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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

海東の護法天子――推古天皇(後編)

 (承前)隋の大業四年(608)、煬帝は鴻臚寺掌客の裴世清を倭国へ派遣した。倭国の首都に入った裴世清は、《隋書》の方では“倭王”に面会し歓談したように書かれている。“国王”なら当然勅使とは直に会うべきである。しかし《日本書紀》の方では、推古天皇が裴世清と会ったのかどうか、明らかでない書き方をしている。隋朝の立場としては推古天皇倭国王として遇したいが、推古天皇としてはすでに天子を称した以上、国王扱いを受け入れることは大きすぎる譲歩になると考えたはずだ。

 両史の差違を理解する一つの可能性として、推古天皇は天子の権能で誰かを“倭王”に冊封し、裴世清の接待をさせたかもしれないということは、前にも述べた。もしそうだとすれば、その人はおそらく蘇我馬子聖徳太子であったろう。これで裴世清も倭王に会う使命を果たしたことになって顔が立つ。相手の顔を立てるということは、いつの時代でも外交に求められる常識である。しかし下手をすると、このままでは推古天皇の存在が浮き上がって、国際政治上の地位を失うおそれがある。

 そこで推古天皇は、次の国書で改めてその地位を主張しようとしたのだろう。裴世清が帰るのに副えてまた小野妹子を遣わし、煬帝を聘問する辞が《日本書紀》に載せられている。

天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悆。此即如常。今遣大禮蘓因高。大禮乎那利等徃。謹白不具。

東の天皇が西の皇帝に敬白します。使人鴻臚寺掌客裴世清らが至り、久しいおもいがやっと解けました。季秋ながつきになりようようすずしいころです。あなたはどうですか。想うに清悆おだやかでしょうか。こちらいつものとおりです。今、大礼蘇因高そいんこう小野妹子)・大礼乎那利をなりらを往かせます。謹白。具ならず。

 これを“天皇”号の使用された確実な早期の例とみる向きもあったが、何をして確実とするかは難しい問題であり、ここにも後世の改変と判断すべき理由がある。

 この“某甲敬白‥‥”という書き出しは、仏教界で手紙によく使われた形式で、末尾に“謹白”が付くことも多い。こういう信書上の儀礼的書式は現代中国ではあまり用いないそうだが、現代日本で“拝啓‥‥敬具”などと書く方にむしろ伝わっているのだろう。この形式の文書で当時において有名だったと思われるものに、南朝宋の武帝が書いた《断酒肉文》がある。これは唐の道宣が編んだ《広弘明集》に収められているので見ることができる。その書き出しを引く。

弟子蕭衍敬白諸大德僧尼、諸義學僧尼、諸寺三官。

 この蕭衍というのが武帝の本名である。皇帝ともあろう者が姓名を称するのは異例のへりくだり方で、同じ《広弘明集》に載せる《舎利感応記》に、

菩薩戒佛弟子皇帝某,敬白十方三世一切諸佛,一切諸法,一切賢聖僧。

 とあるくらいがせいぜい普通にありうる程度だろう。ここの「某」は謙遜の一人称で、「菩薩戒仏弟子皇帝某」とは隋の文帝のことである。しかしいずれにせよこれは弟子から師匠へ差し出す形式であり、謙遜した自称を使ってこそそれが「敬白」と照応する。だから、もし、

天皇敬白西皇帝。

 というのが当時のものそのままだったとしたらどうだろうか。《日本書紀》の述作者はすでに日本的な意味での“天皇”が成立した後で書いているからそれほどおかしいとも思わなかったかもしれないが、もともと“天皇”にはいくつかの意味があり、受け取り様では“天帝”と同義になって天子より上に出てしまう。それではいくら「敬白」してみたところでちぐはぐになっておかしい。

 ここには本来、

東大王敬白西皇帝。

 とあったという意見もあるけれども、大王というのは称号ではなく王に対する敬称として使うのが普通だから、この用法は考えにくい。ましてや“東倭王敬白”などとして国王格まで下るのは、もう一人の天子としての地位を獲得したい推古天皇としては避けなくてはならない。

 国際的な仏教隆盛、推古天皇が仏教を擁護する王者として登場し、また外交上もそれを利用してきたことを思い出そう。するとこれはもともと、

東天王敬白西皇帝。

 とあったと考えるべきではないだろうか。この“天王”とは仏教的文脈における意味を持つ。仏教上の天王にも種類があるが、この場合に参考になるのは、やはり《梁書》に載せる狼牙脩国からの上表である。

大吉天子足下:離淫怒癡,哀愍衆生,慈心無量。端嚴相好,身光明朗,如水中月,普照十方。眉間白毫,其白如雪,其色照曜,亦如月光。諸天善神之所供養,以垂正法寶,梵行衆增,莊嚴都邑。城閣高峻,如乾陁山。樓觀羅列,道途平正。人民熾盛,快樂安穩。著種種衣,猶如天服。於一切國,爲極尊勝。天王愍念羣生,民人安樂,慈心深廣,律儀清淨,正法化治,供養三寶,名稱宣揚,佈滿世界,百姓樂見,如月初生。譬如梵王,世界之主,人天一切,莫不歸依。敬禮大吉天子足下,猶如現前,忝承先業,慶嘉無量。今遣使問訊大意。欲自往,復畏大海風波不達。今奉薄獻,願大家曲垂領納。

 ここでは、梁の武帝に対して、まず「大吉天子足下」と呼びかけ、次に「天王」と称し、また「梵王」の如しだと讃えている。梵王とは、大梵天梵天王などとも呼び、仏教では正法護持の神とされる。そして、梵王になぞらえてなのだろう、仏教を護持する王者を天王と称することがあった。この意味での天王は中国的王権思想の外から来ているので、その対象は国王でも天子でもいい。

 これより前、“天王”は五胡十六国の君主が皇帝を称する前の準備的な称号として用いたこともあった。この場合は皇帝よりは一等下るが、国王よりは上になる。五胡十六国的天王号の成立に寄与したのは、仏教の影響と、周代の用例だった。上古には周王が天王と呼ばれたことがあり、これは“天子たる王”というくらいの意味合いだろう。

 これらの例を思い合わせると、推古天皇が“天王”と自称したとすれば、一つには一歩譲って煬帝の顔を立てたことになり、二つには天子の称を撤回したことにはならず、三つには“敬白”と照応して無理のない構文だったことになる。それに加えて、これは謙遜の自称であることが前提だから、実際には自分は“天王以上”なのだという含みを暗に持たせてもいる。

 煬帝としても、形式的に一応は顔が立つことになるし、仏教的世界観を押し出されては無碍にもできないし、内外に焦眉の課題が迫っていることでもあり、引っかかる所がないではないが、対倭問題はこれでしばらく納めておくことにはしやすかっただろう。幸い倭国は地を離れ海を隔てた向こうにあり、気にさえしなければ実際上の問題にはまだなりにくい。

 推古天皇が、隋に対し天子を称して対等の関係を要求したからには、皇帝とも号したろうという想定は、ほぼ自動的に成立する。中国では漢代以来“天子・皇帝”を併せ、場合によって使い分けた。ここに、交渉上の必要から一を加えて、“天子・皇帝・天王”を兼称したすれば、日本律令の“天子・皇帝・天皇”制が成立する過程を解く鍵になるかもしれない。