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天武天皇評伝(十一) 天皇の誕生

 白村江の会戦より前、皇極王が没した後、中大兄王子なかのおほえのみこは太子のままで「称制」し、七年目になってようやく位を継いだ。『日本書紀』にはそう書いてある。ここで言う「制」とは皇帝の発する命令のことで、「制を称する」とはその位にないものが皇帝になりかわって命令を発することである。しかしこの非常の時に丸六年も位を空けていたというのはちょっと信じがたい。おそらくはじめは倭王として位を継ぎ、七年目に号を改めて天皇と称したのではないだろうか。この年にはいわゆる近江令が制定されたと伝えられており、この中で初めて天皇号の使用が明文化されたのではないか。書紀には天皇制の成立に関係する事件については沈黙するという一貫した方針があったために、この間の事情がよく分からなくなってしまったのではないかと思われる。


 ともかくもその称制の二年は、唐の高宗の竜朔三年に当たり、白村江の会戦の後、余自信よじしん木素貴子もくそくゐし谷那晋首こくなしんす憶礼福留おくらいふくるなどといった百済のおもだった貴族や多数の難民が日本列島にやってきた。彼らは義慈王のように唐に投降することもできた。だから“倭王”中大兄にとっては、これら大勢の亡命者を受け入れたことは、高宗よりも自分の方の徳が彼らを引き寄せたのだということになる。戦死した人々にとっては何にもならないこととはいえ、勝算のない戦争から中大兄が得た利益は小さくなかった。しかしこんなことは大いに政治的な危険を伴う。さらに打つ手がなくてはならない。

 出兵の失敗という結果を受けて中大兄が最初にした大きな仕事は、書紀の記述による限り、称制三年二月、従来の十九階制の冠位を改めて二十六階制にすること、及び、「氏上このかみ民部かきべ家部やかべ等」についてのことだった。氏上とはいわゆる氏族の長のことで、この時に氏族を大小に分け、その資格の証として大小の刀などを与えるということが定められた。これまでは、各々の勢力の差によって、事実上、氏族の序列が決まっていたものが、これからは、王権の認知によって、その序列が制度化されることとなった。この制度は後に天武朝で“八色の姓”としてより細分化される。

 また民部・家部というのは、各々の氏族が持つ領民を指しているのだとすると、これは大化以来の改革で、少なくとも建前としては、廃止されてきたはずのものである。長く続けられてきた、倭王が列島諸国の全ての土地と人民を直接統治するという改革の方向からすると、これを回復させるというのは後退であるに違いない。だが改革を実現するには常に妥協することが必要だ。妥協の機微というものが分からなければ真の改革者にはなれない。領民の一部回復を、王者の側から与えるという形式によって認めることは、建前としては一歩後退でも、実質的には王権の強化を半歩は進めることになったと言えるかもしれない。この点においてこの時期の中大兄は確かに優れた改革派の政治家だった。

 そして、これらの政策は、「大皇弟に命じて」宣言させたとある。大皇弟とは大海人王子おほしあまのみこを指す独特の用語の一つであり、後の天武天皇がここに至ってようやく歴史上に具体的な姿を現したのである。

 またこの年には、「対馬つしま壱岐いきのしま筑紫国つくしのくに等にはさきもりすすみ(とぶひ)を置く。又筑紫には大堤を築いて水を貯え、名づけて水城みづきと曰う」といったことも始められた。この事業は翌年以降順次拡大され、倭国やまとのくにから西の各国の要衝に「」が築かれた。これらの築城には亡命百済人の技術が導入された。

 このように百済系の王族や貴族は中大兄の政治に協力することになったが、その他大勢の難民の処遇については、称制四年二月に「百済の百姓男女四百人を近江国あふみのくに神前かむさき郡にく」、五年冬に「百済の男女二千余人を東国あづまのくにに居く」、また即位二年に「男女七百余人を近江国蒲生かまふ郡に遷し居く」などと見える。記録に漏れたものもあるとして、その総数を約五千人と見積もり、人口比で換算すると、おそらく今の十万人以上に相当する。彼らは日本人の血を構成する一部となった。

 冠位の改制や、氏族勢力との妥協、海外からの侵攻を意識した軍事政策は、敗戦後の動揺を防ぐのと同時に、亡命者をも組み入れて倭王を頂点とする体制を強化していこうとするものだった。各地の築城には、現にそれを必要とする脅威があるというよりは、むしろ出兵によって実証された王権の動員力を維持し恒久化していこうとする狙いがひそんでいた。脅威があることにするのも政治技術というものだ。

 ではこの時期の唐との関係はどうだったか。唐からは、称制三年・四年・五年・六年と毎年、百済鎮将の劉仁願乃至唐本国からの使者を迎えている。倭国からは四年に遣唐使が送られている。この中でどんな交渉が行われたのかはよく分からないが、すぐ戦争になるというほどの緊張した感じでは必ずしもなかったらしい。唐としてはまだ本丸の高句麗を落としていないので、百済での敵対行為を責めるよりむしろ協力を取り付けたかったのだろうか。高宗の乾封元年、中大兄の称制五年、唐は高句麗の内紛に乗じて進軍を開始する。

 こうして敗戦後のほぼ四年間を切り抜けることができた中大兄は、称制六年三月、ついに近江国大津宮おほつのみやへの遷都を敢行する。琵琶湖の近辺は、北は若狭湾、南は伊勢湾、東は東山道に通じ、西は大阪湾へも決して不便ではない。東西交通の結節点としては、やや西に向きすぎている倭国やまとのくにに比べ、列島諸国の中心にふさわしい。また、より官僚主義的な体制を構築するため、倭国やまとのくにの地理的条件と結びついた古い氏族主義的な政治構造から脱却することが大きな狙いだった。

 ただこれは王権を支えている貴族たちにしてみれば大変迷惑な事業でもあった。彼らの多くは倭国やまとのくにに生活の根拠を持っている。まだ新しい体制はできていないのに、暮らしを成り立たせている土地から離れなければならないのだ。遷都によって改革は一挙に進められる可能性もあったが、王権がその権力の基盤から浮き上がってしまう恐れもある。

 兄は中庸を失って理想に邁進する方へ傾きすぎているのではないか。成功を急ぎすぎているのではないか。弟であるために権力の中枢からやや外れていた大海人は事態を兄よりもいくらか客観的に見ることができただろうか。

 新時代への期待と不安が入り交じる中で、翌年正月三日、中大兄は大津宮天皇の位に即いた。これが天智天皇である。


 この年に成ったとされるいわゆる近江令のことは、書紀にはそれと思われるふしがあるだけだが、後に藤原冬嗣が書いた弘仁格式の序に、立法の沿革を述べ、「降って天智天皇の元年に至り、令廿二巻を制する。世の人の所謂近江朝庭の令である」と記されている。『藤氏家伝』には中臣鎌足が「律令」を作ったとあるが、おそらく鎌足を持ち上げようとする誇大な修辞であり、律に当たるものはまだなかった。もしこの近江令の中で天皇号の使用が初めて規定されたとすると、書紀には近江令について明記されていないことと、書紀が天皇制の成立過程をぼかそうとしていること、それに天智天皇がこの年まで即位しなかったとされている不思議が符合する。考えられる他の場合にはこうした条件がないとすれば、天智天皇が最初の天皇である蓋然性が高い。(続く)

天武天皇評伝(十) 白村江に散る

 唐の高宗の顕慶五年九月、唐の大将蘇定方そていほう義慈王らを捕虜にして帰国すると、百済の遺臣鬼室福信きしつふくしんらの率いる反抗軍は、鎮将劉仁願りゅうじんがんの留まる旧都泗沘しひ城を攻めた。仁願が泗沘城に駐まる唐と新羅の兵を指揮して反撃したが、反抗軍は泗沘南方の嶺に砦を築いてなお隙を覗った。十月、新羅の武烈王は、自ら軍を率いて仁願を助け、南嶺の砦を攻略したものの、十一月になると高句麗の侵攻を受けて防戦のために帰国した。

 翌竜朔元年春、福信らはまた泗沘城を囲んだ。唐は行軍中の手落ちで罷免されていた劉仁軌りゅうじんきを帯方州刺史として遣わし、劉仁軌は途上で新羅軍と合流して仁願を救った。転戦して進むに、仁軌の軍容は整粛としており、向かうところはみな下した。福信らは泗沘城の囲いを解いて拠点に退いたとはいえ、仁軌もさらに追ってこれを討つことはできなかった。百済兵の意気は盛んで、唐の占領を脅かすかに見えた。

 六月、武烈王は薨去し、戦争の行方を見届けることはできなかった。武烈王は新羅の王権拡張と国益確保のために生涯を捧げ、韓国の歴史に忘れられることのない業績を刻んだ。子の法敏ほうびんが位を継いだが、これが文武王である。

 七月、倭の皇極王が殂去し、中大兄なかのおほえ王子が政治を執った。鬼室福信から王子豊璋を帰国させてほしいという要請があったのは、前年十月のことで、それはこの年の九月になってようやく実現することとなった。中大兄は豊璋に織冠を授け、多臣蒋敷おほのおみこもしきの妹を妻として与えた。大化五年に制定された十九階冠位では第一位を大織、第二位を小織とする。狹井連檳榔さゐのむらじあぢまさ秦造田来津はだのみやつこたくつが五千余りと号する軍団を率いて豊璋を護送した。福信は豊璋を迎え、稽首して王に立てた。

 竜朔元年夏から二年春にかけて、唐と新羅は主力を高句麗に向けて深く攻め入ったものの大功はなかった。泗沘城の仁願が孤立したのを見て、福信は使者を遣わしてこれを訪い、

「大使らはいつ西へ還られるのですか。そのときは送ってさしあげましょうが」

 と言ったほどで、勢いに乗ってやや勢力圏を広げた。倭国からも断続的に援兵や物資が届けられた。

 しかし七月になると、仁願・仁軌は反攻に転じ、熊津ゆうしんの東で福信の軍を破り、支羅しら城・いん城や大山たいさん沙井させいなどの柵を落とし、これを奪い返した。福信らは錦江に臨み高く険しい要衝である真峴しんけん城に退き、ここに兵を加えて守りを固めた。仁軌は新羅兵を指揮して夜闇に乗じて城壁を登らせ、明け方に城内へ侵入して百済兵を斬った。文武王もこれに呼応して将軍欽純きんしゅんらを遣わし、内斯只だいしし城を破ったので、新羅から泗沘に兵糧を送ることができるようになった。三年二月にも欽純らが兵を率いて百済居列きょれつ城・居勿きょぶつ城・沙平さへい城・德安とくあん城を下した。

 鬼室福信はすぐれた将軍であり、軍政を一手に裁いてよく働いた。豊璋はせっかく三十年ぶりで帰郷したのに、王として担がれているだけで別にすることもなかった。戦況が有利に見えた間はそれでもよかったが、事態が不利に傾いてくると、不安な環境に置かれた人間の弱さが表れてきた。豊璋は福信を疑うようになった。

 ある日、福信が体調を崩して寝室に臥せっていると、豊璋は自分が見舞いに行ったところを福信が待ち伏せて殺そうとしているのだという信念にとりつかれた。かえって寝室を襲って福信を捕らえたものの、互いに顔を見るとまた疑いが揺らいできた。そこで諸臣に問うて曰く、

「福信の罪はこのとおりだが、どうしたらよかろう」

 答えて、福信より位が一等下で徳執得とくしゅうとくという者があり、斬刑に処することを勧めた。福信は執得に唾して、

「この腐れ犬のばかものめ!」

 と怒鳴ったが、豊璋はついに福信を殺してしまった。父の義慈王が諫臣の策を用いずに国を滅ぼした失敗をくりかえしてしまったのだ。これが六月のことである。

 この頃、仁願は本国に増援を請い、高宗は右威衛将軍の孫仁師そんじんしを熊津道行軍総管とし、海を越えて七千人と号する兵を送った。百済側はこれを中路で遮ろうとしたが、仁師は突破して仁願と合流できた。そこで諸将を集めて会議を開いた。ある人の曰く、

加林かりん城は水陸両路の要衝だによって、まず撃ち破りとうござる」

 仁軌の曰く、

「兵法は実を避けて虚を撃つもの。加林は険にして固なれば、攻めれば戦士を損ない、破るにも日がかかる。周留する城は敵の本拠であるから、首領どもが集まっておる。これに克てば諸城はおのずと下るであろう」

 秋八月、仁願・仁師に文武王も合流して陸軍を帥い周留城を目指した。仁軌は水軍と糧船を率いて熊津から錦江を下った。この水軍には唐に投降したもとの百済太子扶余隆ふよりゅうも同行していた。錦江が海に注ぐ河口のあたりが白江で、また白村江はくすきのえとも呼ぶ。丁度豊璋の要請に応じた倭の水軍が白村江に集結しつつあった。名将仁軌の指揮で陣列の整った唐の水軍は倭兵と四度会戦して全勝し、その船四百艘を焼いた。火煙は天に漲り、海水は赤く染まった。味方が潰滅する中、田来津は歯を噛んで怒りを眼に表し、数十人を斬ったというが、ついに戦死した。戦争は個人の努力でどうにもなるものではない。始めから勝算のない戦争なのだった。

 やがて周留城も陥落し、王族の忠勝ちゅうしょう忠志ちゅうしや反抗戦に従事した韓・倭の人々は捕虜となった。逃げ散った倭の水軍や他の王族・貴族は数千人の難民を連れて海峡を南へ向かった。豊璋は北へ逃げたといわれるがそのまま行方知れずとなった。(続く)

天武天皇評伝(九) 百済の黄昏

 唐の高宗の永徽五年、新羅の真徳王が薨去し、孫の春秋が立って王となった。これが武烈王で、また新羅の太宗とも呼ばれる。この年は倭の白雉五年に当たる。武烈王は明年、高句麗百済が結んで新羅の三十城あまりを奪ったとして唐に訴えた。高宗は営州都督のてい名振めいしん・左衛中郎将の定方ていほうを遣わし、兵を率いて高句麗を攻めたが、思わしい戦果はなかった。三年後の顕慶三年、また程名振らが高句麗を攻めて敗れた。この時まで唐は高句麗に対して連戦連敗、全くいいところがなかった。

 高宗はそこでようやく、高句麗と正面から対決するという、天下の大王者らしい作戦を捨てた。高句麗はさておいて、まず百済から攻め落とす計画を立てた。百済は東夷諸国の中で最も不利な地位に陥っている。まずこれを占領し、次に新羅から補給を受けつつ高句麗を前後から攻めるという作戦だ。顕慶五年、高宗は左武衛大将軍の蘇定方を神丘道行軍大総管に、武烈王を嵎夷道行軍総管に任命し、百済を東西から挟み撃ちにした。

 百済義慈王の治世二十年目だった。蘇定方が海を渡り、新羅の軍勢もこれを迎えて、ともに百済に迫った。義慈王は群臣を集めてどう対処すべきか諮った。また非常の時なので、罪にかかって流刑に処していたもと重臣の興首という人物にも人を遣って策を問うた。興首の案は良さそうだった。しかし諸臣の意見は、興首は久しく流竄にあって王を怨み国を惜しまないはずだから、その発言は用いるべきでないとしたので、義慈王もその策を却けてしまった。

 兵士たちの奮闘もむなしく、百済の王都泗沘しひ・要衝熊津ゆうしん両城はあっという間に落とされた。義慈王は興首の策を用いなかったことを悔やんだがもう遅い。蘇定方は義慈王と太子の隆らを捕らえて長安へ連れ帰った。泗沘城には鎮将としてりゅう仁願じんがんが駐留し、熊津・馬韓・東明・金漣・徳安の五カ所に都督府が置かれて、百済全土を唐が支配することとなった。ここに百済の体制は瓦解した。ただ百済軍の全てが降伏したわけではなかった。

 百済の将軍鬼室きしつ福信ふくしんは、義慈王のいとこに当たり、勇猛を以て知られ、王都が陥落すると、西北部の要害を根拠として残兵を集め、反撃ののろしを挙げた。これは八月のことで、ここまでの経緯は、日本書紀によると九月には倭国に報せが届いていた。十月になると福信から正式の使者が来た。使者は捕虜にした唐人百人あまりを献上し、あわせて救援の出兵を求め、また“質”として預けられている王子豊璋ほうしょうを迎えて王としたいと請うた。

 豊璋は、舒明王の三年に来倭して以来、三十年近く倭王のもとに駐まっている。また豊璋の弟塞上さいじょう善光ぜんこう、親戚の忠勝ちゅうしょうという人物もいつからか長く倭国に滞在していた。百済王が王族の者を何人も長く倭王に預けていたのは、軍事的な援助を期待してのことであったに違いないが、これまで倭王から百済王へ何か具体的な支援をしたということはなかった。しかし今回の要請に対して、皇極王は即座に応じる意志を示した。なぜだろうか。その詔に曰く、

「出師を乞い救援を求めることは古籍に見え、危難を扶け絶国を継ぐことは経典に著されている」

 云々と。絶えた諸侯の家を再び継がせて亡びた国を再興させるということは、上古の中国で王者の責務とされていたことで、特に今度の場合の理由を述べたものではない。ともかくも皇極王は出兵の準備を命じた。だが福信は意気盛んであるとはいえ、百済はすでに国の体をなしてはいない。これを助けて唐・新羅と戦争をしたところで、果たして勝算はあるのだろうか。

 そもそも戦争というのはやってみなければ結果が分からないというものではない。国と国とが戦争をする場合、戦争をしている最中は能力を消耗するだけで、戦争をしながら能力が増えるということはほとんどない。だから戦争を始めるときに持っている能力によって結果はすでに決まっている。孫子が「勝者は勝ってから戦いを始め、敗者は戦いを始めてから勝ちを求める」と言ったのはこのことである。そして戦争の行方を見通すということは、冷静にさえなれば案外難しいことでもないらしい。

 この年、戦争に備えて駿河国に命じて船を造らせた。その船を曳いて伊勢の辺りまで来た夜中、風もないのにその船の向きが逆になるということがあった。人々はこれによって勝算のないことを知ったのだという。船が反ったから不吉だというのはものの言いようで、要するにこの出兵は誰の目にも危うく映った。元来聡明な中大兄王子や中臣鎌足にもそのことが分からないはずはない。皇極王はなぜ出兵を決意したのか。

 その理由はこういうことだろう。

 百済王がその王子を“質”として倭王に預けたことは、自らへりくだって倭王の優位を承認したことを意味する。倭王は“質”を取ることで百済王に対して優越する地位を得た。しかし百済王と倭王の国際的地位は本来対等なので、これは百済王が倭王の地位を持ち上げてやるという恩を貸したことになる。海外の有力者である百済王が倭王をこのように支持しているということは、倭王にとって王権の強化にあずかって力があったことだろう。今日でも総理大臣などが外国の指導的政治家との関係をモラル・サポートとして内政の引き締めに利用するのと同じである。

 つまりこの場合、百済王は恩の債権者、倭王は恩の債務者である。恩というものは借りれば返さないと信用を失う。信用を失えばせっかくうまく進めてきた倭王専制君主化という改革が頓挫しかねない。今、百済義慈王は唐に捕らえられ、残余の反抗軍もそのうち全滅は避けられない。恩を返す機会は永遠に失われようとしている。すると倭王債務不履行で面目が立たない。債務を履行する最後の方法は、ここにいる豊璋を百済王として送り返し、その国に滅びぎわの徒花でも咲かせてやることだ。

 それにしても今度の事態は、どうせ介入するならもっと早い時期にすべきではなかったのだろうか。この三十年間の大半は改革に忙しく暇がなかったとしても、ここ数年は東北地方への軍事行動を繰り返していて、その戦力を韓国へ振り向けることはできたはずだ。そうしなかったわけは、一つには唐を敵に回したくないということだったろう。新体制の建設にはなんとしても唐の制度を学ぶ必要がある。文化的にも当時の長安は世界随一の国際都市であり、今のニューヨークのように魅力的だった。この時も遣唐使が派遣されており、高宗は東方で戦争があることを理由にして、彼らを九月中旬まで長安に引き留めていた。

 皇極王は、百済に援軍を出すため親ら筑紫国までおもむく計画を立て、十二月に難波宮に移ってその準備にかかった。翌年一月六日に船を浮かべて西へ向かったが、なぜか十四日に伊予に船を着けて道後温泉でしばらく過ごした。筑紫の那の津、今の博多港に入ったのは、やっと三月二十五日のことだった。対馬朝鮮海峡を越えて軍を渡すのに天候の悪い時期を避けたためだろうか。しかしあまり遅いので、四月、福信は豊璋の送還を乞う使いをもう一度よこした。

 五月になっても援軍はまだ動かなかった。皇極王は海に近い那の地から内陸の朝倉に建てた宮に遷った。ここでも不吉なことがあり、宮中に鬼火が出るという噂が立ったり、侍従らがあいついで病死したりした。二十三日、唐から戻った遣唐使が朝倉宮に着いた。夏が過ぎて、秋を迎えた。まだ出兵を実行しないうち、秋七月二十四日、皇極王は朝倉宮に崩じた。

 後に中大兄王子が母を偲んで詠んだ歌が日本書紀に引かれている。

 枳瀰我梅能きみがめの 姑衰之枳舸羅爾こほしきからに 婆底底威底はててゐて 舸矩野姑悲武謀かくやこひむも 枳濔我梅弘報梨きみがめをほり(君が目の 恋ほしきからに 泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り)

 八月、豊璋の身はまだ筑紫にあった。(続く)

本当は由緒正しい「二つ折り型スマートフォン」の歴史概説 

DataScope から MUSASHI まで。

 二つ折り型の携帯電話機と言えば、1999年、iモードのサービス開始とともに登場した、と書くと多くの人は納得してしまうかもしれない。しかし実際にはこの形状を採用した機種はそれより前にすでに存在していた。ここで言う「二つ折り型」とは、開いた時に上部に画面、下部に入力・操作系を持つ、縦長の「折りたたみ型」を指す。この形状の携帯電話機は、90年代半ば頃、NEC が「ジュワッキー」シリーズの数機種で採用したのが最初だと思われる。ただしこれは表示するものが電波状態と電話番号くらいしかない時代なので、画面といっても三行分程度の小さいものであり、そのまま後の「二つ折り型」にはつながらない。

 その意味で世界初の「二つ折り型」は、京セラが1996年に発表、翌年 DDI Pocket 向けに発売した「DataScope DS-110」だと思われる。これは IBM の小型コンピュータ「ChipCard」のシステムに PHS を一体化したもので、当時としてはぎょっとするほど大きい画面を持っていた。パソコン通信への接続、PC との予定表などのデータ連係、ネイティブアプリケーションの組み込みが可能で、おそらく日本初のスマートフォンと呼んでよいものだ。後継機ではインターネットに対応し、NTT DoCoMo 向けにも発売された。

 なお、世界初のスマートフォンと謂われるものは IBM が1994年に米国市場向けに発売した「Simon Personal Communicator」で、これは通常の携帯電話機であればダイヤルキーがあるべき場所までが縦長のタッチスクリーンで覆われていた。

 日本では、1999年2月22日、NTT DoCoMo がiモードの提供を開始し、これが流行するのに従って二つ折り型のフィーチャーフォンが浸透する。iモードの内容から求められる表示能力と電話機としての操作性を両立させやすいからだが、この形状自体はすでに DataScope というスマートフォンによって先鞭を付けられていたことは忘れられるべきではない。フィーチャーフォンとは要するに簡易スマートフォンであり、スマートフォン的な使い方をするために要求されたのが二つ折り型なのである。

 同じ頃、北米では、携帯型のコンピュータに電話の機能を一体化したものが一般にスマートフォンと呼ばれ始めていた。1999年に Qualcomm の「pdQ Smartphone」、2000年に Ericsson の「R380」、2001年に Handspring の「Treo 180」などが登場している。

 2002年、Qualcomm の携帯端末事業を買収した Kyocera Wireless は、Palm OS 4.1 を搭載した二つ折り型のスマートフォン「Kyocera 7135」を北米市場に投入した。上部には Palm OS 搭載機としては標準的な正方形のタッチスクリーン、下部にはキーパッドの他に Graffiti 方式の手書き入力に対応したタッチパッドを備えていた。

 早くからスマートフォンを作ってきた現存する老舗として、京セラの他に Motorolaサムスンを挙げられるが、この二社も早い時期に二つ折り型のスマートフォンを発売している。サムスンPalm OS 4.1 を搭載した「SPH-i500」を2002年に発表。

Motorola は、2003年、Microsoft Smartphone 2002 を搭載した「MPx200」を投入した。

 スマートフォンということばが使われ始めた2000年前後から、iPhone が流行する2010年前後までは、様々な形態の製品が試みられた。代表的なものを挙げると、

  • スレート型:最低限のキーしか持たず、多くの操作をタッチスクリーンで行うもの。Handspring の「Treo 180g」、GroupSense PDA の「Xplore G18」など。
  • スライド型:上に一見似ているが、縦か横にスライドしてキーパッドが現れるもの。Danger の「Sidekick」シリーズなど。
  • ベリー型:コロッとした筐体に極小のキーボードを備えるもの。Handspring/PalmOne の「Treo」シリーズや RIM の「Blackberry」シリーズなど。

 ……などがあり、ここに二つ折り型も加えることができるのである。 

 積極的に様々な形態の携帯電話機を開発していた Nokia も2004年に「Nokia 6260」を登場させた。OS は Symbian Series 60 を搭載し、2.1インチの液晶を持つ上部は反転してスレート型のような形態にも変わる。

Nokia は以後数年間に亘り二つ折り型のスマートフォンを投入している。 

 ベリー型で好評を博していた Blackberry シリーズからも、2008年、二つ折り型の製品が登場している。「BlackBerry Pearl Flip 8220」は SureType と呼ばれる独特の文字入力方式を備え、下部のキーパッドはダイヤルキーと QWERTY キーボードを融合させた特殊なものだった。2010年に発売された「Blackberry Style 9670」は寸胴の二つ折り筐体に完全な QWERTY キーボードを装備していた。

 日本のスマートフォン市場は、世界に遅れて、2005年末、ウィルコムがシャープ製の「W-ZERO3 WS003SH」を発売してから少しずつ広がり始め、2008年にソフトバンク向けに投入された Apple の「iPhone 3G」、NTT docomo が2009年に登場させた HTC 製の「HT-03A」、2010年の Sony Ericsson製「Xperia SO-01B」を経てようやく盛り上がりを見せた。

 2011年、ソフトバンクはシャープ製の「AQUOS PHONE HYBRID 007SH」を発売。Android 2.3 を搭載し、Nokia 6260 のような反転液晶でスレート型に変形した。
 

 この頃になるとスレート型の流行に押されて他の形態のスマートフォンはほとんど見られなくなるが、二つ折り型だけはしぶとく生き残っている。 

 サムスンは2010年、「W899」を中国市場向けに発表。上部の裏表両面に液晶画面を備え、閉じることでスレート型に変わる。この線はシリーズ化され現在までに毎年新機種が発売されている。中国では複数のメーカーが同様の形態を持つスマートフォンを発売しており、一定の人気があることが分かる。 

 LG も2014年、「Wine Smart」を発表し韓国や台湾の市場に投入。日本でも2015年、 J:COMMVNO 事業の専売として登場した。純粋な二つ折り型で、Android 4.4 を搭載した。

LG は以後数機種を続けて発売している。

 Lenovo も2015年、Android 4.4 を搭載した「A588t」を発売。上部はグルリと回転してキーパッド側の背面に付き、スレート型に変わる。
 

 2016年、FREETEL ブランドの SIM ロックフリー製品と MVNO 事業を展開するプラスワン・マーケティングは「FREETEL MUSASHI」を発売。Android 5.1 を搭載し、両面液晶を備えスレート型に変形する。

 ここに挙げたものは代表的な機種だけだが、二つ折り型のスマートフォンは、1997年に発売された DataScope 以来、2016年の MUSASHI に至るまで、常に世界のどこかの市場に登場し続けている。それは主流になったことはないとはいえ、無視のできないスマートフォンの典型的形態の一つだと言われなければならないだろう。

 今回は古代史を一回休みとし、スマートフォンの歴史について述べた。現在の流行を創った iPhone シリーズも初登場からすでに10年近くを経過し、そろそろ次の世代への模索も必要とされるだろう中で、二つ折り型という形態にもまた光が当たることを期待したい。

天武天皇評伝(八) 孝徳父子の死にぎわ

 阿倍倉梯麻呂あへのくらはしまろが逝去し、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかはのまろが謀殺された後、大化五年四月、巨勢徳陀古臣こせのとこだこのおみ左大臣に、大伴長徳おおとものながとこのむらじが右大臣に任命され、欠員を補充した形にはなった。

 翌年二月、穴戸国あなとのくにから白い雉子が現れたと報告があり、百済王子豊璋ほうしょうや国博士僧旻そうみんらに諮問したところ、みな吉祥であるとしたので、これにちなんで改元し、白雉元年と号した。白雉年間には、大化中に発布された法令の実施が進められ、班田や造籍に一定の進展が見られた。また白雉五年には約二十年ぶりの遣唐使長安に到り天子に拝謁した。この年は唐の高宗の永徽五年に当たる。高句麗百済新羅の争いが重要な外交課題であり、高宗は倭王に対して新羅へ援兵を出すことを要求した。

 こうして政治が大きく回転する中で、孝徳王は役割を失いつつあった。大伴長徳は白雉二年に死んだとされるが、その後任が置かれることはなかったらしい。孝徳王の内閣は二度ともとの形を回復することはなかった。白雉四年、太子中大兄王子なかのおほえのみこは、難波から倭国やまとのくにに王宮を戻すことを提案した。孝徳王はこれを是としなかったにも関わらず、中大兄は、皇極王や王后間人王女はしひとのみこに、大海人王子おほしあまのみこらも連れて、飛鳥の行宮かりみやへ去ってしまった。公卿大夫・百官の人々もそろって遷るのに随った。

 孝徳王は引退することを考え、隠居の宮も造ることにした。そこで間人王女に歌を送って曰く、

 舸娜紀都該かなきつけ 阿我柯賦古麻播あがかふこまは 比枳涅世儒ひきでせず 阿我柯賦古麻乎あがかふこまを 比騰瀰都羅武箇ひとみつらむか(鉗着け 我が飼ふ駒は 引き出せず 我が飼ふ駒を 人見つらむか)

 翌五年、大臣に授ける紫冠が中臣鎌足に与えられたので、巨勢徳陀古もこの時までに事実上解任されていた可能性がある。孝徳王はすでに王者としての実態を何らの意味でも持たなかった。

 白雉五年十月一日、中大兄は、孝徳王が病で伏せっていると聞き、皇極王・間人・大海人らとともに難波宮を訪ねた。孝徳王はその十日に没した。十二月六日に葬礼が終わると、皇極王・中大兄らはその日に倭国へ帰ってしまった。

 孝徳王は決して暗愚な王者ではなかった。鎌足を見いだしたことは慧眼と言うほかないし、自身の役割をよく理解してそれを踏み外さず、待遇に不平を抱いて乱を起こすこともなかったのは、凡庸な人物にはなかなかやりおおせないことである。そして自身の働きによるより、むしろ若い中大兄にその才能を働かせられる場を与えたことによって功績を挙げたと言われなければならないだろう。


 さて、日本書紀の記述では、古くから一時代に一人の天皇が君臨していたという印象を与えるように意図されているので、皇極天皇孝徳天皇に“譲位”し、孝徳天皇の死後に復位したという書き方をしている。しかし記事の内容をよく読むと、実際の孝徳王は皇極王のある面での代理にすぎず、皇極王はこの期間を通して、名目が何であったかはともかくとしても、一貫して本質的な最高権力者であったと考えられる。この見方によると、孝徳王の死後に中大兄がそのまま王位を継承しなかったことも別に不審ではない。

 なお、八世紀後半に選定された歴代天皇のいわゆる漢風諡号において、その前期を皇極天皇、後期を斉明天皇と呼ぶ。王者の復位ということは海外にもあるが、復位したからといって複数の諡号を作るという例は中国にはない。また日本書紀の本来の表記においても、その前期と後期で呼び方を変えてはいない。ここでも一貫性を重視して以後も皇極王とし、白雉五年の翌年を皇極王の後期元年と呼ぶこととする。


 大化・白雉の約十年間を通して進められた改革は、ここにおいて民衆の身の上に関わるところまで具体的になってきた。皇極王の後期七年間には、東北地方への侵攻や大規模な宮苑の造営が興された。これは強化された王権による動員力を試し、誇示し、また人々を新しい体制に従うことに慣れさせるという狙いがあったとみられる。しかしこれは反発を起こさないではなかった。特に、香山の西より石上山まで溝を掘らせ、舟二百隻に石上山の石を載せて、溝の流れによって後飛鳥岡本宮の東の山まで届け、その山に石垣を巡らせた一連の工事は、世上の注意を惹いたらしい。時の人がこれを謗って、

「もの狂いの溝は損ねる工夫三万あまりなり、垣を造るに費やす工夫は七万あまりなり、宮の木は枯れ、山の頂は埋まる」

 とか、

「石の山を作って、作ったそばから壊れてしまえ」

 だとか言ったそうだ。この年は皇極王の後期二年である。

 ところで孝徳王が世を去ったことにより、命の危険を感じなければならない人がまた一人いた。それは、孝徳王と阿倍前左大臣の息女小足媛をたらしひめとの間に生まれた一粒種、有間王子ありまのみこだった。中大兄から見てはいとこに当たり、歳案配はちょうど古人大兄を殺した頃の弟大海人を思わせた。中大兄は名族阿倍氏の血を引くこの王子を睨んだ。天性鋭敏な有間は、壮大なことばかり言ったり、温泉遊びをしたりして、政治に関心がないふうを装っていた。

 後期四年十月、皇極王は有間に奨められた紀国きのくに牟婁むろの湯へ出かけた。中大兄は皇極王の供をして行った。王宮の留守を任されたのは蘇我赤兄そがあかえのおみという者だった。

 皇極王が牟婁の湯に逗留している間、十一月三日、赤兄は有間王子を訪ねた。そして、恐れながら申し上げます、とでも切り出したのだろう、あろうことか、

「王の政治には三つの過ちがございます」

 と思い切ったことを口にしたものだ。

「大いに倉庫を建てて百姓の財産を集積したこと、これが一つ、遠く溝を掘って国家の租税を浪費したこと、これが二つ、舟に石を積んで運び積んで丘を作ったこと、これが三つでございます」

 そこまで聞いて有間はようやく安心し、

「我が齢十九にして、始めて兵を用いるべき時だ」

 と言って歓びを表した。

 五日、有間は赤兄の家に行き、人払いをして計画を謀った。こういうことはやると決めたら下手でもすぐに動かなければならない。今日にでも旗揚げをしようという話だ。ところが有馬の使った脇息の脚がわけもなく折れたので、不吉だとしてこの日は引き取った。赤兄にはケンカは速いに限るということがよく分かっていた。この日の夜半、赤兄は却って宮苑工事の人夫に兵器を持たせて有間の家を囲んだ。また早馬を走らせて、このことを有間王子謀反のこととして牟婁の湯の皇極王へ報せた。

 以上のことは日本書紀には確かにそう書いてあるが、赤兄の主張に沿って記録されたはずだから、どこまで本当だか分からない。

 九日、捉えられた有間は牟婁の湯へ送られた。中大兄が親ら問うて曰く

「どうして謀反気など起こしたのだ」

 有間の答えて曰く

「天と赤兄が知っているのでしょう。私にはちっとも解りません」

 後日、有間王子は藤代の坂で絞首刑に処された。またこの事件に連坐して二人が斬首、もう二人が流刑となった。赤兄は後に天智政権で重用される。(続く)

天武天皇評伝(七) 因果応報やみがたし

 唐の太宗がその崩御につながる病に襲われつつあった頃、倭国では左大臣阿倍倉梯麻呂あへのくらはしまろが卒去した。倉梯麻呂の死については特に伝えられていることはない。大化五年三月十七日のことだった。この頃までに、改革の方向性を示す法令の発布は、その実効性は別としても、一通り完了していた。そして蘇我大臣家を滅ぼしたことによる影響も、心配したほどではなかったと感じられてきていたようだ。

 三月二十四日、蘇我臣日向そがのおみひむかなる者が、

「私の腹違いの兄めは、太子が浜で遊ぶのを伺って、殺害しようと企んでおります。いまにそうするでしょう」

 と中大兄なかのおほえに告発してきた。

 日向は一名を身刺むざしといい、右大臣蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかはのまろの弟である。かつて石川麻呂が長女を中大兄に嫁がせようとした時、日向はその娘を連れ去って姦通したということがあった。思慮のない小人物だったのだろう。どうしてこんな日向の言うことを信じて、入鹿殺し以来の協力者である石川麻呂を疑うことがあるだろうか。ところが日本書紀には、中大兄はこれを信じたと書いてある。どうやら蘇我派が再結集する可能性を最終的に絶つことを狙った中大兄と中臣鎌足の謀りごとに違いない。

 即日、孝徳王の名において、大伴狛連おほとものこまのむらじ三国麻呂みくにのまろのきみ穗積噛臣ほづみのくひのおみらが石川麻呂の所へ遣わされ、謀反の虚実を問うた。石川麻呂の応えて曰く、

「問われたことの答えは、私が直に王のみもとへ申し上げよう」

 中大兄には相手の言い分を聞くつもりはない。もう殺すことは決めているからだ。同じ問答をもう一度くりかえした。石川麻呂は入鹿殺しの謀議に加わった仲だから、こちらも相手の考えはもう分かっている。孝徳王は兵を興し、石川麻呂の家を囲もうとした。家というのは遷都に従って難波に設けた住居である。石川麻呂は二人の子を連れて倭国やまとのくにに逃げた。日本書紀倭国と書くのは後の大和国の範囲である。この時、石川麻呂の長男興志こごしは、寺院の造営をするため、山田の本宅に住んでいた。今の奈良県桜井市山田に寺址がある。興志は父を迎えてともに山田寺に入った。

 興志は無実の罪で殺されるのを待つに忍びず、

「こちらから進み出て、来兵を迎え撃ちましょうよ」

 と請うたが、石川麻呂は許さなかった。蘇我氏が官軍を進んで迎え撃てるほどの兵力をこの時期にも保有していたとするとこの発言は注目に値する。興志はなお士卒を集めて変事に備えたという。

 翌日、石川麻呂は興志に語りかけて曰く「おまえは身がしいかな」。興志答えて「しみもしません」。難波からは大伴狛と蘇我身刺を将領とする追手が迫っている。石川麻呂はかさねて興志と山田寺の僧侶ら数十人に説き聞かせ、

「さあ、人臣たる者、どうして君主に逆らえようか。おまえも父に孝たることを失うのではないぞ。そもそもこの伽藍は、自分のために造るのではない。王のおんために作るのだ。今わしは身刺に讒言され、横暴に殺されようとしている。どうにか望むことは、黄泉へも忠誠を懐いて罷りたい。ここまで来たのは、最期を安らかに遂げるためなのだ。」

 言い終えて、金堂の戸を開き、仏を仰ぎ誓いを発して曰く、

「輪廻転生するとも、君王を怨むことなし」

 石川麻呂は自ら首を絞めて死に、妻子の殉死する者が八人あった。

 身刺らが丹比まで来たとき、石川麻呂はもう三男一女ともろともに自殺して果てたと報せが届いたので、そこから引き返した。

 二十六日。石川麻呂の妻子や従者で自殺する者がさらに数を加えた。身刺らは兵を率いて山田寺を囲み、物部二田造塩もののべのふつたのみやつこしほという猛者を呼んで石川麻呂の首を切らせた。塩は太刀を抜いて遺骸を刺して掲げ、えいや、おう! と叫びつつこれを斬った。

 三十日、石川麻呂に連坐して、田口臣筑紫たぐちのおみつくし耳梨道徳みみなしのどうとこ高田醜雄たかたのしこを額田部湯坐連ぬかたべのゆゑのむらじ某・秦吾寺はだのあてらら二十三人が死刑、他に十五人が流刑に処された。

 こののち、石川麻呂の資産を没収するために使者を遣わしたところ、蔵書の中で好い書物には「太子の書」、財宝の中で貴重なものには「太子の物」と札が付けてあった。死者が還ってこのことを報告すると、中大兄ははじめて石川麻呂の冤罪を知り、追って悔い恥じることを生し、哀しみ歎くこと休み難し、日本書紀にはそう書いてあるからそのまま紹介する。

 そこで身刺は築紫太宰帥ちくしのおほみこともちのかみに任じられたが、世の人々は、

「これは穏流しのびながしというものだろうか」

 と噂した。実は栄転を装った左遷なんだということらしい。ともかくも蝦夷・入鹿なきあとの蘇我氏の領袖だった石川麻呂は死に、その弟の身刺も中央政界から遠ざけられた。

 ところでこの事件は、中大兄にとってはうまうまと目的を果たしたというだけでは済まされなかった。

 中大兄は石川麻呂の息女造媛みやつこひめこと遠智娘をちのいらつめを側室に入れていた。造媛は父が殺されたことを聞いて以来、ひどく心を痛め怨みを抱いたが、どうするすべもなかった。二田塩が父の首を切り落としたというので、塩ということばを聞くことさえ憎み、このため近侍の者は塩というのを避けて堅塩きたしといったほどだった。造媛はついに心痛のつらさから病気になって死んでしまった。

 造媛の死はさすがに改革派の闘士も心に堪えたのか、中大兄は哀しみに打たれて深く泣き濡れたという。ここに野中川原史満のなかのかはらのふびとみつが二首の歌を進上した。その歌に曰く、

 耶麻鵝播爾やまがはに 烏志賦拕都威底をしふたつゐて 陀虞毘預倶たぐひよく 陀虞陛屡伊慕乎たぐへるいもを 多例柯威爾鷄武たれかゐにけむ(山川に 鴛二つ居て 偶ひよく 偶へる妹を 誰か率にけむ)

 模騰渠等爾もとごとに 婆那播左該騰摸はなはさけども 那爾騰柯母なにとかも 于都倶之伊母我つくしいもが 磨陀左枳涅渠農またさきでこぬ(本ごとに 花は咲けども 何とかも 愛くし妹が また咲き出来ぬ)

 中大兄はこの歌を嘉して満に褒美を授けた。あるいはこんな情を見せることも政治的演技なのだろうか。この歌にふさわしいほどこの中大兄が造媛を気にかけていたなら、こんなことにはならなかったはずなのだ。因果の連鎖がやみがたいように、中大兄がたちどまることもなかった。(続く)

天武天皇評伝(六) 戦争と外交の季節

 倭国の孝徳王政権が大化と年号を立てて新しい政策の展開に乗り出した頃、唐の太宗が率いる親征軍は、高句麗の安市城に迫っていた。唐の貞観十九年八月。年頭に開始された唐の高句麗遠征は、ここまでは順調に見えた。ところが意外、安市城の守りは堅かった。太宗が兵士を督責するために前線を巡り、皇帝の旗さしものが見えると、そのたびごとに城中からは鳴りもの入りの騒ぎ声が飛んだ。それで太宗がはなはだ怒ったので、将軍の李世勣がなだめようとして、

「この城を破った日には、中の男どもは皆殺しにしてやりましょう」

 と言ったのがまたまずかった。城中にこの言葉が伝わると、どうせ命を賭けるなら戦って散ればこそと、さらに必死の抗戦をした。唐がああ攻めれば高句麗はこう守るということを繰り返している内に、気候が冷たくなってきた。

 九月も近付くと、この地方の秋は中国人には寒すぎる。特に江南から徴発された兵士には骨も縮まんばかり。やがて草は枯れ水は凍り、糧食も尽きようとしていた。補給のためには隋の煬帝が掘っておいてくれた大運河があり、物資の豊富な呉越地方から軍需品を運ぶのは便利になったが、それでも長距離の輸送に多大な費用がかかることには変わりない。太宗はついに撤退しなければならなくなった。十月、帰りの行軍は暴風雪に襲われ、湿った重い雪のために死者を増やし、退路のみじめさに追い打ちをかけたのだった。

 この年の暮れ、孝徳王政権が難波へ王宮を遷したのは、海外からの情報を少しでも早く政治に反映させるためだろうか。

 翌大化二年正月元日。日本書紀の大化年間の記事には、詔文の引用という形になっているところが多いが、この日のものは特に「改新の詔」と題名まで付いているので名高い。ただ文面は律令成立後の知識によって書き直されていることは明らかで、他の詔と重複する内容も見え、この時期に行おうとしたことの総まとめ、所信表明演説のような感じがある。その内容は大きく分けて四条から成っている。それは、

  1. 王や貴族が個別に人民や土地を領有することをやめ、全て国家に帰属すべきこと。
  2. 京師・畿内の制度を整備すること。
  3. 戸籍・計帳・班田収授の法を造り、租を徴収すべきこと。
  4. 田地の調・戸別の調を徴収し、また一定の割合で官馬・兵器・仕丁・采女を拠出させるべきこと。

 といったことだった。これらのことはこの命令によってすぐに実行されたというものではなく、これをいかに実現するかということがこの先の課題となり、歴史を造っていくことになる。むしろその反面、こうでなかったというということで、当時までの伝統的な王権の実態がうかがえる。

 倭の大化二年は唐の貞観二十年、太宗が長安に着く頃を見澄まして、高句麗は形ばかりの“謝罪”の使節を送った。このたびの戦争は事実上唐の失敗、高句麗の勝利である。高句麗には謝罪などする必要はない。太宗にとっては謝罪を受ければ手ぶらで帰ったのではないということで顔は立つが、負けを勝ちと替えてもらうという恩を受けることにもなる。太宗は献上された二人の美女を返したが、連戦に及ぶのは翌年まで待たなければならなかった。これは高句麗の権臣いり蓋蘇文かすみの、相手の弱みを見透かしたしたたかな外交術なのだ。外交をおろそかにして戦争はできないものである。

 この年、倭国高向玄理たかむくのぐゑんり黒麻呂くろまろ)を新羅に派遣して、新羅王から“質”を送らせるのとともに、“任那の調”を廃止することとした。大化三年、新羅の真徳王は孫の春秋を送使として玄理が帰るのに付けて倭国に派遣した。倭国では春秋を留めて“質”とした。ただし春秋はその翌年までには帰国しており、通常の使節と変わりがなく、“質”としての実態はない。日本書紀編纂の立場からする言葉遣いの操作があるだろう。

 貞観二十一年、慎重になった太宗は親征を思いとどまり、将軍を派遣して高句麗領に侵入させたが、比較的小規模なもので、はかばかしい戦果はなかったらしい。二十二年にも出兵をした。太宗としてはじわじわと高句麗を疲れさせ、明年を期して大軍を興し今度こそ攻め滅ぼすつもりだった。ところがまだ実行に移さない内、二十三年の三月頃から病気にかかり、五月に崩御した。このため東征の計画も中止された。

 太宗が死ぬまで高句麗との戦争にこだわった理由の一つは内地の問題にあった。中国社会は魏晋南北朝時代の分裂的傾向がこの時期にもまだ内在しており、それを唐という統一王朝がまとめることによって生じる歪みをどこかへ逃がさなければならなかった。太宗には漢の版図を数百年ぶりに回復した皇帝として名を遺したいという欲もあったろうし、またそうすることで一層内政を引き締めたいということもあったのだろう。こうしたことはかつて高句麗を攻めてくりかえし失敗した隋にとっても同じことだった。

 内政上の理由で対外戦争を行うということは、現代でもしばしばあるが、たいてい碌なことにはならない。隋や唐がそんなことで戦争をするなら、高句麗はこれに備えるためにどんなことでもしなければならない。唐に備えるには新羅の頭を抑えておかなくてはならず、そのためには百済と連合しなくてはならず、そうすると百済との関係が深い倭国も引き込まれなければならないことになる。そして内政のために外国と戦争をしても良いという暗い模範が示されることにもなるのだ。

 これより前、貞観二十二年、新羅に帰った春秋はまた唐に使いした。春秋は太宗に気に入られ、特進の位を授かった。これまで外交に奔走してきた春秋は、これより真徳王のもとで内政の改革に腕を振るう。二十三年、新羅は始めて唐の服制を採用する。その翌年には、六世紀前半の法興王の代から用いてきた独自の年号をやめ、唐の年号を行うこととした。新羅の利益のために唐を引き込もうとする、これもまたしたたかな外交術と言うべきだった。

 倭国では、大化三年から五年にかけて、推古王の時に定めた十二階の冠位を改め、十九階制の新しい冠位を作った。外交が繁くなってきたことに対応し、我が国の何位が彼の国の何位に相当するかを整理しなおしたもので、外政の新しい段階が到来したことを宣言するものでもあった。(続く)