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天武天皇評伝(十七) 希なる改革者の最期

 天智天皇は、従来の慣習を破って、大友おほとも皇子に皇位を継承させる形を作ろうとしてきた。これに大海人おほしあま皇子は反対のはずである。しかし、兄弟の間に感情的なしこりがあるとはいえ、基本的には理想を共有している二人でもある。相続法を父子直系式に変えることと、王族の近親婚を減らしていくということについては、大海人も方向性としては賛成している。ただ大海人としてはそれはまだ先の世代の課題だと思っている。天智天皇としては自身が創始した天皇制のもとであくまで新しい相続法を実現するつもりだった。

 だが病の床に臥せた天智天皇は、いよいよ本当に命が終わろうとしていると悟ると、大友を後継者にするのは抵抗が大きいということをひしひしと感じて、いたたまれない思いになってきたものらしい。即位四年冬十月十七日、後のことを相談するため、寝殿大海人皇子を招いた。

 この時のことは、『日本書紀』の中でも天智天皇紀と天武天皇紀の両方に記されており、しかも微妙に事の感じが違う。どういうことだろうか。

 天智紀によると、この日、天皇は病状が悪化し、勅して大海人を寝室に召し入れた。詔して曰わく、

「余の病気は重い。後のことは汝に委ねる」

 云々と。大海人は再拝して自分も病気があると称し、固辞して受けず、曰く、

「帝業は皇后に委ね、大友王に摂政をさせたらよいでしょう。わたくしには天皇の御為に出家して修行をさせていただきたい」

 天皇はこれを許した。大海人は再拝して立ち、すぐに宮中の仏殿の南に出て、髪と髭を剃り落として法師の姿となった。天皇は人を遣わして袈裟を贈った。

 天武紀では、少し様子が違う。天智天皇蘇我安麻侶そがのやすまろを遣わして大海人を呼んだ。安麻侶は普段から大海人と仲がよかった。安麻侶はこっそりとふりかえり、

「お気をつけてお話しあれ」

 と告げた。そこで大海人は何か隠謀があることを疑って警戒した。天皇が大海人に帝業を授けようと勅すると、大海人は辞退して曰く、

「臣の不幸は、もともと病気がちなことです。どうしてよく社稷を保てましょう。陛下は天下を挙げて皇后に預け、かさねて大友皇子を皇太子となさればよろしいでしょう。臣は今日出家して、陛下の御為に功徳を修めましょう」

 天皇はこれを許した。大海人は即日出家して法衣をまとい、この機会に私家の兵器は全て官に納めた。

 ここでは安麻侶の忠告が強調され、壬申の乱への伏線としてこの会見が位置付けられている。ここで本当に何か隠された謀があったのかどうかは全く分からない。兄弟の会話については潤色の差があるだけで内容に違いはない。だが死に臨んだ兄が弟に言ったことはこれだけなのだろうか。そもそもこんな会談は人払いをしたに違いなく、証言者のいそうにない事件をどう記録するか、それは歴史の勝者に委ねられている。

 こういう状況で人は何を望むものだろうか。人は似た立場に置かれれば似たことを考えるものだとすれば、参考になりそうな例がある。

 中国北朝の斉は、南朝の斉と区別して史上に北斉と呼ばれる。北斉の初代文宣帝が崩御すると、長男でまだ十五歳のいんが二代皇帝に立てられた。一年足らずして、文宣帝の弟のえんは、殷を廃位させて自ら帝位に即いた。これが孝昭帝である。殷は廃位されたので廃帝と呼ばれる。初め、両者は互いに害をなさないことを約束していた。即位の二年目、孝昭帝は廃帝の逆襲を恐れて、鴆毒をやって死なせようとしたが、廃帝は服まなかった。そこで孝昭帝は廃帝を絞め殺した。ところが政敵がなくなって安心とはいかず、ひどく後悔して、そのためか熱病にかかった。孝昭帝の次男百年はくでんが皇太子になっていたが、まだ幼いので後を継がせず、弟のたむを登極させることに決めた。臨終の間際、孝昭帝は弟に宛てて手ずからこんな遺書を書いた。

「百年はまだ罪のない子どもだ。どこかいい所に置いてやってくれ。前例に学ぶのではないぞ」

 湛が帝位に即いたが、これが武成帝で、結局四年後に百年を殺した。

 これは実にありうべきことだ。別に立派でない人でも最期に望むのは子どもの命が無事であってほしいということなのだ。天智天皇もやはり、確かに位は譲るから大友の命だけは助かるようにしてやってくれ、と大海人に頼んだはずではないか。自分のしてきたことを忘れたわけではなく、自覚があるからこそ今さらながらに因果応報ということが恐くなるのだ。自分が死ねば、大友は有力な外戚の後ろ盾もない、政治的に孤児同然の皇子ではないか。弟はきっと兄がしたようにこの子を殺すに違いない。

 この兄の願いに対する弟の答えが、皇后への譲位という提案だったとすると、天智天皇にとっては恐ろしい結果を予想しなければならないものだった。王族の人であるやまと皇后が、伊賀の采女に生まれた大友皇子を守ってくれるという保証はない。それに皇后は今でこそ皇后に収まっているが、天皇が死んでしまいさえすれば、父古人大兄ふるひとのおほえが殺された恨みを晴らそうとはしないだろうか。

 それにしても大海人皇子はなぜ譲位の提案をことわるのか。それは大海人にとって悪い話ではない。病を称するというのは辞退の常套句であり、本当のことだとは限らない。平穏裡に皇位を手にして、もし大友が邪魔になれば後からいくらでも理由を付けて抹殺することもできる。しかしここで大海人は、ちょっと待てよ、と考える。大海人は天文・遁甲という学術の実践者でもあった。つまり理論的に物事の見通しを立て、身の処し方を考えることのできる頭脳の持ち主なのだ。

 大海人としてはもしここで譲位を受けても、それは従来の慣習を踏襲するだけのことであり、それ自体は何にもならない。継承権は当然自分が持っているのだ。それにここ数年の兄の政策は、近江への遷都や人材の抜擢などで評判が悪い。海外の事情もどう転ぶか測りがたいものがある。ここで天智体制をそのまま受け継ぐのは損だ。自分が思うような方向へ軌道を修正するだけで大変な労力を取られることになる。そしてその過程でどうしても天智派の人々と衝突することは避けられないだろう。ならばどういう道があるのか、大海人にはもう計算ができてしまったらしい。

 十九日、僧形になった大海人は近江国あふみのくにを去り、倭国やまとのくに吉野山へ向かった。天智天皇にはもはやどうする力もなく、ただ痛切な思いを諦念の中に閉じ込めるだけであったろう。

 十一月二十三日、大友皇子は内裏の西殿の織物の仏像の前に座り、左大臣蘇我赤兄そがのあかえ・右大臣中臣金なかとみのかね、また御史大夫蘇我果安そがのはたやす巨勢人こせのひと紀大人きのうしが侍した。大友皇子がまず立って香炉を手に取り、誓盟して曰く、

「六人は心を同じくして天皇の詔を奉る。もし違う者あらば、必ず天罰を受けようぞ」

 云々と。ここに左大臣ら香炉を取って次第のままに立ち上がり、涙も血に染まらんばかりに泣いて、

やつこら五人、殿下に従いて天皇の詔を奉る。もし違う者あらば、四天王これを打てよ、天神地祇もまた誅罰せよ、帝釈天もこれ聞こしめせ。子孫はまさに絶え、家門は必ず亡びん」

 云々と誓った。

 二十九日、左大臣ら五人は大友皇子を奉じて、天皇の御前に盟誓を報告した。この日、新羅の文武王に絹五十匹・絁五十匹・綿千斤・革百枚を贈ることとし、使節金万物こむもんもつらに預けた。今はとにかく平穏を図るに限る。

 十二月三日、天智天皇大津宮崩御した。四十六歳だった。

 天智天皇は、先見の明に優れ、決断力に富み、妥協の機微を知り、史上に希な真の改革派の闘士だった。しかし晩年には改革を急いで中庸を失う所があり、そのために大友皇子を一層困難な状況に置き残した。もっともこんな行き過ぎは変革期を担う人物にはありがちなことで、これだけの勢いをもってしなければここまでの改革は実現できなかったのかもしれない。その人格や事績は、秦の始皇帝織田信長と比較されるべきである。

 時に当たって世の人が唄ったという歌三首が『日本書紀』に引かれている。

  美曳之弩能みえしのの 曳之弩能阿喩えしののあゆ 阿喩擧曾播あゆこそは 施麻倍母曳岐しまへもえき 愛倶流之衛えくるしゑ 奈疑能母縢なぎのもと 制利能母縢せりのもと 阿例播倶流之衞あれはくるしゑ(み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島辺も吉き え苦しゑ 水葵のもと 芹のもと 吾は苦しゑ)

  於彌能古能おみのこの 野陛能比母騰倶やへのひもとく 比騰陛多爾ひとへだに 伊麻拕藤柯禰波いまだとかねは 美古能比母騰矩みこのひもとく(臣の子の 八重の紐解く 一重だに 未だ解かねは 御子の紐解く)

  阿箇悟馬能あかごまの 以喩企波々箇屡いゆきはばかる 麻矩儒播羅まくずはら 奈爾能都底擧騰なにのつてこと 多拕尼之曳鶏武ただにしえけむ(赤駒の い行き憚る 真葛原 何の伝言 直にし吉けむ)

(続く)

天武天皇評伝(十六) 天智天皇の焦り

 文武王の反撃が開始されて以来、各勢力間の外交も活発に行われた。天智天皇が送った遣唐使は、咸亨元年に高宗に謁見して高句麗の平定を祝賀したという。天智天皇のもとへも、即位四年・咸亨二年になると、新羅側と唐側の両方から複数の使節があり、いずれも状況を少しでも自己の有利に引き寄せようとしていた様子がある。

 この間、内政面では、即位三年二月、初の全国的な戸籍とされる、いわゆる庚午年籍が造られた。全国的というのは、少なくとも関東から九州までの範囲である。天智天皇にとって、この造籍事業の成功は、今まで苦労して進めてきた王権拡張の成果を実感させるものだったに違いない。藤原内大臣を喪った心の痛手も、これで少しは和らいだだろうか。同じ頃、天皇は琵琶湖の東蒲生野かまふの行幸した。蒲生野といえばかつて即位元年に大海人おほしあま皇子や藤原内大臣らを引き連れてともに娯しんだ思い出がある。日本書紀には「宮地を観る」と書かれており、より本格的な都城の建設を企てたものだろう。

 ところが同じ年の四月、倭国やまとのくに斑鳩法隆寺に火災があり、一つの屋舎も残さず焼けるという不吉なことがあった。法隆寺の火災については、その時期に異伝があるが、焼失の事実は発掘によって確かめられている。『日本書紀』の記述を信用すれば、あまたの仏像も焼けただれて、もし現場を看れば恐ろしいありさまだったと想像される。焼け落ちて顔だけになった薬師如来が、相変わらず涼しい眼差しで曇りゆく空を眺めていただろうか。天智天皇の心理にこの事件が響いたものかどうか、どうやらこの頃から、自身の死が近いことを予期して、跡目のことが気がかりになってきたものらしい。

 即位四年の正月五日、天智天皇は、大友おほとも皇子を太政大臣に任命し、蘇我赤兄そがのあかえ左大臣中臣金なかとみのかねを右大臣、蘇我果安そがのはたやす巨勢人こせのひと紀大人きのうし御史大夫に配置するという組閣を行った。大友皇子太政大臣任官については『日本書紀』と『懐風藻』で年が違い、事実としてあったのかどうかも疑えば疑えないこともない。ただ、大友皇子を事実上の皇位継承者として位置付け、生きている内に後継体制を固めておこうとしたのだとすると、この後の事件が理解しやすい。おそらくそうなのだろう。

 しかし大友皇子皇位継承者として指名されたとすれば、大海人皇子にとってそれは大きな懸念を招くことであったろう。それはひとり大海人自身が政治を執る機会を奪われるというだけではない。これまで慣習的に行われてきた倭王家の継承法は、親世代の有資格者が順に王座に就き、それが尽きて初めて次の世代に権利が回ってくるというものだったのである。だから天智天皇がもし崩御すれば、皇位を継ぐのは当然大海人皇子だと世の中では思っている。それに経験や年齢からいっても差があるし、何よりも問題なのは母親の身分が高くないことである。双系主義の傾向が強い社会では、子の資質には父母双方の血が関わると考えられる。だから従来倭王家の跡継ぎとして資格があったのは、王族でなければ蘇我や阿倍といった大貴族の女性が産んだ子である。王権を支える貴族や諸国の豪族が大友皇子を後継者として担いでくれるかどうかということは、当時の常識として当然懸念される。

 それにも関わらず天智天皇大友皇子を事実上の後継者に指名することを敢えてした。なぜだろうか。その理由はいくつか考えられる。

 第一にそれは、王権の強化というこれまで進めてきた改革の帰結として理解できる。従来の倭王家の継承法では、継承者の資格は父母双方の血によって決まる。これは天皇といっても子に皇位を伝える資格の半分しか持っていないことを意味する。もし天皇たる父の子でさえあればよいという、父権主義的な継承法を実現すれば、天皇皇位を伝える資格の全部を持つことになり、その権威は最大限に高められることになる。

 第二には、海外に対する意識がむしろ後世よりも強かった当時のことだから、継承法を東アジアの標準となっていた父子直系継承に合わせることで、わが国の国際的地位の上昇を図ることである。それはとりもなおさず、今や完全な内国となりつつある列島諸国に対する支配力をいっそう増すことにもなる。

 第三には、近親交配を避ける必要である。天智天皇の后妃・子女を見ると、王族の女性との間には子を作っていない。また大貴族の女性との間には成長した男子はない。近親婚はこの列島では昔から特に忌まれはせず、江戸時代になっても俗に「いとこどうしは鴨の味」などと言って、むしろ歓迎されていた。近親婚といっても、いとことの間に子を産むくらいでは、とにかく問題はない。しかし、近親交配に近親交配をかけあわせるということを何代も続けると、しばしば不妊になったり、普通はしないような病気の併発にかかるといったことが起きやすくなるという。いま天智天皇は父母ともに王族であり、その両親がまた王族の間に産まれている。近親婚がよくないという意識は、畜産文化の希薄なこの列島では醸成されなかったとはいえ、知識人である天智天皇は学んでいておかしくないし、近来の亡命人にも快ばれなかったことは想像にかたくない。こうなると昔から王家と関係の深い大貴族の女性もまずい気がしてくる。そこで特に縁のない伊賀国から献上された采女が生んだ大友皇子こそ健康的で頼もしいと思ってかわいがったのだろう。

 しかしこうした理由があるにもせよ、王位継承法を従来の世代平行段式から父子直系式へと早急に変えようとすることは、天智天皇自身との間に深刻な矛盾を生じさせずにはおかない。天智天皇の改革が今まで支持を失わなかったのもその純血のためだし、少しでも政敵となる可能性のある人物をまだそうならない内から抹殺するという、余りに果断な行為もまたそのために許容されてきたのではなかったか。もし死者にも精神があるなら、あの古人大兄王子は果たしてこれを見てどう思うだろうか。ましてや今を生きる人々が大友皇子に従ってくれるという保証はない。

 確かに父系主義への移行は方向性としては正しかったかもしれない。しかし今こうすることは、実際、時代を百年は先取りすることになる。今の社会制度の中で生きている人々にとってこれは困るのだ。みんなで王者として担ぎ上げている天智天皇がそんな急進的なことを敢えてするなら、それが旧来の相続法ではいい目を見られない立場の人々を刺戟して、世の中至る所で相続争いが起きないとは誰に言えるだろうか。社会には変われるときと変われないときとがあり、政治にも成るときと成らないときとがある。改革には進めることのできる最大速度というものがあり、どんな権力者でもそれを超えることはできない。もし超えようとすれば反動を食らって努力をふいにするだけだ。だから改革を進めることは常に妥協とともにあるのだ。

 では天智天皇は妥協の機微というものを全く忘れてしまったのかといえばそうでもない。大友皇子には、大海人皇子額田ぬかた王との間に生まれた十市とをち皇女を嫁に取らせている。大友と十市の間には、幸いにして葛野かどの王という男子が生まれている。だから大友には十市の婿としての資格もあるし、大友を通して葛野という純度の高い王子に帝位を伝えるのだと言えば、保守派を説得する材料になる。大海人に対しては、この孫のためにということで、何とか懐柔できるだろう。いやどうしてもしなければならないのだ。

 天智天皇の決意というのは、おそらくこういったものだっただろう。我が子大友皇子に跡を継がせることで、一生涯をかけた改革の完成とし、それを見て死にたい。しかし天は人の心など意に介さないものか。即位四年の秋頃から、天智天皇は病の床に臥せるようになり、十月にはもう先が短いと思われた。海外では新羅と唐の間に冷たい冬の風が吹き、それは海峡を渡って玄界灘にまで吹き付けてくるようだった。(続く)

天武天皇評伝(十五) 文武王の反撃

 唐の高宗の咸亨元年、倭の天智天皇の即位三年、この春にはいよいよ新羅と唐の間に緊張したものが表面化してきた。晩春から初夏にかけて、新羅高句麗の反抗軍を支援し、唐側の靺鞨兵と戦って大いに勝利した。

 夏になると、高句麗の遺臣剣牟岑こむむじむが唐に叛き、安舜あんしゅんなる者を君主として立てた。この安というのは、もと高句麗高蔵かうさうの外孫といわれるが、新羅の歴史では安という字で記され、先年新羅に帰順したという、高蔵の庶子とされる安勝あんしょうと同一人物ではないのかどうかよく分からない。新羅の歴史では、牟岑は、唐が高句麗に派遣した役人などを殺害した後、船を浮かべて新羅に向かい、仁川沖の史冶しじ島で安を見つけ、文武王に信書を送ってこう述べたことになっている。

「滅びた国を興し絶えた世を継がせることは、天下の公義でありまして、これは大国でなければお頼みできません。我が国の先王は道を失って滅ぼされ、今わたくしらは国の貴族安勝を得まして、君主として立てたいと思います。どうか藩屏となって永く世々忠を尽くさせてください」

 牟岑がいかに窮迫していたとはいえ、この嘆願は新羅側に都合がよすぎると言うべきかもしれない。中国に伝わった所では、高宗が左監門大将軍の高侃かうかんを遣わして牟岑を撃つと、安舜は牟岑を殺して新羅に逃げたことになっている。要するに旧高句麗王家と何らかのつながりのある人物を文武王が見つけて保護したことは事実らしい。

 七月、文武王は、百済の残衆が反乱を起こそうとしている、という疑いをかけた。この疑惑についての話し合いのため、唐が百済に置いた熊津都督府から、禰軍ねくんという人が文武王の所へ来た。禰軍というのは、百済人で、唐の占領統治に協力し、熊津都督府の司馬つまり軍務長官という役に就いている。文武王は、禰軍がわれを暗殺しようと謀ったとして、留めて帰さず、そのすきに兵を挙げて百済へ攻め入り、多くの城市を占領した。

 八月、文武王は安勝高句麗王として封じた。その冊書に曰く、

新羅王が高句麗の嗣子安勝に命を致す。きみの太祖中牟ちうむ王は、徳を北山に積み、功を南海に立て、威風は青丘に振るい、仁教は玄菟を被った。子孫は相継ぎて、本支とも絶えず、地を開くこと千里、年は八百にならんとした。男建・男産兄弟に至り、禍いは内輪に起こり、争いは血で血を洗い、祖国は破れて滅び、宗廟は潰えてしまった。人々は道に迷い、心のよりどころもない。公は危難を山野に避け、単身を隣国に投じた。難を避けることは晋の文侯に同じく、国を再興することは衛の侯爵に等しい。それ百姓には君主がなければならず、昊天には必ずなさけがある。先王の跡を嗣げるのは、ただ公だけだ。先祖の祭祀は、公でなくて誰がする。謹んで使者を遣わし、ついては公に策命を与えて高句麗王としよう。公は遺民を集めてよく知らしめ、宗家を継承し、永く善隣をなせ。兄弟同然につきあおう。よく慎みたまえよ」

 しかしこれは奇妙なことではないか。王を冊封するというのは、天子たる者の権能であって、一介の国王にすぎない文武王にはできるという原理がない。だから安勝は国際的には全く認知されない高句麗王だった。これは安勝の地位も生命もほとんど新羅王に依存することを意味する。文武王にとって、自分が認める高句麗王にすぎない安勝をどうするかは、その意思一つで決められる。つまり文武王は旧怨ある高句麗の遺民を懐柔するための手駒を得たのだ。

 翌咸亨二年にかけて、新羅軍は百済地方へ侵攻を続け、唐の正規兵とも交戦に及んだ。この時、かつて対高句麗戦で活躍し勇名をはせた薛仁貴せつじんくゐは、前年に吐蕃チベットとの戦争で大敗した責任によって、本来なら死罪の所を特に容赦されて免官となっていた。高宗は仁貴を再び起用して、鶏林道行軍総管に任命し、新羅へ差し向けた。鶏林とは新羅の別名であり、この名は新羅への進軍を意図している。

 秋七月、仁貴は文武王に書を送り、その非を問い道を外れることを惜しみ、行為を改めるように諭した。文武王は報書をしたため、先代からの唐とのよしみを挙げ、百済高句麗との戦争における新羅の功績を述べ、それについて評価が十分でないために国内に不満や危惧があることを訴えながら、だからとて叛意はないとし、直近の状況について伝える中でこう説く。

新羅百済は代々敵対しており、いま百済の形勢を見ると、自立して一国をなしているかのようで、百年の後、わが子孫が呑滅されないともかぎりません。新羅は全く皇帝の臣下となっており、両国が分かれている理由はありません。願わくば一家となり、長く後の憂いをなくしたいものです」

 そして今まで折り合いがつかず事情を申し上げられなかったことを詫び、叛逆とされるのは誤解だとして、あくまで恭順な姿勢を示した。文武王は中国的形式主義をうまく利用して鋭鋒を避けたのだ。唐としても新羅があくまで臣従するというなら攻撃の名分が立たないし、また本当は実力に自信がないので戦わずにすむならそれに越したことはない。

 しかし文武王は欲する所のものをあきらめるつもりはさらさらなかった。高句麗では高侃が率いる唐軍と高句麗遺民の反抗軍との戦いが続いていたし、十月には新羅も唐の船団七十艘ほどを攻撃し、兵船郎将の鉗耳大侯けむじたいこうと士卒百人あまりを捕らえ、水に没した死者は数えられないほどだった。

 さて、天智天皇が病気で床に臥し、もう治らないと思われたのは、ちょうどこの頃のことだった。(続く)

天武天皇評伝(十四) 藤原を散らす冬の風

 外交能力は最高の戦力である。ここ数年、倭国の朝廷は唐や高句麗などからの使節をいつも迎えている。丁度平壌城が陥落したかしないかの頃にも、近江の大津宮新羅からの使者金東厳こむとうごむが訪れた。この時は天智天皇の即位元年・唐の高宗の総章元年九月中旬。その下旬、中臣鎌足なかとみのかまたりからは新羅最大の功臣金庾信こむゆしん宛てに船一隻、天智天皇から文武王宛てにも船一隻を贈ることとし、東厳に預けられた。平壌城の陥落は、十月までには確かなこととして大津宮にも伝えられたらしい。東厳は十一月に帰国し、これに際して文武王へ絹五十匹・綿五百斤・革百枚を贈り、東厳ら使節団にもみやげが与えられた。また道守臣麻呂ちもりのおみまろ吉士小鮪きしのをしび新羅へ遣わされた。

 この時期の新羅の政治は極めて戦略的だった。そもそも半島がいつも不安定で紛争が多かったのは、この地域に三ヶ国が割拠し、互いに利害を争う所があったからである。今、百済高句麗は滅んだが、そこを唐が占領したのでは問題の解決にならない。ことの勢いは、新羅も滅ぶか、さもなくば唐を追い出すかに帰着する。文武王には早くからこのことが分かっていたに違いない。

 新羅が唐から離反する直接のきっかけは、対高句麗戦後の論功行賞にあった。唐は新羅の貢献を十分に評価しなかっただけでなく、行軍中の若干の行き違いによって新羅を問責する動きさえ見せた。これは唐の立場としては、法の正しい適用にすぎないとも言える。かつてはあの劉仁軌りうじんくゐさえ同様の理由で罷免されたことがあるし、今回の戦争でも劉仁願りうじんぐゑんが流刑に処されている。しかし文武王としてはこれは承服できない。またしかし、文武王はここで単純に憤りに任せてむやみな反抗はしない。

 唐の占領統治はうまくいかなかった。総章二年二月、もと高句麗高蔵かうさうの庶子、安勝あんしょうが、四千戸あまりの人々を率いて、新羅に身を投じた。文武王はこれを受け入れて保護した。高句麗の遺民には離反する者が多く、唐は騒乱を防ぐために三万八千戸もの住民を江州・淮州の南や山南・京西諸州の空き地に移住させる措置をとらなければならなかった。

 また、かつて百済鬼室福信くゐしちふくしんら反抗軍が鎮圧された後、高宗の勅命により、熊津うしん(こむなり)において劉仁願が立ち会い、もと王子の扶余隆ふよりゅうと文武王は、白馬を犠牲にして血をすすって誓い、領地の境界を画定して互いに侵さないことを約束した。しかし文武王の主張によると、総章元年、百済側からこれを破る動きがあり、国境の標識を動かし、新羅側の田地や奴婢を侵取し、百姓を誘引したりした。またこの頃、唐が軍船を修理し、それは倭国を征伐するためだとして、その実は新羅を打とうとしているのだという噂がたったという。文武王は唐との交渉を絶やさず形式的には恭順を示す一方、百済地方へ進出を始める。

 軍事力とは軍隊や兵士に関することだけではない。政治力、中でも外交能力は戦争の行方を左右する決定的要素の一つである。文武王は巧みな外交を展開して政治力の高さを発揮しはじめ、唐にとってにわかに新しい脅威としての姿を現してきた。こうした不穏な国際情勢の中にあって、時ならぬ風があたら咲きごろの花を吹き散らすように、天は一人の希有な人物を召そうとしていた。

 中臣鎌足が二度と癒えることのない病を患って床に伏したのは、この晩秋のことであったらしい。即位二年冬十月十日、天智天皇は親ら鎌足の私邸を見舞い、天帝に命を請うて効を求めた。しかし祈誓の甲斐なく、病はいよいよ重かった。そこで詔して曰わく、

「天の道理は仁を輔けるというが、それは嘘なのであろうか。積善の家には余慶ありというのに、どうして効験がないのであろう。余にできることがあれば、何でも申してみよ」

 鎌足の答えて曰く、

「臣はもういけませぬ。何を申し上げることがござりましょう。ただ死んだ後は、どうか厚く葬らないでくだされよ。生きていてもこの事態の役には立ちませぬのに、死んでさえ百姓に苦労をかけることはなりませぬぞ」

 言い終えると眠ってまた言葉を継ぐことがなかった。

 十五日、天智天皇大海人おほしあま皇子を鎌足の家に遣わし、詔を伝えて曰わく、

「はるかに前代を思うに、執政の臣は、時々世々、一二のみではないのだ。しかれども労を計り能をくらぶるに、だれも公にならぶに足りない。ただ朕が汝の身を寵するのみではないのだ。わが後嗣ぎの帝王とも、実に子孫までも恵むこと、忘れず遺さず、広く厚く酬い答えよう。この頃は病が重いと聞き、朕がこころはいよいよいたむ。汝が得るべき任になそう」

 かさねて大織の冠と大臣の位を授け、姓を賜って藤原ふぢはら氏とした。これにより鎌足藤原内大臣ふぢはらのうちつおほおみと通称される。

 十六日、藤原鎌足は再び日の光を見ることはなかった。時に五十六歳だった。天智天皇はこれにいたく慟哭し、朝堂を閉ざすこと九日に及んだ。そしてこの十二支一つ分ほど年上の功臣の死にあたって、自身の命があとどれだけあるかを思わないではなかっただろう。

 十九日、天皇藤原鎌足の家をおとない、恩詔を下して悲痛を述べ功績を讃えた。

「内大臣は思いがけず忽然と殂去した。どうして天よ、我が君子をほろぼしたのか。痛きかな悲しきかな、朕を棄てて遠く逝くこと。怪しきかな惜しきかな、朕に乖き永く離れること。別れを送る言葉も届かないとはこのことだ。
 日夜相携えて伴をなし、ことを任せて心配なく、言動に間違いはなかった。国家のことは、大小となくともに決し、八方ともやすく静まり、万民みなうれうことがない。これほどの讃辞を贈ってもまだ足りないのだ。ああそれなのにどうして。公が朝堂に説を献じれば、民には自ずから利となる。内裏に意見を交わせば、必ず朕と合う。これこそは千載一遇というものだ。周の文王が太公望を任じ、漢の高祖が張良を得たということも、どうしてわれら二人におよぼう。これだから朝晩手を握り、愛でて飽かず、出入りするに車を同じくして、遊んでも礼があった。
 大河をまだ渡りきらないのに、舟楫ふなかじは沈んでしまい、やっと大家の基をすえたばかりなのに、棟梁はかく折れてしまった。誰とともに国を統べ、誰とともに民を治めよう。この念に至るごとに、痛切なることいよいよ身にこたえる。
 ただ“無上の大聖でも避けられない”と聞き、それでわずかに痛みを慰め、やや安穏を得た。もし死者にも精神があり、まことに先帝と皇后にまみえ奉ることができたなら、聞かせよ、“我が先帝陛下は、平生の日、淡海あふみと平浦の宮地を遊覧されたこと、今も昔のままです”と。朕はこのものを見るごとに、見渡して心を傷めないということはないのだ。一歩も忘れず、一言も遺さず、仰いでは聖徳を望み、伏しては係恋を深くする。
 加えて、出家して仏に帰するには、必ず法具がある。それで純金の香炉を賜う。この香炉を持って、汝の誓願のとおり、観音菩薩くゎんおんぼさちの後より、兜率陀天とそちだてんの上まで、日々夜々、弥勒みろくの妙説を聴かせ、朝々夕々、真如しんにょの法輪を転じよう」

 鎌足は智謀の人、稀代の先覚者であって、しかもつねに主君の陰にあってこれに功を取らせた。そして、氏族の勢力を代表して政治に参与するのではなく、個人の才覚によって抜擢され活躍するという、この列島にあっては全く新しい人間の型を創った。しかるにその子孫が大貴族となり層をなして朝廷をほとんど占有したのは、決してこの人物の望んだことではなかっただろう。

 それにしても、大織冠を授けたときは、天皇は自身で行かず、弟に訪わせたというのは、何か深い意味があるのだろうか。やはり鎌足と大海人の間にはまだ確執があり、鎌足をはさんだ兄弟のわだかまりを解消する最後の機会となることを望んだのではないだろうか。もし弟がこの兄と心を一つにしてくれなければ、兄にとっては恐るべき結果が待っているかもしれないのだ。

 同じ冬、高祖・太宗・高宗の三代に仕えた唐初最大の労将、李勣りせきが病気にかかって容態は重かった。高宗は李家の子弟で都外にある者をことごとく召し帰して病床に付かせた。はじめ高宗と皇太子が薬を賜うと、勣はこれを取って服用していたが、家の者が医者を呼ぼうとすると、門に入れることを許さなかった。

「わしはもとただの田夫だのに、たまたま名君に用いられ、位は三公に到り、歳は八十を超えたこと、もう分を過ぎておるのじゃ。命は天に係るもの、どうして医術によって活を求めることがあろう」

 弟のひつが顔を見せると、

「今日は少し具合がよい。みなで酒でも呑みたいものじゃ」

 と語り、家族を集めてともに楽しんだが、遺言をするとまた伏して再び物を言うことがなかった。

 時代の節目に天は不思議と偉人の命を終えさせることがある。冬の風は飂々と空を吹き渡り、春の芽はまだ蕾を養っていた。(続く)

天武天皇評伝(十三) 高句麗の崩壊

 高句麗では、この三年ほど前、長く権柄を握った大臣の泉蓋蘇文ぜんかいすもん(いりかすみ)が卒去し、長子の男生なむしゃうが後を継いで国政を統べた。あるとき、男生は各地を巡察するため、その留守には弟の男建なむこん男産なむせんに国政を任せた。ところが男生が王都平壌城を出た後、ある人が男建らにこう告げ口をした。

「大臣はお二人が己の地位に迫るのを悪んで排除しようとしているのです。先手を打つに越したことはありませんぞ」

 男建らはまだこれを信じなかった。

 一方、男生の所へも告げ口をする人があって、

「弟がたは大臣の代理という地位に味を占めて、城を閉ざして貴公を追い出そうとしているのですぞ」

 と言った。そこで男生は間者を遣って平壌城の様子を覗わせたが、男建らはこれを知って捕らえ、ここに兄と弟が互いに互いを猜疑することとなった。男建らは宝蔵王の命令だとして男生を呼び寄せようとしたが、男生は偽計のあることを危惧して敢えて帰らなかった。男建らはついに兵を発してこれを討った。男生は逃げて国内城にこもって自ら守り、子の献誠こんじゃうを遣わして唐に降り、天子の慈悲を請うた。

 乾封元年六月、高宗は、鉄勒出身の秀才、右驍衛大将軍の契苾何力けいひつかりょくを遼東道安撫大使とし、兵を率いて男生を救援させた。また右金吾衛将軍の龐同善はうとうせんと営州都督の高侃かうかんをそれぞれ行軍総管とし、同じく高句麗を攻めさせた。この作戦は成功し、九月には男生が唐軍に合流した。高宗は詔して男生を特進・遼東大都督・平壌道安撫大使とし、玄菟郡公に封じた。またこの年には新羅の文武王も高句麗を討つため唐に出兵を請うた。高宗はいよいよこの機に乗じて高句麗を討ち滅ぼしてしまおうと決意を固めた。

 その冬、唐初三代の皇帝に仕えた老将、司空・英国公の李勣りせきが遼東道行軍大総管に任じられ、大いに軍を興して高句麗に押し寄せた。年末には蓋蘇文の弟浄土じゃうつらが十二城を以て新羅に来投し、新羅はそのうちの八城に軍を送り込んで確保することができた。

 この時代、「遼水を渡る」ということは高句麗に攻め入ることを意味した。遼水は、今、中華人民共和国の東北地方南部を流れる遼河である。李勣ははじめ遼水を渡るとき、

「新城というのは、高句麗西辺の要害じゃで、まずこれを陥とさねば、余りの城をば易々と取ることはできまいぞ」

 と諸将に語った。

 二年二月、勣は新城の西南に至り、山に拠って柵を築き、ここを根拠として、かつは攻めかつは守りして戦った。やがて城中が窮迫すると、数々投降する者があり、九月になると、ついに城主を縛り門を開いて降伏した。勣はさらに兵を進めて他の十六城をも下した。男建は新城を奪回しようとして軍を送ったものの、殿軍を務める左武衛将軍の薛仁貴せつじんくゐがこれを破ったので失敗した。

 これとは別に、積利道行軍総管の郭待封くゎくたいほうは、水軍を率いて海から平壌城へ向かった。李勣は馮師本ほうしほんを別将として待封へ食糧や兵仗を補給しようとした。しかし師本の船が難破したので期を失い、待封の軍中は困窮した。待封は勣につなぎを付けようと思ったが、敵に知られることを恐れて、詩に暗号を隠して送った。勣はこれを受け取って、その意を汲まず、

「なんでこの軍事の急なときに、詩など作るのじゃ。必ず斬ってくれよう!」

 と怒ったが、舎人の元万頃ぐゑんばんけいがその義を解釈して取りなしたので、再び糧杖を送ることとした。しかし結局、通信が漏れて鴨緑水で迎え撃ちにされ、うまくいかなかった。

 十月、勣は自ら平壌城の北二百里に到った。南からは百済鎮将の劉仁願りうじんぐゑんらが新羅兵を併せて平壌に迫っていた。勣は新羅の文武王とも連絡して作戦を打ち合わせたものの、冬のことで寒気が入り、十一月になると一旦兵を引き返した。十二月、高宗は仁願を通して文武王に大将軍の旗印を授けた。

 翌総章元年一月、かつて白江で倭の水軍を破った名将で、このとき右相になっていた劉仁軌りうじんくゐが、遼東道副大総管兼安撫大使・浿江道行軍総管に任じられ、李勣を補佐することとなった。

 二月、薛仁貴は金山の会戦で高句麗軍を破り、勢いに乗って三千人を率い扶余城に寄せた。諸将は兵が少ないからというので城攻めには反対した。そこで仁貴は、

「兵はなにも多数が必要だとは限らぬ。むしろ用兵の如何によるのだ」

 と言って、先鋒となって進み、敵を大いに破って、ついに扶余城を抜き、戦果は殺獲する者一万人余りと宣伝した。扶余地方の四十城余りは戦わずしてみな降伏を請うた。

 この頃、侍御史の賈言忠こげんちゅうは連絡のため前線から東都洛陽に還り、高宗は戦況について訊ねた。言忠が「高句麗は必ず平定できます」と言うと、高宗はかさねて「君はなぜそれが分かるのかね?」と問うた。言忠は答えた。

「隋の煬帝が東征して勝てなかったのは、人心が離れ怨まれていたからであります。
 我が先帝の問罪之師つみをとういくさが志を得なかったのは、高句麗がまだ盤石だったからであります。
 今、高句麗王は微弱で、権臣が専断しましたが、その蓋蘇文も死に、跡継ぎの兄弟は不仲です。それで男生は心を傾けて内附し、我が郷導となったので、敵の内情は尽く我が方に知れております。陛下の明聖のおかげをもちまして、国家は富強となり、将士は尽力しており、それで高句麗の乱に乗じたのですから、この度は必ず成功すると申し上げたのです。
 そしてまた、『高句麗秘記』という書物には、“九百年に及ばずして、八十の大将がこれを滅ぼすだろう”とあります。高句麗は漢のときから国があって、いま九百年になろうとしており、李勣は歳が八十であります。
 さらに、高句麗は連年飢饉で、妖異がしばしば起こり、人心は恐れおののいておりまして、その滅亡はすぐそこまで来ておりましょう」

 高宗はまた「遼東の諸将では誰が優れているかね?」と問うた。言忠が答えて、

「薛仁貴の勇は三軍に冠たるものであります。
 龐同善は闘いはうまくないといっても、軍を主持することは厳整としたものです。
 高侃はまじめで判断ができ、忠勤果敢で智謀もあります。
 契苾何力は沈毅にして能く断じ、やや前進をためらう所はありながら、統御の才能を持っております。
 しかしながら、朝から晩まで心を配り、身を忘れて国を憂うことでは、みな李勣には及びますまい」

 と述べると、高宗はこれを深く然りとした。

 前線では、男建が扶余城を奪回しようとして五万人と号する兵を出したが、今度は勣らが薩賀水のほとりでこれ迎え撃ち、斬首五千・捕虜三万、戦利品の数もこれに準じた。勣はさらに進んで大行城を攻め、これを抜いた。

 六月、文武王は弟の金仁問こむにんもんを遣わして劉仁軌を迎え、二十万と号する大軍を繰り出して唐軍に加勢した。

 秋までに唐・新羅の諸軍は各地で勝利を重ね、何力がまず平壌城下に至り、勣がこれに継いだ。九月、包囲すること一月余りにして、宝蔵王は男産らを遣わして白旗を持たせ降伏を請い、勣は礼を以てこれに接した。しかし男建はなお門を閉ざして城を守り、頻りに兵を出して戦いを挑んだが、そのたびに敗れた。男建のもとで軍事を総管していた僧信誠しんじゃうは、密かに人を遣って勣と内通した。後五日して、信誠は門を開き、よって勣は兵を入れ、鼓を鳴らしつつ城に登り、門楼を焼いた。四面に火が起こり、男建は窮迫して自刃したが死ねなかった。ついに平壌城は陥落し、宝蔵王こと高蔵かうざうや男建も捕らえられた。

 高句麗は、東夷諸国第一の大国であり、その中で最も領域的国家としての歴史が古く、中国が漢末から中世的混沌に陥って以来は、東アジア全体でも最も安定した勢力を長く維持した。北朝の圧力によく耐え、隋唐の度重なる侵攻もはねのけた。しかしどんな強国にも命数の尽きるときは来る。そういうときには政治が乱れて秩序が狂い、内側から国を潰して他人にくれてしまうものだ。

 一方で唐は、連戦して連敗を喫してきた高句麗をようやく倒したとはいえ、敵の自滅に乗じた上、新羅から多大な援助を受けなければ成功を得られなかった。その実情に触れる機会の多かった文武王や金仁問らにとっては、唐の軍事的実力の限界を見抜き、意を決する所があったかもしれない。

 十二月、高宗は京師長安において高句麗の捕虜を引見し、高蔵は脅制されていただけだとして、特に恩赦して司平太常伯を授けた。泉男産には司宰少卿、僧信誠には銀青光禄大夫、男生には右衛大将軍が与えられ、男建だけは黔州に流罪とされた。高句麗の五部・百七十六城・六十九万戸余りは、九都督府・四十二州・百県とし、安東都護府平壌に置いて統治することとした。

 この年は天智天皇の即位元年に当たる。(続く)

天武天皇評伝(十二) 近江の朝廷

 天智天皇の即位元年は、唐は高宗の総章元年、新羅は文武王の八年、高句麗は宝蔵王の二十七年に当たる。

 天智天皇は、かつて抹殺した古人大兄ふるひとのおほえ王子の息女、倭姫王やまとのひめおほきみを皇后とした。『日本書紀』による限り、王族から娶った妃はこの一人だけで、子はなかった。

 側室には名族出身の女性四人があった。

 妃造媛みやつこひめは、大化五年に父蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかはのまろの事件によって憤死し、大田おほた皇女・鸕野うの皇女・たける皇子の二女一男を遺していた。このうち建は八歳で夭折し、大田も、大海人おほしあま皇子の室に入っていたが、この一年ほど前に物故している。鸕野はやはり大海人に嫁ぎ、この三子の中でただひとり長く生きた。

 造媛の妹姪娘めひのいらつめは、御名部みなべ皇女と阿倍あへ皇女を産んだ。阿倍は、大海人と鸕野の間に生まれた草壁皇子の妃になる。

 妃橘娘たちばなのいらつめは、故阿倍倉梯麻呂あへのくらはしまろの息女で、飛鳥あすか皇女と新田部にひたべ皇女を産んだ。新田部も大海人の妃になる。

 妃常陸ひたちのいらつめは、蘇我赤兄そがのあかえの息女で、山辺やまのへ皇女を産んだ。山辺は、大海人と大田の間に生まれた大津皇子の妃になる。

 また女官を召して子を産ませた者は四人あった。

 忍海造小竜をしぬみのみやつこをたつの息女、色夫古娘しこぶこのいらつめは、大江おほえ皇女・川嶋かはしま皇子・いづみ皇女を産んだ。

 栗隈首徳万くるくまのおびととこまろの息女、黒媛娘くろめのいらつめは、水主もひとり皇女を産んだ。

 越道君伊羅都売こしのみちのきみいらつめは、施基しき皇子を産んだ。

 伊賀采女宅子娘いがのうねめやかこのいらつめに生まれたのは、大友おほとも皇子である。

 『続日本紀』によると、他に三人ほどの男子があったと思われるが、詳しくは伝わっていない。

 この他に、額田姫王ぬかたのおほきみという女性があり、はじめ大海人の妃となっていたが、後に天智天皇の室に入ったといわれる。その時期や事情について詳しくは分からない。額田と大海人の間には十市とをち皇女が生まれていた。十市は大友皇子の妃になっていて、母子ともに天智一家に入ったことになる。額田と天智の間に子はなかった。

 この年の五月五日、天智天皇は、琵琶湖の東、蒲生野かまふのに遊猟し、大海人をはじめ諸王、中臣鎌足ら群臣がそろって供をした。この時に額田姫王が詠んだという歌が『万葉集』に収められている。

  茜草指あかねさす 武良前野逝むらさきのゆき 標野行しめのゆき 野守者不見哉のもりはみずや 君之袖布流きみがそでふる(あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖ふる)

 大海人皇子がこれに答えて、

  紫草能むらさきの 尓保敝類妹乎にほへるいもを 尓苦久有者にくくあらば 人嬬故尓ひとづまゆゑに 吾恋目八方われこひめやも(むらさきの 匂へる妹を 憎くあらば 人妻故に 吾れ恋ひめやも)

 と詠んだ。

 またこれもこの時期のことであるはずだが、天智天皇は、琵琶湖の浜に築いた楼観で酒宴を催した。宴もたけなわ、大いに酒興が乗って歓を極めた頃、どうしたことか、大海人皇子は長ほこを執って、敷板を刺し貫いた。天智天皇はこれに喫驚して大いに怒り、あるいは死罪を命じようかというくらいの剣幕であったところ、中臣鎌足が固く諫めたのですぐに思いとどまった。大海人は鎌足の処遇が高いことを憎んでいたが、これより後はすっかり見直して重んじるようになったという。このことは『藤氏家伝』に記されている。

 やや想像を広げると、常に兄の傍らにあって政略をともにする鎌足に対して、そこは本当は自分の居場所なのに、という怒りを大海人は持っていたのだろう。もしそうなら、それは鎌足を重く用いる兄への複雑な感情ともなり、長い間、鬱積していたはずだ。家伝の語るごとく、この一件で本当に気持ちがほぐれたのだろうか。

 この複雑さを潜ませた兄弟関係の中に、大友皇子が存在感を増してきたのも、この頃のことになる。大友皇子は、『懐風藻』によると、壬申の乱の時に二十五歳とあるから、天智天皇の即位元年には二十歳。敗戦後、百済系の貴族や僧侶などが倭国の宮廷に仕えるようになった時期に、十代の多感な数年間を過ごした。沙宅紹明さたくぜうみゃう木素貴子もくすくゐし答本春初たふほんしゅんそ吉大尚きちだいじゃう許率母こそちもといった高名な百済人が大友と親しく交際した。紹明は法制度、貴子と春初は兵法、大尚は医薬、率母は儒学に詳しく、大友に学識を授けたらしい。これはもちろん父の指図によるものだったのだろう。

 大友皇子については、諸書の記述に不可解な点がある。大友は『懐風藻』によると歳が「弱冠」で太政大臣に任じられ、二十三歳のとき皇太子に立てられたという。「弱冠」とは二十歳を指す。しかし『日本書紀』では大友が太政大臣になるのは、天智天皇の最晩年のことだから、二十四歳のはずで、一致しない。

 また書紀では、天智即位元年に大海人皇子が「東宮」に立てられたことになっている。「東宮」とは、古代中国で太子の居処を王宮の東側に建てるのが常例であったことから、皇太子を指す代名詞である。太子を立てるというのは、あらかじめ王者の後継者を指名することによって、王者の死後に継承争いが起きるのを防ぐための制度だから、同時に二人の皇太子がいたはずはない。もし両書のどちらもが真であるとすれば、大海人は皇太子を廃されたことになる。あるいはどちらもが偽であるのかもしれない。歴史の上にも化かし合いということがある。

 ただ天智天皇大友皇子に次世代の天皇として期待をかけていたのは確かで、そのことは大海人の心情だけではなく、当時の政治に関与する人々の多くに、やや不安を伴う波紋を広げなかったかどうか。

 ときに、近江の宮廷では漢詩が流行した。大友皇子の小品二首が『懐風藻』に収められている。

  五言 侍宴 一絶
   皇明光日月 帝德載天地(皇明は日月のごとかかやき 帝徳は天地にちる)
   三才並泰昌 萬國表臣義(三才〔天・地・人〕は並びに泰昌やすらがしく 万国は臣義を表す)

  五言 述懷 一絶
   道德承天訓 鹽梅寄真宰(道徳は天訓を承け 塩梅えんばい〔諸臣の補佐〕は真宰〔天子の政治〕に寄する)
   羞無監撫術 安能臨四海(監撫の術が無きことをじ いずくんぞ能く四海に臨まん)

 この詩は特に上手というものではないようだが、新しい文化に触りたてというみずみずしさがある。

 同じ頃、天智天皇が「春山の万花の艶と秋山の千葉の彩ではどちらが美しいか」という題を出し、額田姫王が和歌によって答えた。これは『万葉集』に載っている。

  冬木盛ふゆごもり 春去来者はるさりくれば 不喧有之なかざりし 鳥毛来鳴奴とりもきなきぬ 不開有之さかざりし 花毛佐家礼杼はなもさけれど 山乎茂やまをしげみ 入而毛不取いりてもとらず 草深くさふかみ 執手母不見とりてもみず 秋山乃あきやまの 木葉乎見而者このはをみては 黄葉乎婆もみぢをば 取而曽思努布とりてそしのふ 青乎者あをきをば 置而曽歎久おきてそなげく 曽許之恨之そこしうらめし 秋山吾者あきやまわれは(冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 執りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山吾は)

 外来文化の刺戟によって在来文化の自覚と洗練も進み、ようやくここに日本らしいものが姿を現しつつあった。(続く)

天武天皇評伝(十一) 天皇の誕生

 白村江の会戦より前、皇極王が没した後、中大兄王子なかのおほえのみこは太子のままで「称制」し、七年目になってようやく位を継いだ。『日本書紀』にはそう書いてある。ここで言う「制」とは皇帝の発する命令のことで、「制を称する」とはその位にないものが皇帝になりかわって命令を発することである。しかしこの非常の時に丸六年も位を空けていたというのはちょっと信じがたい。おそらくはじめは倭王として位を継ぎ、七年目に号を改めて天皇と称したのではないだろうか。この年にはいわゆる近江令が制定されたと伝えられており、この中で初めて天皇号の使用が明文化されたのではないか。書紀には天皇制の成立に関係する事件については沈黙するという一貫した方針があったために、この間の事情がよく分からなくなってしまったのではないかと思われる。


 ともかくもその称制の二年は、唐の高宗の竜朔三年に当たり、白村江の会戦の後、余自信よじしん木素貴子もくそくゐし谷那晋首こくなしんす憶礼福留おくらいふくるなどといった百済のおもだった貴族や多数の難民が日本列島にやってきた。彼らは義慈王のように唐に投降することもできた。だから“倭王”中大兄にとっては、これら大勢の亡命者を受け入れたことは、高宗よりも自分の方の徳が彼らを引き寄せたのだということになる。戦死した人々にとっては何にもならないこととはいえ、勝算のない戦争から中大兄が得た利益は小さくなかった。しかしこんなことは大いに政治的な危険を伴う。さらに打つ手がなくてはならない。

 出兵の失敗という結果を受けて中大兄が最初にした大きな仕事は、書紀の記述による限り、称制三年二月、従来の十九階制の冠位を改めて二十六階制にすること、及び、「氏上このかみ民部かきべ家部やかべ等」についてのことだった。氏上とはいわゆる氏族の長のことで、この時に氏族を大小に分け、その資格の証として大小の刀などを与えるということが定められた。これまでは、各々の勢力の差によって、事実上、氏族の序列が決まっていたものが、これからは、王権の認知によって、その序列が制度化されることとなった。この制度は後に天武朝で“八色の姓”としてより細分化される。

 また民部・家部というのは、各々の氏族が持つ領民を指しているのだとすると、これは大化以来の改革で、少なくとも建前としては、廃止されてきたはずのものである。長く続けられてきた、倭王が列島諸国の全ての土地と人民を直接統治するという改革の方向からすると、これを回復させるというのは後退であるに違いない。だが改革を実現するには常に妥協することが必要だ。妥協の機微というものが分からなければ真の改革者にはなれない。領民の一部回復を、王者の側から与えるという形式によって認めることは、建前としては一歩後退でも、実質的には王権の強化を半歩は進めることになったと言えるかもしれない。この点においてこの時期の中大兄は確かに優れた改革派の政治家だった。

 そして、これらの政策は、「大皇弟に命じて」宣言させたとある。大皇弟とは大海人王子おほしあまのみこを指す独特の用語の一つであり、後の天武天皇がここに至ってようやく歴史上に具体的な姿を現したのである。

 またこの年には、「対馬つしま壱岐いきのしま筑紫国つくしのくに等にはさきもりすすみ(とぶひ)を置く。又筑紫には大堤を築いて水を貯え、名づけて水城みづきと曰う」といったことも始められた。この事業は翌年以降順次拡大され、倭国やまとのくにから西の各国の要衝に「」が築かれた。これらの築城には亡命百済人の技術が導入された。

 このように百済系の王族や貴族は中大兄の政治に協力することになったが、その他大勢の難民の処遇については、称制四年二月に「百済の百姓男女四百人を近江国あふみのくに神前かむさき郡にく」、五年冬に「百済の男女二千余人を東国あづまのくにに居く」、また即位二年に「男女七百余人を近江国蒲生かまふ郡に遷し居く」などと見える。記録に漏れたものもあるとして、その総数を約五千人と見積もり、人口比で換算すると、おそらく今の十万人以上に相当する。彼らは日本人の血を構成する一部となった。

 冠位の改制や、氏族勢力との妥協、海外からの侵攻を意識した軍事政策は、敗戦後の動揺を防ぐのと同時に、亡命者をも組み入れて倭王を頂点とする体制を強化していこうとするものだった。各地の築城には、現にそれを必要とする脅威があるというよりは、むしろ出兵によって実証された王権の動員力を維持し恒久化していこうとする狙いがひそんでいた。脅威があることにするのも政治技術というものだ。

 ではこの時期の唐との関係はどうだったか。唐からは、称制三年・四年・五年・六年と毎年、百済鎮将の劉仁願乃至唐本国からの使者を迎えている。倭国からは四年に遣唐使が送られている。この中でどんな交渉が行われたのかはよく分からないが、すぐ戦争になるというほどの緊張した感じでは必ずしもなかったらしい。唐としてはまだ本丸の高句麗を落としていないので、百済での敵対行為を責めるよりむしろ協力を取り付けたかったのだろうか。高宗の乾封元年、中大兄の称制五年、唐は高句麗の内紛に乗じて進軍を開始する。

 こうして敗戦後のほぼ四年間を切り抜けることができた中大兄は、称制六年三月、ついに近江国大津宮おほつのみやへの遷都を敢行する。琵琶湖の近辺は、北は若狭湾、南は伊勢湾、東は東山道に通じ、西は大阪湾へも決して不便ではない。東西交通の結節点としては、やや西に向きすぎている倭国やまとのくにに比べ、列島諸国の中心にふさわしい。また、より官僚主義的な体制を構築するため、倭国やまとのくにの地理的条件と結びついた古い氏族主義的な政治構造から脱却することが大きな狙いだった。

 ただこれは王権を支えている貴族たちにしてみれば大変迷惑な事業でもあった。彼らの多くは倭国やまとのくにに生活の根拠を持っている。まだ新しい体制はできていないのに、暮らしを成り立たせている土地から離れなければならないのだ。遷都によって改革は一挙に進められる可能性もあったが、王権がその権力の基盤から浮き上がってしまう恐れもある。

 兄は中庸を失って理想に邁進する方へ傾きすぎているのではないか。成功を急ぎすぎているのではないか。弟であるために権力の中枢からやや外れていた大海人は事態を兄よりもいくらか客観的に見ることができただろうか。

 新時代への期待と不安が入り交じる中で、翌年正月三日、中大兄は大津宮天皇の位に即いた。これが天智天皇である。


 この年に成ったとされるいわゆる近江令のことは、書紀にはそれと思われるふしがあるだけだが、後に藤原冬嗣が書いた弘仁格式の序に、立法の沿革を述べ、「降って天智天皇の元年に至り、令廿二巻を制する。世の人の所謂近江朝庭の令である」と記されている。『藤氏家伝』には中臣鎌足が「律令」を作ったとあるが、おそらく鎌足を持ち上げようとする誇大な修辞であり、律に当たるものはまだなかった。もしこの近江令の中で天皇号の使用が初めて規定されたとすると、書紀には近江令について明記されていないことと、書紀が天皇制の成立過程をぼかそうとしていること、それに天智天皇がこの年まで即位しなかったとされている不思議が符合する。考えられる他の場合にはこうした条件がないとすれば、天智天皇が最初の天皇である蓋然性が高い。(続く)