古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

本論

「なぜそんなものを食べるのか」? 食不食論を考える

歴史を掘り下げる中で「食」に出会うと、今の料理と変わらない旨さが想像できる事もあれば、なぜそんなものを食べるのかと驚く様な事もある。しかし考えてみれば、食べるものを選べるという状況がずいぶんと贅沢なのであって、人類は長い間、獲得できるもの…

再び、古代における歴史学的年代観について

日本古代史の歴史学的年代観の問題について以前に軽く触れた。古代の中の時代区分、特に6世紀頃より前において、歴史学的年代観が確立せず、弥生時代・古墳時代という考古学的年代観が流用されることについてである。 kodakana.hatenablog.jp もっとも、6世…

日本史の誕生

古代という段階をそれより前と区別するならば、それは社会に不可逆の速い変化が起き始めた時代である。何千年何万年という間にほとんど変わりのない日常を繰り返した時期は過ぎた。時間は取り返しのつかないものになる。二度とない時を人々は深く記憶し、事…

日本版・古代帝国への道(後編)

(承前) kodakana.hatenablog.jp 高句麗の王都平壌が陥落し、宝蔵王が囚われのは、唐の高宗の総章元年(668)、日本は天智天皇の七年、新羅は文武王の八年のことだった。これにより唐は高句麗・百済の故地を占領することとなったが、実態としてはまだ平定し…

日本版・古代帝国への道(中編)

(承前) kodakana.hatenablog.jp 改革を進めていくことは、常に現状との妥協による。 皇極天皇はその治世の四年(645)六月、孝徳天皇に譲位し、その年は元号が立てられて大化元年と称した。孝徳天皇は、敏達天皇の曾孫、皇極天皇の同母弟で、仏法を尊び性…

日本版・古代帝国への道(前編)

《隋書・東夷列伝》の中には、隋の大業三年(608)、裴世清が倭国へ派遣された際の報告に基づくと思われる記事がある。それによると、竹斯国から東は十余国を経て海岸に達した、という。海岸とは、倭国の海岸ということで、《日本書紀》を参照すると、推古天…

海東の護法天子――推古天皇(後編)

(承前)隋の大業四年(608)、煬帝は鴻臚寺掌客の裴世清を倭国へ派遣した。倭国の首都に入った裴世清は、《隋書》の方では“倭王”に面会し歓談したように書かれている。“国王”なら当然勅使とは直に会うべきである。しかし《日本書紀》の方では、推古天皇が裴…

海東の護法天子――推古天皇(中編)

(承前) 推古天皇の八年以降、新羅と戦争のあることが予期され、来目皇子《くめのみこ》が征新羅将軍に任じられたが、筑紫で備えをする間に病を得て、十一年春二月に薨去した。その秋、当摩皇子《たぎまのみこ》が後任として難波から船出したが、播磨で妻舎…

海東の護法天子――推古天皇(前編)

推古天皇が即位したのは、大臣《おほおみ》蘇我馬子宿禰《そがのうまこのすくね》による崇峻天皇暗殺の後を受けた、隋の開皇十二年(592)に当たる歳末で、南朝の陳が滅ぼされてから約四年後のことだった。推古天皇の母は堅塩媛《きたしひめ》、堅塩媛の父は…

埴輪の馬はどんな馬か

六世紀代といえば、《日本書紀》が編纂された時期にかなり近付いてくるので、より詳細で信憑性の高い内容を期待したくなる。ところが、この時期にかかるはずの顕宗天皇あたりから推古天皇の初頭にかけて読んでいくと、うんざりするほど韓国関係の記事が多い…

五世紀の倭新関係(後編)

(承前) 政治と商業と掠奪は、根が一つである。この三つの要素がいかに関係するかで歴史的な動きが決まると言ってもよい。前回に見た、ロシアの皇帝・商家・カザークの癒着は、その最も分かりやすい例の一つだろう。三者の組み合い方は違っても、要するに同…

五世紀の倭新関係(中編)

(承前) kodakana.hatenablog.jp 前回までに述べた所のあと、《日本書紀》と《三国史記・新羅本紀》の双方に、相互の関係についての記事がいくつかある。その中に、個別の対応が確認できるものが、もう一つある。 それは、神功皇后紀摂政五年の条で、微叱許…

五世紀の倭新関係(前編)

《日本書紀》は天武天皇とその後継者の王権のために編まれた。だからその立場からする潤色や付会が多い。従来多くの論者が幻惑される所である。史書の記述に疑いがあるとき、それを確かめる方法の一つは、同じ事柄を扱った別の史書と比較してみることだ。書…

神功皇后と海の権益

《日本書紀》によると、晩年の景行天皇は、纏向まきむくの日代宮ひしろのみやから志賀の高穴穂宮たかあなほのみやに移って、そこで崩御までの三年を過ごした。《古事記》の方にはこのことは見えないが、次の成務天皇が高穴穂宮で天下を治めたとある。穴穂と…

建国の王者―崇神天皇の時代

古代史の発展段階における領土国家時代は、後世の観念から見ても国らしい国ができてくる時期である。都市国家時代には、今の小売店と商圏の関係のような、古代都市とその勢力圏があるだけだったが、領土国家は領土と国境を持つ。かといってこれをあまり近代…

極端な追尊の歴史 ― 日本と北魏

日本の“天皇”号がいつ創案され制度化されたかについては明確な記録がない。随・唐と比肩しようとした者が相手と同じく“天子”かつ“皇帝”を称したとすれば理解しやすいが、なぜ“天皇”が使われることになったかもよく分からない。五胡十六国などでしばしば用い…

日本史上の“都市国家時代”

証明することは難しく、仮定することは易しい。仮定はいくらでも任意に置いて構わないが、仮定の数が増えるだけ仮説の質は落ちることを覚悟しなくてはならない。しかしわずかの仮定によって多くの事実をうまく説明できるときは、それを置くことをためらう必…

日本書紀の冒頭を読む

《日本書紀》の冒頭は天地創生の説話から始まる。 古天地未剖,陰陽不分,渾沌如鷄子,溟涬而含牙。及其清陽者薄靡而爲天,重濁者淹滯而爲地,精妙之合搏易,重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後神聖生其中焉。 古には天地が未だ剖《さ》けず、陰陽は分か…

日本書紀の“革命思想”

天武天皇が即位した頃(673)、唐は高宗の咸亨年間で、実権は武皇后の手にあった。隋唐統一の安定期は、安史の乱が玄宗の天宝十四年(755)に起きているから、その巨大な印象に反して余り長くない。だがこの頃は、政界の確執はともかく、内政はわりあい平穏…

日本書紀を読む

《日本書紀》は日本における古代帝国的段階の成立までを通観できる唯一の古籍である。その歴史段階上の意義としては《史記》と比較すべきものだが、その性格は大きく異なっている。それが単なる過去の出来事の集積でなくて企図された編集物であるという点は…

卑弥呼の死と都市国家時代の終焉

魏の少帝の正始六年(245)、天子から倭の大夫難升米に黄幢を賜い、帯方郡に付託して授けさせることになった。ところがたまたま帯方郡と諸韓国の間に紛争があり、帯方太守の弓遵は戦死した。この前後のことは、“魏志倭人伝”に 其六年,詔賜倭難升米黃幢,付…

卑弥呼と東洋的古代王権

(承前) kodakana.hatenablog.jp 漢末、倭人諸国間の秩序が乱れ、やがて一人の女子を「共立」して王とした。ここの共の字は《太平御覧》の引用にはなく、どちらが正しいか分からない。しかしもし元から共立であったとすると、「自立」との対比から卑弥呼の…

女王卑弥呼と乃の字の事情

女王の都する所・邪馬台国を訪れた梯儁は、金印や賜物を引き渡すという使命を果たすだけでなく、女王卑弥呼の政治や来歴について調査することも怠りなかった。梯儁はどんな眼でそれを観ただろうか。 そもそも中国の歴史は、古代帝国的段階の前半までは、万事…

「当在会稽東冶之東」を読み解く

《魏志・東夷伝》には、帯方郡からの道のりの他に、邪馬台国の位置に関係する情報がいくつかある。その一つは、 計其道里,當在會稽、東冶之東。 というものである。やや意味を取りにくい書き方で、なぜここに会稽の東冶を持ち出す必要があるのかも分かりに…

邪馬台国への針路

ここまでの里数・方位・日数についての検討で、邪馬台国への道をたどる一応の準備ができたと思う。出発地は、帯方郡であり、その正確な位置はともかく、ひとまず今のソウル付近の河口で船に乗ったと想定しておく。現行本《魏志・東夷伝》によってその経路を…

「泛海南去三佛齊五日程」

我々は張政や梯儁の跡を追って邪馬台国にたどりつきたい。そこで、これまでに里数や方位について検討してきた。ところが《魏志・東夷伝》では肝心のところに里数がない。末廬国に上陸後、伊都国・奴国・不弥国を経て、 南至投馬國,水行二十日 そして 南至邪…

古代人の方位観を捉えるために

《魏志・東夷伝》には、帯方郡から邪馬台国までの行程が示されており、そこには「又南渡一海千餘里」とか「東南陸行五百里」のように多く方位を付けてある。これを信じればその順路をたどることができそうだが、そのためにはまず方位観の発達について考えて…

《魏志・東夷伝》による面積と距離の認知

《魏志・東夷伝》によると、魏から倭への公式の使節は、正始元年(240)の梯儁と同八年の張政の二回の記録がある。実際にはもっと多くの往来があったかと思われるが、この二回は、詔書を奉じており、天子の命によって行われたために、特に史乗に残されたので…

《魏志・東夷伝》における倭韓両地の境界

およそ歴史上の謎というものには二種類ある。一つは史実そのものに説明がつきにくいというものであり、もう一つは史料の読み方を誤ったためにありもしない謎を発見してしまうというものだ。そして私の考えでは、この謎というもののほとんどは後者ではないか…

歴史時代の始めに―史料を分析して論資とすること

古代日本に関する事件が、同時代的記録によって、絶対年代付きで知られる初めは、《魏志・東夷伝》の景初二年六月、倭の女王が大夫の難升米を帯方郡に遣わして、天子への朝献を申請した、という記事である。ただし、ここの景初二年は三年の誤写とするのが定…