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天武天皇評伝(二)不安な安定

 推古王が崩御した後、最も有力な政治家は、父馬子から大臣の座を継いだ蘇我蝦夷そがのえみしだった。蝦夷は、敏達王の孫である田村王子たむらのみこを王位継承者として推した。これには阿倍臣麻呂あへのおみまろ大伴連鯨おほとものむらじくぢら采女臣摩礼志うねめのおみまれし高向臣宇摩たかむくのおみうま中臣連弥気なかとみのむらじみけ難波吉士身刺なにはのきしむざしなどが賛成した。一方、これに反対して、山背大兄やましろのおほえ王子を推したのは、境部臣摩理勢さかひべのおみまりせをはじめ、許勢臣大麻こせのおみおほまろ佐伯連東人さへきのむらじあづまひと紀臣塩手きのおみしほてらだった。境部臣は蘇我の一族で、摩理勢はあるいは馬子の弟とする伝えもある。推古王が田村と山背大兄の二人に口頭で伝えた遺言の内容と意味が問題になったが、ついに山背大兄は辞退し、蝦夷は摩理勢を殺した。この事件は崩御から半年後の九月のことで、翌年正月に田村王子は王位に即いたが、これが舒明王である。

 山背大兄王子は、聖徳太子の子で、用明王の孫に当たる。田村王子とは、ともに先王の孫であり、次期国王として期待されながら早く死んだ父を持つという、互いに似た立場にあった。父方から見れば二人の王子は対等の資格を持っている。その差は母方にあり、田村が父母ともに王族であるのに対して、山背大兄は蘇我大臣家刀自古郎女とじこのいらつめを母とする。刀自古は馬子の息女である。そこで摩理勢が山背大兄を支持したのは、蘇我氏の利益を図る行為だった。またこれは用明から推古まで三代の王が蘇我の女性から生まれたという前例を踏むことでもある。それでも蘇我氏の当主たる蝦夷が敢えて舒明王を推戴したのは、いったいどんな深謀遠慮によるものだろうか。

 舒明王には、即位と前後して、同じ敏達王の血を引く宝王女たからのみことの間に二男一女が生まれている。この王子が舒明王の後を継げば、それは王族の血の濃い両親から生まれた純度の最も高い王となる。双系的血統主義の傾向が強いこの国においては、尊い血の濃さは最も貴ばれる。動揺しがちな国際情勢に対応するには、権力の集中が必要であり、そのためにはまず国内において最大限の支持を得られる王を擁立することだ。丁度この十年ほど前に大陸では隋唐革命があり、その余波で中国から東夷方面への圧力は弱まっている。新しい体制を用意するには今しかない。家風として外交に通じている蘇我大臣としては、そこまでの考えがあったかもしれない。

 蝦夷に王権の強化という意図があったとしても、それは一足飛びには実現できなかった。舒明王の代は、前代のような充実した三角体制もできず、かといって別の新しい形ができたわけでもない。舒明王をより専制的な君主として立て、蝦夷が忠臣になりきろうというには、蘇我氏そのものの勢力が大きすぎた。蘇我氏は氏族集団の勢力を背景として政界に重きをなしたという点では古い型の豪族である。この勢力は簡単には解散できず、勢力を持つからにはそれなりのふるまいを求められる。王と大臣の間はもちろん協力関係にあるが、それはある種の緊張が含まれた関係である。

 王と大臣の二頭政治という形勢はすでに推古王の晩年からのものだが、その頃から政治的にはあまり大きな動きがない。これは急速な仏教化や新しい政治が続いたために世の中が休息を求めたということもあるだろう。外政面では唐が革命後の混乱収拾や突厥対策のために東への動きを控えていたこともある。しかし朝鮮半島では高句麗百済新羅の三国が各々の利益を最大化しようとして断続的に抗争をしていたことは変わらない。特に六世紀末以来新羅に押されて最も不利な国になっていた百済にとっては、伝統的に概ね良好な政治関係を持っていた倭国の協力を引き出すことが課題だった。

 舒明王の政権は政治的に無為だったわけではない。日本書紀によると二年には最初の遣唐使を送り、四年には唐からの返使高表仁を迎えている。しかしこれを契機として何ら新しい外交を展開することがなかったのは、推古王の隋に対する場合と比べて余りにも消極的に見える。この同じ時期、百済の武王は孫の豊璋を質として倭国に送った。質というのは、この場合、一種の外交官だが、今の大使館のような不可侵権は持たず、相手国に身柄を預ける形になる。これは百済としては倭王に対して示すことのできる最大限の誠意だったが、これにも舒明王は何も積極的に応じることができていない。豊璋は以後長年倭国に滞在することになる。

 舒明王蝦夷は別に不仲ではなかった。蘇我氏からは馬子の息女法提郎媛ほほてのいらつめが王の側室に入っており、二人は姻戚でもある。ただしこの関係は矛盾を抱えている。もし二人の間に政策を巡って深刻な対立が生じると、仲裁ができるほどの実力者が他にない。だから二人には安定に努める必要がある。表面的な安定と、内在する不安。この矛盾の原因は主に蝦夷の方にあった。人というのは、しばしば矛盾したものを持ったまま、本人はそれで十分一貫していると信じている。それはよくあることだが、時にはそれが歴史の推進力となることがある。

 舒明王にとっては、即位と前後して宝王女との間に生まれた、中大兄なかのおほえ間人はしひと大海人おほしあまの三人の子は、実に心の支えだったに違いない。古事記天照大御神月読命須佐之男命三貴子みはしらのうづみこというが、舒明王と宝王女にとっては、この二男一女こそ三貴子とも呼びたい存在だっただろう。不安な安定、この時期は王子たちが幼年期を過ごすのに良い環境だったと言えるだろうか。舒明王は治世十三年にして崩御した。これは古代の王者としては短い方ではない。中大兄王子は、この時、歳十六にして弔辞を読んだという。子どもたちにとってはまだ早すぎる父の死だった。

 その翌年、宝王女が王位に即いたが、これが皇極王である。(続く)