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古代史を語る

古代史の全てがわかるかもしれない専門ブログ

天武天皇評伝(二十三) 日本王朝の成立

『日本書紀』は、壬申の年を、天武天皇の元年として数える。天武天皇の即位は、二年二月二十七日である。天武天皇の二年は、唐の高宗の咸亨四年、新羅は文武王の十三年に当たる。 天武天皇は正妃鸕野皇女《うののひめみこ》を立てて皇后とした。鸕野皇女は天…

天武天皇評伝(二十二) 壬申の乱・四

軍を率いて美濃国を出、近江国に攻め入った村国連男依《むらくにのむらじをより》らは、七月七日、国境の西息長《おきなが》で大友方の軍と戦ってこれを破り、その将軍境部連薬《さかひべのむらじくすり》を斬った。大海人皇子《おほしあまのみこ》は野上《…

天武天皇評伝(二十一) 壬申の乱・三

大海人皇子《おほしあまのみこ》が吉野宮を発った日、後から追って合流した黄書造大伴《きふみのみやつこおほとも》が、大伴連馬来田《おほとものむらじまぐた》を連れていたことは前に述べた。この馬来田とその弟の吹負《ふけひ》は、かねて政情を案じ、病…

天武天皇評伝(二十) 壬申の乱・二

近江の朝廷では、大海人皇子《おほしあまのみこ》が東国《あづまのくに》に入ったということが聞こえると、動揺する者が多く、ある人は抜けがけして東国へ奔ろうとし、またある人は逃げて山谷に隠れようとしたという。 そこで大友皇子《おほとものみこ》は側…

天武天皇評伝(十九) 壬申の乱・一

「今聞くに、近江の朝廷の臣どもは、余を殺そうと謀っているとか。これによって汝ら三人は、急ぎ美濃国へ往き、安八磨《あはちま》郡の湯沐令《ゆのうながし》多臣品治《おほのおみほむぢ》に会い、戦略の要点を伝えて、まずその郡の兵を興せ。ゆくゆく国司…

「聖徳太子」という呼称について

数日前のことになるが、いわゆる「聖徳太子」について、学習指導要領の改訂案で表記を変更することになり云々、ということが新聞記事になっているのを目にした(聖徳太子、教科書で表記変更は妥当? 国会で論戦に:朝日新聞デジタル)。聖徳太子、という一般…

天武天皇評伝(十八) 大友皇子と大海人皇子

天智天皇が死に瀕していた十一月二日、唐から法師道久《だうく》や筑紫君薩野馬《つくしのきみさちやま》ら四人が対馬国司《つしまのくにのみこともち》のもとへ来着した。道久はおそらく前の遣唐使の一員として渡った僧侶。薩野馬は百済への出兵に従って捕…

天武天皇評伝(十七) 希なる改革者の最期

天智天皇は、従来の慣習を破って、大友《おほとも》皇子に皇位を継承させる形を作ろうとしてきた。これに大海人《おほしあま》皇子は反対のはずである。しかし、兄弟の間に感情的なしこりがあるとはいえ、基本的には理想を共有している二人でもある。相続法…

天武天皇評伝(十六) 天智天皇の焦り

文武王の反撃が開始されて以来、各勢力間の外交も活発に行われた。天智天皇が送った遣唐使は、咸亨元年に高宗に謁見して高句麗の平定を祝賀したという。天智天皇のもとへも、即位四年・咸亨二年になると、新羅側と唐側の両方から複数の使節があり、いずれも…

天武天皇評伝(十五) 文武王の反撃

唐の高宗の咸亨元年、倭の天智天皇の即位三年、この春にはいよいよ新羅と唐の間に緊張したものが表面化してきた。晩春から初夏にかけて、新羅は高句麗の反抗軍を支援し、唐側の靺鞨兵と戦って大いに勝利した。 夏になると、高句麗の遺臣剣牟岑《こむむじむ》…

天武天皇評伝(十四) 藤原を散らす冬の風

外交能力は最高の戦力である。ここ数年、倭国の朝廷は唐や高句麗などからの使節をいつも迎えている。丁度平壌城が陥落したかしないかの頃にも、近江の大津宮に新羅からの使者金東厳《こむとうごむ》が訪れた。この時は天智天皇の即位元年・唐の高宗の総章元…

天武天皇評伝(十三) 高句麗の崩壊

高句麗では、この三年ほど前、長く権柄を握った大臣の泉蓋蘇文《ぜんかいすもん(いりかすみ)》が卒去し、長子の男生《なむしゃう》が後を継いで国政を統べた。あるとき、男生は各地を巡察するため、その留守には弟の男建《なむこん》・男産《なむせん》に…

天武天皇評伝(十二) 近江の朝廷

天智天皇の即位元年は、唐は高宗の総章元年、新羅は文武王の八年、高句麗は宝蔵王の二十七年に当たる。 天智天皇は、かつて抹殺した古人大兄《ふるひとのおほえ》王子の息女、倭姫王《やまとのひめおほきみ》を皇后とした。『日本書紀』による限り、王族から…

天武天皇評伝(十一) 天皇の誕生

白村江の会戦より前、皇極王が没した後、中大兄王子《なかのおほえのみこ》は太子のままで「称制」し、七年目になってようやく位を継いだ。『日本書紀』にはそう書いてある。ここで言う「制」とは皇帝の発する命令のことで、「制を称する」とはその位にない…

天武天皇評伝(十) 白村江に散る

唐の高宗の顕慶五年九月、唐の大将蘇定方《そていほう》が義慈王らを捕虜にして帰国すると、百済の遺臣鬼室福信《きしつふくしん》らの率いる反抗軍は、鎮将劉仁願《りゅうじんがん》の留まる旧都泗沘《しひ》城を攻めた。仁願が泗沘城に駐まる唐と新羅の兵…

天武天皇評伝(九) 百済の黄昏

唐の高宗の永徽五年、新羅の真徳王が薨去し、孫の春秋が立って王となった。これが武烈王で、また新羅の太宗とも呼ばれる。この年は倭の白雉五年に当たる。武烈王は明年、高句麗と百済が結んで新羅の三十城あまりを奪ったとして唐に訴えた。高宗は営州都督の…

本当は由緒正しい「二つ折り型スマートフォン」の歴史概説 

二つ折り型の携帯電話機と言えば、1999年、iモードのサービス開始とともに登場した、と書くと多くの人は納得してしまうかもしれない。しかし実際にはこの形状を採用した機種はそれより前にすでに存在していた。ここで言う「二つ折り型」とは、開いた時に上…

天武天皇評伝(八) 孝徳父子の死にぎわ

阿倍倉梯麻呂《あへのくらはしまろ》が逝去し、蘇我倉山田石川麻呂《そがのくらのやまだのいしかはのまろ》が謀殺された後、大化五年四月、巨勢徳陀古臣《こせのとこだこのおみ》が左大臣に、大伴長徳連《おおとものながとこのむらじ》が右大臣に任命され、…

天武天皇評伝(七) 因果応報やみがたし

唐の太宗がその崩御につながる病に襲われつつあった頃、倭国では左大臣阿倍倉梯麻呂《あへのくらはしまろ》が卒去した。倉梯麻呂の死については特に伝えられていることはない。大化五年三月十七日のことだった。この頃までに、改革の方向性を示す法令の発布…

天武天皇評伝(六) 戦争と外交の季節

倭国の孝徳王政権が大化と年号を立てて新しい政策の展開に乗り出した頃、唐の太宗が率いる親征軍は、高句麗の安市城に迫っていた。唐の貞観十九年八月。年頭に開始された唐の高句麗遠征は、ここまでは順調に見えた。ところが意外、安市城の守りは堅かった。…

天武天皇評伝(五) 頤で王子を殺す

中臣鎌足《なかとみのかまたり》がともに天下のことを図るべき人物と見こんだ本命は、あくまで中大兄《なかのおほえ》王子だった。それにも関わらずここで孝徳王を推戴したことには、いくつかの理由がある。それはまず第一には、孝徳王からの破格の礼遇があ…

天武天皇評伝(四) 乙巳の変

皇極王の四年は、唐の太宗の貞観十九年に当たる。太宗は、先年より高句麗と新羅の争いを調停すべく外交的介入を試みていたが、高句麗の権臣泉《いり》蓋蘇文《かすみ》が従わないので、ついに親征を決意した。太宗には、内は全国を平定し、外は突厥《とっく…

天武天皇評伝(三) 入鹿と鎌足

舒明王はその治世の十三年十月に崩御し、王后の宝王女が翌年正月に即位した。これが皇極王である。蘇我蝦夷が大臣に留任するが、その子の入鹿《いるか》の活動がこの頃から目立ち始めた。日本書紀には「自ら国政を執り、威は父に勝る」と記されている。一方…

天武天皇評伝(二)不安な安定

推古王が崩御した後、最も有力な政治家は、父馬子から大臣の座を継いだ蘇我蝦夷《そがのえみし》だった。蝦夷は、敏達王の孫である田村王子《たむらのみこ》を王位継承者として推した。これには阿倍臣麻呂《あへのおみまろ》・大伴連鯨《おほとものむらじく…

天武天皇評伝(一) 女帝の余韻

天武天皇は、舒明天皇と皇極天皇の末子で、帝位に即く前は大海人皇子《おほしあまのみこ》と呼ばれた。俗にオオアマノミコと読むが、オオシアマかそれを約めてオオサマというのが正しい。長子は中大兄《なかのおほえ》こと葛城皇子《かづらきのみこ》、のち…

歴史と人物の理解と評価

《万葉集》巻十九に収められている、 皇《おほきみ》者《は》 神《かみ》尓《に》之《し》座《ませ》者《ば》 赤《あか》駒《ごま》之《の》 腹《はら》婆《ば》布《ふ》田《た》為《ゐ》乎《を》 京師《みやこ》跡《と》奈《な》之《し》都《つ》 大《おほ…

「大王」なる称号は本当にあったのか――ついでに天皇号の由来について

日本古代史の概説書などを読むと、天皇号の前身として“大王”号が使われていた、ということがしばしば書いてある。しかしなぜそう言えるのか、考えてみるとよく分からない。 “大王”という字は確かに日本の古い史料に出てくる。その意味では証拠のあることなの…

再び、古代における歴史学的年代観について

日本古代史の歴史学的年代観の問題について以前に軽く触れた。古代の中の時代区分、特に6世紀頃より前において、歴史学的年代観が確立せず、弥生時代・古墳時代という考古学的年代観が流用されることについてである。 kodakana.hatenablog.jp もっとも、6世…

日本史の誕生

古代という段階をそれより前と区別するならば、それは社会に不可逆の速い変化が起き始めた時代である。何千年何万年という間にほとんど変わりのない日常を繰り返した時期は過ぎた。時間は取り返しのつかないものになる。二度とない時を人々は深く記憶し、事…

日本版・古代帝国への道(後編)

(承前) kodakana.hatenablog.jp 高句麗の王都平壌が陥落し、宝蔵王が囚われのは、唐の高宗の総章元年(668)、日本は天智天皇の七年、新羅は文武王の八年のことだった。これにより唐は高句麗・百済の故地を占領することとなったが、実態としてはまだ平定し…

日本版・古代帝国への道(中編)

(承前) kodakana.hatenablog.jp 改革を進めていくことは、常に現状との妥協による。 皇極天皇はその治世の四年(645)六月、孝徳天皇に譲位し、その年は元号が立てられて大化元年と称した。孝徳天皇は、敏達天皇の曾孫、皇極天皇の同母弟で、仏法を尊び性…

日本版・古代帝国への道(前編)

《隋書・東夷列伝》の中には、隋の大業三年(608)、裴世清が倭国へ派遣された際の報告に基づくと思われる記事がある。それによると、竹斯国から東は十余国を経て海岸に達した、という。海岸とは、倭国の海岸ということで、《日本書紀》を参照すると、推古天…

海東の護法天子――推古天皇(後編)

(承前)隋の大業四年(608)、煬帝は鴻臚寺掌客の裴世清を倭国へ派遣した。倭国の首都に入った裴世清は、《隋書》の方では“倭王”に面会し歓談したように書かれている。“国王”なら当然勅使とは直に会うべきである。しかし《日本書紀》の方では、推古天皇が裴…

海東の護法天子――推古天皇(中編)

(承前) 推古天皇の八年以降、新羅と戦争のあることが予期され、来目皇子《くめのみこ》が征新羅将軍に任じられたが、筑紫で備えをする間に病を得て、十一年春二月に薨去した。その秋、当摩皇子《たぎまのみこ》が後任として難波から船出したが、播磨で妻舎…

海東の護法天子――推古天皇(前編)

推古天皇が即位したのは、大臣《おほおみ》蘇我馬子宿禰《そがのうまこのすくね》による崇峻天皇暗殺の後を受けた、隋の開皇十二年(592)に当たる歳末で、南朝の陳が滅ぼされてから約四年後のことだった。推古天皇の母は堅塩媛《きたしひめ》、堅塩媛の父は…

埴輪の馬はどんな馬か

六世紀代といえば、《日本書紀》が編纂された時期にかなり近付いてくるので、より詳細で信憑性の高い内容を期待したくなる。ところが、この時期にかかるはずの顕宗天皇あたりから推古天皇の初頭にかけて読んでいくと、うんざりするほど韓国関係の記事が多い…

五世紀の倭新関係(後編)

(承前) 政治と商業と掠奪は、根が一つである。この三つの要素がいかに関係するかで歴史的な動きが決まると言ってもよい。前回に見た、ロシアの皇帝・商家・カザークの癒着は、その最も分かりやすい例の一つだろう。三者の組み合い方は違っても、要するに同…

五世紀の倭新関係(中編)

(承前) kodakana.hatenablog.jp 前回までに述べた所のあと、《日本書紀》と《三国史記・新羅本紀》の双方に、相互の関係についての記事がいくつかある。その中に、個別の対応が確認できるものが、もう一つある。 それは、神功皇后紀摂政五年の条で、微叱許…

五世紀の倭新関係(前編)

《日本書紀》は天武天皇とその後継者の王権のために編まれた。だからその立場からする潤色や付会が多い。従来多くの論者が幻惑される所である。史書の記述に疑いがあるとき、それを確かめる方法の一つは、同じ事柄を扱った別の史書と比較してみることだ。書…

神功皇后と海の権益

《日本書紀》によると、晩年の景行天皇は、纏向まきむくの日代宮ひしろのみやから志賀の高穴穂宮たかあなほのみやに移って、そこで崩御までの三年を過ごした。《古事記》の方にはこのことは見えないが、次の成務天皇が高穴穂宮で天下を治めたとある。穴穂と…

建国の王者―崇神天皇の時代

古代史の発展段階における領土国家時代は、後世の観念から見ても国らしい国ができてくる時期である。都市国家時代には、今の小売店と商圏の関係のような、古代都市とその勢力圏があるだけだったが、領土国家は領土と国境を持つ。かといってこれをあまり近代…

一字の考察「餅」

「餅《へい》」という漢字を日本では「モチ」に当てている。おモチは米を粒のまま搗いて作るから、穀物の粒食の一種と言える。ところが現代中国語の餅《ビン》は麺粉《こむぎこ》を捏ねて作るものを指す。これは昔からそうで、後漢の劉熙が編んだ《釈名》に …

極端な追尊の歴史 ― 日本と北魏

日本の“天皇”号がいつ創案され制度化されたかについては明確な記録がない。随・唐と比肩しようとした者が相手と同じく“天子”かつ“皇帝”を称したとすれば理解しやすいが、なぜ“天皇”が使われることになったかもよく分からない。五胡十六国などでしばしば用い…

日本史上の“都市国家時代”

証明することは難しく、仮定することは易しい。仮定はいくらでも任意に置いて構わないが、仮定の数が増えるだけ仮説の質は落ちることを覚悟しなくてはならない。しかしわずかの仮定によって多くの事実をうまく説明できるときは、それを置くことをためらう必…

日本書紀の冒頭を読む

《日本書紀》の冒頭は天地創生の説話から始まる。 古天地未剖,陰陽不分,渾沌如鷄子,溟涬而含牙。及其清陽者薄靡而爲天,重濁者淹滯而爲地,精妙之合搏易,重濁之凝竭難。故天先成而地後定。然後神聖生其中焉。 古には天地が未だ剖《さ》けず、陰陽は分か…

日本書紀の“革命思想”

天武天皇が即位した頃(673)、唐は高宗の咸亨年間で、実権は武皇后の手にあった。隋唐統一の安定期は、安史の乱が玄宗の天宝十四年(755)に起きているから、その巨大な印象に反して余り長くない。だがこの頃は、政界の確執はともかく、内政はわりあい平穏…

日本書紀を読む

《日本書紀》は日本における古代帝国的段階の成立までを通観できる唯一の古籍である。その歴史段階上の意義としては《史記》と比較すべきものだが、その性格は大きく異なっている。それが単なる過去の出来事の集積でなくて企図された編集物であるという点は…

卑弥呼の死と都市国家時代の終焉

魏の少帝の正始六年(245)、天子から倭の大夫難升米に黄幢を賜い、帯方郡に付託して授けさせることになった。ところがたまたま帯方郡と諸韓国の間に紛争があり、帯方太守の弓遵は戦死した。この前後のことは、“魏志倭人伝”に 其六年,詔賜倭難升米黃幢,付…

卑弥呼と東洋的古代王権

(承前) kodakana.hatenablog.jp 漢末、倭人諸国間の秩序が乱れ、やがて一人の女子を「共立」して王とした。ここの共の字は《太平御覧》の引用にはなく、どちらが正しいか分からない。しかしもし元から共立であったとすると、「自立」との対比から卑弥呼の…

女王卑弥呼と乃の字の事情

女王の都する所・邪馬台国を訪れた梯儁は、金印や賜物を引き渡すという使命を果たすだけでなく、女王卑弥呼の政治や来歴について調査することも怠りなかった。梯儁はどんな眼でそれを観ただろうか。 そもそも中国の歴史は、古代帝国的段階の前半までは、万事…