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六世紀末に流行した天然痘

 『日本書紀敏達天皇の十四年(585)三月の条に、当時流行した病気の症状について記されている。「瘡ができて死ぬ者が国にあふれた。その瘡を患った者は、体が焼かれ打たれ砕かれるようだと言い、泣きむせびながら死んだ」という意味のことが書かれている。この病気は今の天然痘かとみられている。国立感染症研究所のウェブサイト(天然痘(痘そう)とは)によると、天然痘の前駆期には「急激な発熱(39 ℃前後)、頭痛、四肢痛、腰痛などで始まり、発熱は2 〜3 日で40 ℃以上に達する。」とあり、「体が焼かれ打たれ砕かれるよう(原文、身如被燒被打被摧)」というのに同じく、瘡(水疱)ができること、流行性であることも符合する。

 このほか、同年二月の条に“疫疾”が起こり民に死者が多く出たとか、欽明天皇の十三年(553)に“疫気”が起こって民に若死にする者があったといい、それぞれ症状は不明ながら、天然痘の可能性が考えられる。

 この十四年三月の際には、敏達天皇物部守屋も瘡を患ったとある。二月の時には蘇我馬子も疾を患ったとあり、天然痘かもしれないが病状は伝わらない。敏達天皇はこの年の八月に病死しており、天然痘かその合併症によるものだろう。

 九月には用明天皇が即位する。しかし二年(587)の四月二日、新嘗を行った当日に病気になり、九日に崩御した。新嘗の儀式は通常は十一月の冬至に近い時期に行ったものである。用明天皇についてはこのこと以外は全然動静が伝えられていない。病状は不明だが、やはり天然痘関連の病死かも知れない。

 天然痘による死亡原因と合併症について国立感染症研究所のウェブサイトは「死亡原因は主にウイルス血症によるものであり、1週目後半ないし2週目にかけての時期に多い。その他の合併症として皮膚の二次感染、 蜂窩織炎、敗血症、丹毒、気管支肺炎、脳炎、出血傾向などがある。出血性のものは予後不良となりやすい。」としている。

 この病気の流行について、『日本書紀』は物部守屋らによる「蘇我氏が仏教を行ったからだ」という主張と、民間の「守屋が仏像を焼いた罪だ」という噂の両方を載せている。これはおそらく記事を構成する資料として寺院の文書を利用したためだろう。人の出入りが決して妨げられてはいなかったのだから、二十世紀半ばまで世界を席巻することになる伝染病が流入するのは時間の問題に過ぎなかった。