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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

「大王」なる称号は本当にあったのか――ついでに天皇号の由来について

補説

 日本古代史の概説書などを読むと、天皇号の前身として“大王”号が使われていた、ということがしばしば書いてある。しかしなぜそう言えるのか、考えてみるとよく分からない。


 “大王”という字は確かに日本の古い史料に出てくる。その意味では証拠のあることなのだが、はたして大王という字さえ出てくれば、それが称号として用いられていたと考えて良いのだろうか。そもそも大王だいわうという熟字は、古典漢語としては王に対する尊称であり、制度的な称号として使われてはいない。たとえば、《魏志武帝紀》の「漢の献帝曹操爵位を進めて魏王とした」という記事に付けられた裴氏の注に、《曹瞞伝》を引いて、

尚書右丞司馬建公所舉。及公為王,召建公到鄴,與歡飲,謂建公曰:「孤今日可復作尉否?」建公曰:「昔舉大王時,適可作尉耳。」王大笑。

曹操はかつて〕尚書右丞の司馬建公に〔尉の官職に〕挙げられた。公(曹操)の王となるに及び、建公を召して鄴に到らせ、ともに歓飲して、建公にかたって曰く「わしは今日でも尉になれるかな?」。建公の曰く「昔大王を挙げた時には、まさに尉とすべきだっただけです」。王は大いに笑う。

 とあるが、建公の発言にある大王とは魏王である曹操への尊称であり、逆に言うと大王という尊称に対応する称号は王である。こうした用例は枚挙に暇がないのでいちいち引かない。

 日本の史料でも、たとえば「天寿国繍帳」の銘文に、尾治王という人名が見えるが、この人物は同じ銘文の中で尾治大王とも呼ばれている。おそらくどちらも読み下すなら“をはりのおほきみ”と読ませるつもりなのだろう。きみという和語は王の字に対応し、おほはそれに付加する敬称であって、敬語体で読むなら王だけでもおほきみと訓じるべきなので、大の字は書かなくても良いのである。この銘文は四文字ごとに分記されていて、全四百文字丁度に収められている。字数を調整するために同じことを一方では王、他方では大王と書いたのだろう。

 「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」には、

小治田大宮治天下大王天皇をはりだのおほみやにあめのしたしらしめししおほきみすめらみこと

 という句があり、ここでは大王の二字ともが天皇に付加する敬称として使われている。この用法は漢文としては少しおかしいが、これが宣命体に近い変体漢文で書かれているために可能になっている。

 《日本書紀》でも大王という語は王と称するべき人物への尊称として使われ、漢文の一般的な例に従っている。書紀は正格漢文を志向しているから当然とも言える。《古事記》には大王の用例は見当たらない。

 「埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘」における大王という字は、あるいは称号と考えられないこともない。しかし称号であるという明らかな蓋然性があるわけでもない。「江田船山古墳出土大刀銘」は象嵌の剥落が激しく、「隅田八幡宮所蔵人物画像鏡」の銘文も釈読に疑いがありそうで、扱いに慎重さを要する。どちらともとれるというものは、一個の証拠としての判断を強いてするより、むしろ一般例から類推をしておくべきではないだろうか。

 このように見てくると、大王という称号が行われていたという証拠は、一つもなくなってしまいそうである。


 さてここまでは、実はかつて東洋史碩学宮崎市定が「天皇なる称号の由来について」(ちくま学芸文庫『古代大和朝廷』所収)で論じたことの一部を、改めて確認したものである。ここから私はもう一歩踏み込んで、大王号が存在しなかったことを示す、より積極的な証拠を探してみたい。いったいそんなものがあるのかというと、別に新発見の史料というわけではなく、昔からよく知られた文章の中にそれらしきものを見いだすことができる。

 《日本書紀》、推古天皇の十二年四月の条に、聖徳太子の作とする有名な十七条の憲法を全文引用してある。憲法といっても近代的な立憲主義における憲法とは意味が違うが、日本史上に知られる最初の明文法であり、当時各地で行われていた慣習法の存在を前提としつつ、それに王権による規制を及ぼそうとしたものとみられる。その第十二条は、

十二曰、國司國造、勿歛百姓。國非二君、民無兩主。率土兆民、以王爲主。所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦歛百姓。

 というのだが、ここに王とあるのは“いわゆる天皇”を指している。この用例はどういう意味を持つものだろうか。

 もちろん中国でも皇帝のことを王の字で示すことはあるが、それは皇帝制以前の上古の王になぞらえた象徴的な言い方である。もしそうした詩的表現でなしに皇帝を王と呼んだら、それは言葉の上で皇帝を貶めることになる。この意味では《日本書紀》においても、皇極天皇の元年十二月に、

於是、上宮大娘姫王、發憤而歎曰「蘇我臣、專擅國政、多行無禮。天無二日、國無二王。何由任意悉役封民。」

是に於いて、上宮大娘姫王かみつみやのいらつめのみこは、発憤して歎いて曰く「蘇我臣は、専ら国政をほしいままにし、多く無礼を行う。天には二つの日は無く、国には二りの王は無い。何に由って任意に悉く封民をつかうのか」

 とあるのや、また孝徳天皇の大化二年三月の条、中大兄皇子の上奏文の中に、

天無雙日、國無二王。是故、兼并天下、可使萬民、唯天皇耳。

天には双つの日は無く、国には二りの王は無い。是の故に、天下を兼併し、万民を使うべきは、唯天皇のみ。

 だとかの例がある。これらは漢籍に散見してよく知られる「天無二日、国(土)無二王」という文句を引いていることが明らかである。十七条憲法の例は、やはり有名な《詩経》の

普天之下,莫非王土;率土之濱,莫非王臣。

 というのをあるいは意識したかとも思われるが、意味内容は全く異なる。何より憲法は詩ではなく法律なのであって、その用語は正式のものであるはずではないだろうか。

 ただ書紀への引用だけが伝わるこの憲法の条文が、その採録に際して手を加えられていないかという問題はある。しかし天皇の祖先はずっと昔から天皇だったかのように印象づけようとしている書紀が、他の何かを改変して王にする理由はない。そうするとこの王という字は原文のままであると考えるしかなく、なぜそれが天皇という字に書き換えられなかったかが、この場合にはかえって問題になる。

 その答えは何か。それを理解するために、十七条憲法の全文を載せることは、長くなるのでしない。ここで重要なのは、この憲法が四字一句を基本とする駢儷体で書かれていることである。駢儷体は中世中国で盛んに行われた、当時流行の文体である。もし王という字を天皇の二字に変えると、四シラブルを基調とする斉一なリズムを壊してしまう。もし天皇乃至大王という称号が、この条文が作られた時にあったなら、その二字が入るように駢文を組むことはできた。もしそれが大王であったら、それを書紀の編集者が天皇に置き換えることは、同じ字数だから容易だったが、実際にはそうではなかったということになる。


 前掲の宮崎説では、大王号の存在を否定した上で、“天王”号が五胡十六国からの影響で5世紀中頃から行われ、天皇号の起源になったとする。私は宮崎説にある程度まで賛成するが、“天王”号の導入はそれほど古いことではなく、推古天皇の時だと考える。十七条憲法の制定された時にはまだ倭国の正式の君主号は単に王だった。この憲法の第二条では、明確に仏教尊崇を定めている。これは隋朝が仏教に傾倒したのに呼応したものであり、対隋交渉の必要から推古天皇は当時、憲法制定後のある時期から“天王”と称したと思われる。天王とは仏教を外護する王者の謂である。王を皇に変えて“天皇”としたのは、おそらく天智天皇天武天皇の時で、法典の編纂に際しての用語確定に関係してのことであり、仏教への傾倒をいくらか修正する意図によるものだろう。

 王と皇は日本漢字音の呉音ではワウ(オウ)という同じ音である。呉音は南北朝時代の江東方言に由来する。7世紀には隋唐時代の長安標準語に基づく漢音が入り始め、特に桓武天皇の時には漢音が推奨された。以後、呉音と漢音は日本漢字音の二本柱となり、現代まで続いている。漢音では王はワウ(オウ)、皇はクヮウ(コウ)で同音にならない。道教などの用語としての天皇は漢音でテンコウと読む。漢音推奨後も日本の天皇がテンコウにならなかったことは、その由来を示唆しているのだろう。