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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

卑弥呼と東洋的古代王権

 (承前

kodakana.hatenablog.jp

 漢末、倭人諸国間の秩序が乱れ、やがて一人の女子を「共立」して王とした。ここのの字は《太平御覧》の引用にはなく、どちらが正しいか分からない。しかしもし元から共立であったとすると、「自立」との対比から卑弥呼の王権について考えることができる。

 自立という表現は、《魏志・明帝紀》景初元年秋七月辛卯の条に

淵自儉還,遂自立為燕王,置百官,稱紹漢元年。

公孫淵は毌丘倹が還ると、遂に自立して燕王となり、百官を置き、紹漢元年と称した。

 とか、《蜀志・杜微伝》に

曹丕篡弒,自立為帝,是猶土龍芻狗之有名也。

曹丕は篡弒(主上を殺し帝位を奪う)し、自立して帝となったが、これは土竜や芻狗が名のみあるようなものである。

 また《蜀志・費詩伝》に

今大敵未克,而先自立,恐人心疑惑。

今は大敵にまだ克っていないが、なのに先ず自立〔して帝号を称〕すれば、おそらく人々の心は疑惑する。

 などとあるように、そうする資格がないのに、ひとり勝手に王や皇帝を称した、というふうの、悪い評価を示している。それに対して、共立とは、やむをえない事情があって推戴された、それだけにそれなりの人物であるという、良い評価を表している。卑弥呼はかく倭王として認められたわけである。

 王者の任務には祭祀を伴う。卑弥呼は鬼道を行ったという。のことは、《礼記・礼器》に

禮也者,合於天時,設於地財,順於鬼神,合於人心,理萬物者也。

礼なるものは、天時に合わせ、地財に設け、鬼神に順い、人心を合わせ、万物をおさめるものである。

 とか、

禮,時為大,順次之,體次之,宜次之,稱次之。……社稷山川之事,鬼神之祭,體也。

礼は、時をば大とし、順はこれに次ぎ、体はこれに次ぎ、宜はこれに次ぎ、称はこれに次ぐ。……社稷・山川の事、鬼神の祭りは、体である。

 などとあるように、その祭祀は古代中国で重視された儀礼の一つに数えられる。《礼記・祭義》などによると、鬼とは死者が土に帰ったもので、鬼とは同源の語だと考えられた。その気が昇って地上に現れることがあり、これがの顕れだといい、後世のいわゆる幽霊だが、そのあるかなきかの姿を描いたものが鬼という字である。

 祭祀といっても特別な資格ある人だけがしたのではなく、なべて昔の人は信仰家だった。家にあっては祖先を祭り、田作しては雨を乞い、狩猟しては神に供え、旅しては道すがら山川に祈った。身分が別れてくると、王者には王者にふさわしい祭祀が必要になる。言葉は同じでも、王者にとっての鬼と、民間の鬼とでは内容が違ってくる。卑弥呼の鬼道は王者の祭祀としてのものであり、単に民俗的なものと比較はできない。

 王者としての鬼神の祭祀については、《史記・五帝本紀》に

帝顓頊高陽者,黃帝之孫而昌意之子也。靜淵以有謀,疏通而知事;養材以任地,載時以象天,依鬼神以制義,治氣以教化,絜誠以祭祀。

帝顓頊高陽は、黄帝の孫にして昌意の子である。静淵であって謀が有り、疏通にして事を知る。材を養うには地に任じ、載時のことは天に象り、鬼神に依って義を制し、気を治めて教化し、絜誠にして祭祀した。

 また、

高辛生而神靈,自言其名。……取地之財而節用之,撫教萬民而利誨之,歷日月而迎送之,明鬼神而敬事之。

高辛は生まれながらにして神霊あり、自らその名を言う。……地の財を取ってこれを節用し、万民を撫教してこれに利誨させ、日月をかぞえてこれを迎送し、鬼神を明らかにしてこれに敬事した。

 などとあるように、上古の聖王はこれを正しく扱ったとされる。反対に、また《夏本紀》に帝孔甲は鬼神をやぶることを好み、《殷本紀》には帝紂は鬼神をあなどったとあるように、王者がこれを怠ることは王朝の滅亡にもつながる凶事だった。

 中国では天地・社稷・祖宗の祭祀は皇帝のするべきこととして清代まで続く。このことは、神武天皇が行軍中に香具山の土を採って器具を作り天神地祇を祭ったとか、崇神天皇が災いを除くために神々への占卜や祭祀を行ったと伝えられているように、日本においても然りとする。天皇は実権を臣下に委ねてからも伝統的祭祀を続け、後世にはそれだけが存在意義のようにもなった。

 このように、昔の王者にとって祭祀をするのは普遍的なことであり、卑弥呼が特に宗教的な性格の濃い王者だったと考える必要はない。もし当時が都市国家的段階に属するとすれば、卑弥呼の鬼道は、アテネにおけるアテナ神のような、都市の守護神に対する祭祀と比較することができるだろう。これを鬼道という字で表現したのは、東夷諸国には中国上古の礼俗が伝わっているという観方によっている。ここからそれがシャーマニズムであるとかの内容を引き出すことはできない。ただ支配するだけの覇者ではなくて正当な王者であるという意味を表したのである。

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 卑弥呼は鬼道を行い、人々を「惑」したという。は、獲・國・域に通じ、外から囲われるように心を捉われることを指す。王者としての祭祀を怠らず、従って人々が心服した、ということを言っている。

 卑弥呼は成年に達しても結婚しなかった。そして弟があって治国を補佐していた。ここの、

有男弟佐治國。

 という言い方は、特定の個人を指していない。単に男弟があって、というよりも、ある男弟が、という意味である。また、“魏志倭人伝”にはしばしば個人名を記すが、ここにはない。だから「男弟」は二人以上いて、そのうちの一人か、あるいは交替で、女王を補佐したことになる。もし仮に卑弥呼の事績が天照大神に反映したと考えるならば、日の神には二人の弟があるとされることと奇妙に符合するが、それについてはまた別に検討を要するのでここでは述べない。

 殷の湯王には伊尹があり、周の武王には呂尚があるというように、王者には優れた輔佐があってこそ明主たりうるということは、古代中国の王権思想において一つの類型になっていた。卑弥呼の弟がどれほどの人物だったかは知ることができないが、ここに記されたのはそうした関心によっている。

 卑弥呼は王となってから、まみえた者が少ないという。ここの「見」は、単に目で視た、というよりも、会見・対面のことである。王者が謁見を制限することは、権力を神聖に飾るためにしばしば行われる。秦の始皇帝もそうしたし、徳川氏もこれによって大いに権威を重くした。女王は宗教的な禁忌に包まれてずっと宮殿の奥にこもっていた、などとというのではない。何せ、

以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食,傳辭出入。

 というのだから、単に視たという人は少なくないはずだ。「自侍」というのは、誰かが卑弥呼に婢をあてがったのではなく、自身の意思で侍従させた、ということであり、ここにもその実際的権力者としての性格が表されている。

 従来の諸説では、ここで文を切り、「飲食を給し、辞を伝えて出入りした」のは「男子一人」だけだと考えている。しかしそれでは「婢千人」が近習していると切り出しておきながら、なんとも尻切れトンボの感じがする。文章は首尾が相応じてこそ能筆と言えるのである。ここは現代文なら括弧を使って、

婢千人を自ら侍らせ(ただ男子一人だけはいて)飲食を給し辞を伝えて出入りさせている。

 と書きたいところではないだろうか。卑弥呼の身近に仕えるのは女性にほぼ限られているが、男性の枠が一人分だけはある、というのである。昔はそういう記号がないから見分けにくいが、括弧付きの但し書きのような書き方そのものは行われていた。“倭人伝”の中だけでも、

到其北岸狗邪韓國

その北岸の狗邪(韓の)国に到る。

 とか、

南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月。

南して邪馬台国(女王の都する所)に至る、水行十日、陸行一月。

 といった例がある。

 なおここでも「男子一人」は特定の個人を指すのではなく、男性のある者が一人、という言い方をしている。

 卑弥呼が居処するところの宮室・楼観には、城柵が厳しく設けられ、常に人があり武器を持って守衛していた。これは同伝に不耐濊王の居処は民間に雑在するとあるのに比べてその差がはなはだしい。対して卑弥呼の王権は同時代の東夷諸国の中で最も格式の整ったものとして記録されているのである。

 宮室・楼観などというものは、弥生時代の日本にはなく、陳寿が想像で書いたのだ、という説をなす向きがかつてあった。周知の通り、その後の発掘によって、記述が実際に合うことが確かめられている。考古学的知見が足りなかったのは時代のせいだから悔いるに足りないが、だからといって想像で書いたなどとは却って迂闊な想像をしたものだ。ここには史料に向かう者が忘れてはならない教訓がある。