古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

時事通信”中国の習主席、ゼロコロナ「勝利宣言」”報道は誤読

2022年12月31日付で、時事通信は「中国の習主席、ゼロコロナ「勝利宣言」 防疫は新段階に」と題する記事を配信した。こうある。 【北京時事】中国の習近平国家主席は12月31日、新年を迎えるに当たり恒例のテレビ演説を行い、新型コロナウイルスの感染拡大を…

ロシア史の概略(3/3)革命・戦争・世界

1904年に日本の攻撃を受けて始まった戦争によって、翌年にロシアは極東に於ける権益の多くとサハリン島の南半を失う。それより前、遠距離の戦力輸送による負担がのしかかるさなか、05年1月に「血の日曜日」事件が起きたのをきっかけに、広汎な革命運動の盛り…

ロシア史の概略(2/3)ロシア帝国の繁栄と没落

1584年、雷帝が死ぬと、皇太子フョードルが即位したが、病弱であったため、実権は義兄に当たるボリス・ゴドゥノフが握った。98年にフョードルが死ぬと、全国会議はゴドゥノフをツァーリに推挙したが、これがまた権力闘争のきっかけとなり、飢饉なども重なっ…

ロシア史の概略(1/3)ルーシの分裂と統合

9世紀頃までに、おおまかに黒海より北、バルト海沿岸より南に定着した東スラヴ民族のまとまりは、ルーシ(古ロシア)と呼ばれた。やがてルーシの諸族はキエフ公国を中心として連合したが、これを歴史上で「キエフ・ルーシ」と称する。その領域は今のロシア連…

流し読みでも解る中国古代文明史

○殷周時代 殷から周の前期は、まだ古代文明の原初的な段階であった。「古には万国あり」といわれたように、黄河中流域の中国(中国とは王都を指した)を中心に、数多くの都市国家(城市)が並立した。 メソポタミア文明がそうであるように、古代文明は自然の…

「病を称する」ということ

病を称する、というのは昔から政治家が何か事情があって引っ込む際の理由付けとして、史書などによく書かれてある。 喩えばあなたは五十代の会社員であるとする。誰でもそのくらいの年齢になれば持病らしいことの一つや二つは多少なりともある。あなたもかか…

中臣連の輪郭

中臣連という氏族は有名なのでよく分かっているような気がする。後に隆盛を極める藤原氏につながることも、古くから名族であったかのような想像を誘う。しかし、その実は明らかでないことが多い。 《日本書紀》によると、天岩屋隠れの所に出る天児屋根命が中…

「卑弥呼の鏡」は鉄製か――佐賀新聞の報道から

日本や中国では、利器の主役が鉄に移ってからも、鏡は銅で作るものだった。しかし三国時代、大陸では、主要な銅の産地は呉が領有したため、魏では銅材が不足し、鉄の鏡が作られたとされる。 佐賀新聞は一月三日付で、『卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で…

元祖キャッシュレスだった紙幣と、これからのキャッシュレス

ここに「紙幣」というものがある。みなさんは紙幣は「現金」だと思うだろうか。なぜ紙ペラが現金として通用するのだろうか。実は、紙幣が現金としての地位を確立したのは、そんなに古いことではない。どの時点で紙幣が現金になったかは、明確にいつというの…

年号の起源の謎? どうしてそんなことを始めたのか

いわゆる年号(現在日本の法律用語では元号)という制度は、漢の武帝の時に始まったとされる。ただし明代以降(日本では明治以降)の一世一元制は、実質的には君主紀年法(某王の何年といった数え方)に回帰するもので、本来の年号制とはかけはなれた面があ…

梅原猛さんの訃報

哲学者の梅原猛さんが去る1月12日に亡くなられた。 梅原さんは日本の歴史や文化にも造詣の深い方で、その関係の著書が祖父の蔵書にあったので私も何冊か読む機会を得た。その印象では、梅原さんの長所は、通説や常識に囚われない着眼の鋭さ、研究に打ち込む…

六世紀末に流行した天然痘

『日本書紀』敏達天皇の十四年(585)三月の条に、当時流行した病気の症状について記されている。「瘡ができて死ぬ者が国にあふれた。その瘡を患った者は、体が焼かれ打たれ砕かれるようだと言い、泣きむせびながら死んだ」という意味のことが書かれている。…

崇峻天皇暗殺事件

崇峻天皇はその在位第五年(隋の文帝の開皇十二年、西暦592)の十一月三日、暗殺され、即日埋葬された。『日本書紀』によると時の大臣《おおおみ》蘇我馬子《そがのうまこ》が、東漢直駒《やまとのあやのあたいこま》に手を下させたという。 殺害の動機と嫌…

「なぜそんなものを食べるのか」? 食不食論を考える

歴史を掘り下げる中で「食」に出会うと、今の料理と変わらない旨さが想像できる事もあれば、なぜそんなものを食べるのかと驚く様な事もある。しかし考えてみれば、食べるものを選べるという状況がずいぶんと贅沢なのであって、人類は長い間、獲得できるもの…

月令七十二候集解(七月~十二月)

※前回より続き。 kodakana.hatenablog.jp ○立秋《りっしゅう》 立秋は、七月の節気。立字の解は春のところに述べた。秋は、揪《しゅう》である。物をこのころに揪斂《しゅうれん》(とりいれ)することである。 涼風至《りょうほうし》〔『礼記』は盲風至に…

月令七十二候集解(正月~六月)

※元の呉澄による二十四節気七十二候の解説/試訳/()内は訳注/意味が取りにくい所はふんわり訳/字音のふりがなは全て漢音 それ七十二候は、呂不韋が『呂氏春秋』に載せ、漢の儒者は『礼記』「月令」に入れて、六経と同じく不朽に伝えられている。北魏は…

書評:松本克己『世界言語のなかの日本語』(2007年)

日本語の系統を探る試みは、語彙の比較を中心とする従来の方法では十分な成果をあげることができなかった。それはそうした方法によって遡れるのはせいぜい5~6000年程度の長さであり、もっと古い時代に他の言語と分離したらしい日本語の起源には及ばないから…

稲荷山古墳出土鉄剣銘文の問題点

銘文の概要 1968年、埼玉県にある稲荷山古墳前方部の発掘調査が行われ、発見された出土品の中にこの鉄剣はあった。刀身には錆と木製の鞘が膠着しており、当初は銘文が刻まれていることは知られなかった。1978年、出土品の錆が進んで、保存処理をするために、…

過去30年ほどの衆議院議員総選挙から

1986年以後の衆議院議員総選挙 戦後の新制度下において、衆議院議員総選挙は、昭和二十二年(1947)の第二十三回から、平成二十六年(2014)の第四十七回まで、合計25回実施されている。このうち任期満了に伴う総選挙は、昭和五十一年(1976)の第三十四回だけで、…

「証拠があるからこの主張は正しい」というものではないという話

「ネコとナマコは似ている」という論 ある人が「ネコとナマコは似ている」という論を立てた。理屈はこう。ネコもナマコも前に口、後に尻があり、基本的な構造は円筒形で、口で食べて尻で排泄をする。こんなに共通点があるのだからネコとナマコは似ているのだ…

カクヨムにて歴史小説『張政と姫氏王』を連載中

小説投稿サイト「カクヨム」にて歴史小説『張政と姫氏王』を連載しています。時は景初二年の秋、公孫淵が司馬懿に敗北した事で魏王朝に回収された帯方郡。郡の若手役人で倭人との交渉に従事する張政は、魏から派遣された新太守の劉昕に呼び出され、直々に一…

プロレスリングの歴史と経済 ~体力/試合数*期待値~

1896年、第一回近代オリンピックがアテネで開かれ、その中でグレコローマン・スタイルのレスリングが行われたのが、いわゆるアマチュア・レスリングの始まりとされる。フリースタイルは1904年のセントルイス大会で導入された。当初のアマレスのルールは、当…

後宮についての雑記

皇位継承の安定性と後宮制度 天武天皇の後継者が百年ほどでほとんど絶えてしまった原因の一つは、産児の少なさにあり、これは後宮の制度が実際的に確立していなかったことに起因する所があるようだ。もっとも天武天皇自身は、十人の女性との間に十男七女を産…

天武天皇評伝 目次

kodakana.hatenablog.jp kodakana.hatenablog.jp kodakana.hatenablog.jp kodakana.hatenablog.jp kodakana.hatenablog.jp kodakana.hatenablog.jp kodakana.hatenablog.jp kodakana.hatenablog.jp kodakana.hatenablog.jp kodakana.hatenablog.jp kodakana.…

天武天皇評伝(二十七・完) 後継者たち

大津《おほつ》皇子は、天武天皇と大田《おほた》皇女の子で、この年二十四歳というから、天智天皇の称制二年に生まれている。鸕野《うの》皇后にとっては姉の子で、草壁《くさかべ》皇子からは一歳下の弟ということになる。草壁と大津の関係は、『日本書紀…

天武天皇評伝(二十六) 崩御

天武天皇の治世十五年七月二十日、年号を立てて朱鳥《あかみとり》元年と称した。孝徳王の白雉以来、改元は久しく忘れられていたことである。朱は赤色の類に属し、赤は五行説では火の色とされる。白は金の色である。かつて戦国から漢の頃にかけて五行説が流…

天武天皇評伝(二十五) 権力と身分

皇族と内外の貴族の身分をどう秩序付けるかということは、その治世を通じて、天武天皇が最も意を用いたことであったろう。この気遣わしい作業を進めるために、第一に注意しなければならないのは、壬申の年の勝利に貢献した功臣たちの処遇だった。功績ある者…

天武天皇評伝(二十四) まだ見ぬ都城への道のり

天武天皇の脳裡には、即位の当初から、本格的な都城の建設という構想があったに違いない。しかし天武天皇は急がない。そもそも都城は何のために必要か。それは見栄や満足のためではない。都城は法制度の容器である。法典の編纂は、すでに先代において近江令…

天武天皇評伝(二十三) 日本王朝の成立

『日本書紀』は、壬申の年を、天武天皇の元年として数える。天武天皇の即位は、二年二月二十七日である。天武天皇の二年は、唐の高宗の咸亨四年、新羅は文武王の十三年に当たる。 天武天皇は正妃鸕野皇女《うののひめみこ》を立てて皇后とした。鸕野皇女は天…

天武天皇評伝(二十二) 壬申の乱・四

軍を率いて美濃国を出、近江国に攻め入った村国連男依《むらくにのむらじをより》らは、七月七日、国境の西息長《おきなが》で大友方の軍と戦ってこれを破り、その将軍境部連薬《さかひべのむらじくすり》を斬った。大海人皇子《おほしあまのみこ》は野上《…