古代史を語る

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日本史の誕生

 古代という段階をそれより前と区別するならば、それは社会に不可逆の速い変化が起き始めた時代である。何千年何万年という間にほとんど変わりのない日常を繰り返した時期は過ぎた。時間は取り返しのつかないものになる。二度とない時を人々は深く記憶し、事件は語り継がれることになる。文字が発明されるとやがて日々の動静を書き留めておくことが始まる。そして社会の変化が節目を迎えた後で、適当な条件を得た時に、始めて歴史の典籍が編まれる。

 日本で日々の政治的動向を記録しておくことが何時頃から行われたかははっきりしない。ただ《宋書・夷蛮伝》を見ると、倭王武のもとにはかなり能筆の人物があったらしいことがわかる。ここに載せられている武の上表には、倭王側の立場からの事情の説明や要求の主張が、誇張も含めて存分に表現されている。こういう作文のできる人物がたまの朝貢のためにだけ雇われていたとは考えにくく、史官としての役割を担っていたという可能性を思わないわけにはいかない。しかしそうだとしても、それがそのまま後々まで継続したかどうかはまたわからない。

 記録によって知られる限りでは、《日本書紀》に、推古天皇の二十八年、聖徳太子蘇我馬子天皇記・国記・本記などを作ったというのが修史事業の始めとされる。これらの文書は早くに失われたのでその内容を知ることはできないが、敢えて推察するに史書と言うよりは史料の集積に近いものだったろう。これが直接ではないにしろ《古事記》序文の言う帝紀・本辞につながり、《日本書紀》の材料としても利用されたと考えられる。

 壬申の乱後の新体制における修史事業は、天武天皇の十年三月、川嶋皇子らに詔して「帝紀及び上古諸事を記定」することを命じたとあるのに始まる。ここから養老四年に書紀が完成するまでの経緯は必ずしも明らかではないが、史書を編むことが天武天皇の構想から出発したことは間違いないと思われる。書紀より八年前、和銅五年には《古事記》が撰上されたことになっている。なぜ同時期に多く重複した内容を持つ二つの書籍が作られたのか、両書はどういう関係にあるのかということはやはりよく分かっていない。ただ記がしばらく宮中に秘されたらしいのに対して、書紀は早くから講義が行われているので、流布された最初の日本の歴史は《日本書紀》だった。古代帝国のための日本史の誕生である。

 《日本書紀》の内容は、過去の事件をただ並べたというものではなく、ある歴史観によって統合された歴史である。我々は常に未来の方から過去を見るが、それは自身が生きる時代を通して歴史を観るということである。そこには、意識するかどうかにかかわらず、自ずとその人にとっての現代が投影される。そして誰でも自分の時代が前代からいかに変化した後期のものであるかということは忘れがちである。史書を読むにはそれが編まれた時代を理解することが必要だという理由はここにある。

 《日本書紀》の編纂にかかる時期を含む七世紀から八世紀にかけては、王権の血統主義が高まった時期である。先祖から受け継いだ偉大な王者の血が王権の正当性を保証する、という思想は、血という取り替えられないものを理由にしているだけに盤石に見える。父権の優越する社会ならば子は全く父の血だけを受け継ぐと思われがちなのでそれで通用する。しかし上古の日本は双系的傾向が強かったので、他人と結婚して子をなすと血は世代を経るごとに薄まってしまう。これを防ぐには近親結婚をすることだが、このころの天皇にはその例が多い。これはまた蘇我大臣家のような外戚を排除する効果を持ち、実際権力の集中につながった。

 血統主義が強調されるとき、歴史の上では、遠い昔の王者にまで血のつながりが探求され、歴々代々に天皇号が追諡される。また血統主義を軸に天命思想が結合すると、王権の正統性は天上の神から血を承けたことに由来するのだと逆算されることになる。この次第については前に考えを述べたことがあるので今は詳しく繰り返さない。

kodakana.hatenablog.jp

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 こうした王権の拡張は、統合に向かう古代社会の趨勢によって支えられたものでもある。社会の発展は内的成長と外的刺戟の相互作用によってもたらされる。七世紀後半、新羅の統一戦争によって生じた難民の内、少なくとも数千人、あるいは一万人を超える亡命者を日本は受け入れた。奈良時代律令体制によって把握された総人口はおよそ500万人前後と推計されているので、人口比に直すとこれがどのくらいのことだったかが察せられる。この中には百済の王族も含まれている。

 旧百済王子の余善光に対しては、持統天皇の時に百済くだらのこきしという姓が賜与されている。その孫の敬福は聖武天皇から称徳天皇のころに活躍して有名である。国土がないから百済王として冊封はできないが、賜姓というのはそれに準じたことというつもりだろう。天皇が外国の王を保護するということは、その地位は国王級より上ということになり、天子・皇帝を称するに足るということになる。王権の証明が必要とされた時代でもあった。

 そうすると新羅は理論上は格下ということになるが、強勢を遂げたその国は実際には警戒すべき力を備えている。自信と不安は同居できないようでいて実は仲の良いものである。新羅への警戒感は天皇の権威をいっそう尊重させる。これが歴史に投影されるとき、日本が格上になるのは始めから決まっていたことになり、逆算的に表現が改められる。通常の外交上の贈答であっても、日本からむこうへは「賜」、百済新羅高句麗からは「貢」「献」などの字を使うことで上下関係が設定される。加羅に持っていた多少の権益には任那日本府などとさも重要そうな名が与えられる。そうしたことの由来は神功皇后の活動を誇張することで求められた。

 記紀歴史観は、必ずしも当時の人が普通に信じた歴史ではなく、こうした逆算的作為を少なからず含んでいる。それは編纂当時には当然の認識だったことでも、その時代の特殊性のために、後世の人には感得しにくくなり、ここになぜこのようなかたちで歴史が描かれているのかという意図が読みづらくなった。そして古代という歴史の出発するところに対する認識があやふやなままで通過させられるために、日本史全体が理解しにくいものになってしまった。理解しにくいというのは、西洋史や中国史と同じ水準で日本史を捉えられないという意味である。

 しかし逆算的意図を差し引いてみると、そこには当時までに伝えられて過去の事実だと信じられていたらしいことが案外正直に書いてもある。それは作為を貫くならもっと整理や改変のできようことが少なからずあることによって分かる。だから、記紀を巡る問題の根本に切り込むためには、当時の思潮をもっと精確に理解し、それによってその構造を分解してみることが大事である。それが十分にできたときには、そうして取り出されたものを材として、これからの我々が本当に必要とする日本史を誕生させることができるだろう。