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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

歴史時代の始めに―史料を分析して論資とすること

本論

 古代日本に関する事件が、同時代的記録によって、絶対年代付きで知られる初めは、《魏志東夷伝》の景初二年六月、倭の女王が大夫の難升米を帯方郡に遣わして、天子への朝献を申請した、という記事である。ただし、ここの景初二年は三年の誤写とするのが定説で、私もそれが妥当であると考える。その理由については、よく知られていることだから、ここでは述べない。以下、正始元年・四年・六年・八年の記事が続く。そしてこの年代記風の記述は倭人の段の末尾にまとめられており、その前には地理・習慣・制度などに関する記事がある。読者にとって未知の地域のできごとを理解しやすいようにという、配慮が行きとどいた構成と言えよう。

 《三国志》の撰者である陳寿は、三国時代の蜀の生まれで、しばらく不遇だったが、晋の武帝の重臣である張華に見出されて官途に就いた。張華も少年時代に苦労をしたことから、陳寿のような人物を引き立てるのが好きだった。陳寿はやがて漢末から晋初に至る時代の歴史を魏書・蜀書・呉書という史書にした。これらをまとめて《三国志》といい、個別には魏志・蜀志・呉志と通称する。魏志の第三十巻の後半が東夷伝であり、その一部分がいわゆる“魏志倭人伝”である。陳寿は当時一流の文筆家であり、簡勁な表現で知られ、その文章は決して読みにくいものではない。

 《三国志》の成立年代は、正確には伝えられていないが、晋の太康年間(280~289)と考えられている。しかし、早い時期の写本は、わずかな残欠しかない。現在まとまった本として見ることができるものは、南宋時代に印刷されたものまで下る。陳寿の原稿から現存する刊本まで、八~九百年が経っている。だから、《三国志》の成立について考えるばあいには、陳寿の原稿ができるまでの事情だけではなく、数百年を伝わるうちに内容が変わったかどうかを視野に入れる必要がある。

 文書が長く世を伝わるうちに生じうる変化には、次のようなものがある。第一に、書写や板刻などの際に、字を誤ったり、脱するもの。また、元はない字を入れてしまうもの。第二に、本が破損したため修復する際に、順序を誤ったり、脱落するもの。また、誤って注であったものを本文に入れたり、本文であったものを注としてしまうもの。第三に、本の一部が失われたために、後世の人が補作するもの。基本的には、ざっとこんなところが考えられる。

 これは、単にその「可能性がある」というだけのことではなく、《魏志東夷伝》の現行本によって具体的にその蓋然性を見ることができる。《魏志東夷伝》を読んでいくと、まず「夫余」の段の後半には明らかに前後のつながりがおかしい点が数カ所あることに気付く。この部分が幸い宋代の百科全書《太平御覧》に引用されている。《太平御覧・四夷部》の「夫余」の項によってこれを見ると、文に違いがあり、流れがすっきりつながっている。《太平御覧》の方が本来の形に近く、現行本の《魏志》には衍文があることがうかがえる。逆に、《魏志》で裴松之の注として付いている文が、《太平御覧》では本文になっている箇所もここにはある。

 以下、沃沮・濊・韓などについても両者を比較してみると、やはり同様の異同がある。そして倭人の段にもある。それには《太平御覧》が省略をした部分もある。しかし、《魏志》の文に不審な点があり、そこが《太平御覧》では整った形になっているという例が多い。

 ところで、私が小学生のとき、ある一日の出来事を作文にしろ、というお題が出されたことがあった。私は「まず何々をしました。次に~をしました。次に~、次に~」という書き方をして、先生には単調で良くないと叱られた。さてそういう目で“魏志倭人伝”を読むと、まさにその良くない作文をしている所がある。

自女王國以北,其戶數道里可得略載,其餘旁國遠絕,不可得詳。次有斯馬國,次有已百支國,次有伊邪國,次有都支國,次有彌奴國,次有好古都國,次有不呼國,次有姐奴國,次有對蘇國,次有蘇奴國,次有呼邑國,次有華奴蘇奴國,次有鬼國,次有為吾國,次有鬼奴國,次有邪馬國,次有躬臣國,次有巴利國,次有支惟國,次有烏奴國,次有奴國,此女王境界所盡。

 これはやはり裴松之が注として引用した文が混入したものに違いない。陳寿がこんな小学生のような文を作るはずがないからである。この部分は《太平御覧》では、

其屬小國有二十一,皆統之女王。

 と簡単になっている。この方が陳寿の性格に相応しい。著者の文体に合致するかどうかということも、判断の有力な材料になる。それを厳密に証明するのは困難だが、考えることは考えないよりも良い。

 この《魏志東夷伝》のような外国列伝は、雑誌の付録のようなもので、あれば豪華に見えるが、なくても史書としての体裁には差しつかえがない。だから、一朝有事の際には、より大事に扱われず、他の巻よりは破損を被る機会が多かったかもしれない。

 《魏志東夷伝》に見られる破損の痕跡が生じたのは、一度のことではなかったかもしれないが、最終的には金の侵入による宋の南遷によるものではなかったかと考えたい。南宋では、混乱期のため、質の良い修復ができず、杜撰な所が残されることになった。外国のことは考証がしにくいという事情もある。《太平御覧》は北宋時代の成立であり、南遷以前の本に基づく文が伝わった。

 《魏志東夷伝》を読む上では、ただ漢籍として正しく読むというだけではなく、ここで見たようなことに注意しなければならない。少なくとも《太平御覧》と比較し、一致しない部分に関しては、史料としての価値をより慎重に検討する必要がある。このような分析によって史料が論資となるのである。