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日本版・古代帝国への道(後編)

(承前)

kodakana.hatenablog.jp

 高句麗の王都平壌が陥落し、宝蔵王が囚われのは、唐の高宗の総章元年(668)、日本は天智天皇の七年、新羅は文武王の八年のことだった。これにより唐は高句麗百済の故地を占領することとなったが、実態としてはまだ平定したとは言いかねる状況だった。

 これより前、唐は何度か高句麗遠征をしかけ、攻め込んでも占領を維持できず、形式的な謝罪をさせて収めるということを繰り返した。それなのにこのたびの戦争に限ってここまでうまく運んだのは、新羅の協力があったからに他ならない。つまり中国から兵を駆り集めて朝鮮まで出征すると補給線が長くなりすぎるところを、新羅が兵站を担って補ったのである。

 しかし新羅の補給能力にも限度がある。唐による占領が不安定な状態が続くと、新羅にとっては持ち出しばかりが多くなるだけでなく、二国の体制が復興するおそれもあった。唐としても安定化のためにできるなら新羅をも併呑しようという意図がないでもなかった。ここに両者の利害に不一致が表れてくる。ただし新羅に背かれると朝鮮半島における戦線を維持できないのは大唐の方なのである。

 咸亨元年(670)、新羅は旧百済領への進出を始め、また高句麗の遺臣が君主と推す、宝蔵王の外孫、安勝を保護してこれを高句麗王として承認した。新羅は言葉の上ではあくまで唐に恭順な姿勢を示しながら、やむをえない事情があることを主張し、複雑な情勢を活用して百済高句麗を併合しようとした。

 唐軍は、白村江の会戦より後、何度か日本に遣使をしている。その目的は、捕虜の交換といった戦後処理があったろうが、特に新羅との関係が悪化しはじめてからは、物資の補給を要求したものと思われる。唐の使者郭務悰が、おそらくは戦災難民をも含む二千人を連れて、太宰府に先触れを届けたのは、咸亨二年十一月、その時天智天皇死に至る病の床に伏せていた。

 その年の十月、天智天皇は病態が重くなり、寝殿大海人皇子おほしあまのみこを召し入れ、位を継がせようとした。大海人皇子天智天皇の同母弟である。大海人皇子は自身も病気がちであると称してこれを辞退し、皇后倭姫王やまとのひめおほきみを即位させて大友皇子おほとものみこに執政をさせることを提案し、自分は出家して天皇のために功徳を積みたいと申し出た。大友皇子は天智と伊賀采女宅子娘いがのうねめやかこのいらつめの間に生まれ、この年二十四歳で太政大臣に登っている。天智天皇はこれを許した、ということになっているが、内密の会見だったとすればこれを聞き伝えた人が他にいたかどうかわからない。ともかくも大海人皇子は近江宮を去り、僧形をして吉野宮に移った。

 十二月に天智天皇崩御し、翌年(672)が壬申である。

 壬申年の前半、《日本書紀》の記述はどういうわけか飛び飛びになり、三月に郭務悰らに喪を知らせ、五月には甲冑弓矢などを与えたといったことがあるだけで、内政については何ら語るところがない。この五月、大海人皇子のもとに、近江方は皇子を殺そうとして攻撃の準備をしている、という旨の報告があり、ここから所謂“壬申の乱”の具体的な動きが始まったことになっている。

 この間の事情には謎めいたところがある。

 そもそも大海人皇子天智天皇の元年に皇太子に立てられているし、父子継承が原則となっていない当時の常識からしても、また年齢や経験からいっても、当然王位を継ぐはずだった。もし大海人が天智から譲位を受けていれば、それで何か問題があったのだろうか。大海人と大友の間に何らかの政策や思想上の対立があったのだろうか、しかし一人の政敵を殺すためとしては大海人のしたことはあまりに大がかりに過ぎると言われなければならないだろう。邪魔になるなら謀反の疑いでもかけてもっと穏便に殺すことがさして困難だったとも思われない。

 大海人皇子は兄と理想を共有しており、大友皇子もまた息子として純然たる後継者の素養を持っていたとすれば、大筋で対立するところはない。そうだとすれば、大海人皇子にとってのすべきことは武力行使そのものだったと受け取るほかはなさそうである。

 考えてもみよ、この武力とはもともと対外戦争のために諸国から収奪したものなのだ。しかしその外征は失敗に終わって得るものなく、そのことは天智天皇の治世に影を落とさずにはいなかった。せっかく思い切ってしたことが、何の役にも立たなかったのではないか、大化以来の改革の方向性は本当に正しいのかという疑念がつきまとった。それを挽回するには、この武力をむしろ内に向けて叩きつけ、これこそ統一体制であってこそ持てる威力なのだと思わせなくてはならない。

 そのために捧げるには、天智天皇の忘れ形見であってこそ最適な犠牲であり、大友皇子は敗戦に呪われた時代を道連れにして死ぬべきだった。

 大海人皇子は東海・東山道の兵を動かし、山陽・西海道の軍は動きこそしなかったが味方にしており、近江方が気づいて手を打とうとしたときにはもう遅かった。実は空白の五月以前にもう吉野方の手が回っていたのではないかと思われる。戦闘があったのは近畿地方の一部で、それも六月下旬から七月にかけての約一ヶ月間に終熄した。ただ論功行賞が十二月まで遅れるので、それまでは争乱の総括をすることがはばかられるような状況があったかもしれない。

 壬申の乱は内戦としてはこの程度のことに過ぎないが、それでも強い印象を残した。《日本書紀》は壬申年を元年と数え、大海人皇子が即位したのは二年二月、これが天武天皇である。書紀はこの人物を資質は雄抜・神武にして学問は天文・遁甲に通じていたと讃える。天武天皇壬申の乱の効果により空前の権威を獲得し、改革実現のための妥協を最小限に抑え、日本史上に古代帝国的段階をもたらすことができた。

 天皇号はいつ創案されそして制度的に用いられはじめたのか明確でないが、天皇制を確立した功績は天武天皇に帰せられなければならない。天皇制とは王朝の君主が天子・皇帝・天皇を称する制度であり、中国的皇帝制に倣いながら独自の要素を加えたものである。これは内的には壬申の乱という一種の革命運動によるが、外的には新羅の政策から受けた効果を無視できない。

 中国の皇帝と形式の上で並ぶ地位が国際的に承認されるかについては、唐との関係が決定的な要素だった。しかし唐としては新羅と戦争をする可能性が残る間、日本とは妥協した関係を結んでおかなければならず、そのため百済における敵対行為は不問にせざるをえないし、倭王が天子を称することもなあなあにしなければならなくなった。ここに唐の実力の限界があった。

 新羅百済の全部と高句麗の南部を併合して朝鮮半島に統一体制を築き、新羅王はかつての国王級より一等上の地位を得る寸前まで進んだ。だが中国との間に深刻な対立を作ることは慎重に避け、名分の上では冊封を甘受して唐朝には臣としての礼を執った。これは地政学的条件による制約というもので、もし渤海湾がもう少しだけ北に深く大陸を抉っていたら、ここにも皇帝制が樹立されていておかしくない。

 旧高句麗領北部には、則天皇帝の万歳通天(696~697)の頃、靺鞨人を率いる大祚栄が侵入し、聖暦年中(698~700)には自立して震国王と称し、睿宗の先天二年(713)、渤海郡王に封じられた。これが渤海国で、日唐双方に朝貢し、唐とは時に交戦もしたが、やがて独自の年号を立てて、以後200年余り国を保った。渤海の成立は日新唐相互の関係にも微妙な影響を及ぼし、日本と新羅にとっては結果的に古代的統一の発展に寄与した。

 唐にとってはこの方面に介入したことで得られたものはろくになかった。いったい中国の政治思想は名分主義的傾向の強い一面があり、形式さえ満足させればそれで結構十分とする場合がある。外国の王を冊立するとか、朝貢をさせるなどということは、詰まるところ外交上の形式の問題に過ぎない。新羅渤海が頭を下げて挨拶に来るならば、またその地域の秩序が保たれている限り、干渉する理由もなく、その能力の不足も明らかだった。

 日本に成立した王権は、もう一つの中華を自任し、周辺国をも統べることを目指した。新羅も一時は日本に対しても朝貢の形式を受け入れたこともあった。しかし、天武系の王統が絶え、天智系の子孫がこれに代わった平安時代初期には、こうした意識は次第に薄れ、やがて列島内五畿七道の諸国を治めるだけで自足するようになる。外地の権益などというものは、端切れでもつかんでいる内はどうしても要らないとは思えないが、手放してしまえばその方がすっきり落ち着いたという例である。