古代史を語る

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プロレスリングの歴史と経済 ~体力/試合数*期待値~

 1896年、第一回近代オリンピックがアテネで開かれ、その中でグレコローマン・スタイルレスリングが行われたのが、いわゆるアマチュアレスリングの始まりとされる。フリースタイルは1904年のセントルイス大会で導入された。当初のアマレスのルールは、当時のプロレスリングから一部の危険と見なされた要素を除いただけで、他はほとんど同じだったという。ここからアマレスが現在に至るまで大きく変化したこと、またプロレスも現在のスタイルとは大きく異なるものだったことが察せられる。現在のプロレスからアマレスが派生することは考えられそうにない。ではプロレスはなぜ、どのようにして現在のかたちに変化してきたのだろうか。

 かつてのレスリングは、時間制限や判定などはなく、決着が付くまで延々と闘うのが本式だった。1916年に出版された『How To Wrestle』に次の記述がある。

体育競技の多くの他の種目では、動く時間は、ルールとして、短く、休憩ができるインターバルによって分けられているが、レスリングの試合は十五分で終わるか一時間続くかわからず、その全ての瞬間は困難な仕事に費やされる。

 実際、1881年に行われたウィリアム・マルドゥーン対クラレンス・ホイッスラーの試合は7時間15分を経てやむなく引き分けとなったし、1912年ストックホルム五輪のアンデルス・アールグレン対イヴァル・ボエリングは9時間闘って両者に銀メダルが与えられた。オリンピックはともかくとして、プロの試合でこれが興業として成立したのは、19世紀的な未来への楽観的な雰囲気の中でのことだった。19世紀的なプロレスの時代は、20世紀初頭までは続いた。当時のレスラーがどう試合に対応していたかを示す記述が『How To Wrestle』にある。

レスラーの練習活動は大会の性質と予期される勝負までの時間の重要さによって変化するべきである。その一ヶ月より前になると、男は中程度の要求される反復から始めて、試合が決められた時が近付くのに連れて活動の量と厳しさを徐々に増やさなければならない。練習期間が二週間を切るほどになると、当然、より高度な技法を伴う準備を始める必要がある。普通のプロレスラーは、どんな時も軽い練習をやめることは滅多にない。彼らは急な連絡でも速やかにリングに上がれる様に、試合が決まっていない時でさえ相当な状態を保つ様に常に気を付けている。

 これによると、プロではないレスラーは多くても一ヶ月に一回程度の試合を行いうるのが普通だった。しかしプロレスラーとなると、金を稼ぐためにより多くの試合をこなし、不意の出場依頼にも応えていたことが窺われる。ここで注意されるのは、試合数の増加によって一試合あたりに消費できる体力が小さくなることである。つまりレスラーが一試合に消費できる体力は、一定期間に用いることのできる体力の総量を、その期間内に求められる試合数で割った値である。これは試合数の増加が試合の質を低下させることを予想させる。しかしこれは試合数の増加が甚大でないうちは、レスラーの鍛錬によって吸収されるだろう。試合数の増加は、レスラーが一試合あたりに得られる報酬が高いほど抑制される。レスラーが得る報酬の高さは、観客や後援者が一試合あたりにどれだけの価値を認めるかで決まるだろう。試合数の増加が甚大にならなかった時期は、まだ19世紀的プロレスに十分な価値が認められていた時期である。

 ところが1920年代に入ると、経済や国際関係などの問題が影響して、のんびりレスリングを楽しめる環境が失われてくる。人々はもはや何時間かかるかも分からない大会、しかも面白いとは限らない試合を観に行く価値を認めなくなってくる。認められる価値の低下は、試合数増加の抑制を緩め、同時に一試合あたりに消費する体力を抑制し、試合の質を低下させる可能性を生む。これは観客の満足度を低下させ、なおさら価値の低下に歯止めが利かなくなる危険をはらむ。新しい観客の嗜好は試合時間と満足度の確実性を望んでいる。しかしレスラーやプロモーターたちは巧妙な手法で試合時間の不確実性を減らし、同時に満足度を高めることにも成功した。体力量を試合数で割り、その中で可能なスタイルをうまく選択できたのである。ここにプロレスの新しい時代が開かれることとなった。

 次に訪れた大きな変化は、1950年代、敗戦後の日本にプロレスが導入されたことから始まる。相撲や柔術の伝統を受け継いだ日本のレスラーは、プロレスに受け身の概念と技術を確立し発達させた。これはレスラーの交流を通してアメリカやメキシコにも大きな影響を及ぼす。受け身の存在はより大きな動きのある技の使用をより容易にし、観客に新たな驚きを与えた。大技を使うことで映像映えも良くなり、テレビ時代の波に乗ってプロレス人気を拡大させた。

 ところで受け身とはそもそも身を守るための技術だが、受け身の存在を前提にすることはより危険性の高い技の使用を促進した。特に1990年代以降の日本プロレス界では、有力な競合商品としての総合格闘技の勃興がこの傾向を顕著にさせ、過激なプロレスが一世を風靡した。技の過激化は受け身を取る技術の向上によって吸収できる範囲を超え、体力消費の増加を招いた。総合格闘技の人気が頂点に達した2000年前後、プロレスラーのこなす試合数は減少する傾向にあったが、人気の低落を伴っていたこともあり、一大会あたりの収益を増やすのは困難な状況だった。こうした深刻なプロレス不況の中で、レスラーは好ましくない状況に置かれ、試合中に重大な傷害を負う選手も出た。この時期の傾向は、総合格闘技が凋落した2010年代にも影響を残した。

 近年、新日本プロレスの努力による人気回復は、主要なレスラーの身体的負担を増大させている。1980年代の人気レスラーは年間200試合以上をこなすこともあったと聞くが、観客の期待値が変化しているため、その試合数を単純に今のレスラーに要求することはできない。考えられる対策の一つは、団体の努力によって一選手あたりの試合数を抑制することだが、もう一つは観客を成長させることだろう。

 この場合参考になるのはメキシコの老舗団体 CMLL である。CMLL の大会を観ると、その華やかな雰囲気と比べて、試合内容は意外と地味なもので、基礎的な技術が生み出す展開の豊富なバリエーションを見ることができる。CMLL は非常に多くの選手を抱え、大会も多く開いている。すると大きな技や大きな動きの連発ではすぐ飽きられてしまう。観客にも目の肥えた人が多いので、底堅い内容が求められ、それによってルチャ・リブレが日常的娯楽としての地位を獲得できている。日本ではまだたまにしかプロレスを見ない観客の目を驚かせる必要があり、それが選手の危険に繋がる要因になっているようである。選手の安全と、事業の持続性のためにも、この点を課題として認識し、解決していくことが望まれている。

後宮についての雑記

皇位継承の安定性と後宮制度

天武天皇の後継者が百年ほどでほとんど絶えてしまった原因の一つは、産児の少なさにあり、これは後宮の制度が実際的に確立していなかったことに起因する所があるようだ。もっとも天武天皇自身は、十人の女性との間に十男七女を産んでいる。しかし若くして死んだ草壁皇子文武天皇については問わないにしても、聖武天皇でさえ二人の女性との間に二男三女を残したに過ぎず、しかも二人の男子は早くに死んでいる。なお元正・孝謙は独身で子がなかった。

法制度的には律令の中に後宮職員令というのがあり、側室としては「妃」二人、「夫人」三人、「嬪」四人が定員となっている。また後宮の職務に当たる役人として「宮人」約280人が仕える。宮人というのは女官の総称で、もちろん天皇の方にその気があれば「御手付き」ということがありうる。遡れば実際に天智天皇が「宮人」四人を召して三男三女を産ませている。しかし天武系にはこの実例はない。また天皇自身は律令に拘束されないので、必要なら側室を増員することもできる。そのために桓武天皇以後に設けられたのが「女御」や「更衣」という身分で、後には女御の子が天皇になる例も出てくる。前代の二の轍を避けるために考えられた措置だろうし、現に皇室の安定に寄与する一因となったと言ってよいだろう。

中国の後宮制度と実例

中国では古くから男系、特に父子継承にこだわる王権文化が形成され、これを支えるために後宮の制度が設けられた。《礼記・昏義》に、

古者天子後立六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻,以聽天下之內治,以明章婦順;故天下內和而家理。

という記述がある。つまり周の礼儀では「夫人」三人、「嬪」九人、「世婦」二十七人、「御妻」八十一人、総四等120人が後宮を形成する。御妻は或いは御女または女御ともいう。この役割分担については、《後漢書・皇后紀上》に、

夏、殷以上,后妃之制,其文略矣。周禮王者立后,三夫人,九嬪,二十七世婦,八十一女御,以備內職焉。后正位宮闈,同體天王。夫人坐論婦禮,九嬪掌教四德,世婦主喪、祭、賓客,女御序于王之燕寢。

とあり、世婦と御妻は側室というより侍女かと思う。

では歴史上の実例はどうかというと、《資治通鑑・漢紀四十六》に、

帝又徵安陽魏桓,〈安陽縣,屬汝南郡。〉其鄕人勸之行,桓曰:「夫干祿求進,所以行其志也。今後宮千數,其可損乎?廐馬萬匹,其可減乎?左右權豪,其可去乎?」〈去,羌呂翻。〉皆對曰:「不可」。桓乃慨然歎曰:「使桓生行死歸,於諸子何有哉!」〈賢曰:若忤時強諫,死而後歸,於諸勸行者復何益也。〉遂隱身不出。

という逸話を載せている。これによると、東漢桓帝の時、魏桓なる人物に朝廷から仕官の誘いがあった。近所の人が仕えたらいいじゃないかと勧めると、魏桓は世の中が非常に不景気なのに政府が贅沢をしていることを非難し、仕えて昇進してみてもそれをやめさせられる政情じゃないからというので、身を隠して出仕しなかった。その言葉の中に「後宮千数」とある。千数というのは、千を単位として数えるほど、ということだろう。

三国志・魏書・袁術伝》によると、袁術が帝号を僭称した時、

荒侈滋甚,後宮數百皆服綺縠,餘粱肉,而士卒凍餒,江淮間空盡,人民相食。

後宮には数百人を置き、みな綺麗な服を着て食糧も余るほど蓄えていたが、これは実際には一地方政権に過ぎない袁術には過ぎた贅沢で、士卒は飢えて凍えてしまうし、一般人民には食品が全く渡らず、互いに食うほどの有様だった。

三国志・呉書・孫皓伝》に付けた裵松之の注に《晋陽秋》を引いて、

濬收其圖籍,領州四,郡四十三,縣三百一十三,戶五十二萬三千,吏三萬二千,兵二十三萬,男女口二百三十萬,米穀二百八十萬斛,舟船五千餘艘,後宮五千餘人。

呉が晋に降伏した時、その後宮は五千人余りという規模だった。これもやはり呉の国力としては奢侈が過ぎたというものだろう。

下って唐代になると、《通典・職官十六・后妃》《旧唐書・職官三》《新唐書・百官二》などによれば、唐の後宮制度は始め隋の煬帝が欲を出して拡張したものを受け継いだが、次第に整理して、玄宗の時には「妃」三人乃至四人、「六儀」六人、「美人」四人、「才人」七人を標準とした。これに仕える女官は数え上げると270人ほどになる。ただし中国では後宮の職務のために宦官も入るが、宦官の所属する内侍省という役所が別にある。日本には宦官はないので、後宮の中に内侍司という部署があって女官が所属する。いずれにせよ案外規模が小さいという印象を受けるが、やはり皇帝は律令の拘束は受けないので、実際はどうかというと、白居易の《長恨歌》に、

後宮佳麗三千人,三千寵愛在一身。

という有名な句がある。これは詩的表現だから厳密には請け合えないが、他の例によって考えるとあながち誇張でもないようだ。跡継ぎを作るためだけなら、皇帝一人に女性三千人は、いくらなんでも必要がないだろうから大変な贅沢である。


血統を権力の根拠にする社会では、君主の後継者がなくなるとたちまちに体制の崩壊を招くこともある。昔は死産が少なくなく、嬰児の死も多く、せっかく成長しても病気や政争で殺される危険もある。そうした不安が根底にあって、贅沢をしたいという欲が加わり、権力がそれを実現し、また不安によって贅沢が許容される。そして人の感覚というものは、一度贅沢をすることに慣れてしまうと、どのくらいが必要最低限度なのかが分からなくなる。継承は男系で、それも父子継承が望ましいといったように、限定条件を付けることで、不安が増すことはあっても減ることはない。

天武天皇評伝 目次

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天武天皇評伝(二十七・完) 後継者たち

 大津おほつ皇子は、天武天皇大田おほた皇女の子で、この年二十四歳というから、天智天皇の称制二年に生まれている。鸕野うの皇后にとっては姉の子で、草壁くさかべ皇子からは一歳下の弟ということになる。草壁と大津の関係は、『日本書紀』からはよく分からない。ただ『万葉集』に載せられた107~110の歌とその題詞によると、大津は草壁の恋人を奪って密通したことがあったと読み取れる。大津は体格がよくてはきはきしていたといわれるが、放蕩でもあったという。天性温和な草壁はこの弟が苦手だったのだろうし、皇后としても我が子のことを思いやれば大津の存在を快しとしなかったのだろう。

 大津皇子謀反のことは、『懐風藻』によれば、新羅人の僧侶行心ぎやうしむが、

「あなたの骨相は、どうも人臣のものではありませんね。下の位に甘んじていると、かえって身を滅ぼすかもしれませんよ」

 と言ってそそのかしたということになっている。川嶋かはしま皇子もこの謀議に加わったが、返り忠をしたとも書いてある。これらは本当かどうか分からない。

 朱鳥元年の秋頃、大津は姉の大来おほく皇女を訪ねて伊勢に行っていたらしい。大来は斎王として伊勢に遣わされていた。これは『万葉集』105・106の歌から読み取れることで、正確にはいつのことかは分からない。しかし天武天皇の死に目に帰らなかったり、もがりをすっぽかすようなことになると、鸕野皇后を怒らせることは間違いない。大津には迂闊なことをして後からくよくよするような所がある。ともかくやまとへ戻らなければならない。大来にはこれが最後の別れになると分かっていた。

 鸕野皇后は大津皇子を除こうと決めていた。決心したことを実行する機敏さと意志の強さは父譲りのものを持っている。表立って闘うよりもむしろ隠謀によって問題を処理することは、この国の伝統と言ってよい。それは確かにより多くの血と涙が流されることを防いでいる。天武天皇の殯が始まって間もない十月二日、皇后は大津の身柄を確保し、共謀者として三十人余りを捕らえた。早くもその翌日、皇后は大津に死を賜った。自刃させたようである。大津の辞世の句、

  百伝ももづたふ 磐余池尓いはれのいけに 鳴鴨乎なくかもを 今日耳見哉けふのみみてや 雲隠去牟くもがくりなむ(百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ)

 これは今の世にもよく知られている。

 このとき大津の妃山辺やまのへ皇女が駆けつけて殉死した。他の者の処分は軽いものだった。

 天武天皇の殯は、およそ二年間にわたって行われた。この間、供養のために無遮大会むしやだいゑを開いたり、遺品の着物を袈裟に直して三百人の僧侶に贈るといったこともした。仏教が日本の成立に及ぼした影響は既に大きい。崩御から二年後の十一月十一日、天武天皇の棺は大内おほうち陵に納められた。今、奈良県高市群明日香村の野口王墓古墳で、天皇陵古墳の比定が確実な数少ない一つである。

 さて鸕野皇后は、殯が明ければ草壁皇子天皇の跡を継がせるつもりだったのか、それともまずは自身が皇位に即いてから譲位するつもりだったのだろうか。空位の状態が続くうち、草壁皇子は皇太子のまま、この翌年の四月十三日に薨去した。死因は伝えられていない。皇后は皇太子の死に当たって、柿本人麻呂かきのもとのひとまろや皇子の舎人らに歌を作らせただけであった。皇太子の死は、この後の鸕野の政治に影を落とさなかった。

 この年の六月二十九日、諸官司に令一部二十二巻が班布された。いわゆる浄御原令で、律はまだ法典の形にはならなかった。

 翌年正月一日、皇后は天皇の位に即いた。これが持統天皇である。『日本書紀』は天武天皇崩御の翌年を持統天皇の元年として年を数える。持統天皇の即位はその四年である。七月五日、高市たけち皇子を太政大臣とした。

 いわゆる藤原京は、当時は新益京しんやくのみやこと呼ばれ、五年十月に地鎮祭が行われた。その実態は近年の発掘によりかなり明らかになってきた。新益京の王宮が藤原宮で、これが京域の中央やや北寄り乃至ほぼ中央に置かれた点は、『周礼』に記された上古の理想的都城を思わせる。それは、

  方九里,旁三門。國中九經九緯,經涂九軌。左祖右社,面朝後市,市朝一夫。

  〔全体の面積は〕方九里、旁(側面)には三つ〔ずつ〕の門。国(城)中は九径九緯(南北九本ずつの街路)、経涂(道幅)は九軌。〔王宮の〕左には祖(宗廟)右には社(社稷)、面(前)には朝(朝庭)後には市(市場)、市・朝は一夫〔ずつの面積を占める〕。

 とあるのである。自然の地形をものともしないような直線的設計は、やはり理想的都城がそのまま現出したかのような観を呈している。周囲に城壁と言えるほどのものはなく、あったとしても土塀くらいのものだった。都市に城壁を巡らせることは古代世界の常識と言ってよく、くどくなるので『周礼』でもことさらには書かない。日本はこの常識の外にあったので、文字通りに読んで城壁などない方が理想に近いと考えたのだろうか。新益京の設計思想はやや変化しながら平城京平安京に受け継がれる。

 八年十二月六日、持統天皇は藤原宮に遷る。十年七月十日、高市皇子薨去した。十一年春、珂瑠かる皇子を立てて皇太子とした。珂瑠皇子は草壁皇子阿倍あへ皇女の子で、阿倍皇女は天智天皇蘇我氏姪娘めひのいらつめの子である。八月一日、持統天皇は位を譲り、珂瑠皇子が皇位に即いたが、これが文武天皇である。この年を文武天皇の元年とする。

 文武天皇の五年三月、元号を建てて大宝元年とした。これが現在まで連続する年号の始まりとなる。同時に新令の施行、官名・位号の改正が行われる。八月には律法典ができ、ここに大宝律令が完成した。十二月、持統太上天皇崩御した。大宝四年五月、改元して慶雲元年とした。慶雲四年六月、文武天皇崩御したが、まだ二十五歳の若さだった。

 七月、阿倍皇女が皇位に即いたが、これが元明天皇である。草壁皇子文武天皇の相次ぐ夭折は、天武天皇の血を引く男子による権威の再生を必要とするこの王朝にとって大きな危機であった。このためにおそらく元明天皇のもとで、史書編纂の方針が、天武天皇の功績を賞賛するよりも、皇統の永続性を強調する方へ、重点を移したもののようである。翌年正月、改元して和銅元年とした。和銅三年三月、平城京に遷都した。和銅五年正月二十八日、太安万侶おほのやすまろが『古事記』を撰上した。

 和銅八年九月、元明天皇は皇女氷高ひたか内親王に譲位したが、これが元正天皇である。和銅八年を改めて霊亀元年とした。霊亀三年十一月に至り、改元して養老元年とした。

 養老四年五月、舎人とねり親王らが『日本書紀』の完成を奏上した。かつて天武天皇が川嶋皇子・忍部おさかべ皇子らに詔して「帝紀及び上古の諸事を記定」させるということを始めてから、約四十年が過ぎていた。近年の学者が深く分析する所によれば、この書は雄略天皇紀から編纂が始められ、それより前の部分が当初はなかった。一方で『古事記』は雄略天皇没後のいざこざを述べたのが主な内容の最後で、そのあとは推古天皇までの簡単な系譜を記すに過ぎない。このあたりに両書が並行して編まれた理由がありそうに思われる。この両書は王権の由緒を証明する思想書としての性格を色濃く持っており、今日から見ると史料としては扱いに注意を要する。しかしこの段階の社会において、単なる資料の集積ではなく、大きな構想に基づく歴史を編みえたことは驚嘆に値する。それは当時の必要に応じて作られた歴史であった。

 養老五年十二月、元明太上天皇崩御した。

 養老八年二月、元正天皇おびと皇子に位を譲るため退位した。首皇子文武天皇宮子みやこ夫人の子で、宮子夫人は藤原不比等ふぢはらのふひとの息女である。和銅七年六月に立てられて皇太子となった時は十四歳だった。禅りを受けて即位したが、これが聖武天皇で、養老八年を改めて神亀元年とし、宮子夫人を尊んで皇太夫人と称した。

 神亀四年閏九月、聖武天皇に皇子が生まれた。これはこの王家の人々にとってこの上ない慶賀だった。皇子の誕生を祝って、十月には恩赦を発布し、また諸々の官人に物を賜い、さらに天下の皇子と同日に出産した者に布・綿・稲が配布された。十一月には朝堂で祝宴を催し、皇子を立てて皇太子とすることも発表した。しかし翌年、皇太子は病気にかかり、九月、いまだこの世のものになりきらぬ齢のままあの世へ還った。

 神亀六年八月、改元して天平元年とし、光明子くゎうみやうし夫人を立てて皇后とした。これが光明皇后である。皇后は皇太夫人の妹で、皇族でない皇后は当時異例だった。かつて仁徳天皇葛城襲津彦の息女を皇后にしたという伝説的故事を引いて、前例のないことではないと聖武天皇は主張しなければならなかった。

 天平十年正月、阿倍内親王を立てて皇太子とした。女性の皇太子はこれが初めてで、もし次に現れれば二例目になる。

 天平二十年四月、元正太上天皇崩御した。

 天平二十一年二月、陸奥百済王敬福くだらのこきしきやうふくより、その土地に黄金を産出したとの報告がもたらされた。これまで日本列島に黄金が出ることは知られていなかった。敬福は百済義慈王の曾孫である。四月、改元してこの年を天平感宝元年とした。ほどなく黄金九百両が届けられたが、これはかねて建造中で形がほぼできあがっていた大盧舎那仏像の鍍金に要する量の約一割であった。

 七月、阿倍皇太子が禅りを受けて皇位に即いたが、これが孝謙天皇である。天平感宝元年を改めて天平勝宝元年とした。四年四月、大仏が完成し、開眼供養の儀式が盛大に催された。その様子は『続日本紀』に「いまだかつてこのように盛んだったことはない」と記されている。

 八年五月、聖武太上天皇崩御し、遺詔により道祖ふなど王が皇太子に立てられた。道祖王新田部にひたべ親王の子で、新田部は天武天皇藤原氏五百重娘いほへのいらつめの子である。九年三月、道祖王は素行が悪く教えても改悛しないとして、皇太子を廃された。四月、大炊おほひ王を立てて皇太子とした。大炊王舎人親王当麻山背たいまのやましろの子で、舎人は天武天皇と新田部皇女の子である。大炊王の妃は故藤原真従の未亡人で、真従の父が仲麻呂である。この立太子には仲麻呂の力があった。

 五月、養老律令の施行が命じられた。これは藤原不比等が養老年中に大宝律令を修正したものだということになっている。日本の律令は、唐の律令をもとに日本の実情に合わせて改めたものだと説明されるが、実際にはまだ至らない所も多い。戸籍の造り方は当時の親族組織に適していないようだし、班田法などはむしろより多く理想的でさえある。養老律令は改正されることなく実際上の制度としては形骸化していくものの、法秩序の規範としては長く武家時代にも意識されていた。ひょっとすると今でも我々の規範意識のうちに律令が生きているのかもしれない。

 八月、改元して天平宝字元年とした。

 天平宝字二年八月、孝謙天皇の譲位を受けて大炊王皇位に即いたが、これが淳仁天皇である。八年九月、孝謙上皇仲麻呂が大逆を謀ったとしてこれを討ち、十月には淳仁天皇も捕らえて廃位し、淡路国に追放する。孝謙上皇が復位し、これを称徳天皇と呼ぶ。翌年一月、改元して天平神護元年とした。天平神護三年八月、改元して神護景雲元年とした。

 神護景雲四年八月、称徳天皇崩御した。この時、血縁から言えば最も皇位に近いのは、聖武天皇の皇女井上いのへ内親王だった。この人はおそらく政治的才能がなかったのだろう。藤原永手らは天皇の遺志だとして、井上内親王の夫白壁しらかべ王を皇太子に擁立した。天皇が死んでから皇太子を立てるというのはおかしいようだが、これには事情がある。天武天皇の時よりこのかた、皇位を継承する資格を認められたのは、まず第一にその血を引く男子だった。天武の血を引く男子で適当な者がない時は、皇后か皇女が皇位に即いた。天智天皇の血を引くだけの者は、言わば二級皇族としての扱いを受け、皇位継承候補になることはこれまでなかった。白壁王は、天智天皇の孫で、施基しき皇子と紀橡姫きのとちひめの子であり、もしにわかに即位すれば不測の事態を招かないとも限らない。

 およそ二ヶ月を空けて、十月、白壁王が位に登って天皇となった。これが光仁天皇である。神護景雲四年を改めて宝亀元年とした。光仁天皇にとっては、井上内親王と結婚し、二人の間に他戸をさべ親王が生まれていたことが資格となった。十一月、井上内親王を立てて皇后とし、二年正月には他戸親王を立てて皇太子とした。やがて他戸親王天武天皇の子孫として皇位を継ぐだろうと思われた。

 ところが宝亀三年、光仁天皇は皇后と皇太子に厭魅大逆の疑いをかけ、その地位を廃して京外に幽閉する。四年正月、光仁天皇山部やまべ親王を立てて皇太子とする。山部親王光仁天皇高野新笠たかののにひがさの子で、高野氏は百済武寧王の子孫を称する渡来系氏族である。六年四月、井上と他戸は同じ日に死んだ。宝亀十二年を改めて天応元年とした。

 天応元年四月、高齢光仁天皇は位を譲り、山部皇太子が即位したが、これが桓武天皇である。十二月、光仁太上天皇崩御した。

 天応二年正月、氷上川継ひかみのかはつぐが反乱を謀ったとして捕らえられた。桓武天皇は喪に入ったばかりで刑を論ずるに忍びぬとして、死罪に当たる所を一等減じて伊豆国の三嶋に配流とした。川継は、天武天皇の孫塩焼しほやき王と聖武天皇の皇女不破ふは内親王の子で、その血統のために桓武天皇の疑いを受けたのに違いない。この年は壬申の乱より百十年を経ている。桓武天皇の血すじは、昔日の大友皇子よりも一層不利であった。しかし、大化以来の法制度的改革と内的発展の結果として、今度は社会の方がようやく変わってきていた。天の福禄は永遠に天武天皇の血統を離れ、暦数は桓武天皇を選んだ。桓武天皇はやがて山背遷都を成功させ、政治を刷新して新しい体制を築くはずだ。桓武天皇は天武朝の正統性を否認し、天智天皇の望みを実現したつもりであった。だがこの時に至ってこれが可能になったのは、天武天皇天智天皇の改革を穏当な発展の路線に引き戻したからなのである。

 天武天皇の日本は百年余りにして歴史の中に閉ざされたが、その期間の短さ故に特異な光彩を放ち、日本人と日本に関わる人々が解き続けなければならない謎をこれからも問いかけるだろう。(了)

天武天皇評伝(二十六) 崩御

 天武天皇の治世十五年七月二十日、年号を立てて朱鳥あかみとり元年と称した。孝徳王の白雉以来、改元は久しく忘れられていたことである。朱は赤色の類に属し、赤は五行説では火の色とされる。白は金の色である。かつて戦国から漢の頃にかけて五行説が流行すると、歴代の王朝も木火土金水のいずれかの徳を帯びるものとされた。漢が五行のどれに当たるかは古くから議論があったが、末期には火徳を持つものと考えられた。漢から禅譲を受けた魏が、土徳の王朝に当たるとして、象徴の色として黄色を採用したのは、五行相生説による。五行相克説を採れば、火は金に克つという関係にある。したがって朱鳥とは白雉に克つという意味を込めた年号であり、天武天皇の革命思想が改めて示されたことになる。

 朱鳥の新年号はしかし、天武天皇にとってその偉業を記念する最後の一つであった。すでに十四年の秋から体調を崩していた天皇は、十五年五月にその病気が重くなる。折り悪く同じ頃に侍医の一人である百済出身の億仁おくにが病気して瀕死になり、天皇を診ることができない。侍医は一人しかいないわけではないとはいえ、このことは天皇の心に暗いものを投げかけたに違いない。天皇が医術の他に頼みとしたものはおもに仏教であった。十四年九月二十四日には、快復を願うために大官大寺弘福寺法興寺に三日にわたって経を誦ませた。十五年五月二十四日には、弘福寺に薬師経を説かせ、宮中でも講説を行う。

 六月十日、天皇の病気を占うと、草薙剣の祟りと出た。そこで草薙剣尾張国の熱田社に納める。今の熱田神宮である。これは効能がなく、病気は良くなる兆しを見せない。

 十六日、伊勢王いせのおほきみらを法興寺に遣わして勅し、

「このごろ朕が身は和らがぬ。三宝の霊威に頼り、身の安らぎを得んことを願いたい。これにより僧正・僧都そのほかの僧らは、誓願をしてくれるように」

 と曰い、寺に宝物を献じる。

 七月八日、百人の僧侶を宮中に招き、金光明経を読ませたが、その二日後に落雷があって民官かきべのつかさの倉庫が焼け、かえって不吉の感を強くする。十九日には、昨年以前に貧乏のため出挙を受けた者の返済を免除することを詔する。これは恤民を功徳として病気平癒のために仏の利益を請うものだろう。改元のことはこの翌日で、宮を名付けて飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやとしたのも同じ日である。またいろいろの読経・造像・悔過くゑくゎ天神地祇に祈るといったこともした。悔過とは過ちを悔いて罪の報いを避けることを願う仏教の儀式である。天皇が何を懺悔したのかは伝えられていない。

 朱鳥元年九月四日、皇子や諸臣らはそろって弘福寺に集まり、天皇の病のために誓願をした。しかし全て効験はなく、九日、天武天皇崩御した。歳は五十五、六歳だったと思われる。

 立法・修史・造都は天武天皇が志した三大事業だが、このどれもその生存中には完成しなかった。この三つはどれも社会のあり方と大きな関わりを持っている。人の作る社会は伝統を引きずる。伝統は何世代もかけて形成されるので、その弊を改めるにも人の一生を以て計るに超える時間を要することがある。だからその事業が成し遂げられなかったことは、天武天皇の失点に数えられるべきではない。晩年になっても焦りを見せず、功業を後世に託したことは、その構想の大きさを示している。こういう構想力のある人物は日本史に例が少ない。

 天武天皇が往生した時、鸕野うの皇后が詠んだ歌は『万葉集』に載せられている。

  八隅知之やすみしし 我大王之わごおほきみの(八隅知し 我ご大王の)
  暮去者ゆふされば 召賜良之めしたまふらし(暮去れば 召し賜ふらし)
  明来者あけくれば 問賜良志とひたまふらし(明け来れば 問ひ賜ふらし)
  神丘乃かむをかの 山之黄葉乎やまのもみちを(神丘の 山の黄葉を)
  今日毛鴨けふもかも 問給麻思とひたまはまし(今日もかも 問ひ給はまし)
  明日毛鴨あすもかも 召賜万旨めしたまはまし(明日もかも 召し賜はまし)
  其山乎そのやまを 振放見乍ふりさけみつつ(其の山を 振り放け見つつ)
  暮去者ゆふされば 綾哀あやにかなしみ(暮去れば あやに哀しみ)
  明来者あけくれば 裏佐備晩うらさびくらし(明け来れば うらさびくらし)
  荒妙乃あらたへの 衣之袖者ころものそでは(荒妙の 衣の袖は)
  乾時文無ふるときもなし(乾る時も無し)

 かく悲しみを歌いながら、皇后は後継体制について考えなければならない。

 鸕野皇后は、天智天皇蘇我氏遠智娘をちのいらつめの子である。草壁皇子くさかべのみこを産んだのは、大海人皇子との結婚から六年目、天智天皇の称制元年、筑紫国那の津にあって百済の役に臨む緊張した雰囲気の中でのことだった。天智天皇の末年、大海人皇子に従って吉野に入り、壬申の年、挙兵の謀議をともにした。天武天皇の治世二年、皇后に立てられ、天皇の政治を終始輔佐したといわれる。

 天武天皇崩御したあと、王朝を主宰する権利は皇后の手にあった。皇后はまず天皇の葬礼をその偉業にふさわしいだけ荘厳に執り行い、しかるのち確実に皇太子草壁を皇位に即かせなければならない。鸕野皇后は天智天皇が持った過ぎるほどの聡明さと果断さを受け継いだただ一人の子だった。もしこの時に当たって草壁皇子の妨げになる者があるとすればそれは誰か。天武天皇の死を好機として事を起こす動機が誰かにあるとすれば、それは天智天皇の遺児である川嶋かはしま施基しき両皇子ではないだろうか。少なくとも疑いをかける理由がなくはない。しかし皇后が睨んだのは、この二人ではない。それは皇后の姉の子、大津皇子おほつのみこである。

 朱鳥元年九月二十四日、天武天皇もがりがまさに始まろうという中にあって、宮廷には恐るべき隠謀が巡らされた。大津皇子が皇太子に謀反を企んだというのである。(続く)

天武天皇評伝(二十五) 権力と身分

 皇族と内外の貴族の身分をどう秩序付けるかということは、その治世を通じて、天武天皇が最も意を用いたことであったろう。この気遣わしい作業を進めるために、第一に注意しなければならないのは、壬申の年の勝利に貢献した功臣たちの処遇だった。功績ある者にはそれなりに報いなければならないが、それによって大を成させると今度は王権の伸張を妨害する存在に化けやすい。むかし漢の高祖が異姓諸侯王を冊立するそばから次々と取りつぶしたのもこれがためだった。この点において、日本王朝の功臣たちにとっては、壬申の乱が戦争としては小規模であったためにその功績も大きくなりすぎなかったことがむしろ幸いであり、天武天皇にとっては彼らがあまり長生きしてくれなかったことがかえって良かった。

 壬申の年の功臣たちは、天武天皇の治世二年五月、将軍吹負ふけひの配下となって活躍した坂本臣財さかもとのおみたからが卒したのを初めとして、早くに死んだ例が多い。主なものを挙げると、三年二月に紀臣阿閇麻呂きのおみあへまろ。四年六月に大分君恵尺おほきだのきみゑさか。五年六月に栗隈王くるくまのおほきみ朴井連雄君えのゐのむらじをきみ、七月に国連男依むらくにのむらじをより、八月に三輪君子首みわのきみこびと。八年三月に大分君稚臣おほきだのきみわかみ。十二年には六月に大伴連馬来田おほとものむらじまぐた高坂王たかさかのおほきみ、八月には大伴連吹負おほとものむらじふけひが相次いで死んだ。彼らの死は天武天皇の肩を軽くしたに違いない。天皇は自ら手を汚さなくて済んだ。歴史上、これは例外的な幸運である。

 身分秩序の整理は、まず“かばねを賜う”という形で具体化された。十三年十月、有名な“八色やくさの姓”が定められ、旧来の慣習的な姓が、真人まひと朝臣あそみ宿禰すくね忌寸いみき道師みちのしおみむらじ稲置いなきの六つに整理されて、その序列が明確になる。十四年正月には、天智称制三年制定の二十六階制の冠位を改めて四十八階制とした。これはただ階級を細かくしただけでなく、上位十二階は皇族のため、以下三十六階は諸臣の位として分離された。姓は家門ごとに天皇から与えられ、冠位は個人ごとに天皇から授けられる。貴族の身分は天皇との関係如何によって個別に決定されることになる。

 地位を与え、与えることで分断し、分断することで支配する。これが専制権力の原理である。天皇は貴族たちに、できるだけ小さい単位で、個別に手綱を懸けて、馬のように繋いでおくことができる。馬たちは天皇から身分を認められ、それが公的な地位として全国に通用する代わりに、勝手に勢力を扶植するわけにはいかない。馬たちはこのありがたい地位を守るため互いに互いを牽制するようにもなる。皇族と比べて貴族群の総数は遙かに多いとはいえ、貴族たちは個々別々に天皇の手に把握され、天皇から離れて力を集めることはできないはずだ。かつての葛城や蘇我のような大貴族ができることはもうあるまい。これはかなりの程度まで目論見どおりに実現されていくだろう。

 ところでここに付け加えておかなければならないことがある。藤原鎌足ふぢはらのかまたりの跡継ぎになるはずの次男不比等ふひとは、その父が四十をこしてから生まれた子であった。壬申の年には十四、五の少年であり、まだ出仕しなかったので、何も責任を問われるような地位になく、そのため身を滅ぼさずに済んだ。もし父がまだ健在であったら、もしくは不比等自身がもう何年か早く生まれていたら、大友皇子と運命をともにしなかったとは言えない。不比等が無傷で新時代を迎えたことが、やがて藤原氏の繁栄を招き、後世の歴史教科書に藤原の某という名前が大量に並ぶことにもなったのである。これはまだ先の話し。

 さて身分秩序の整理は、天武天皇の皇子たちの身の上にも関わってくる。後継者問題は、一つ間違えば王朝の命取りにもなる。それは天武天皇が一番よく知っている。治世八年五月、天武天皇鸕野うの皇后と六人の皇子を連れて吉野の離宮に出かけた。このときに呼ばれた皇子は、草壁くさかべ大津おほつ高市たけち忍壁おさかべと、あとの二人は天智天皇の子である川嶋かはしま施基しきである。大友皇子の腹違いの兄弟である両皇子は、天武天皇のもとでも皇子としての待遇を与えられている。大友皇子の子である葛野王かどののおほきみでさえ、罪を受けずに諸王の地位を認められていた。もっとも葛野は天武天皇にとっても孫に当たる。

 天武天皇は六皇子に向かって曰く、

「余は今日ここで汝らと誓いを立てて、後の世に災いがないようにしたいが、どうだ」

 皇子らの答えて曰く、

「ごもっともです」

 そこで草壁皇子がまず進み出て、

天神地祇及び天皇、証したまえ。吾ら兄弟長幼あわせて十余王は、各々異腹より出でたり、然れども同じきと異なりと別れず、ともに天皇の勅に随いて、相助けて背くこと無からん。もし今より後、この誓いの如くにあらずば、身命は亡び、子孫は絶えん。忘れじ、過たじ」

 と誓った。他の五皇子も、順次この通りに誓った。天皇が応じて、

「我が子らは各々異腹に生まれたり。然れども今は一母同産の如くに慈しまん」

 と言い、襟を開いて六皇子を抱き、

「もしこの誓いに違わば、たちまちに我が身を亡ぼさん」

 と誓った。皇后もまた天皇と同じく誓った。

 ここで「一母同産の如く」などと言った所を見ると、皇子の扱いを母親の出自によって分けることをやめるという宣言のようでもある。しかし天武の長男である高市をさしおいて、草壁が全皇子を代表していることは重要である。実際に十年二月、草壁は皇太子に立てられる。十四年正月の新冠位制施行にあたっても、草壁に浄広一、大津にその一つ下の浄大二、高市にはそのまた一つ下の浄広二が与えられ、皇后の子である草壁、皇后の姉の子である大津、胸形むなかた尼子娘あまごのいらつめの子である高市という序列が重ねて明確にされた。天武は高市の地位をできるだけ引き上げようとはしたが、しかし無理にまではしないという慎重さを決して忘れなかった。(続く)

天武天皇評伝(二十四) まだ見ぬ都城への道のり

 天武天皇の脳裡には、即位の当初から、本格的な都城の建設という構想があったに違いない。しかし天武天皇は急がない。そもそも都城は何のために必要か。それは見栄や満足のためではない。都城は法制度の容器である。法典の編纂は、すでに先代において近江令があったとはいえ、それがどのくらい効果的に用いられたかは疑わしい。法律は紙の上に書いてあるだけでは意味がなく、それがどう実際上の制度を形成するかは施行の如何による。律令のような煩瑣な成文法を十分に施行するには、役人の集団的な運用を必要とする。役人を必要なだけ働かせるためには、彼らを宮廷の近くに居住させるか、少なくとも長期間の滞在ができるようにしなくてはならない。そのための施設が都城である。まずはこの飛鳥を容器とし、内容を充実させていき、ここからあふれるまでになれば、多くの人が都城の必要性を理解し、進んでその建設に協力してくれるはずだ。

 都城の建設、即ち統治制度の完備に向けて、天武天皇が打った最初の布石は、治世二年五月の詔に、

「初めて出身せん者は、まず大舎人に仕えしめよ。しかる後にその才能を選択して、適当の職に充てよ。また婦女は、夫あると夫なきと及び長幼をも問うことなく、出仕せんと欲する者はゆるせ。その考選は男子の例に準じよ」

 という、畿内貴族の登用の法。次に四年二月の詔、

「甲子の年に諸氏に給えりし領民は、今より以後、みなこれを除く。また親王・諸王及び諸臣並びに諸寺などに賜えりし山沢・島浦・林野・陂池は、前後とも除く」

 さらに五年四月、

「外国の人で出仕せんと欲する者は、おみむらじ伴造とものみやつこの子、及び国造くにのみやつこの子はこれを聴せ。ただしこれ以下の庶人としても、その才能の長じたるはやはりこれを聴せ」

 という畿外諸国からの登官の法などと続く。

 さて天武天皇の五年は、唐は高宗の儀鳳元年、新羅は文武王の十六年に当たる。

 文武王は唐に対して硬軟両様、武力には武力を以て占領を退ける一方、外交的には飽くまで恭順の態度を執って高宗の天子たる矜持に訴え、その懐柔に努めてきた。唐は劉仁軌りうじんくゐ李謹行りきんかう薛仁貴せつじんくゐなどの名だたる将軍を差し向けたものの有効な勝利を得られない。文武王はこの頃までに旧百済領の全部と、旧高句麗領の南部に支配を固めることに成功した。高句麗北部は気候冷涼で土地の生産力が乏しく、取っても利得が少ない上に防衛線が伸び過ぎる。そこで新羅としてはほぼ平壌以南に満足する。北部は唐に与えてやればよい。守りを固めていれば唐と戦っても負けないことはこれまでの実績から確信している。

 高宗は、儀鳳二年、旧高句麗王の高蔵かうさうを遼東州都督・朝鮮王とし、また旧百済王子の扶余隆ふよりうを熊津都督・帯方王とし、ともに遼東の地に赴任させてわずかに名目を保つ。高宗は儀鳳三年にも新羅討伐を企図したが、侍中の張文瓘ちゃうぶんくゎんが病を押して謁見し、

「今は吐蕃チベツトあだなし、西へ兵を発して討とうとする所でございます。新羅が順わないといっても、未だかつて辺を犯したことはございません。もしまた東征なさるならば、臣が恐れるのは官民ともその弊に堪えないのではないかということにございます」

 と諫めたので沙汰止みとなった。

 こうして新羅は東方第一の強国として台頭する。恐るべきは百済高句麗を併合する経略を成功させた文武王の政治的能力であり、この人物を輩出した新羅の政治的風土である。日唐間の政治的交渉はこれまで百済を足がかりとして使節を往来させてきたので、壬申の年を最後として、新羅のために中断させられる。しかし日本と新羅の交渉は活発に行われ、互いに政情を探り合った。天武天皇にとって、この大国新羅の存在は、向こうにもあれだけの王権が出現したのだから、こちらはなおさら強大にならねばならぬ、そのためには貴族の特権をいくらか取り上げることも止むを得ぬという口実になる。

 治世五年、天武天皇新城にひきと呼ぶ所に都城の建設を始めようとし、区画に入る田地の耕作を放棄させることまでしたものの、まだ手を着けられないままになった。大事業であるだけに慎重を要するのだ。

 政治制度の整備は、七年十月の詔による内外文武官昇進の法、八年正月の身分別拝礼の法などを発布する。そうして十年二月、天皇は皇后とともに大極殿において南面し、親王・諸王・諸臣を召して、

「朕は今より新しく律令を定め法式を改めようと思う。故に汝らは倶にこのことを修めよ。されどもひたすらこれに専念すると、政事を欠くことがあろう。係を選んでこれに当てよ」

 と詔した。しかし法典の完成にはさらに長い年月が掛かることになる。

 この翌月には、川嶋皇子かはしまのみこ忍壁皇子おさかべのみこ広瀬王ひろせのおほきみ竹田王たけだのおほきみ桑田王くはたのおほきみ三野王みののおほきみ上毛野君三千かみつけののきみみちぢ忌部連首いむべのむらじおびと阿曇連稲敷あづみのむらじいなしき難波連大形なにはのむらじおほかた中臣連大嶋なかとみのむらじおほしま平群臣子首へぐりのおみこびとに詔して、「帝紀及び上古の諸事を記定」させる。これやがて『日本書紀』につながり、王権の正統性を証明して、政治制度に精神を与えるはずである。日本の新羅に対する優越性という、この時期の特殊事情から出た主張は、この修史事業の中で過去にまで投影されて、その歴史観を規定する大きな要素の一つになる。

 造都のことは、十一年三月一日、三野王らを新城の所に遣わしてその地形を観察させ、十六日には自ら出向いたが、やはりまだ手は着かない。首都の建設が始まらないうち、かえって十二年十二月、

「およそ都城・宮室は一所にあらず。かならず両参を造らん。故にまず難波に都つくらんと欲す。これにより百寮の者は各々往きて家地を請え」

 という詔があり、難波京を陪都、つまり副首都とすることになった。難波には孝徳王の時に営んだ王宮があり、西の諸国との交通において要港であることからも、すでにある程度の街区が形成されている。また八年十一月より難波に羅城を築くという準備もあって、ここに陪都を設定することは容易だった。十三年二月には三野王らを信濃国に遣わして地形を検視させたが、これもやはり陪都を置こうとの考えがあってのことだろう。

 望んだ首都はまだ影も形もない。それでも天武天皇は焦らない。この人物の構想壮大にしてしかも泰然としていることは、全てこのようだった。(続く)