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天武天皇評伝 目次

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天武天皇評伝(二十七・完) 後継者たち

大津《おほつ》皇子は、天武天皇と大田《おほた》皇女の子で、この年二十四歳というから、天智天皇の称制二年に生まれている。鸕野《うの》皇后にとっては姉の子で、草壁《くさかべ》皇子からは一歳下の弟ということになる。草壁と大津の関係は、『日本書紀…

天武天皇評伝(二十六) 崩御

天武天皇の治世十五年七月二十日、年号を立てて朱鳥《あかみとり》元年と称した。孝徳王の白雉以来、改元は久しく忘れられていたことである。朱は赤色の類に属し、赤は五行説では火の色とされる。白は金の色である。かつて戦国から漢の頃にかけて五行説が流…

天武天皇評伝(二十五) 権力と身分

皇族と内外の貴族の身分をどう秩序付けるかということは、その治世を通じて、天武天皇が最も意を用いたことであったろう。この気遣わしい作業を進めるために、第一に注意しなければならないのは、壬申の年の勝利に貢献した功臣たちの処遇だった。功績ある者…

天武天皇評伝(二十四) まだ見ぬ都城への道のり

天武天皇の脳裡には、即位の当初から、本格的な都城の建設という構想があったに違いない。しかし天武天皇は急がない。そもそも都城は何のために必要か。それは見栄や満足のためではない。都城は法制度の容器である。法典の編纂は、すでに先代において近江令…

天武天皇評伝(二十三) 日本王朝の成立

『日本書紀』は、壬申の年を、天武天皇の元年として数える。天武天皇の即位は、二年二月二十七日である。天武天皇の二年は、唐の高宗の咸亨四年、新羅は文武王の十三年に当たる。 天武天皇は正妃鸕野皇女《うののひめみこ》を立てて皇后とした。鸕野皇女は天…

天武天皇評伝(二十二) 壬申の乱・四

軍を率いて美濃国を出、近江国に攻め入った村国連男依《むらくにのむらじをより》らは、七月七日、国境の西息長《おきなが》で大友方の軍と戦ってこれを破り、その将軍境部連薬《さかひべのむらじくすり》を斬った。大海人皇子《おほしあまのみこ》は野上《…

天武天皇評伝(二十一) 壬申の乱・三

大海人皇子《おほしあまのみこ》が吉野宮を発った日、後から追って合流した黄書造大伴《きふみのみやつこおほとも》が、大伴連馬来田《おほとものむらじまぐた》を連れていたことは前に述べた。この馬来田とその弟の吹負《ふけひ》は、かねて政情を案じ、病…

天武天皇評伝(二十) 壬申の乱・二

近江の朝廷では、大海人皇子《おほしあまのみこ》が東国《あづまのくに》に入ったということが聞こえると、動揺する者が多く、ある人は抜けがけして東国へ奔ろうとし、またある人は逃げて山谷に隠れようとしたという。 そこで大友皇子《おほとものみこ》は側…

天武天皇評伝(十九) 壬申の乱・一

「今聞くに、近江の朝廷の臣どもは、余を殺そうと謀っているとか。これによって汝ら三人は、急ぎ美濃国へ往き、安八磨《あはちま》郡の湯沐令《ゆのうながし》多臣品治《おほのおみほむぢ》に会い、戦略の要点を伝えて、まずその郡の兵を興せ。ゆくゆく国司…

天武天皇評伝(十八) 大友皇子と大海人皇子

天智天皇が死に瀕していた十一月二日、唐から法師道久《だうく》や筑紫君薩野馬《つくしのきみさちやま》ら四人が対馬国司《つしまのくにのみこともち》のもとへ来着した。道久はおそらく前の遣唐使の一員として渡った僧侶。薩野馬は百済への出兵に従って捕…

天武天皇評伝(十七) 希なる改革者の最期

天智天皇は、従来の慣習を破って、大友《おほとも》皇子に皇位を継承させる形を作ろうとしてきた。これに大海人《おほしあま》皇子は反対のはずである。しかし、兄弟の間に感情的なしこりがあるとはいえ、基本的には理想を共有している二人でもある。相続法…

天武天皇評伝(十六) 天智天皇の焦り

文武王の反撃が開始されて以来、各勢力間の外交も活発に行われた。天智天皇が送った遣唐使は、咸亨元年に高宗に謁見して高句麗の平定を祝賀したという。天智天皇のもとへも、即位四年・咸亨二年になると、新羅側と唐側の両方から複数の使節があり、いずれも…

天武天皇評伝(十五) 文武王の反撃

唐の高宗の咸亨元年、倭の天智天皇の即位三年、この春にはいよいよ新羅と唐の間に緊張したものが表面化してきた。晩春から初夏にかけて、新羅は高句麗の反抗軍を支援し、唐側の靺鞨兵と戦って大いに勝利した。 夏になると、高句麗の遺臣剣牟岑《こむむじむ》…

天武天皇評伝(十四) 藤原を散らす冬の風

外交能力は最高の戦力である。ここ数年、倭国の朝廷は唐や高句麗などからの使節をいつも迎えている。丁度平壌城が陥落したかしないかの頃にも、近江の大津宮に新羅からの使者金東厳《こむとうごむ》が訪れた。この時は天智天皇の即位元年・唐の高宗の総章元…

天武天皇評伝(十三) 高句麗の崩壊

高句麗では、この三年ほど前、長く権柄を握った大臣の泉蓋蘇文《ぜんかいすもん(いりかすみ)》が卒去し、長子の男生《なむしゃう》が後を継いで国政を統べた。あるとき、男生は各地を巡察するため、その留守には弟の男建《なむこん》・男産《なむせん》に…

天武天皇評伝(十二) 近江の朝廷

天智天皇の即位元年は、唐は高宗の総章元年、新羅は文武王の八年、高句麗は宝蔵王の二十七年に当たる。 天智天皇は、かつて抹殺した古人大兄《ふるひとのおほえ》王子の息女、倭姫王《やまとのひめおほきみ》を皇后とした。『日本書紀』による限り、王族から…

天武天皇評伝(十一) 天皇の誕生

白村江の会戦より前、皇極王が没した後、中大兄王子《なかのおほえのみこ》は太子のままで「称制」し、七年目になってようやく位を継いだ。『日本書紀』にはそう書いてある。ここで言う「制」とは皇帝の発する命令のことで、「制を称する」とはその位にない…

天武天皇評伝(十) 白村江に散る

唐の高宗の顕慶五年九月、唐の大将蘇定方《そていほう》が義慈王らを捕虜にして帰国すると、百済の遺臣鬼室福信《きしつふくしん》らの率いる反抗軍は、鎮将劉仁願《りゅうじんがん》の留まる旧都泗沘《しひ》城を攻めた。仁願が泗沘城に駐まる唐と新羅の兵…

天武天皇評伝(九) 百済の黄昏

唐の高宗の永徽五年、新羅の真徳王が薨去し、孫の春秋が立って王となった。これが武烈王で、また新羅の太宗とも呼ばれる。この年は倭の白雉五年に当たる。武烈王は明年、高句麗と百済が結んで新羅の三十城あまりを奪ったとして唐に訴えた。高宗は営州都督の…

天武天皇評伝(八) 孝徳父子の死にぎわ

阿倍倉梯麻呂《あへのくらはしまろ》が逝去し、蘇我倉山田石川麻呂《そがのくらのやまだのいしかはのまろ》が謀殺された後、大化五年四月、巨勢徳陀古臣《こせのとこだこのおみ》が左大臣に、大伴長徳連《おおとものながとこのむらじ》が右大臣に任命され、…

天武天皇評伝(七) 因果応報やみがたし

唐の太宗がその崩御につながる病に襲われつつあった頃、倭国では左大臣阿倍倉梯麻呂《あへのくらはしまろ》が卒去した。倉梯麻呂の死については特に伝えられていることはない。大化五年三月十七日のことだった。この頃までに、改革の方向性を示す法令の発布…

天武天皇評伝(六) 戦争と外交の季節

倭国の孝徳王政権が大化と年号を立てて新しい政策の展開に乗り出した頃、唐の太宗が率いる親征軍は、高句麗の安市城に迫っていた。唐の貞観十九年八月。年頭に開始された唐の高句麗遠征は、ここまでは順調に見えた。ところが意外、安市城の守りは堅かった。…

天武天皇評伝(五) 頤で王子を殺す

中臣鎌足《なかとみのかまたり》がともに天下のことを図るべき人物と見こんだ本命は、あくまで中大兄《なかのおほえ》王子だった。それにも関わらずここで孝徳王を推戴したことには、いくつかの理由がある。それはまず第一には、孝徳王からの破格の礼遇があ…

天武天皇評伝(四) 乙巳の変

皇極王の四年は、唐の太宗の貞観十九年に当たる。太宗は、先年より高句麗と新羅の争いを調停すべく外交的介入を試みていたが、高句麗の権臣泉《いり》蓋蘇文《かすみ》が従わないので、ついに親征を決意した。太宗には、内は全国を平定し、外は突厥《とっく…

天武天皇評伝(三) 入鹿と鎌足

舒明王はその治世の十三年十月に崩御し、王后の宝王女が翌年正月に即位した。これが皇極王である。蘇我蝦夷が大臣に留任するが、その子の入鹿《いるか》の活動がこの頃から目立ち始めた。日本書紀には「自ら国政を執り、威は父に勝る」と記されている。一方…

天武天皇評伝(二)不安な安定

推古王が崩御した後、最も有力な政治家は、父馬子から大臣の座を継いだ蘇我蝦夷《そがのえみし》だった。蝦夷は、敏達王の孫である田村王子《たむらのみこ》を王位継承者として推した。これには阿倍臣麻呂《あへのおみまろ》・大伴連鯨《おほとものむらじく…

天武天皇評伝(一) 女帝の余韻

天武天皇は、舒明天皇と皇極天皇の末子で、帝位に即く前は大海人皇子《おほしあまのみこ》と呼ばれた。俗にオオアマノミコと読むが、オオシアマかそれを約めてオオサマというのが正しい。長子は中大兄《なかのおほえ》こと葛城皇子《かづらきのみこ》、のち…