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卑弥呼の死と都市国家時代の終焉

 魏の少帝の正始六年(245)、天子から倭の大夫難升米に黄幢を賜い、帯方郡に付託して授けさせることになった。ところがたまたま帯方郡と諸韓国の間に紛争があり、帯方太守の弓遵は戦死した。この前後のことは、“魏志倭人伝”に

其六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授。其八年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米為檄告喻之。卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺,獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。

 とある。

 正始八年、新しい帯方太守として王頎が着任した。その頃、倭人の諸国では邪馬台国を中心とする連合体と狗奴国との間で衝突が起こり、倭王卑弥呼は遣使して郡にその状況を報せた。王頎は、塞曹掾史の張政を遣わして、ようやく難升米に黄幢をもたらすのとともに、檄をつくってこれに告諭した。とは、人に何らかの行動を求めるための告げ文のことである。

 しかし卑弥呼は「死」つまりすでに死んでいた。以はと同源同音で、しばしば通用する。

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 以死=已死とは「死んだ」ということで、この文脈では「張政が難升米に会ったときには卑弥呼もう死んでいて、女王から帯方郡への遣使に対する返答は間に合わなかった」ことを意味する。

 卑弥呼が死んで、大いに冢を作った。

 穴を掘って棺を埋め、土を戻すと余りが出るので、それを盛り上げる。これが本来のだが、やがて盛り土が高いほど立派な墓だという考えができ、よそから土を持ってきてまで高く作ることになる。冢が切り立つほどの形状になったものがいわゆる墳墓である。高さを確保するためには裾を広くする必要がある。つまり中国では墳墓の広さは高さの副産物である。

 漢の法律では身分ごとにどれほどの高さまで作って良いかが定められていたらしいが、今詳しくは分からない。後漢の班固が編んだ《白虎通徳論・崩薨》には、

春秋《含文嘉》曰:「天子墳高三仞,樹以松;諸侯半之,樹以柏;大夫八尺,樹以欒;士四尺,樹以槐;庶人無墳,樹以楊柳。」

 とある。一仞は周制で八尺、漢制で七尺、一尺は漢代で約23.1cm、一尺は十寸で、周制の一尺は漢制の八寸に当たるという。この引用は周代の話で、実際の漢代の皇帝の墳墓は高さが30m前後ある。しかし三国時代になると、労働力の不足や思想の動揺があり、また多くの墓が副葬品や建材を取り出すために破壊されたこともあって、大きな墓を作るのは無駄なことだという考えが出てくる。《魏志・文帝紀》黄初三年冬十月甲子の条によると、文帝は上古の帝王が顕著な墳墓を作らなかったことを述べ、以後はそれに習って厚く葬るべからざることを命じた。これが有名な薄葬令である。

 卑弥呼の冢は「径百余歩」とある。とは、車が入れないような狭い道のことで、また小路がしばしば近道であることから「直情径行」のように短絡すること、それから物の大きさを周囲の長さなどではなく「さしわたし」つまり「またぐ」ように測ることを指す。円形ならその直径、もし方形なら対角線の長さである。百余歩は140m前後で、これはその広さを表している。中国では伝統的に墓の高さに関心を持つはずだが、ここにはそれがない。

 魏の薄葬令では、墓は自然の山地形を墳の代わりとし、それと分かるような施設を作らないことを旨とした。高さが記されない卑弥呼の墓は、それに習ったものだったかどうか、どんなものだったか今は分からない。

 女王を失った倭人諸国は、代えて男王を立てた。男王と言えば、狗奴国の男王の名は卑弥弓呼で卑弥呼とは卑弥が共通している。名の前にあって複数の人に共通するものは普通なら氏姓の類である。ありがちなことだが、同族間の覇権争奪がこの抗争の内情であったのかもしれない。

 しかし諸国間にはこの男王擁立には反対も強く、両派が互いに攻伐して千人余りが死んだ。そこで卑弥呼の一族の者で十三歳の女子を立てて王とすることで妥協した。卑弥呼が健在の時の形態をかたどるものだが、権力に似つかわしくない幼い王を立てたことは、その体制が形骸化しつつあることを思わせる。誰が実権を握ったのだろうか。

 前にも述べたように、私は弥生文化のいわゆる環濠集落は都市国家的段階の存在を示していると考える。純粋な都市国家は一つの都市が政治上の独立単位を形成する。都市国家は一度成立すると他の都市国家と常に関係を持ちつつ活動し、やがて何らかの形で結合していく。

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 “魏志倭人伝”に記された状況は、邪馬台国を中心とする都市国家連合の段階を表している。そこには領土国家的段階への発展が兆しながらまだ到達していない。邪馬台国とその周辺はこの列島の中で最も早くに都市国家的社会の成立した地域であっただろう。だがその時代の社会が成熟してくると、先進地域ではその古さが足かせとなり、次の段階への発展が遅れるものだ。むしろ後進地域の方が、旧時代の構造が強くないだけに、急速に発展して先進地域を凌駕することがある。上古中国に対する秦、古代ギリシャに対するマケドニアの例である。後発先至こそ歴史の法則である。

 今や邪馬台国は狗奴国に圧迫されつつあるらしい。これは都市国家時代から領土国家時代への漸進を意味する。だが、秦が漢に、マケドニアがローマに取って代わられたように、狗奴国の覇権もやがて東から興ってくる勢力によって脅かされる運命にある。曰く、女王国の東、海を渡ること千里、また国々があり、みな倭種なりと。ここまで数回にわたって、主に中国の史書から日本の古代を考えてきたが、ようやく日本の史書を扱える段階に来たようである。