた。これは藤原不比等が養老年中に大宝律令を修正したものだということになっている。日本の律令は、唐の律令をもとに日本の実情に合わせて改めたものだと説明されるが、実際にはまだ至らない所も多い。戸籍の造り方は当時の親族組織に適していないようだし、班田法などはむしろより多く理想的でさえある。養老律令は改正されることなく実際上の制度としては形骸化していくものの、法秩序の規範としては長く武家時代にも意識されていた。ひょっとすると今でも我々の規範意識のうちに律令が生きているのかもしれない。
天平宝字二年八月、孝謙天皇の譲位を受けて大炊王が皇位に即いたが、これが淳仁天皇である。八年九月、孝謙上皇は仲麻呂が大逆を謀ったとしてこれを討ち、十月には淳仁天皇も捕らえて廃位し、淡路国に追放する。孝謙上皇が復位し、これを称徳天皇と呼ぶ。翌年一月、改元して天平神護元年とした。天平神護三年八月、改元して神護景雲元年とした。
神護景雲四年八月、称徳天皇が崩御した。この時、血縁から言えば最も皇位に近いのは、聖武天皇の皇女井上内親王だった。この人はおそらく政治的才能がなかったのだろう。藤原永手らは天皇の遺志だとして、井上内親王の夫白壁王を皇太子に擁立した。天皇が死んでから皇太子を立てるというのはおかしいようだが、これには事情がある。天武天皇の時よりこのかた、皇位を継承する資格を認められたのは、まず第一にその血を引く男子だった。天武の血を引く男子で適当な者がない時は、皇后か皇女が皇位に即いた。天智天皇の血を引くだけの者は、言わば二級皇族としての扱いを受け、皇位継承候補になることはこれまでなかった。白壁王は、天智天皇の孫で、施基皇子と紀橡姫の子であり、もしにわかに即位すれば不測の事態を招かないとも限らない。
およそ二ヶ月を空けて、十月、白壁王が位に登って天皇となった。これが光仁天皇である。神護景雲四年を改めて宝亀元年とした。光仁天皇にとっては、井上内親王と結婚し、二人の間に他戸親王が生まれていたことが資格となった。十一月、井上内親王を立てて皇后とし、二年正月には他戸親王を立てて皇太子とした。やがて他戸親王が天武天皇の子孫として皇位を継ぐだろうと思われた。
ところが宝亀三年、光仁天皇は皇后と皇太子に厭魅大逆の疑いをかけ、その地位を廃して京外に幽閉する。四年正月、光仁天皇は山部親王を立てて皇太子とする。山部親王は光仁天皇と高野新笠の子で、高野氏は百済武寧王の子孫を称する渡来系氏族である。六年四月、井上と他戸は同じ日に死んだ。宝亀十二年を改めて天応元年とした。
天応元年四月、高齢の光仁天皇は位を譲り、山部皇太子が即位したが、これが桓武天皇である。十二月、光仁太上天皇が崩御した。
天応二年正月、氷上川継が反乱を謀ったとして捕らえられた。桓武天皇は喪に入ったばかりで刑を論ずるに忍びぬとして、死罪に当たる所を一等減じて伊豆国の三嶋に配流とした。川継は、天武天皇の孫塩焼王と聖武天皇の皇女不破内親王の子で、その血統のために桓武天皇の疑いを受けたのに違いない。この年は壬申の乱より百十年を経ている。桓武天皇の血すじは、昔日の大友皇子よりも一層不利であった。しかし、大化以来の法制度的改革と内的発展の結果として、今度は社会の方がようやく変わってきていた。天の福禄は永遠に天武天皇の血統を離れ、暦数は桓武天皇を選んだ。桓武天皇はやがて山背遷都を成功させ、政治を刷新して新しい体制を築くはずだ。桓武天皇は天武朝の正統性を否認し、天智天皇の望みを実現したつもりであった。だがこの時に至ってこれが可能になったのは、天武天皇が天智天皇の改革を穏当な発展の路線に引き戻したからなのである。
天武天皇の日本は百年余りにして歴史の中に閉ざされたが、その期間の短さ故に特異な光彩を放ち、日本人と日本に関わる人々が解き続けなければならない謎をこれからも問いかけるだろう。(了)