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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

建国の王者―崇神天皇の時代

 古代史の発展段階における領土国家時代は、後世の観念から見ても国らしい国ができてくる時期である。都市国家時代には、今の小売店と商圏の関係のような、古代都市とその勢力圏があるだけだったが、領土国家は領土と国境を持つ。かといってこれをあまり近代的な領土や国境の観念に引き寄せて解釈するのもまちがいのもとだが、ともかくも国らしい国の最低限の骨組みができてくる。

 古代の領土国家とその延長線上にある古代帝国は、もともと都市国家の結合によってできるので、中国やギリシャ・ローマなどでは都市国家網としての性格を色濃く受け継いでいた。しかし日本では、都市国家の伝統があまり深まらないうちに次の段階へ進んだので、より速くより純粋な領土国家ができた。ここにも後発先至の法則を見ることができる。

 考古学的に見ると、日本の都市国家時代は弥生文化に現れる環壕集落が営まれた時期に当たる。大型古墳が盛んに造られる頃には、環壕集落は解消されており、領土国家時代に入ったことを示している。両時代の境界が絶対年代にしていつ頃と厳密に言うことは難しいが、三世紀後半から四世紀前半の間にその過渡期があると思われる。

 日本史上の領土国家時代の始まりは、崇神天皇によって象徴される。崇神天皇の有した領土国家の範囲は、《日本書紀崇神天皇紀》の記述を参考にすると、西は奈良平野と河内平野との境なる大坂、東は東国への関門となる墨坂、北は山背へ通る那羅山までに及ぶ。これはほぼ律令制の大和国に相当する。また、河内や山背南部に対しては、力の差から優越的な地位を獲得している。

 崇神天皇の内政の記事は、ほぼ祭祀の整理をしたことで占められている。それまで王宮の中で祭っていた天照大神あまてらすおほみかみ大国魂神おほくにたまのかみを外に移し、奈良平野全体の重要な神格であるらしい大物主神おほものぬしのかみのために河内から太田田根子おほたたねこを招聘したことが注目される。また、書紀に

然後卜祭他神吉焉。便別祭八十萬羣神。仍定天社。國社。及神地。神戸。

然る後に他の神を祭らんかとうらなう、吉なり。便すなわち別に八十万の群神を祭り、かさねて天つ社・国つ社、及び神地かむどころ神戸かむべを定める。

 とあり、また《古事記》の相当する所には、

又於坂之御尾神。及河瀬神。悉無遺忘。以奉幣帛也。

また坂の御尾の神より、河瀬の神に及ぶまで、悉く遺し忘れること無く、幣帛を奉る。

 などとあることは、地味のようだが見落とすことはできない。つまり崇神天皇は、奈良平野の各地にあった都市国家、あるいは都市国家の段階にも達しない小勢力を併合したので、個別に行われていた各々の祭祀も兼併し、大物主神はそれらの代表格であり、自家の祭祀もそのために位置付けを考え直さなければならなくなったのだろう。他方で外政については、具体的な記事は武埴安彦たけはにやすびこ吾田媛あたひめとの戦争くらいしかない。武埴安彦は山背から、吾田媛は河内から、兵を率いて奈良平野に入ろうとした。これを謀反などと呼ぶのは一方的な観方で、第三者的に言えば国際的な武力衝突事態である。

 北陸・東海・西道・丹波への「四道将軍」の派遣は、ただ行って帰ったというだけで、何ら内容がない。書紀で出雲から神宝を召し上げる話は、肝心の部分が記の方では倭建命が出雲建を斬る話と同じ筋立てになっていて、所謂“どこにでも置ける”という説話であり、信憑性に問題がある。しかしそれならこれらが全然真実でないかといえばそうとばかりも言えない。崇神天皇の治世のこととして後に記録されることになった時代には、相前後して各地個別に領土国家が成立したはずだ。だからこれらの記事から潤色を除いて煎じ詰めて行けば、外交にも新しい状況があって、それに対応する新しい行動が要求された、ということくらいは実際にあったこととして認められよう。

 このようにして国らしい国を初めて築いたという崇神天皇は、書紀編纂の時代にもやはり始祖たる王者として意識されていた。そこで、

秋九月甲辰朔己丑。始校人民。更科調役。此謂男之弭調。女之手末調也。是以。天神地祇共和享。而風雨順時。百穀用成。家給人足。天下大平矣。故稱謂御肇國天皇

秋九月甲辰朔己丑、人民をしらべることを始め、くわえて調の役を科し、此れを男のゆはずの調・女の手末たなすえの調と謂った。是れを以て、天神地祇は共に和享して、風雨は時に順い、百穀はって成り、家ごとにち人ごとに足り、天下は大いに平らぐ。故に称えて御肇国天皇と謂う。

 とある所の、「御肇国天皇」の肇国というのは、見慣れない漢語で、漢籍にも用例が少ないが、肇は“はじめる”“ひらく”の意味だから、意味する所は建国に同じ。つまり「御肇国天皇」をやや説明的に訳せば、「建国の事業を指揮した天皇」ということになる。ここには崇神天皇を建国の始祖とする歴史観が明らかに表現されているのだ。

 これに比べて、神武天皇は、この地域の一地点に根拠を築いて「帝位に即いた」というだけで、内容的には全く建国者として描かれてはいない。書紀の述作者は漢典から様々な字句を引いて文章を潤色をしているから、もし神武天皇を建国者にしたければ、たとえそうした伝承がなかったとしても、いくらでもそう仕立て上げることはできた。始置百官、改正朔、易服色、などなど、ありきたりな言い方が私にも思い当たる。

 なお書紀における神武の「始馭天下之天皇」と崇神の「御肇国天皇」にはともに「はつくにしらすすめらみこと」という訓が付けられているが、字の意味は全く違う。そしてそれがどんなに古いものであったとした所で、訓は本文に対する一種の注釈に過ぎず、これについていくら考えても本文の研究にはならない。書紀の本文は和文じみた半漢文ではなく、中国人が読んでも読めるような漢文なので、やはりまずは漢文として読んで解るように書かれている。本文に従えば、書紀の編集者が両帝に同じ尊称を与えたと考えることはできない。記の方では崇神だけが「所知初国はつくにしらす天皇だと呼ばれている。