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五世紀の倭新関係(後編)

 (承前

 政治と商業と掠奪は、根が一つである。この三つの要素がいかに関係するかで歴史的な動きが決まると言ってもよい。前回に見た、ロシアの皇帝・商家・カザークの癒着は、その最も分かりやすい例の一つだろう。三者の組み合い方は違っても、要するに同じことは世界のどこにでもある。特に、国というものが伸張するときには、これらが互いに歯車のように噛み合って、威力を最大化しようとする。そしてこれが一度大回転を始めると、行き着く所まで行かなくてはやまない。

 前回までに見た、西暦400年前後の日本の場合にも、三つの要素が結合する様子が見られる。

 葛城襲津彦かづらきのそつびこは、新羅の人間を連れ去ったというが、人間には食料が必要だから財宝のように蓄えておくわけにはいかない。人間そのものを商品にするか、さもなくば商品の生産に従事させるかだ。掠奪というのは一般にそういうもので、自分で消費する分を除いては交易に出すのでなくては利益がない。だから襲津彦は掠奪と商業を代表してここに登場してくると言える。襲津彦自身には政商としての性質が濃く、実際には提携する遊漁民勢力が戦力として動いた。他方で政治を代表するのは神功皇后で、その父系は近江の息長氏だが、母親は葛城高顙媛たかぬかひめという。高顙媛と襲津彦の関係は分からないが、そう遠い縁でもないのだろう。

 葛城氏は、遊漁民勢力を把握して諸韓国との交渉で活躍する一方、奈良平野西南部の葛城地方に基盤を持っていた。ここに葛城氏が台頭してくるのがいつ頃のことかは明確ではないが、景行天皇乃至成務天皇が、その宮を近江に移したことと関係しているのかもしれない。その近江の息長から出てくるのが神功皇后であることは前に述べた。

 神功皇后は、新羅国から筑紫に帰ると、誉田別皇子ほむたわけのみこ、後の応神天皇を産み、この幼子を連れて瀬戸内海を東へ向かった。

 亡き仲哀天皇の子には、この他に、いとこの大中姫おほなかつひめに生ませた、麛坂王かごさかのみこ熊王おしくまのみこがあった。二人は神功皇后が誉田別を連れて帰ることを聞くと、王位継承権を奪うためにこれを迎撃しようとした、というのが記紀の筋書きである。真実はむしろ神功皇后の方が誉田別のために先手を打ったのかもしれない。しかしともかくもこの紛争は彼らの政敵を一掃する結果になったのだろう。神功皇后は、奈良平野に入って磐余の地に都し、かつてこの土地に拠点を置いた王権の基盤を吸収した。

 五世紀代に掛かると考えられる応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧の八天皇のうち、応神・仁徳・履中・雄略の四人が葛城氏の女性を妃とし、履中・反正・允恭・清寧の四人が葛城氏の女性を母とする。ここに神功皇后以下の倭王家と葛城襲津彦以下の葛城首長家との連合王権が成立したかに見える。ところがこの時期に葛城氏が権勢を振るったかといえばそうではない。

 神功皇后から仁徳天皇の時代にかけて、韓国との関係において出現するのは、襲津彦の他、葛城氏と同じく武内宿禰たけしうちのすくねの裔を称する者か、または斯麻宿禰しまのすくね千熊長彦ちくまながひこのように氏素性がよく分からない者が多い。後者は倭王家の直属でないために系統不明になったのだろう。これ以外では、神功摂政四十九年・応神天皇の十五年・仁徳天皇の五十三年に上毛野君の祖という人物がわずかに現れる。それが雄略天皇の九年になると、天皇が自ら新羅親伐を企図している。これは実現しなかったが、代わりに出征した人物の中には、大伴談連おほとものかたりのむらじという名も見えるし、葛城氏と因縁が浅くないらしい蘇我氏の者も明らかに直接の配下として現れる。

 葛城氏には、襲津彦の名が消えた後、もう再び強力な指導者が現れることがない。允恭天皇の五年、反正天皇の葬儀に手落ちがあったとして襲津彦の孫玉田宿禰たまたのすくねが殺され、その子の円大臣つぶらのおほおみ安康天皇殺害事件後のいざこざで雄略天皇に滅ぼされる。倭王家が権力の集中を進めたのに対して、葛城氏は襲津彦時代に獲得した領地や権益をおそらく子孫に分与したために、世代を経るごとに力の差が広がったものらしい。葛城氏が次第に零落するのに従って、その掌握していた遊漁民勢力も徐々に倭王家に直属することとなり、以前は間接的に関与していた諸韓国との交渉も、この王権にとっての直接的な問題となってくる。

 この時期は、前にも見たように、倭王南朝宋と盛んに接触して国際的地位の承認を求めた頃でもある。

 《宋書》によると、倭王讃による永初二年(421)以降数度の朝貢の後、後継の倭王珍が「使持節・都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」としての認知を求めたが、「安東将軍・倭国王」だけが承認された。《日本書紀》の構成に問題が大きいため正確な事件の前後関係が確かめられないのは残念だが、大まかに見て仁徳の晩年から反正までの間のことという見通しを仮に付けておきたい。

 倭王の過大とも思える請求が一部を除いて認められたのは、やっと元嘉二十八年(451)のことで、倭王済に「使持節・都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加えられた。南朝宋の末期、昇明二年(478)には、倭王武が「使持節・都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に除された。

 韓の諸地域における軍事指揮権を含む爵号の請求は、一つならずいくつかの意味を持っているらしい。しかしここで注目したいのは、これは倭王家が葛城氏集団を吸収していく過程と関係しているだろうということである。私は、葛城氏の抱えていた遊漁民勢力は、後世の倭寇や、匈奴などの遊牧民勢力のように、もともと多国籍集団としての性質を持っていたと仮定する。そう考えることで日本古代史における人や物事の流れが最もよく理解できそうだからである。そうした勢力を倭王家が接収したことで、任那における権益の主張、百済国への肩入れ、新羅国との対立といった、六~七世紀代の動きも導き出されてくる。