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天武天皇評伝(二十三) 日本王朝の成立

 『日本書紀』は、壬申の年を、天武天皇の元年として数える。天武天皇の即位は、二年二月二十七日である。天武天皇の二年は、唐の高宗の咸亨四年、新羅は文武王の十三年に当たる。

 天武天皇は正妃鸕野皇女うののひめみこを立てて皇后とした。鸕野皇女は天智天皇蘇我氏遠智娘をちのいらつめの子である。皇后は草壁皇子くさかべのみこを産んだ。

 また皇后の同腹の姉大田皇女おほたのひめみこを妃とし、大来皇女おほくのひめみこ大津皇子おほつのみこを産んだ。

 次の妃大江皇女おほえのひめみこは、天智天皇忍海造おしぬみのみやつこ色夫古娘しこぶこのいらつめの子で、長皇子ながのみこ弓削皇子ゆげのみこを産んだ。

 妃新田部皇女にひたべのひめみこは、天智天皇阿倍氏橘娘たちばなのいらつめの子で、人皇とねりのみこを産んだ。

 また夫人氷上娘ひかみのいらつめは、藤原鎌足の子で、但馬皇女たぢまのひめみこを産んだ。

 次の夫人五百重娘いほへのいらつめは、氷上娘の妹で、新田部皇子にひたべのみこを産んだ。

 夫人太蕤娘おほぬのいらつめは、蘇我赤兄の子で、穂積皇子ほづみのみこ紀皇女きのひめみこ田形皇女たかたのひめみこを産んだ。

 また額田王ぬかたのおほきみは、鏡王かがみのおほきみの子で、十市皇女とをちのひめみこを産んだ。

 胸形君徳善むなかたのきみとくぜんの子尼子娘あまこのいらつめは、高市皇子たけちのみこを産んだ。

 宍人臣大麻ししひとのおみおほまろの子榖媛娘かぢひめのいらつめは、忍壁皇子おさかべのみこ磯城皇子しきのみこ泊瀬部皇女はつせべのひめみこ託基皇女たきのひめみこを産んだ。

 ここ飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやに、天武天皇の新体制は発足した。天武天皇は最初に手を着ける事業として、三月、弘福寺に書生を集めて一切経の書写を始めさせる。続いて四月、大来皇女伊勢神宮に遣わすこととしてまず斎戒をさせる。伊勢の斎王の制はこれより常例となる。先年の挙兵に際して、天武天皇が天下を得るという兆しが天に現れたとか、天照大神を拝んだとかのことが、ここに活きてくる。つまりこの新体制の発足は、単なる政権交代ではなく、人知を超えたものに導かれた新しい王朝の誕生でなければならない。

 この意志は、海外に対しても明らかに示された。六月、新羅国からの使節が筑紫に到着する。使節は二団に分かれており、金承元こむじようごん金祗山こむぎせん霜雪しやうせちらは天武天皇の即位を祝う使い、金薩儒こむさちにゆう金池山こむぢせんらは天智天皇の喪を弔う使いとして来た。八月、金承元らは飛鳥に招かれ、金薩儒らは筑紫に留められる。このとき耽羅国の使者も筑紫に来ており、弔喪使を招かないことについて、筑紫太宰は天武天皇の意思を伝える。

天皇は、新たに天下を平定なさり、初の即位をされた。これにより、ただ賀使を除いて、その外は招かれないこと、汝らがその目で見たとおりだ」

 天武天皇は新王朝の初代君主であるから、滅ぼした所の旧体制に対する弔問は受け付けない、よってあなたがたも招かれない、というのである。

 ところで王朝には、秦・漢・隋・唐、のような名号が要る。それは王朝の交替によって改められうるものである。そこで“日本”を号として採用したのは、この頃のことだったと思われる。その意味は『旧唐書』東夷列伝に「其の国が日辺に在るを以て」とある通りだが、これは日本列島が世界全体の中で東に寄った位置にあるという認識を前提としている。日本人がこの段階でこのように自己の位置を相対化する観念を持ったことは、すでに数百年前から断続的ながら大陸との政治的関係を持ってきたことと、さらには仏教から読み取った世界観によってのことだろう。“日本”の確実とみてよい初出は、『旧唐書』武周の長安二年冬十月、「日本国が遣使して方物を貢した」というもので、このことは『続日本紀文武天皇慶雲元年秋七月の条、粟田朝臣真人が帰朝したという記事に併せて、次のように述べられている。

「初め唐に至る時、ある人が問うて曰く“どこの使いの者かね”、答えて曰く“日本国の使いなり”と」

 これはまだ、天武天皇即位より三十年ほど先のこと。

 こうして新体制が“革命”という形式をとって始められたことは、この王権の傘下に入る人々の身の上に、静かにしかし大きな変化を与えつつある。天武天皇に協力して壬申の乱を戦った貴族たちにしてみれば、それは既得権益を守るための戦いのつもりであったろう。今、それは一応安堵されたようでいながら、ただしそれは天皇によって“与えられた”ものに、いつのまにかすり替えられている。なぜなら全ては古い倭王朝の破綻とともに御破算となり、新しく日本王朝のもとに再編成されたのだから。天武天皇は、人々の保守的に傾く心理を利用しながら、実は最も重要な革新の種を確かに植え付けることに成功している。

 かつて大海人皇子が生まれた頃、この地にあった王権は、倭王家と蘇我大臣家の言わば並立政権だった。倭王家は貴族群の中の最も大なる貴族であり、倭王は貴族連合の盟主に過ぎなかった。今ここにある者は、昔日の倭国の王ではない。東の天下を統べる天子にして皇帝、かつ天皇である。

 こうして王権が拡張されることは、古代史的発展の結果として、世界の多くの地域に見られることであり、その意味では何も特別なことはない。しかしここには日本的な特徴も現れてきている。古代における王権の拡張は、古代的貴族層を没落させ、代わりに庶民の地位を向上させることがよくある。王者は庶民とより直接的に結び付き、人口の大多数に支えられて権力の集中を最大化させることができる。日本においては社会がまだそれを可能にするほど発達しておらず、古代的貴族層が変動を受けながらも王権を支え続ける。中国では漢の高祖劉邦もそうであるように、西漢の頃には低い身分からの成り上がり者が少なくない。東漢の代になると、家格が固定する傾向が次第に強くなり、改めて中世的貴族層が現れてくる。日本でも武家が中世的貴族層として新たに現れるが、古代的貴族層を継承する公家が並行して存続していくことになる。これはまだ先の話。(続く)

天武天皇評伝(二十二) 壬申の乱・四

 軍を率いて美濃国を出、近江国に攻め入った国連男依むらくにのむらじをよりらは、七月七日、国境の西息長おきながで大友方の軍と戦ってこれを破り、その将軍境部連薬さかひべのむらじくすりを斬った。大海人皇子おほしあまのみこ野上のがみ行宮かりみやで捷報を待っている。それから琵琶湖の東を南下して、九日には犬上のあたりで秦友足はだのともたりを討って斬り、ずっと南西に進んで、十三日には野洲川のほとりで戦って勝ち、社戸臣大口こそへのおみおほくち土師連千嶋はじのむらじちしまを捕虜にした。十七日にも栗太くるもとで戦って勝った。

 七月二十二日、男依らが瀬田川の東に到ると、川の西には敵軍が大いに陣を布いており、大友皇子おほとものみこが自ら出御し、左大臣蘇我臣赤兄そがのおみあかえ・右大臣中臣連金なかとみのむらじかねらも指揮に当たっている。大津宮に座して攻囲を待つよりは、守りやすい所に出て戦おうと考えたのだろう。その先鋒は将軍智尊ちそんなる者で、精鋭を選んで前を塞いでいる。瀬田川は琵琶湖の南端に注いでおり、当時としては珍しい橋というものが懸けられていた。智尊は瀬田橋の中ほどの板を切り取って断ち、代わりに人一人が乗れるほどの狭い長板を渡して、その板に綱を結わえ付けている。もし誰か渡ろうとする者があれば、板を引いて落としてしまおうというわけだ。

 男依の軍中では、勇敢な大分君稚臣おほきだのきみわかみが先鋒を申し出た。稚臣は長い矛を棄てて、刀だけを手に執り、走り込んで橋に懸けられた板を踏む。智尊の手の者が綱を引こうとしても間に合わない。稚臣はその板に着けられた綱を断ち、矢を受けながら敵陣に斬り込む。近江方の兵は列を乱して惑い、智尊は逃げようとする者を斬るという非常の手段にまで出たが、潰乱をとどめることはできない。ついに智尊も橋のほとりに斬られた。大友皇子や左右大臣らはどうにかこの場は逃れた。

 この日、北からは羽田公矢国はたのきみやくに出雲臣狛いづものおみこまが琵琶湖の西を南下して三尾城みをのきを攻め降した。西には大伴連吹負おほとものむらじふけひ配下の部将が軍を進めてきている。

 大友皇子は今や天下の孤児となり、どこにも帰る所がなくなった。行く手をすっかり遮られて山林に迷い込んだときには、かつて忠誠を誓ったはずの左右大臣や他の臣下たちともはぐれていた。ただわずかな舎人と物部連麻呂もののべのむらじまろだけが供をしていた。この人は実直であったらしい。こういう場合、亡国の主君には選ぶべき二つの道がある。たとえ単騎でも敵陣に討ち入って最後の死に花を咲かせるか、さもなくば自ら後ろ手に縛って折り目正しく降伏するかだ。しかし大友皇子は、無茶なことをするほどの英雄的気概や、さほどの行動の美学というものも持っていなかった。追い詰められた大友皇子は、山に隠れて自ら首をくくって死んだ。これは七月二十三日のことである。

 近江の朝廷のために戦おうとする者はもう誰もなかった、というより実態として朝廷はもう存在しなかった。二十四日に大海人方の将軍たちは大津宮のある篠浪ささなみの地に集まり、左右大臣や他の罪人を探し出して捕らえた。二十六日、将軍たちは野上の行宮に集い、大海人皇子の御前に大友皇子の頭を捧げた。大海人皇子が、この生きることのできない所に生まれ落ちてしまった哀れな子、罪なく死に追いやられた甥の首をどんな思いで看たかについては、何も伝えられていない。


 戦後間もないある日、尾張国小子部連鉏鉤ちひさこべのむらじさひちが山に隠れて自殺した。鉏鉤といえば、大海人が桑名から不破に向かう途上、二万という兵を率いて参上したので、いずれ賞に与るはずだった。しかし前後の事情を考え合わせてみると、鉏鉤の手勢は本来、近江の朝廷から天智天皇陵造営のためという名目で招集を命じられたものだったはずだ。だとすると、大友皇子にとっては、この二万の兵を得られなかったことは大きな打撃であったと思われる。だから鉏鉤の行動はあるいは裏切りと言われるものだったかもしれない。そのことと自殺との関係は不明である。大海人の甥の死に対する所感について『日本書紀』は何も語らないのに、鉏鉤の自死をいぶかしんだ言葉を載せている。

「鉏鉤は功ある者である。罪なくしてなぜ自殺したか。さて隠謀でもあったものか」


 野上の行宮では、大友方に味方した者の罪科の審定が行われた。八月二十五日、大海人皇子高市皇子に命じて、近江の群臣の罪状を読み上げさせた。右大臣中臣連金ら重罪八人は死刑、左大臣蘇我臣赤兄・御史大夫巨勢臣人こせのおみひと、及びその子孫、また金の子、御史大夫蘇我臣果安そがのおみはたやすの子は、みな配流とした。罰せられたのはこれだけで、他の者は全て寛恕を得た。功ある者には、二十七日、ひとまず恩勅が下された。冠位の加増が行われたのは十二月四日のことである。

 大海人皇子は来た道を引き返して、九月八日、伊勢の桑名に宿り、九日に鈴鹿、十日伊賀の阿閉、十一日名張を経て、倭国の飛鳥に還ったのは十二日である。この冬、かつて父舒明帝が営んだ岡本宮の南に、新たに王宮を造り、ここに遷った。これが飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやである。


 この壬申の乱という戦争は、関東から九州に至るまで、政治的には大きく影響することではあった。しかし実際の戦闘が行われたのは、近江・倭両国を中心とする地域に限られ、期間としても六月から七月にかけての一ヶ月ほどに過ぎない。戦闘が長期化せず、ごく短期に勝敗が決したことは、これがきわめて計画的な戦争であったことを物語っている。個別に見れば近江方が優勢を得た戦場もあったが、これは枝葉の勝利に過ぎず、戦略的には常に大海人皇子が主導権を握っており、大友皇子には戦術的に対処することしかさせなかった。孫子のいわゆる「勝兵はまず勝ってから戦いを始め、敗兵は戦いを始めてから勝ちを求める」というやつで、大海人皇子には危機を演出する余裕さえあり、大友皇子は戦う前から負けていたのである。このため百姓は生業を離れずにすみ、公費は空しく尽きることがなかった。戦争ほど場当たり的にやると酷いことになるというものはなく、こんな大局的頭脳のある指導者でなければ任せられないものである。


 後に太安万侶は『古事記』に格調高い序文を書き、大海人皇子を頌えた。


 「夢の歌を聞きてわざがむことをおもほし、夜のかはいたりてもとゐを承けむことを知りたまひき。然れども天の時は未だいたらざりしかば、蝉のごとく南山よしのもぬけ、人と事と共にりて、虎のごとく東国あづまに歩みたまふ。皇輿みこしたちまちすすみ、山川を浚ぎ渡り、六師みいくさいかづちのごとく震ひ、三軍たすけいなづまのごとく逝く。杖矛ながきほこいきほいを挙げ、猛士たけきひとけむりのごとくち、絳旗あかきはたつはものを耀かして、凶徒あしきあだは瓦のごとく解けぬ。未だ浹辰ときを移さずして、気沴けがれは自づからに清まりぬ。やうやく牛を放ち馬をいこへ、愷悌やはらぎ華夏やまとに帰り、はたを巻きほこおさめ、儛詠うたまひして都邑あすかに停まりたまふ。ほし大梁とりやどり、月は夾鐘きさらぎあたり、清原大宮きよみはらのおほみやにして、昇りて天位あまつひつぎしろしめしき」


 翌年二月二十七日、大海人皇子飛鳥浄御原宮に壇を設けて帝位に即いたが、これが天武天皇である。(続く)

天武天皇評伝(二十一) 壬申の乱・三

 大海人皇子おほしあまのみこが吉野宮を発った日、後から追って合流した黄書造大伴きふみのみやつこおほともが、大伴連馬来田おほとものむらじまぐたを連れていたことは前に述べた。この馬来田とその弟の吹負ふけひは、かねて政情を案じ、病を称して近江の朝廷を下がり、倭国の私邸に控えていた。そして潜かに吉野宮と消息を通じていたらしい。馬来田を見送った吹負は家に留まり、別に作戦を練っていた。それは飛鳥の旧都を近江方から奪うことである。

 飛鳥では、留守司とどまりまもるつかさ高坂王たかさかのきみが、近江から来た穂積臣百足ほづみのおみももたりと弟五百枝いほえ物部首日向もののべのおびとひむかとともに、法興寺の西の槻を中心に陣を結んでいた。ただ百足は近江へ補給する武具を発送するため、小墾田をはりだの兵器庫へ出かけた。これは六月二十九日のことである。ここに秦造熊はだのみやつこくまなる者が慌てた様子で馬に乗って寺に至り、陣営に向かって、

「不破より高市皇子たけちのみこのおこし! 大軍勢を従えてござるぞ」

 と唱えた。さてはと見れば、北の道よりそれらしい騎馬が迫ってくる。坂上直熊毛さかのうへのあたひくまけが内応して門を開くと、数十の騎兵が境内に討ち入ったが、これを率いているのは吹負である。高市皇子不破関を守っているからここに来るはずはない。しかし陣営の兵士たちはみな逃げ失せてしまった。五百枝と日向は拘禁され、高坂王はこれより大海人に従うこととなった。おそらく高坂王も前々から大海人に通じていて、五日前のことも駅鈴にかこつけて何か連絡をしたものだろうか。

 吹負は高市皇子の命令だとして百足を小墾田から呼び返した。百足は馬を遅く歩かせてゆるゆると来た。西の槻の下まで着くと、誰かが「馬から下りられい」と言った。百足がためらっていると、襟をつかんで引き堕とされ、射られて一矢が中り、刀で斬って殺された。

 吹負はさっそく大伴連安麻呂おほとものむらじやすまろ坂上直老さかのうへのあたひおきな佐味君宿那麻呂さみのきみすくなまろらを野上に遣って作戦の成功を奏上した。大海人は大いに喜び、そこで吹負を正式に将軍に任命した。これに呼応して、三輪君高市麻呂みわのきみたけちまろ鴨茂君蝦夷かものきみえみしといった有力者たちが、将軍の麾下に集った。吹負は人を選んで陣容を整えると、軍を率いて乃楽なら山へ向かったが、これは七月一日のことである。


 野上の行宮にいる大海人は、紀臣阿閇麻呂きのおみあへまろ多臣品治おほのおみほむぢ三輪君子首みわのきみこびと置始連菟おきそめのむらじうさぎを遣わし、数万と号する兵を率いて、伊勢国の大山から越えて倭国やまとのくにへ向かわせた。つまり大海人が吉野から桑名へ抜けた道を逆にたどるのである。また国連男依むらくにのむらじをより書首根麻呂ふみのおびとねまろ和珥部臣君手わにべのおみきみて胆香瓦臣安倍いかごのおみあへを遣わし、これも数万と号する兵を率い、不破から出て近江国へ攻め入るよう命じた。

 ところが干戈を交えるといっても同文同種同族同士なので、装備にも違いがない。そこで入り乱れて見分けがたいのを恐れて、衣の上に赤いものを着けさせることにした。これは大海人が自ら漢の高祖劉邦になぞらえたのだといわれる。しかし劉邦が微賤な身から至尊の位に登ったのに比べて、大海人はもともとやんごとなき身分である。むしろ屈折的比喩として近江体制を秦になぞらえ、その滅ぶべき運命にあることを示そうとしたものだろうか。

 品治は途中で三千の兵を分けて莿萩野たらのに駐まった。また別に田中臣足麻呂たなかのおみたりまろを遣わし、倉歴道くらふのみちを塞がせたが、これは近江と伊賀の国境に当たる。


 近江方では不破を襲撃しようと図り、山部王やまべのきみ御史大夫蘇我臣果安そがのおみはたやす巨勢臣人こせのおみひとが数万と号する兵を率いて犬上いぬかみ川のほとりに陣を張っていた。さても行軍は指揮が整えばこそ、果安と人は山部王を殺し、この乱れのため軍は進むことができなくなった。その上、どうしたことか果安までが自ら首を刺して死ぬということが続いた。山部王はおそらく内通の疑いをかけられたのだろうが、果安はどうして自殺したのだろうか。

 もともと果安は、蘇我氏が没落してうだつが上がらない所を、天智天皇に用いられて御史大夫にまで出世した。御史大夫は後の大納言に当たり、左右大臣の次に位する。大友皇子に忠義を誓ったのも、この恩に報いるという義務を負ったからである。しかしこれは蘇我一門全体から見れば、有能者の引き抜きによる勢力の切り崩しであった。だから前に蘇我安麻呂そがのやすまろが大海人のために忠告をしたように、蘇我氏もこの時に当たって両陣営に分かれていた。それに蘇我氏を没落させたのは、そもそも天智天皇その人ではないか。こうした矛盾は、ついに最終的事態に臨むことになったとき、その命に刃を突き付けるべきものであった。

 この事件を見て近江方の将軍羽田公矢国はたのきみやくにとその子大人うしらは、一族郎党を率いて大海人方に投降した。そこで大海人は改めて矢国を将軍に任じ、北のかた越国こしのくにへ入らせた。これは大津宮から敦賀へ逃げる道を塞いだのである。近江方はまた玉倉部たまくらべという所を攻めたが、大海人は出雲臣狛いづものおみこまを遣わしてこれを破った。近江の朝廷は逼塞させられつつあった。


 さてその頃、近江を窺うべく飛鳥から乃楽へ向かった大伴吹負は、途中で大友方へ加勢する軍が河内から倭へ入ろうとしていると聞いて、坂本臣財さかもとのおみたかららを竜田たつた山へ、佐味君宿那麻呂を大坂おほさか山へ、鴨君蝦夷石手いはて峠へ、それぞれ数百と号する軍を分けてその道を守らせた。竜田へ向かった財は、安城たかやすのきに近江側の兵士が駐屯しているのを見て、高安山へ登った。高安の城中では、財の軍が寄せてくると知ると、倉庫に火を着けてみな逃げ散ってしまった。よって城を占拠して宿り、翌七月二日、ほのかに明るむ頃合い、西の方を望めば、大津・丹比の道から向かって来る軍勢があり、その掲げる旗幟が明らかに見えた。誰かが「近江方の将軍壱伎史韓国いきのふびとからくにが軍なり」と言った。財らは城から下って衛我ゑが河を渡り、その西岸で韓国を迎え撃ったものの、兵が少なくて拒ぐことができず、懼坂かしこのさかまで退いて守った。

 このとき、河内国かふちのくにのみこともち来目臣塩篭くめのおみしほこは、大海人方に加勢しようと思い、兵士を集めていた。ここに韓国が到り、その謀を漏れ聞くと、塩篭を殺そうとした。塩篭は事が漏れたと知ると自殺した。


 七月四日、乃楽山に布陣する大伴連吹負は、近江方の将軍大野君果安おほののきみはたやすの攻撃を受けた。河内方面に兵を割いていたためか、防ぐことができず、兵卒はみな逃げ、吹負もわずかな従士とともにようやく脱れた。果安は、追って飛鳥の旧都に迫り、丘に登ってその方を覗うと、辺りには多くの盾が立っていて、いかにも守りが堅そうに見えた。それで思い切って攻め込むことができず、伏兵を警戒しながらようよう引き揚げてしまった。これは荒田尾直赤麻呂あらたをのあたひあかまろが気を利かせて、橋を壊してその板を盾に仕立て、守りが多いように見せかけておいたのだった。

 敗走した吹負は、宇陀の墨坂でたまたま援軍の先鋒置始連菟が来るのに逢い、力を合わせて反転し、散った兵卒を招き集めた。同じ頃、坂本臣財らは壱伎史韓国に抗うことができず、河内国境から撤退していた。吹負は河内から近江方の軍が攻め入ったと聞き、軍を率いて西へ向かった。葛城の当麻に到り、韓国の軍を迎えて戦った。ときに吹負の軍中には来目くめなる勇士があり、刀を抜いてたちまちに敵軍へ切り入った。味方が踵を連ねて後に続けば、近江方は陣を崩して逃げ、追って多くの兵士を斬った。将軍吹負は軍中に号令して、

「この兵を興したのはそもそも百姓を殺すためではない。元凶を討つためなのだ。みだりに殺してはならぬぞ」

 と言った。ここに韓国は軍勢から離れてひとり逃げた。吹負は遙かにこれを望み、来目に命じてこれを射させた。惜しいかな矢は命中せず、韓国は走って逃げ切ることができた。

 吹負が飛鳥の本営に帰還すると、紀臣阿閇麻呂らの援軍が陸続と到着しつつあった。そこで諸軍を上・中・下の三道に配置して敵襲に備えさせた。この三道は奈良盆地を南北に縦貫している。ここに近江方の部将廬井造鯨いほゐのみやつこくぢらは、二百の精兵を率いて、中つ道に陣を張った吹負を襲った。吹負はまた直属の兵士が少なくて拒げそうになかった。大井寺の下僕なる徳麻呂とこまろら五人その陣中にあり、矛をも恐れず進み出て矢を雨と射かけ、鯨軍の足を止めた。このとき置始連菟らは、上つ道に近江方と戦ってこれを破り、勢いに乗って鯨軍の後方を絶った。このため鯨の軍は潰走し、鯨も馬に鞭して逃げた。ところが思わず水田に入り、重い馬体の細い脚が泥に取られて行き悩んだ。さあ将軍吹負、傍らにあった甲斐国の勇者某に、

「あの白馬に乗ったるは、廬井鯨なるぞ。さあ射て射て」

 と仰せつけると、勇者某は足も置き去りにせんばかりに駈けて追いかけ、鯨に矢の届く頃おい、鯨は思い切って馬にしたたか鞭を打ちつけると、馬は跳び上がって泥を出た。鯨はやっと駆け抜けて難を免れることができた。


 七月五日の夜遅く、近江と伊賀の国境なる倉歴道を守る田中臣足麻呂は、近江方の将軍田辺小隅たなへのをすみの襲撃を受けた。小隅の軍は鹿深かふか山を越えて、鳴りを静めて突然に攻め入った。小隅は敵味方を見分けにくいことを恐れて、あらかじめ合い言葉を決めておいた。刀を抜いて殴りつけ、「かね」と言えば味方、言わなければ斬るのである。足麻呂の陣は夜襲に乱れ、なすすべがなかった。ただ足麻呂だけは合い言葉に気付き、「金」と唱えてようやっと免れた。六日、小隅は莿萩野の陣を襲わんとして速やかに迫った。しかし多臣品治はこれを迎え撃って遮り、精鋭を率いて追い散らした。小隅はひとり免れて逃げた。

 近江方から積極的に動いたのはこれが最後となった。(続く)

天武天皇評伝(二十) 壬申の乱・二

 近江の朝廷では、大海人皇子おほしあまのみこ東国あづまのくにに入ったということが聞こえると、動揺する者が多く、ある人は抜けがけして東国へ奔ろうとし、またある人は逃げて山谷に隠れようとしたという。

 そこで大友皇子おほとものみこは側近に、

「いまどう計るときであろう」

 と問うと、ある大夫が進んで、

「遅く謀れば後れを取りましょう。すぐに集められるだけの精鋭をそろえ跡を追って撃つに越したことはありますまいぞ」

 と献策した。近江方はすでに後手に回っている。今はたとえ味方の兵が少ないとしても、敵が十分の布陣をする前に早く叩くのがよい。これは上策であっただろう。この人の名前が記録されていないのは遺憾である。しかし大友はこの上策を用いることができず、自ら別の案を出して実行した。即ち韋那公磐鍬ゐなのきみいはすき書直薬ふみのあたひくすり忍坂直大摩侶おしさかのあたひおほまろを東国へ、穂積臣百足ほづみのおみももたりと弟五百枝いほえ物部首日向もののべのおびとひむかを飛鳥へ、佐伯連男さへきのむらじをとこを筑紫へ、樟使主磐手くすのおみいはてを吉備へ遣わし、諸国の兵を興させることにした。よって男と磐手に語って、

「筑紫太宰栗隈王くるくまのきみ吉備国当摩公広嶋たぎまのきみひろしまの二人は、もとから叔父に近いらしい。きっと叛くかもしれぬ。もし不服を顔に出しでもすれば、すぐに殺せ」

 と命じた。


 佐伯連男は筑紫大宰府に至ると、栗隈王に発兵を命じる官符を渡した。栗隈王は官符を受け取ったが、

筑紫国はもともと辺賊の難を防ぐものである。みよ、壁を高くし、溝を深くして、海に臨んで守るのは、どうして内乱のためであろう。ここで命令を請けて軍を貸せば、ここの守りは空しくなる。もしその間に何かあったらどうするのだ。取り返しの付かないことになってから余を百ぺん殺しても間に合うまいぞ。何も朝廷に背こうというのではないが、たやすく兵を動かせないのは、理由のあることなのだからな」

 と答えて譲らない。ときに栗隈王の二人の子、三野王みののきみ武家たけいへのきみが油断なく剣を佩き父の脇に立って動かない。男は剣に手をかけて進もうとしたものの、かえって殺されることを恐れ、使命を果たすことができず、とぼとぼと引き返した。

 吉備に赴いた樟使主磐手は、官符を渡す日、広嶋を欺いて刀を置かせ、そうして自分は刀を抜いて広嶋を斬った。しかし広嶋一人を殺したところで、吉備の軍団を動かして近江へ救援に駆けつけることはできなかった。何のことはない、どこもかしこも大海人方の根回しがとっくに回っていたのだ。

 東国へ向かった三人は、不破に入る頃、磐鍬だけ茂みにでも伏兵があることを危ぶみ、わざと遅れてゆるゆると進んだ。果たして伏兵が暗がりから躍り出て、薬らの後ろを絶った。磐鍬は薬らが捕らわれたのをみて、たちまち引っ返して逃げ、やっとの思いで免れることができた。


 二十七日、不破の高市皇子たけちのみこは、桑名にいる父大海人皇子に使いを遣わして、

「ここは居られる所に遠く、軍政を行うのに御相談もできません。どうか近くにいらしてください」

 と奏上した。その日に大海人は妃を桑名に留めて不破へ向かった。不破郡庁に及ぶ頃、尾張国小子部連鉏鉤ちひさこべのむらじさひちが二万と号する兵を率いて帰順した。大海人はこれを褒め、その軍を分けて要所々々の道を塞がせることとした。不破郡野上のがみに到ると、高市が関から出て父を迎えた。この辺りはあたかも後に関ヶ原と呼ばれる土地である。高市は近江方の使者書直薬・忍坂直大摩侶を捕らえたことを報告した。

 ところでここ不破郡には唐人が住んでいた。この唐人というのは、かつて百済の鬼室福信が救援を請うてきたとき、てみやげにに献上した捕虜百六人である。あるいは別の機会に捕虜になった者もあったらしく、それもこの土地に配置されていたとすれば、その人数はもっと多かったかもしれない。彼らは大陸に還っても大した待遇は受けられないが、この列島ではちょっと漢字漢文の読み書きができるというだけでもまだ重宝された時代である。こうした中にはちょっとどころではない知識人も混じっていて、続守言しよくしうげん薩弘恪さつこうかくという二人は、後に音博士こゑのはかせという役職に就く。弘恪は大宝律令の選定にも参加する。彼らが日本文化の底上げに果たした役割は、決して軽く視るべきものでないということを、特に付け加えておきたい。しかしそれはまだ先の話。

 このとき、大海人は唐人に問うて曰わく、

「汝らの故郷は戦争の多い土地であろう。必ず戦術を知っていよう。今どうすべきか申してみよ」

 ある人が進み出て、

「唐ではまず斥候をやって地形や消息を探らせ、それから軍を進めます」

 云々と一般論的に答えた。彼らは軍人としてはヒラの兵士に過ぎなかったのだろう。そこで大海人は高市に語りかけて、

「近江の朝廷では左右大臣や智謀の群臣がそろって会議していように、余には与に事を計る者がない。ただおまえたちがいるだけだ。さあどうしよう」

 高市は腕をぶして刀の柄に手をかけ、

「近江の群臣が多いといっても、なんで皇位に即くべき父上の威風に逆らえましょう。わたくし天神地祇のお力を借り、父上の勅命を請けて、諸々の将軍を率い、討ち払ってご覧に入れます。どうして防ぐすべがありましょうか」

 この年十九歳になる高市皇子はけなげだった。母親は筑紫の豪族胸形君徳善むなかたのきみとくぜんの息女尼子娘あまこのいらつめであり、その立場はむしろ伊賀の采女宅子やかこを母に持つ大友皇子に似た所がある。しかも大海人には王族の女性との間に生まれた男子が、高市よりも年少ではありながら育ってきている。それは草壁くさかべ大津おほつなが弓削ゆげ舎人とねりといった皇子たちである。従ってここで手柄を立てても将来の見込みはあまり多くを望めない。功績などあればあるほど、なおさら命の危険を増すことになるかもしれないのだ。

 しかし大海人は高市の心意気を誉め、手を取って背をかき撫で、「決して怠るのではないぞ」と教え、鞍のせた馬を賜り、軍のことを全て任せた。まあ名誉総帥といった所で、実際にはこの直後にも大海人自身が軍を指導している。高市は関に戻り、大海人は野上に行宮かりみやを定めてここに留まった。

 この夜、雷雨が激しくなり、大海人は祈誓して、

「天よ地よ、もし我を扶けたまう御心あらば、かみなり雨ふることをばめよ」

 と曰い、言い了わるとすぐに雷雨はやんだという。されば天神地祇大海人皇子に天下を任せようとしている。こういったことも宣伝し、味方の士気は高め、相手の戦意は挫いていこうというのだ。(続く)

天武天皇評伝(十九) 壬申の乱・一

「今聞くに、近江の朝廷の臣どもは、余を殺そうと謀っているとか。これによって汝ら三人は、急ぎ美濃国へ往き、安八磨あはちま郡の湯沐令ゆのうながし多臣品治おほのおみほむぢに会い、戦略の要点を伝えて、まずその郡の兵を興せ。ゆくゆく国司くにのみこともちらに触れて、諸々の軍を興し、速やかに不破の道を塞ぐようにせよ。余もすぐに発つであろう」

 と、大海人皇子おほしあまのみこが、国連男依むらくにのむらじをより和珥部臣君手わにべのおみきみて身毛君広むげつきみひろを招集して詔したのは、壬申の年六月二十二日のことである。前に朴井連雄君えのゐのむらじをきみが近江方の動向を報告したというのは、五月のことで、およそ一ヶ月は経つ間、表向きには平穏だったことになる。三人は東へ向かった。

 二十四日、大海人が出発しようとしているとき、一人の従者が先行きを案じて進言した。

「近江の群臣にはもともと謀反気がございました。必ず天下を乱すでありましょう。さればみちみち何があるかわかりませぬ。どうして一人の兵もなく、むな手にして東国あづまのくにへ入れましょうか。わたくしは事が成就せぬのではないかと気遣わしゅうございまする」

 大海人はこれに従い、男依らを召し返そうと思い、すぐに大分君恵尺おほきだのきみゑさか黄書造大伴きふみのみやつこおほとも逢臣志摩あふのおみしまを飛鳥の旧都に遣わし、駅鈴を乞わせた。駅鈴というのは駅馬によって物事を伝達するのに用いるのである。よって恵尺らに語って、

「もし駅鈴を得られなければ、志摩は戻って報せよ。恵尺は馳せて近江に往き、高市皇子たけちのみこ大津皇子おほつのみこを連れて、伊勢で落ち合うようにせよ」

 と命じた。時に飛鳥の旧都は王族の人高坂王たかさかのきみ留守司とどまりまもるつかさとして主衛していた。恵尺らは高坂王のもとに至り、皇子の命令だとして駅鈴を求めた。高坂王は駅鈴を渡さない。恵尺は近江へ向かい、志摩は戻って「駅鈴は得られませんでした」と報告した。

 大海人は東国への旅路に入った。事が急だったので徒歩で発った、と『日本書紀』は記している。急といっても雄君の報告からでも一ヶ月程度はあるのに、馬の一頭も用意しておけないはずはない。さて少し行くと県犬養連大伴あがたいぬかひのむらじおほともが馬に鞍乗せて忽然と現れた。大海人は馬に乗り、妃鸕野皇女うののひめみこは輿に載って進んだ。津振川に至る頃、大海人の愛馬が届けられた。

 この時、初めから従った人は、草壁皇子くさかべのみこ忍壁皇子おさかべのみこ、及び舍人朴井連雄君・県犬養連大伴・佐伯連大目さへきのむらじおほめ大伴連友国おほとものむらじともくに稚桜部臣五百瀬わかさくらべのおみいほせ書首根摩呂ふみのおびとねまろ書直智徳ふみのあたひちとこ山背直小林やましろのあたひをばやし山背部小田やましろべのをだ安斗連智徳あとのむらじちとこ調首淡海つきのおびとあふみら二十数人、女官十数人だった。

 宇陀の吾城野あきのに到ると、大伴連馬来田おほとものむらじまぐた・黄書造大伴が追って合流した。ここでは屯田みたのつかさの舎人土師連馬手はじのむらじうまてが一行に食糧を提供した。甘羅かむら村を過ぎると、大伴朴本連大国おほとものえのもとのむらじおほくにが狩人二十数人を率いて参り供に仕えた。また美濃王みののきみが召還に応じて合流した。ちょうど宇陀郡庁のあたりで伊勢国の米を運ぶ荷駄五十匹に遭遇したので、米俵を棄てて徒歩の者に乗らせた。

 大海人主従は山を越えて伊勢国へ向かっている。宇陀の大野まで来ると日が暮れ、暗くて山を進めないので、家の籬をこぼち取って灯火にした。夜半になって伊賀国名張なばり郡に入り、その駅に火を着けた。街中に唱えて、

殿下おほきみが東国へおいでになるによって、みなみな出て参れ」

 と呼んだが、ここではどうしたか誰も来なかった。やはり伊賀は大友皇子おほとものみこの母親を出した国だからだろうか。

 横河を渡ろうとすると、幅十丈ばかりと見える黒雲が天にたなびいていた。大海人はこれを異として、得意の天文学によって占った。昔の天文というのは今の天文・気象の対象を含んでいる。ちくを手にとって占い、

「天下が二つに分かれる兆しと見える。されど果ては余が天下を得るか」

 と判じたが、まさか占ってみるまで知らなかったはずはない。成算があるからこそこんな行動に出ているのだ。ただ従者の大半はこれが計画された行動だということを知らされず、深夜の山越えという異常な行動に不安を感じている。そこで占いに託して見通しの一端を示し、安心させたまでのことだろう。

 占いに励まされた一行は歩を速め、伊賀郡に到るとその駅にも火を放った。これは追っ手を避けるためだろうか。しかし中山という所まで来ると、その国の郡司こほりのみやつこらが数百の兵を率いて帰順した。空がほのぼのと明るむ頃、莿萩野たらのに至り、しばし足を休め食事を取った。積植つむゑの山口に到ると、高市皇子鹿深かふかから越えてここに出遭った。民直大火たみのあたひおほひ赤染造徳足あかそめのみやつことこたり大蔵直広隅おほくらのあたひひろすみ坂上直国麻呂さかのへのあたひくにまろ古市黒麻呂ふるいちくろまろ竹田大徳たけだのだいとく胆香瓦臣安倍いかごのおみあへが供をして来た。

 大山を越えて伊勢国鈴鹿郡に出た。ここにその国司くにのみこともち三宅連石床みやけのむらじいはとこすけ三輪君子首みわのきみこびと、及び湯沐令田中臣足麻呂たなかのおみたりまろ高田首新家たかたのおびとにひのみらが大海人主従を迎え、五百と号する軍を発して大山の道を塞いだ。川曲かはわの坂のふもとに到って日が暮れた。鸕野皇女が疲れを訴えたのでしばし輿を留めて休むうち、夜空に星が見えなくなり、雨が降りそうだったので、長く憩うことができず、また進まなければならなかった。そのうち冷たい雷雨が激しくなり、一行は着物が濡れて寒さに耐えないほどだった。どうせ天文を占うなら雨が分かればよいのに、さすがの大海人もこの時ばかりは肝を冷やしただろう。ようやく三重郡庁に到り、小屋一軒に火を着けて凍えた身を暖めた。この夜半、鈴鹿関司せきのつかさからのつなぎがあり、

山部やまべ石川いしかは両殿下がおこしになられました故、関にお泊め致しておりまする」

 とのことだった。大海人はただちに路直益人みちのあたひますひとを遣わして二人を呼びに行かせた。

 翌二十六日早朝、大海人は朝明あさけ郡の迹太とほ川のほとりで天照大神を眺拝した。ここに益人が鈴鹿関から還ってきたが、ともに現れた者はと見れば、それは山部王でも石川王でもなく、大海人の子の一人、大津皇子だった。何か行き違いがあったのか、それとも意図した誤報というものでもあるのか、ともかく両陣営が策謀を巡らしている中のことだから歴史を読む方の眼が問われる所だ。前に近江に向かった大分君恵尺をはじめ、難波吉士三綱なにはのきしみつな駒田勝忍人こまだのすぐりおしひと山辺君安摩呂やまのへのきみやすまろ小墾田猪手をはりだのゐて泥部胝枳はづかしべのしき大分君稚臣おほきだのきみわかみ根連金身ねのむらじかねみ漆部友背ぬりべのともせらが大津の供をして参上し、大海人を大いに喜ばせた。

 朝明郡庁に至ろうとする頃、村国連男依が駅馬に乗って馳せ着け、

「美濃の兵三千人を興して、不破の道を塞ぐことができました」

 と復命した。不破の道は近江と美濃の国境に当たり、畿内から東国へ連絡する要路の一つである。大海人は郡庁に着くと、高市皇子を不破に遣わして軍事を監察させ、また山背部小田・安斗連阿加布あとのむらじあかふには東海道へ、稚桜部臣五百瀬・土師連馬手には東山道へ行き、諸国の軍を徴発するように命じた。この日、大海人自身は桑名郡庁に宿り、ここに停まった。

 さてこの大海人皇子の行動は、当然さほど間を置かずして近江の朝廷にも聞こえた。これを迎えて立つ大友皇子には、一体どんな打つ手があるだろうか。あるいはこの頃に世の人が謡ったかともいわれる歌が『万葉集』に収められている。

  近江之海あふみのみ 泊八十有とまりやそあり 八十嶋之やそしまの 嶋之埼邪伎しまのさきざき 安利立有ありたてる 花橘乎はなたちばなを 末枝尓ほつえに 毛知引懸もちひきかけ 仲枝尓なかつえに 伊加流我懸いかるがかけ 下枝尓しづえに 比米乎懸ひめをかけ 己之母乎ながははを 取久乎不知とらくをしらに 己之父乎ながちちを 取久乎思良尓とらくをしらに 伊蘇婆比座与いそばひをるよ 伊可流我等比米登いかるがとひめと(近江の海 泊八十有り 八十嶋の 嶋の埼々 あり立てる 花橘を 末枝に 黐引き懸け 中枝に 斑鳩懸け 下枝に 媛を懸け 己が母を 取らくを知らに 己が父を 取らくを知らに いそばひ座るよ 斑鳩と媛と)

 (続く)

「聖徳太子」という呼称について

数日前のことになるが、いわゆる「聖徳太子」について、学習指導要領の改訂案で表記を変更することになり云々、ということが新聞記事になっているのを目にした(聖徳太子、教科書で表記変更は妥当? 国会で論戦に:朝日新聞デジタル)。聖徳太子、という一般化した呼称が現れるのは、この人物の死後130年ほど経った天平勝宝三年(751)の『懐風藻』の序文が現存する最初だ。聖徳太子といえば古くからカリスマ的偉人であり、二つ名どころか様々な呼び名があった。以下に主なものを挙げる(皇太子・東宮王命みこのみことなど一般名詞的なものは除く/読みは必ずしも確定できるわけではなく、一例)。

古事記
上宮之厩戸豊聡耳命かむつみやのうまやとのとよとみみのみこと
日本書紀
廐戸皇子うまやとのみこ
豊耳聡聖徳とよみみとしょうとく
豊聡耳法大王とよとみみののりのおおきみ
法主のりのうしのきみ
厩戸豊聡耳皇子うまやとのとよとみみのみこ
上宮廐戸豊聡耳太子かむつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ
上宮聖徳法王帝説
厩戸豊聡耳聖徳法王うまやとのとよとみみのしょうとくほうおう
聖王ひじりのみこ
上宮厩戸豊聡耳命かむつみやのうまやとのとよとみみのみこと
上宮王かむつみやのみこ
厩戸豊聡八耳命うまやとのとよとやつみみのみこと
聖徳王
上宮聖徳法王かむつみやのしょうとくほうおう
法主
法隆寺金堂薬師如来像光背銘
聖王
法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘
上宮法皇かむつみやのほうおう
天寿国繍帳銘
等已刀弥弥乃弥己等とよとみみのみこと

聖徳太子は日本仏教の興隆期に活躍した人物であることは確かで、聖や法という字がしばしば付くのも仏教的意味による。だから聖徳太子という呼び方はこの人物の歴史的意義を理解する上で妨げになるとは必ずしも言えない。昔の尊貴な人の呼び方が死後に定まるのは普通のことで、今それを採るべきかどうかは場合によりけりだ。甚だしい例を挙げると、672年に死んだ大友皇子に対する弘文天皇という諡号ははるかに下った1870年のものである。弘文天皇という呼び方は今では一般的には使われていないと思うが、今上を125代目とする数え方の中には含まれたままになっている。

ただ聖徳太子の事績には生前からすでに尾鰭が付き始めていたらしく、後世にはなおさら多くの伝説化がなされた。これは水戸黄門の場合とよく似ている。水戸黄門といったらテレビの黄門様の印象が強いから、それを避けて徳川光圀と呼ぶのは、歴史を扱う上でありうべき一つの態度だ。そうした態度を執る場合は、聖徳太子のことは厩戸王子と書くのが最も中庸を得た表記だろう。

しかし聖徳太子という呼称に対する後世の付会も真実でないからどうでもいいというものではない。聖徳太子は日本仏教の聖人として古代後期から中世にかけて長く尊敬された。江戸時代になると、仏教はやや衰退し、まず儒教の立場から仏教を広めたことで批判され、後には国学によって外来思想の導入者として非難された。その流れは明治の神仏分離廃仏毀釈となり、また古神道国家神道となって日本の伝統的宗教を大きく変質させた。昭和戦後になると、聖徳太子は1950年から発行された千円札にも描かれたし、歴史上の偉人として一般に親しまれた。近年の動きはまた別の傾向を見せているが、進歩したと言えるかどうか。

聖徳太子に対する評価の変遷は、過去を振り返るとはどういうことか、言い換えれば「歴史とは何か」という問題に迫る好個の材料となるのではないだろうか。

参考文献

上宮聖徳法王帝説 (岩波文庫)

上宮聖徳法王帝説 (岩波文庫)

 

天武天皇評伝(十八) 大友皇子と大海人皇子

 天智天皇が死に瀕していた十一月二日、唐から法師道久だうく筑紫君薩野馬つくしのきみさちやまら四人が対馬国つしまのくにのみこともちのもとへ来着した。道久はおそらく前の遣唐使の一員として渡った僧侶。薩野馬は百済への出兵に従って捕虜になっていたもので、他の二人も同じであるらしい。道久らが語った所によると、今、唐朝の使者郭務悰くゎくぶそうら六百人・送使沙宅孫登しやちやくそんとうら千四百人が、船四十七隻に分乗して比知ひち嶋に停泊している。そして、

「今われらは数が多く、突然に行くと倭の防人が驚いて防戦しようとするかもしれない。そこで道久らをやって、予め来意が知られるようにしておこう」

 と相談しているという。比知嶋というのは今のどこか未詳だが百済沿岸の小島の一つであることは分かる。このことは十日には筑紫大宰府に伝えられた。この時、筑紫率つくしのかみには栗隈くるくま王が赴任していた。栗隈王は敏達帝の孫に当たる。

 この報は十一月中には近江国大津宮にももたらされたろうが、まもなく天智天皇崩御し、大友皇子はまずその葬儀に当たらなければならなかった。新羅の使者金万物こむもんもつもがりを見届けて帰国した。

 明くる年は、唐ならば高宗の咸亨三年、干支は壬申である。近江の朝廷には主君がない。残された大友皇子は二十五歳になった。

 大友皇子については、『懐風藻』に小伝が載せられているものの、その評価はありきたりな賛辞を並べただけで、あまり実感がないという印象を受ける。そこで残された二首の短い漢詩から強いてその人柄を覗うと、父から期待をかけられてきただけに気負いと表面的自信が強い反面、自分の実力に対する不安から心を離すことができないという性格が見えるようである。

 そんな大友皇子がこの年の初めにしなければならない仕事は、郭務悰らに天皇の喪を知らせることだった。それも三月になってようやく使者を筑紫へ派遣したのである。この時、務悰は那の津、今の博多湾岸に留められていた。務悰らは喪服を着て哀悼の礼を行い、因って書翰と進物を渡した。

 郭務悰というのは、唐の百済占領統治に関係した人物で、これまでにも何度か来訪している。しかし今回は特に多くの人数を引き連れて来たというのはどういう事情によるものだろうか。当時通常の使節団がどのくらいの人数で行動したかはよく分からない。だからこれが普通よりどのくらい多いのかもよくは分からない。しかし今回は紛争発生の折なので、郭務悰ら六百人というのは相当数の護衛をも含むものだろう。沙宅孫登は百済人で、かつて義慈王とともに唐に投降した。沙宅孫登ら千四百人というのが、特に別に記されている所に何か意味がありそうである。これについては当時の状況からこう考えることができる。

 そもそも遠征軍においていつも問題になるのは兵站つまり軍需物資の輸送である。孫子も言うように、遠方への輸送は効率が悪く、できるだけ戦地の近くで物資を獲得するのが鉄則である。現に唐は高句麗との戦争において新羅から援助を受けなければ勝利することができなかった。かつて隋の煬帝が戦争に備えて掘らせた、南は杭州から北は涿州まで通じる大運河は機能していたが、これとて十分なものではなかった。そこで今度は新羅を相手に事を構えざるをえなくなると、別に補給の口を求める必要が出てくる。ところで新羅王のように天子から冊封され爵位を受けている者には、その恩のために天子の行う征伐には必要とあらば協力する礼儀的義務が生じる。しかし倭の国主という者は冊立されることを拒み自ら天子を称している。これ自体が唐にとっては問題だが、今は時が時なのでとにかく補給が要る。義務を負わない者に援助を求めるにはそれなりの支払いをしなければいけない。

 沙宅孫登ら千四百人というのは、おそらく百済で捕虜にした倭兵や亡命百済人の家族などで、彼らを送り届けるのと引き替えに物資を購ったのだろう。沙宅氏にも亡命した者があり、孫登自身もあるいはこれを機に亡命を希望したのかもしれない。これに対する近江の朝廷からの供給は、さらに五月まで遅れた。十二日、甲冑・弓矢の他、ふとぎぬ千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤が引き渡された。このおよそ半年間は郭務悰にとっては長すぎる時間だった。唐の百済占領統治は今や文武王の戦略によって窮地に追い込まれている。三十日、務悰らはようやく帰路に就くことができた。


 大海人おほしあま皇子は、昨年十月末以来、倭国やまとのくにの吉野宮にいる。倭国には伝統的な王権の基盤があり、それは王宮が近江に遷っても変わっていない。まずはここを押さえることが制覇への第一歩となるのだ。

 今この列島では、内外に政治上の課題が多い上に、王位継承法を巡って、天智天皇が進めてきた改革に与する人々と、これに抵抗を感じる人々とが衝突しようとしている。しかもそれは天智天皇の死によって急激に先鋭化してきそうである。人の心裡には変わりたいという望みと変わりたくないという想いが常に同居しており、そのどちらが強く出るかで保守派になるか改革派になるかが決まる。そしてこういう時にはおよそ保守派の方が強い。変えるより変えない方がさしあたり余計な面倒が少なくて済むような気がするからだ。

 ここで大海人皇子が吉野に隠棲する姿勢を示したことは、どちらに付くかを予め決めていたわけではない多くの人々を刺戟したはずだ。あの古人大兄王子が吉野で殺された事件は、もう二十七年ほど前のことになる。当時その報に触れて何らかの印象を胸に刻んだであろう若者たちは今、大海人もそうであるように、十分指導的地位に立つ年齢になっている。しかも今度は逆に純血の皇子が吉野に退き、近江の朝廷には伊賀の采女などが生んだという皇子が居座っている。当然帝王として立つべき人が、不当にも大友皇子によって殺されようとしているのではないか。

 大海人皇子は早くに近江の朝廷を脱け、こうした情況の中で先手を打って有利な地位を占めることができるという見通しを持っている。一方大友皇子は今やいやおうなく政治の当局者となって多忙である。自分はただ勝利を得ることに集中すればよいのだ。『日本書紀』は壬申の年五月までに何があったかについて多くを語らないが、こんな沈黙はやはり裏面で駆け引きが行われていたことを示していると見るべきだろう。

 ところで天智天皇の陵墓は、大津宮からそう遠くない山背国やましろのくに宇治郡山科郷に造ることが生前に決められていたらしい。その地は藤原内大臣の陶原すゑはらの家に近く、今の京都市山科区にある御廟野古墳に比定されている。この墳墓の造営がこの時は終わっておらず、もし工夫に鍬に替えて矛を持たせれば、ずっと南下して倭国に攻め入ることができる。そして大友方が少しでもそういう気配を見せれば、大海人方にとってはむしろ行動を起こす絶好の機会となる。

 あるいはこの頃のものかと思われる歌が天皇御製歌として『万葉集』に載せられている。

  三吉野之みよしのの 耳我嶺尓みみがのみねに 
  時無曽ときなくぞ 雪者落家留ゆきはふりける 
  間無曽まなくぞ 雨者零計留あめはふりける 
  其雪乃そのゆきの 時無如ときなきがごと 
  其雨乃そのあめの 間無如まなきがごと 
  隈毛不落くまもおちず 念乍叙来おもひつつぞくる 
  其山道乎そのやまみちを

 五月、大海人に従う舎人で朴井連雄君えのゐのむらじをきみという者が一つの報告を吉野宮にもたらした。

「私用があって美濃国にまかりましたところ、朝廷から美濃・尾張両国のみこともちに“御陵を造るによって予め人夫を選んでおけよ”と命じられたとか。されば人ごとに兵器を持たせている様子。わたくしが思うに、御陵を造るにはあらで、必ずくせごとがあるかと」

 またこれとは別にある人の告ぐらく、

「朝廷は大津より飛鳥までところどころに斥候を置き、また菟道うぢ橋守にも命じて、殿下の舎人が食料を運ぶのを遮らせておりますぞ」

 大海人皇子はこれをいぶかしみ、事実を探らせると、果たしてその通りだった。そこで曰わく、

「余が位を譲り世を遁れたのは、ただ病を治め身を全うし、平穏に一生を終えたいからだ。しかるに今せんすべなく禍いを受けようとしている。どうしてこのまま身を亡ぼそうか」

 さても相手が先に不当な行動をしたと主張するのは、挙兵に名分を立てるための常套手段である。もし大友皇子をして歴史を書き残させれば、大海人方から先に怪しい動きがあったのだと記すだろう。こういう場合、真実はだいたいにおいて有利な側から手を出したと見てよいだろうか。大海人は勝利への算段を固めつつあったが、韜晦することが得意なこの皇子は、まだそれを身内にも漏らさずにいるらしい。(続く)