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邪馬台国への針路

 ここまでの里数方位日数についての検討で、邪馬台国への道をたどる一応の準備ができたと思う。出発地は、帯方郡であり、その正確な位置はともかく、ひとまず今のソウル付近の河口で船に乗ったと想定しておく。現行本《魏志東夷伝》によってその経路を摘出すると、

  1. 從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國
  2. 七千餘里,始度一海,千餘里至對海國
  3. 又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國
  4. 又渡一海,千餘里至末盧國
  5. 東南陸行五百里,到伊都國
  6. 東南至奴國百里
  7. 東行至不彌國百里
  8. 南至投馬國,水行二十日
  9. 南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月

 という順序である。念のために校合したいが、《太平御覧・四夷部》に引用された《魏志》には、

  1. 從帶方至倭,循海岸水行,歷韓國,從乍南乍東到其北岸拘耶韓國
  2. 七千餘里,至對馬國戶千餘
  3. 又南渡一海一千里,名曰瀚海,至一大國
  4. 又渡海千餘里,至未盧國
  5. 東南陸行五百里,到伊都國
  6. 又東南至奴國百里
  7. 又東行百里,至不彌國
  8. 又南水行二十日,至於投馬國
  9. 又南水行十日,陸行一月,至耶馬臺國

 となっている。現行本と御覧の魏志ではかなり字句の違いがある。肝心の国名にも「邪馬(=壱)」と「耶馬(≒台)」という違いがある。それにも関わらず、方角と距離や日数は一致している。《魏志》に基づいたらしい《梁書・諸夷伝》の記述では、

  1. 從帶方至倭,循海水行,歷韓國,乍東乍南
  2. (なし)
  3. 七千餘里始度一海;海闊千餘里,名瀚海,至一支國
  4. 又度一海千餘里,名未盧國
  5. 又東南陸行五百里,至伊都國
  6. 又東南行百里,至奴國
  7. 又東行百里,至不彌國
  8. 又南水行二十日,至投馬國
  9. 又南水行十日,陸行一月日,至邪馬臺國

 とあって、対馬が抜けている他は、両種の魏志と一致している。さらに《翰苑》という書物があり、その注に《魏略》からとする引用がある。

  1. 從帶方至倭循海岸水行歷韓國到狗耶韓國
  2. 七千餘里始度一海千餘里至對馬國
  3. 南度海至一支國
  4. 又度海千餘里至末盧國
  5. 東南五百里到伊都國
  6. (以下なし)

 《翰苑》の現存する写本はあまり質の良いものではなく、史料としての扱いには注意を要するが、方位と里数に関しては異なるところがない。

 これによって見れば、その道のりに関する限り、誤字があると考えるべき材料は、文献上にはない。誤字はどこにでも発生しうるが、他の事実との矛盾や別の証拠がない限り、その可能性はゼロではないと言える程度にとどまる。里数は実際の地理との差によって短縮することが支持されるだろう。その類推から日数も短縮すべき無視できない程度の蓋然性がある。方位に関しては読み換えるべき根拠がなさそうである。成書以前のこととなると、実地を踏査したはずの使節が方角を大幅に誤って報告したと考えることは困難である。仮説のためには任意の仮定を置いても良いが、仮定を増やせば仮説の質を落とすことになる。

 さて、正始元年(240)のことである。先年、倭の女王が大夫難升米らを遣わして朝献したのに対して、魏の天子は、親魏倭王の金印を帯方太守に預け、銅鏡百枚など大量の回賜の品々は難升米らに預けて、女王のもとへ届けさせることにした。帯方太守の弓遵は、建中校尉の梯儁を正使として、難升米らが帰るのに伴って、倭国へ派遣した。その使命は、詔書印綬などを女王に与えることに加え、どうやら地理や政情の調査も兼ねたものだったらしい。

 帯方郡から出発した梯儁ら一行は、韓国の海岸に沿って船で南下した。韓国の西には小島が多く、海が急に狭くなっているところを、潮流を利用して縫うように走る。「乍南乍東」とはこのことである。半島の西南隅で進路を西に転じ、「其北岸狗邪韓國」に船を着ける。今の金海である。「その北岸」とは、前文の「倭人在帶方東南大海之中」を受け、その大海の北であることを意味する。ここで渡海の準備を整え、風の向く日を待つ。

 海を渡り、対海国に至る。南宋慶元年刊紹熙本に「對國」、紹興本に「對國」、《御覧》にも「對國」とあり、今の対馬である。土地は山が険しく、良田がなく、海産物を食べ、船に乗って南北に交易する。

 また南へ海を渡り、一大国に至る。《梁書》には「一國」とあり、今の壱岐である。いくらか田地があるが、なお食うに足らず、やはり南北に交易する。この両国は、おそらく貿易の要地であることから人が増え、そのために食糧不足になったのだろう。

 また海を渡り、末廬国に至る。山が海に迫っており、その間のわずかな土地に人々が住んでいる。後の肥前松浦郡だろう。

 東南へ陸行して伊都国に着く。代々王があるが、女王国に統属する。やや想像を広げれば、この王とはもと奴国の王であり、邪馬台国のために領地を狭められて伊都王になったのだろう。福岡県旧糸島郡前原市付近と考えられる。かつての怡土郡である。

 東南して奴国に至る。後の那珂郡がその地名の遺存したものである。

 東行して不弥国に至る。福岡県糟屋郡宇美町がその地名の遺存だと思われる。

 南へ水行して投馬国に至る。宇美町付近から南へ通行できる水地形は限られる。おそらく御笠川だろう。この流域には投馬に相当する地名は見られない。あるいは、投馬が日本語のツマに当たるとすれば、投馬国という一つの国があったのではないかもしれない。夫婦のツマ、着物の褄、建物のツマ、刺身のツマのように、主に対する副、身に対するへり、正面に対する側面などをツマと言う。だから投馬国とは邪馬台国の附庸諸国の総称だった可能性がなくもない。

 南へ水陸行して邪馬台国に至る。御笠川をさかのぼった以上、その範囲はおのずと限られる。今日では忘れられがちなことだが、日本では川の水運は盛んに行われていた。川船でも積載量は牛馬の背よりずっと多い。トラックや貨物列車はおろか、牛馬さえまだ利用されなかった時代となれば、その重要性は殊に高かったはずだ。九州北部の地形を見ると、幹線になりそうな水系は御笠川筑後川・宝満川・遠賀川などがあり、これらの要を押さえる地点に政治的中心があったかと思われる。

 邪馬臺という字は日本語の「ヤマト」か「ヤマタ」または「ヤマダ」を写した蓋然性がある。ところで壱岐にはかつて壱岐郡石田郡があった。下に「タ」「ダ」「ト」という音が付く地名は各地に多い。これらはその言葉がある種の地名であることを示す接尾辞だったのだろう。それが接尾辞として意識されている間は、付けて呼ぶことも付けないこともあったはずだ。すると、石田のイシは壱岐と同源であり、接尾辞の付いた形で定着したものが石田となり、外れた形が壱岐となったのである。

 邪馬台国の名がもし後世の地名に伝わっていれば、それは「ヤマト」や「ヤマダ」かもしれないし、別の接尾辞に代わって「ヤマキ」「ヤマシロ」、助詞が挟まって「ヤマガタ」のような音になっているかもしれない。転訛を考慮すると「ヤマ」が「アマ」になっているかもしれない。

 九州北部の範囲でそれを探してみると、福岡県旧山門やまと郡、朝倉市あま大分県中津市耶馬溪山国やまくに谷)などが見つかる。七万戸あまりを有したと伝えられる邪馬台国は、すでにかなり広い版図を持っていたために、その名が各地別々に遺伝したのだろうか。

 以上は一案であり、検討に値する他の仮説もある。しかし最も仮定の数が少なくて済み、従って仮説の質が最も良いと言えるのは、大筋でこんなところだろう。