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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

天武天皇評伝(十七) 希なる改革者の最期

史伝

 天智天皇は、従来の慣習を破って、大友おほとも皇子に皇位を継承させる形を作ろうとしてきた。これに大海人おほしあま皇子は反対のはずである。しかし、兄弟の間に感情的なしこりがあるとはいえ、基本的には理想を共有している二人でもある。相続法を父子直系式に変えることと、王族の近親婚を減らしていくということについては、大海人も方向性としては賛成している。ただ大海人としてはそれはまだ先の世代の課題だと思っている。天智天皇としては自身が創始した天皇制のもとであくまで新しい相続法を実現するつもりだった。

 だが病の床に臥せた天智天皇は、いよいよ本当に命が終わろうとしていると悟ると、大友を後継者にするのは抵抗が大きいということをひしひしと感じて、いたたまれない思いになってきたものらしい。即位四年冬十月十七日、後のことを相談するため、寝殿大海人皇子を招いた。

 この時のことは、『日本書紀』の中でも天智天皇紀と天武天皇紀の両方に記されており、しかも微妙に事の感じが違う。どういうことだろうか。

 天智紀によると、この日、天皇は病状が悪化し、勅して大海人を寝室に召し入れた。詔して曰わく、

「余の病気は重い。後のことは汝に委ねる」

 云々と。大海人は再拝して自分も病気があると称し、固辞して受けず、曰く、

「帝業は皇后に委ね、大友王に摂政をさせたらよいでしょう。わたくしには天皇の御為に出家して修行をさせていただきたい」

 天皇はこれを許した。大海人は再拝して立ち、すぐに宮中の仏殿の南に出て、髪と髭を剃り落として法師の姿となった。天皇は人を遣わして袈裟を贈った。

 天武紀では、少し様子が違う。天智天皇蘇我安麻侶そがのやすまろを遣わして大海人を呼んだ。安麻侶は普段から大海人と仲がよかった。安麻侶はこっそりとふりかえり、

「お気をつけてお話しあれ」

 と告げた。そこで大海人は何か隠謀があることを疑って警戒した。天皇が大海人に帝業を授けようと勅すると、大海人は辞退して曰く、

「臣の不幸は、もともと病気がちなことです。どうしてよく社稷を保てましょう。陛下は天下を挙げて皇后に預け、かさねて大友皇子を皇太子となさればよろしいでしょう。臣は今日出家して、陛下の御為に功徳を修めましょう」

 天皇はこれを許した。大海人は即日出家して法衣をまとい、この機会に私家の兵器は全て官に納めた。

 ここでは安麻侶の忠告が強調され、壬申の乱への伏線としてこの会見が位置付けられている。ここで本当に何か隠された謀があったのかどうかは全く分からない。兄弟の会話については潤色の差があるだけで内容に違いはない。だが死に臨んだ兄が弟に言ったことはこれだけなのだろうか。そもそもこんな会談は人払いをしたに違いなく、証言者のいそうにない事件をどう記録するか、それは歴史の勝者に委ねられている。

 こういう状況で人は何を望むものだろうか。人は似た立場に置かれれば似たことを考えるものだとすれば、参考になりそうな例がある。

 中国北朝の斉は、南朝の斉と区別して史上に北斉と呼ばれる。北斉の初代文宣帝が崩御すると、長男でまだ十五歳のいんが二代皇帝に立てられた。一年足らずして、文宣帝の弟のえんは、殷を廃位させて自ら帝位に即いた。これが孝昭帝である。殷は廃位されたので廃帝と呼ばれる。初め、両者は互いに害をなさないことを約束していた。即位の二年目、孝昭帝は廃帝の逆襲を恐れて、鴆毒をやって死なせようとしたが、廃帝は服まなかった。そこで孝昭帝は廃帝を絞め殺した。ところが政敵がなくなって安心とはいかず、ひどく後悔して、そのためか熱病にかかった。孝昭帝の次男百年はくでんが皇太子になっていたが、まだ幼いので後を継がせず、弟のたむを登極させることに決めた。臨終の間際、孝昭帝は弟に宛てて手ずからこんな遺書を書いた。

「百年はまだ罪のない子どもだ。どこかいい所に置いてやってくれ。前例に学ぶのではないぞ」

 湛が帝位に即いたが、これが武成帝で、結局四年後に百年を殺した。

 これは実にありうべきことだ。別に立派でない人でも最期に望むのは子どもの命が無事であってほしいということなのだ。天智天皇もやはり、確かに位は譲るから大友の命だけは助かるようにしてやってくれ、と大海人に頼んだはずではないか。自分のしてきたことを忘れたわけではなく、自覚があるからこそ今さらながらに因果応報ということが恐くなるのだ。自分が死ねば、大友は有力な外戚の後ろ盾もない、政治的に孤児同然の皇子ではないか。弟はきっと兄がしたようにこの子を殺すに違いない。

 この兄の願いに対する弟の答えが、皇后への譲位という提案だったとすると、天智天皇にとっては恐ろしい結果を予想しなければならないものだった。王族の人であるやまと皇后が、伊賀の采女に生まれた大友皇子を守ってくれるという保証はない。それに皇后は今でこそ皇后に収まっているが、天皇が死んでしまいさえすれば、父古人大兄ふるひとのおほえが殺された恨みを晴らそうとはしないだろうか。

 それにしても大海人皇子はなぜ譲位の提案をことわるのか。それは大海人にとって悪い話ではない。病を称するというのは辞退の常套句であり、本当のことだとは限らない。平穏裡に皇位を手にして、もし大友が邪魔になれば後からいくらでも理由を付けて抹殺することもできる。しかしここで大海人は、ちょっと待てよ、と考える。大海人は天文・遁甲という学術の実践者でもあった。つまり理論的に物事の見通しを立て、身の処し方を考えることのできる頭脳の持ち主なのだ。

 大海人としてはもしここで譲位を受けても、それは従来の慣習を踏襲するだけのことであり、それ自体は何にもならない。継承権は当然自分が持っているのだ。それにここ数年の兄の政策は、近江への遷都や人材の抜擢などで評判が悪い。海外の事情もどう転ぶか測りがたいものがある。ここで天智体制をそのまま受け継ぐのは損だ。自分が思うような方向へ軌道を修正するだけで大変な労力を取られることになる。そしてその過程でどうしても天智派の人々と衝突することは避けられないだろう。ならばどういう道があるのか、大海人にはもう計算ができてしまったらしい。

 十九日、僧形になった大海人は近江国あふみのくにを去り、倭国やまとのくに吉野山へ向かった。天智天皇にはもはやどうする力もなく、ただ痛切な思いを諦念の中に閉じ込めるだけであったろう。

 十一月二十三日、大友皇子は内裏の西殿の織物の仏像の前に座り、左大臣蘇我赤兄そがのあかえ・右大臣中臣金なかとみのかね、また御史大夫蘇我果安そがのはたやす巨勢人こせのひと紀大人きのうしが侍した。大友皇子がまず立って香炉を手に取り、誓盟して曰く、

「六人は心を同じくして天皇の詔を奉る。もし違う者あらば、必ず天罰を受けようぞ」

 云々と。ここに左大臣ら香炉を取って次第のままに立ち上がり、涙も血に染まらんばかりに泣いて、

やつこら五人、殿下に従いて天皇の詔を奉る。もし違う者あらば、四天王これを打てよ、天神地祇もまた誅罰せよ、帝釈天もこれ聞こしめせ。子孫はまさに絶え、家門は必ず亡びん」

 云々と誓った。

 二十九日、左大臣ら五人は大友皇子を奉じて、天皇の御前に盟誓を報告した。この日、新羅の文武王に絹五十匹・絁五十匹・綿千斤・革百枚を贈ることとし、使節金万物こむもんもつらに預けた。今はとにかく平穏を図るに限る。

 十二月三日、天智天皇大津宮崩御した。四十六歳だった。

 天智天皇は、先見の明に優れ、決断力に富み、妥協の機微を知り、史上に希な真の改革派の闘士だった。しかし晩年には改革を急いで中庸を失う所があり、そのために大友皇子を一層困難な状況に置き残した。もっともこんな行き過ぎは変革期を担う人物にはありがちなことで、これだけの勢いをもってしなければここまでの改革は実現できなかったのかもしれない。その人格や事績は、秦の始皇帝織田信長と比較されるべきである。

 時に当たって世の人が唄ったという歌三首が『日本書紀』に引かれている。

  美曳之弩能みえしのの 曳之弩能阿喩えしののあゆ 阿喩擧曾播あゆこそは 施麻倍母曳岐しまへもえき 愛倶流之衛えくるしゑ 奈疑能母縢なぎのもと 制利能母縢せりのもと 阿例播倶流之衞あれはくるしゑ(み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島辺も吉き え苦しゑ 水葵のもと 芹のもと 吾は苦しゑ)

  於彌能古能おみのこの 野陛能比母騰倶やへのひもとく 比騰陛多爾ひとへだに 伊麻拕藤柯禰波いまだとかねは 美古能比母騰矩みこのひもとく(臣の子の 八重の紐解く 一重だに 未だ解かねは 御子の紐解く)

  阿箇悟馬能あかごまの 以喩企波々箇屡いゆきはばかる 麻矩儒播羅まくずはら 奈爾能都底擧騰なにのつてこと 多拕尼之曳鶏武ただにしえけむ(赤駒の い行き憚る 真葛原 何の伝言 直にし吉けむ)

(続く)