古代史を語る

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日本版・古代帝国への道(中編)

 (承前)

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 改革を進めていくことは、常に現状との妥協による。

 皇極天皇はその治世の四年(645)六月、孝徳天皇に譲位し、その年は元号が立てられて大化元年と称した。孝徳天皇は、敏達天皇の曾孫、皇極天皇の同母弟で、仏法を尊び性格は柔仁で儒学を好んだという。舒明と皇極の間に産まれた間人皇女はしひとのひめみこを皇后、中大兄皇子なかのおほえのみこを皇太子とし、王権の中枢は親族で固められた。皇極上皇もなお皇祖母尊すめみおやのみことと号されてこれを後見している。大臣の座は左右に分けられ、左大臣阿部内麻呂あへのうちまろ、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかはのまろ、加えて中臣鎌足内臣うちつおみという異例の地位に任じられ、百官の上に立って進退廃置の計画を実行したといわれる。

 はじめ、皇極天皇中大兄皇子に譲位しようとしたが、皇子は鎌足の意見によって辞退した。中大兄皇子舒明天皇崩御した時に十六だったとあるから、この年はまだ二十歳である。いかに有望であったとしても経験不足の王者が許される情勢ではなかったと言えるかもしれない。

 蘇我大臣家を排除したこの新体制の大目標は、要するに附庸諸国の土地と人民を統一政府の領有するものとして戸籍・計帳に収め、これによって王権を強化し、国際政治上の地位を高めることにあった。各地の指導者にとっては伝統的な支配権を最終的に手放すことになる。

 統一のための思想的根拠としては、天皇が即位に際して上皇・皇太子・群臣を集えて盟誓した言葉、

天覆地載。帝道唯一。而末代澆薄、君臣失序。

天は覆い地は載せる(天は君、地は臣の比喩)。帝道は唯一なり。而るを末代は澆薄にして(倫理が衰えること)、君臣は序を失う。

 また大化二年の皇太子上表、

昔在天皇等世、混齊天下而治。及逮于今、分離失業。

昔在むかし天皇等の世々は、天下を混斉にして治めました。今に及逮およんでは、分離して業を失っております。

 これらに見られるように、“太古には天下は一つだったが、次第に分かれてきた”ということ、そしてそれが再び統一されなければならないということが主張された。実際にはそんな時代はなく、「分離」した状態こそ本来の姿なので、今日から見ればあまり筋の良い主張とは言えないが、社会の発達とともに歴史という観念が成長してくる一つの段階を示すものとしては注目に値する。これには秦韓古代帝国の統一時代から魏晋南北朝の割拠時代を経て再び隋唐の統一に至った中国の動きも影響しているかもしれない。

 国々の掌握を実際的にはどうするかということになると、その要は、後に天武天皇が言ったように、まさに軍事にあった。といっても戦争をして反対者をどんどん討ち滅ぼしていくのではない。それは、大化元年八月の詔の一つに、

又於閑曠之所、起造兵庫、收聚國郡刀甲弓矢。

又、閑曠の所には、兵庫を起造し、国郡の刀甲弓矢を収集せよ。

 大化元年九月、

使者於諸國治兵。

使者を遣わして諸国には兵を治めさせる。

 大化二年正月、

使者、詔郡國修營兵庫。

使者を遣わし、郡国に詔して兵庫を修営させる。

 などとあるように、諸国の保有した兵器・兵権を供出させることだった。これを正当化するには対外戦争があろうということを理由にするほかはない。近畿より西では長く国際情勢に対応する必要があったことからすでに障害はかなり除かれていた。他方、東国をまとめるためには新たに東北地方へ向かっての戦争が想定された。これは大化・白雉の約十年間を経て一応は成功したように見える。しかし統一体制の法制度はまだまだ未熟であり、結束を保つには現に戦争をやって見せなければ済まないというところまで勢いは進んでしまったらしい。

 孝徳天皇は白雉五年(654)十月に崩御し、翌年正月に皇極上皇重祚した。これが斉明天皇である。この年は唐の高宗の永徽六年、新羅では前年に真徳王が薨去して武烈王に代わっている。百済義慈王の十五年、高句麗は宝蔵王の十四年に当たる。武烈王は、高句麗百済が兵を連ねて新羅に侵入し、その三十城あまりを攻め陥としたとして、唐に救援を請うた。高宗は蘇定方らを遣わして高句麗を撃ったが勝てなかった。

 高宗の顕慶四年(659)、武烈王は百済が頻りに国境を侵すとしてまた唐に出兵を請うた。高宗は翌五年、再び蘇定方を将軍として遣わし、海を越えて新羅軍とともに百済を挟撃した。この作戦は大いに成功して、王都泗沘城は唐軍の為に占領される所となり、義慈王や太子の隆も今は俘囚となって長安へ送られた。

 こうして王を失ったとはいえ、百済軍は依然として抗戦をやめなかった。百済の重臣鬼室福信きしつふくしんの希望は、このとき斉明天皇のもとにいたもう一人の王子豊である。福信は使者を送って、王子豊を迎えて百済王に推戴したいこと、そして援軍を派遣してくれるようにと斉明天皇に請うてきた。この要請が着いたのは斉明天皇の六年十月、季節は冬に入っており、海路を考えれば派兵は早くとも春を待たなくてはならない。しかしどうしたことか翌年夏になってもまだ実行できず、そうこうするうちに斉明天皇は秋の口に崩御した。

 そのまた翌年(662)を《日本書紀天智天皇紀》は天智天皇の元年として数えるが、実際の即位はその七年まで遅れる。中大兄皇子は齢すでに三十代後半にさしかかっている。有力な王位継承の競争者だった古人大兄皇子は大化元年に、有間皇子斉明天皇の四年に、ともに謀反の疑いをかけて殺している。中大兄皇子は今や改革者として誰かまうことなく手腕を振るうべきであった。だがそこに時の勢いというものは容赦なく圧力をかけてくる。

 百済との間には長年にわたる関係があったとはいえ、唐と事を構える危険を冒してまで望みの薄い戦争に乗り出すほどの目的があったろうか。蝦夷との戦争も斉明天皇の代に数度実行されたが、これとてもとより火種があったのではない。対外戦争があろうことを理由にして諸国の兵器・兵権を収奪した以上、やらなくてはならない所に追い込まれたのである。統一のための内戦を回避した代償であったとも言えるかもしれない。

 ともかくも海を渡った救援軍はしばし韓国を転戦する。そして天智天皇の二年、高宗の竜朔二年、白村江で唐軍の迎撃に遭って決定的な敗北を喫し、結局多数の亡命者を連れて帰っただけに終わった。この間の事情はよく知られているからここで詳しくは述べない。

 翌三年二月、天智天皇は弟大海人皇子おほしあまのみこに命じて、冠位の改制、及び「氏上・民部・家部等の事」を宣告させた。この後者についてはいろいろ意見があるが、つまりこれまで撤廃を宣布してきた旧附庸諸国支配層の権利を部分的にでも回復させたものだとすれば、敗戦を受けての動揺を抑えるために改革の後退を強いられたことになる。

 この後も新羅の統一への戦争は続く。天智天皇の治世十年間は、何らかの新しい法典が定められたらしく、広く諸国にわたる戸籍の作成に初めて成功したことは、確かに特筆に値する。しかし、海外の戦争への対応と、近く予期された防衛戦の備えのために、多くの労力が費やされ、大化以来の改革の方向を思うほど伸ばすことができなかった。

 そもそも百済のことは、まだ勝算の立てようもある早いうちに介入しなかったのだから、もう出兵のできる場合ではなかった。外征というのは守りを固めてもなお余りがあればできるというもので、負けてきたからあわてて城を築くというのは順序があべこべでもある。元来が聡明な天智天皇のこと、そうならざるを得なかったことに苦しんだのだろう。八年には腹心の鎌足を失い、十年の秋に病の床に臥せ、十二月、不安な情勢の中で世を去り、時に四十六歳だった。

 改革を進めるには常に妥協が必要だが、妥協のしようによってその行く末は全く下らないものになってしまうこともある。大海人皇子は、今ここがその岐路だと考えただろうか。それについては長くなるので次回に分ける。

日本版・古代帝国への道(前編)

 《隋書・東夷列伝》の中には、隋の大業三年(608)、裴世清が倭国へ派遣された際の報告に基づくと思われる記事がある。それによると、竹斯国から東は十余国を経て海岸に達した、という。海岸とは、倭国の海岸ということで、《日本書紀》を参照すると、推古天皇の十六年六月に、裴世清らが難波津に泊まった、という記事がこれに対応する。すると難波まで来て初めて倭国に着いたということで、それ以西は何なのかというと、「竹斯国より東は、みな倭に附庸する」とある。

 附庸とは、《孟子・万章下》に、

天子之制,地方千里,公侯皆方百里,伯七十里,子、男五十里,凡四等。不能五十里,不達於天子,附於諸侯,曰附庸。

天子の制、地は方千里、公・侯は皆方百里、伯は七十里、子・男は五十里、凡て四等。五十里にりなくば、天子に達せず、諸侯に附き、附庸と曰う。

 とあるように、小国の君主は天子に直に挨拶することができず、諸侯に交渉を負託し、その国は附庸と呼ばれる。

 《隋書・東夷列伝》には附庸の用例が他にもある。百済国の南海には𨈭牟羅国があり、百済に附庸する、という。𨈭牟羅は《日本書紀》では耽羅たむらと表記し、百済義慈王が唐に降服した翌年、斉明天皇の七年(661)五月、

丁巳。耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。

丁巳(二十三日)、耽羅が始めて王子阿波伎らを遣わして貢献した。

 とあるのをはじめ、天智・天武・持統の各代に数度来訪のことが見える。《三国史記》などを参考にすると、耽羅国は五世紀末頃から附庸として百済国の勢力圏に入り、百済滅亡後は暫時国王を立てて独自に外交し、日本としてもこれを取り込もうとした。後には新羅に付き、その崩壊後にはまた暫時自立した。また後には高麗に属し、十二世紀に耽羅郡が置かれ、次いで済州と改められた。今の済州島である。

 附庸とはこういう国のことであり、裴世清が来訪した時には、まだこうした国々が列島の各地にあり、推古天皇を盟主として連合していた。この時期は考古学的には古墳終末期にさしかかっている。この三百年ほど続いた大型古墳の時代は終わりつつあった。そして古墳の斜陽と反比例するように仏教がその存在感を増してきた。

 仏教は、すでに千年以上の歴史を持ち、高い普遍性と国際性、それに体系的に整理された信仰の世界を確立していた。しかもそれは建築や彫刻・絵画などを伴っており、高度な精神文化であるとともに発達した物質文化として人々を驚かした。

 かつて卑弥呼親魏倭王に封じられた時に、仏教は中国にはかなり入っていた。だから日本列島へももっと早くに渡ってくる機会がなかったのではない。しかしゴロゴロした豆のままの大豆にニガリをかけても何にもならない。大豆が豆腐になるには然るべく準備をした後でこそニガリが効く。倭人諸国はゆるやかながら統合していく傾向にあり、そこに仏教が迎えられた。

 仏教の影響は、各地の土着的な神々の整理を促し、それは現実的には政治的統合と表裏一体となって、倭人社会の結合を早め、やがて古代帝国としての日本をここに出現させるはずである。だがそのためにはまだ実際的な問題を解決していかなければならない。

 仏運興隆を導いた推古天皇の治世は約三十六年、舒明天皇が後を継ぎ、その政策も先帝の方針を踏襲したらしく見える。舒明天皇の治世は概ね平穏無事、十三年で崩じ、皇極天皇が立った。推古帝よりこの頃まで、王権は天皇家蘇我大臣家のいわば連立与党が担ってきた。蘇我大臣家は王権の拡張に大いに寄与したが、その権勢の強さからともすると主従が逆転するおそれがあった。

 おりしも皇極即位の前後、このところ小康を得ていた国際情勢がにわかに緊張してきた。舒明天皇の末年(641)は、唐の太宗の貞観十五年、百済義慈王の元年である。義慈王は性格勇胆にして孝子の評判あり、即位すると王権の強化に努め、二年には自ら兵を率いて新羅に侵入した。この年、高句麗では泉蓋蘇文が栄留王を弑殺し、宝蔵王を立てて実権を握った。義慈王は、その三年、高句麗と結んで新羅を攻めることを企図し、新羅善徳王は唐に助けを求めた。唐の太宗は、自身が高句麗王と認めた栄留王がその臣下に殺されたことをこころよく思わず、遠征の準備にかかった。

 貞観十九年(645)、太宗は親征の軍を率いて遼河を越え、高句麗と会戦した。この間、倭国では大臣蘇我入鹿が権力の集中を進めていた。もし他に英傑がなければ、天皇制は成立せず、日本的王権は別の形で確立されたかもしれない。この歳は皇極天皇の四年である。蘇我入鹿は、偽りによって天皇の御前に呼び出され、これを斬殺したのは、中大兄皇子、後の天智天皇であり、この謀略には中臣鎌足が深く関与していた。

 その翌日には入鹿の父蝦夷も殺され、蘇我大臣家は一朝にして滅びた。蘇我氏に擁立されようとしていた古人大兄皇子は出家して吉野に退き、皇極天皇は退位して、軽皇子が立ったが、これが孝徳天皇である。半世紀近く王権の半分を担ってきた蘇我大臣家が消えたことで、この度の王位継承は群臣から推戴されるという形をとらず、全く天皇家の意志によって行われた。

 孝徳天皇のもとで中大兄皇子は皇太子となり、腹心の鎌足とともに改革者として活動し始める。この代には“改新の詔”をはじめ様々な法令が発布されるが、こうした動きには中臣鎌足とその智謀に導かれた若い中大兄皇子が主導権をつかみつつあった。ここに日本統一への方向性が明らかに示され、それをいかに実現していくかが焦眉の課題となってきた。以下、次回に続く。

海東の護法天子――推古天皇(後編)

 (承前)隋の大業四年(608)、煬帝は鴻臚寺掌客の裴世清を倭国へ派遣した。倭国の首都に入った裴世清は、《隋書》の方では“倭王”に面会し歓談したように書かれている。“国王”なら当然勅使とは直に会うべきである。しかし《日本書紀》の方では、推古天皇が裴世清と会ったのかどうか、明らかでない書き方をしている。隋朝の立場としては推古天皇倭国王として遇したいが、推古天皇としてはすでに天子を称した以上、国王扱いを受け入れることは大きすぎる譲歩になると考えたはずだ。

 両史の差違を理解する一つの可能性として、推古天皇は天子の権能で誰かを“倭王”に冊封し、裴世清の接待をさせたかもしれないということは、前にも述べた。もしそうだとすれば、その人はおそらく蘇我馬子聖徳太子であったろう。これで裴世清も倭王に会う使命を果たしたことになって顔が立つ。相手の顔を立てるということは、いつの時代でも外交に求められる常識である。しかし下手をすると、このままでは推古天皇の存在が浮き上がって、国際政治上の地位を失うおそれがある。

 そこで推古天皇は、次の国書で改めてその地位を主張しようとしたのだろう。裴世清が帰るのに副えてまた小野妹子を遣わし、煬帝を聘問する辞が《日本書紀》に載せられている。

天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悆。此即如常。今遣大禮蘓因高。大禮乎那利等徃。謹白不具。

東の天皇が西の皇帝に敬白します。使人鴻臚寺掌客裴世清らが至り、久しいおもいがやっと解けました。季秋ながつきになりようようすずしいころです。あなたはどうですか。想うに清悆おだやかでしょうか。こちらいつものとおりです。今、大礼蘇因高そいんこう小野妹子)・大礼乎那利をなりらを往かせます。謹白。具ならず。

 これを“天皇”号の使用された確実な早期の例とみる向きもあったが、何をして確実とするかは難しい問題であり、ここにも後世の改変と判断すべき理由がある。

 この“某甲敬白‥‥”という書き出しは、仏教界で手紙によく使われた形式で、末尾に“謹白”が付くことも多い。こういう信書上の儀礼的書式は現代中国ではあまり用いないそうだが、現代日本で“拝啓‥‥敬具”などと書く方にむしろ伝わっているのだろう。この形式の文書で当時において有名だったと思われるものに、南朝宋の武帝が書いた《断酒肉文》がある。これは唐の道宣が編んだ《広弘明集》に収められているので見ることができる。その書き出しを引く。

弟子蕭衍敬白諸大德僧尼、諸義學僧尼、諸寺三官。

 この蕭衍というのが武帝の本名である。皇帝ともあろう者が姓名を称するのは異例のへりくだり方で、同じ《広弘明集》に載せる《舎利感応記》に、

菩薩戒佛弟子皇帝某,敬白十方三世一切諸佛,一切諸法,一切賢聖僧。

 とあるくらいがせいぜい普通にありうる程度だろう。ここの「某」は謙遜の一人称で、「菩薩戒仏弟子皇帝某」とは隋の文帝のことである。しかしいずれにせよこれは弟子から師匠へ差し出す形式であり、謙遜した自称を使ってこそそれが「敬白」と照応する。だから、もし、

天皇敬白西皇帝。

 というのが当時のものそのままだったとしたらどうだろうか。《日本書紀》の述作者はすでに日本的な意味での“天皇”が成立した後で書いているからそれほどおかしいとも思わなかったかもしれないが、もともと“天皇”にはいくつかの意味があり、受け取り様では“天帝”と同義になって天子より上に出てしまう。それではいくら「敬白」してみたところでちぐはぐになっておかしい。

 ここには本来、

東大王敬白西皇帝。

 とあったという意見もあるけれども、大王というのは称号ではなく王に対する敬称として使うのが普通だから、この用法は考えにくい。ましてや“東倭王敬白”などとして国王格まで下るのは、もう一人の天子としての地位を獲得したい推古天皇としては避けなくてはならない。

 国際的な仏教隆盛、推古天皇が仏教を擁護する王者として登場し、また外交上もそれを利用してきたことを思い出そう。するとこれはもともと、

東天王敬白西皇帝。

 とあったと考えるべきではないだろうか。この“天王”とは仏教的文脈における意味を持つ。仏教上の天王にも種類があるが、この場合に参考になるのは、やはり《梁書》に載せる狼牙脩国からの上表である。

大吉天子足下:離淫怒癡,哀愍衆生,慈心無量。端嚴相好,身光明朗,如水中月,普照十方。眉間白毫,其白如雪,其色照曜,亦如月光。諸天善神之所供養,以垂正法寶,梵行衆增,莊嚴都邑。城閣高峻,如乾陁山。樓觀羅列,道途平正。人民熾盛,快樂安穩。著種種衣,猶如天服。於一切國,爲極尊勝。天王愍念羣生,民人安樂,慈心深廣,律儀清淨,正法化治,供養三寶,名稱宣揚,佈滿世界,百姓樂見,如月初生。譬如梵王,世界之主,人天一切,莫不歸依。敬禮大吉天子足下,猶如現前,忝承先業,慶嘉無量。今遣使問訊大意。欲自往,復畏大海風波不達。今奉薄獻,願大家曲垂領納。

 ここでは、梁の武帝に対して、まず「大吉天子足下」と呼びかけ、次に「天王」と称し、また「梵王」の如しだと讃えている。梵王とは、大梵天梵天王などとも呼び、仏教では正法護持の神とされる。そして、梵王になぞらえてなのだろう、仏教を護持する王者を天王と称することがあった。この意味での天王は中国的王権思想の外から来ているので、その対象は国王でも天子でもいい。

 これより前、“天王”は五胡十六国の君主が皇帝を称する前の準備的な称号として用いたこともあった。この場合は皇帝よりは一等下るが、国王よりは上になる。五胡十六国的天王号の成立に寄与したのは、仏教の影響と、周代の用例だった。上古には周王が天王と呼ばれたことがあり、これは“天子たる王”というくらいの意味合いだろう。

 これらの例を思い合わせると、推古天皇が“天王”と自称したとすれば、一つには一歩譲って煬帝の顔を立てたことになり、二つには天子の称を撤回したことにはならず、三つには“敬白”と照応して無理のない構文だったことになる。それに加えて、これは謙遜の自称であることが前提だから、実際には自分は“天王以上”なのだという含みを暗に持たせてもいる。

 煬帝としても、形式的に一応は顔が立つことになるし、仏教的世界観を押し出されては無碍にもできないし、内外に焦眉の課題が迫っていることでもあり、引っかかる所がないではないが、対倭問題はこれでしばらく納めておくことにはしやすかっただろう。幸い倭国は地を離れ海を隔てた向こうにあり、気にさえしなければ実際上の問題にはまだなりにくい。

 推古天皇が、隋に対し天子を称して対等の関係を要求したからには、皇帝とも号したろうという想定は、ほぼ自動的に成立する。中国では漢代以来“天子・皇帝”を併せ、場合によって使い分けた。ここに、交渉上の必要から一を加えて、“天子・皇帝・天王”を兼称したすれば、日本律令の“天子・皇帝・天皇”制が成立する過程を解く鍵になるかもしれない。

海東の護法天子――推古天皇(中編)

承前

 推古天皇の八年以降、新羅と戦争のあることが予期され、来目皇子くめのみこが征新羅将軍に任じられたが、筑紫で備えをする間に病を得て、十一年春二月に薨去した。その秋、当摩皇子たぎまのみこが後任として難波から船出したが、播磨で妻舎人姫王とねりのひめのおほきみが急死したので引き返し、そのまま出兵のことは沙汰止みとなった。このあたりにきても《日本書紀》の紀年は厳密に信じられるかどうか疑いがなくもないが、要するに開皇二十年(600)の遣隋使の背景には新羅との対立があり、出兵をやめたことも隋との交渉が不調に終わったことが原因であるかもしれない。

 翌る十二年正月、前年の暮れに制定された十二階の官位が施行された。これは内政よりもむしろ外政面で交渉に当たる官人の地位を外国のそれと比較可能にする目的であったらしい。この冠位十二階の制度は大化の改制まで続くが、これによって叙階されたのは近畿地方かその近辺を本貫とする者に限られるようである。この年の四月には聖徳太子憲法十七条を作る。その内容は、儒教に基づく所があるが、第二条で三宝尊重を定めるなど、仏教の思想も多分に含まれている。十三年四月、推古天皇は、「皇太子・大臣及諸王・諸臣」と共同の発願として、鞍作鳥くらつくりのとりに命じ、丈六の仏像を作らせる。十四年、潅仏会の日にその仏像を法興寺の金堂に納めた。この年には聖徳太子に仰せて宮殿で勝鬘経・法華経の講義もさせている。

 このように仏教を興す一方で、十五年には天地・山川の祭祀も怠るべからずという詔を発して、実際に拝礼を挙行してもいる。仏教とともに在来の信仰に配慮することは、隋の政策と軌を一にしている。こうしたことがこの時期に行われたのは、決して偶然ではなく、やはり外交との関係で理解しなければならない。推古天皇の十五年は、隋の煬帝の大業三年(607)に当たる。

 この年、《日本書紀》によると大礼小野臣妹子おののおみいもこが「大唐」に遣わされた。大唐とは“もろこし”“から”というふうの代名詞的用法であって、別に書紀の編者に隋と唐の区別ができなかったのではない。それは二十六年条には高句麗からの使節の発言を引く形で正しく「隋の煬帝」と書いているので判る。大礼は冠位十二階制の第五位で、中国の品階では正六品に相当するとみられる。これに対応する記事は《隋書》及び《北史》に載っている。

大業三年,其王多利思比孤遣朝貢,使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」國書曰:「日出處天子致書日沒處天子,無恙。」云云。帝覽不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」

大業三年、その王の多利思比孤たらしひこ朝貢おくり、使者の曰く「海西の菩薩天子が仏法を重ねて興したと聞いたので、朝拝に遣わされ、兼ねて沙門数十人には仏法を学びに来させました」、国書の曰く「日が出る処の天子が、日の没する処の天子に書を致す。恙無きや」云々と。帝はて悦ばず、鴻臚卿にかたって曰く「蛮夷の書で無礼なものが有っても、ふたたび聞かせるな」。

 ここでは煬帝に「海西の菩薩天子」と呼びかけ、「重興仏法」とは北周の廃仏の後で隋朝がそれを再び興したことを指している。皇帝の仏教護持を讃える言辞は、南北朝時代の諸国からの朝貢にともなう上表にままみられたものだが、ここではただそれを踏襲したわけではない。これはその国書において推古天皇を“天子”として煬帝と対等の地位に置くことの前提になっているのである。

 そもそも“天子”とは、地上において天帝を代理する唯一の者である。そして、天子は中国に在り、中国とは世界の中心であるということが、その権威を支えていた。自分たちの住む所を世界の中心であると考えるのは、いわゆる“未開”の社会にありがちなことで、普通は少し世界が開けてくると、その誤りを知ることになる。しかし中国は実際に東洋世界における文明の中心地であったので、かえってこの未開な観念を長く持ち続けた。これを中国中土説と呼ぶ。

 魏晋南北朝時代になると、天子を称するものが並立して地を分けた。遠方からの来朝も次第に繁くなり、世界はどうも東に狭く西に広いということが感じられてきた。そこへ仏教が浸透してくると、インドこそ世界の中心ではないかという、天竺中土説が持ち上がってくる。天竺中土説の立場では、中国も世界の一区画に過ぎず、天子といってもその一区画に君臨するのに過ぎない。天子が一区画の君主に過ぎないという考えをもし徹底して敷衍すれば、別の一区画を統べる天子がもう一人いてもかまわないという理屈が成り立つわけだ。

 煬帝は、古来の王権思想からすれば絶対であるべき天子の地位を、言葉の上に過ぎないとはいえ、揺さぶられたことについては当然不愉快だった。だが外交上焦眉の課題としては、文帝が開皇十八年に敢行して一度は失敗した、あの高句麗遠征がくすぶっている。それに備えて運河の開削も進めているが、かねて都城の造営や長城の修築で大勢の人民に苦役を強いたために、重ねての徴発で世上に恨みを買っていた。また、革命前には帝室楊氏と同格程度だった家柄の者たちも風下に立つことにまだ不平を抱いている。そこへ絶えて無かった倭王からの遣使があり、菩薩天子と呼んで称揚してくれたについて悪い気はしていない。遠方からの珍しい朝貢は天子としての徳が高いことの実証になる。

 そこで煬帝としては、国書の無礼のことはひとまずしまっておいて、倭王と悪くない関係を妥結するに越したことはない。翌大業四年、煬帝倭国の調査と修好のために、文林郎裴世清を派遣する。文林郎とは散官だから名目だけのもので、書紀の方に鴻臚寺掌客とあるのが職務を表している。一種の外交官である。裴世清訪倭のことは前にも述べたので重複も出るが、もう一度次回に考えてみたい。

海東の護法天子――推古天皇(前編)

 推古天皇が即位したのは、大臣おほおみ蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくねによる崇峻天皇暗殺の後を受けた、隋の開皇十二年(592)に当たる歳末で、南朝の陳が滅ぼされてから約四年後のことだった。推古天皇の母は堅塩媛きたしひめ、堅塩媛の父は蘇我稲目宿禰そがのいなめのすくねで、稲目の息男が馬子である。

 この頃、長く続いた大型古墳の造営は下火になり、入れ替わるように仏教が現れてきた。百済の聖王(在位523~554)が仏像や経典をよこしてこれを勧めてきたのは、《日本書紀》では欽明天皇の十三年のことにしてある。聖王の代、百済高句麗の侵攻をたびたび受け、新羅も力をつけて脅威となっていた。また、南朝梁の太清三年(549)、朝貢に出した使節が侯景の乱に遭遇して帝都建康の荒廃を目の当たりにするという事件もあった。

 梁の武帝(在位502~549)の治世は、晩年こそ乱賊侯景に荒らされたが、自ら捨身するほど入れ込んだこの皇帝の庇護のもと、仏教が大いに栄え、寺院や僧侶も増えた。それは後に唐代の杜牧が《江南春》を作り

千里鶯啼綠映紅 千里はるばるうぐいすこのははなかげ

水村山郭酒旗風 水村かわばた山郭やまべ酒旗さかばうたい

南朝四百八十寺 南朝四百八十寺なんちょうしひゃくはっしんじ

多少樓臺煙雨中 多少いくばく楼臺たかどのあるか煙雨きりさめうち

 と詩ったのでその盛時が偲ばれる。この余恵が倭国にももたらされたのである。

 欽明は仏教を礼拝することについて群臣に諮問し、物部大連尾輿もののべのおほむらじをこし中臣連鎌子なかとみのむらじかまこが異議を述べたのに対して、稲目が擁護して仏像などを託されたと伝えられている。このときの稲目の言葉は、

西蕃諸國一皆禮之。豐秋日本豈獨背也。

西蕃諸国はひとしく皆これをうやまっております。豊秋日本とよあきづやまとがどうして独り背けましょうか。

 というので、蘇我氏は進取の国際派であって、物部・中臣両氏はここでは守旧派を代表している。反対の理由は、「天地社稷百八十神」を恒に祭ることが王権の基礎なので、それを改めれば「国神之怒」を招くだろうというのにあった。両氏が守ろうとした旧来の祭祀は、古墳に象徴されるものであったろう。

 日本式のいわゆる古墳は、後の五畿七道の広い範囲に多数が分布し、一部は韓国南部にも存在する。この古墳が分布する全体に、その大きさや様式を規制するような統一的な権力が及ぼされていたとは考えられない。もしそんな体制があったなら、古墳の数はずっと少なかっただろう。むしろ各地の有力者が独立性を保っていたからこそ、自由に流行の墓制を取り入れたのである。こんな時代の信仰からは統一の思想的根拠が得られない。

 稲目の仏教擁護は馬子に受け継がれるが、欽明の次の敏達のときにもこれを巡って対立があり、まだ蘇我氏の私祀にとどまっていた。推古天皇の治世、馬子はあまり表立った活動を見せないが、大臣としての地位を保つ。仏教はこの時期に始めて興隆する。

 この仏教は単なる信仰ではなく、種々の学問や美術を伴う総合文化だった。しかも中国社会は全く中世の段階に達していたので、古代の日本に中世の文化が仏教の形をしてやってきたのだ。その思想は銅像・絵画や建築の形で具体的に表現されるから、古代的社会に属する人々にも威厳が感じられるものだった。古代の段階では、質にこだわるほどの文化の下積みがないので、競争になるととにかく大きさや量で差をつけようとしがちだ。それは古墳そのものや銅鏡状の副葬品などによく表れている。中世の文化は、小さくても品質の高いものを好むので、その落差は歴然としていた。

 欽明天皇が初めて仏像を見たとき、

西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。

西蕃の献じた仏の相貌は端厳としていて、全く未だ曽て看たことがない。

 と歎じたというのも、もっともなことである。

 推古天皇は、その元年(593)、かねて飛鳥に建設中の法興寺に仏舎利を安置したのを皮切りに、二年には三宝興隆の詔を発し、三年には高句麗百済両国から高僧を招聘するなど、仏教振興の姿勢を示す。これは新しい外交政策を打ち出すための準備ともなった。外交面では、任那の権益を巡って新羅との間にともすると衝突を起こしそうな関係が続いており、書紀によると八年に改めて緊張が高まる事件があった。この年は随の開皇二十年(600)である。

 随の高祖文帝(在位581~604)の開皇二十年、《隋書》及び《北史》によると、倭王が初めて遣使してみかどいたった。文帝の下問に対して、倭王の使者が「倭王は天を兄とし日を弟とする」云々と答えたことが不興を買ったととれるように史書には記されている。この前後のことは前にも述べたから詳しくは繰り返さない。

kodakana.hatenablog.jp

 この所には、倭王から隋朝に対して何か要求があったのかどうかには触れられていない。また《日本書紀》には、この遣使のあったことそのものが載せられていない。しかしよく考えてみると、南朝宋への遣使も載せていないので、冊封されることを目的としたものは載せないというのが書紀編集上取捨選択の方針だったのであり、この時はまだ倭王としての授爵を求めていたと推測してよいかもしれない。そうだとすれば、加えて、かつて倭王武が認められた新羅加羅などにおける軍事指揮権の再確認も要求しなかったとは考えにくい。しかし新羅はすでに加羅諸国を実質的に支配していたし、開皇十四年には上開府・楽浪郡公・新羅王を与えられている。また、南方に偏していた宋とは違い、隋は高句麗と接しており、朝鮮・韓国方面の情勢は切実な問題である。そのため倭王の要求を過分なものとして却けたというのが、「此れ太だ義理無し」とされたことの真相ではないだろうか。

 同じ年の十二月、文帝は仏教と道教を保護する詔を発する。これより前、北周武帝(在位560~578)は儒教を偏重して仏・道に厳しく当たったが、仏法尊重はすでに東洋の広い範囲で国際的常識になっているし、在来の思想である道教に配慮することも欠かせない。もちろん儒学も引き続き奨励されている。倭王の使者はこうした状況を見聞して帰ったのである。以下、次回に続く。

埴輪の馬はどんな馬か

 六世紀代といえば、《日本書紀》が編纂された時期にかなり近付いてくるので、より詳細で信憑性の高い内容を期待したくなる。ところが、この時期にかかるはずの顕宗天皇あたりから推古天皇の初頭にかけて読んでいくと、うんざりするほど韓国関係の記事が多いという印象が残る。日本側の記事もあるにはあるが、列島の政治的統合がどう進んだかどうかについては詳しく跡を追うことができない。《古事記》の方はもともと対外関係の記事をあまり載せないだけにもっと分かりやすく、顕宗・仁賢の即位に関する昔話じみた記述の他は、ほとんどが歴代天皇とその妃や子の名前などを列挙して終わる。

 これは、皇極天皇の四年(645)に政変があり、蘇我蝦夷そがのおみえみしらが殺されそうになった際、天皇記・国記なるものがほとほと焼失しそうになり、船史恵尺ふねのふびとゑさかがその国記を取って中大兄なかのおおえに奉献するということがあって、その時に多くの史料が失われたためだろう。

 推測のために先の状況を確認しておくと、日本における古代帝国的段階確立のための最終的な戦争である壬申の乱(672)は、天武天皇の行動開始からわずか半年足らずで収束している。これは統一の総仕上げではあったが、これ自体が統一のための戦争だったとは言えない。中国史を参考にすると、秦と趙が大いに争った長平の合戦が領土国家的段階から古代帝国的段階に移る転機であったとして、それから統一までは約四十年である。日本の場合は、壬申の乱以前数十年間に統一戦争が行われたということはない。

 古代中国における統一戦争は約四十年間であり、長いと思われるかもしれないが、これでも急激な変化である。秦はこの期間に他の六国を隣から隣へと次々に併合した。それが可能だったのは、その国が西の辺境に位置していたために、遊牧民勢力から良馬と騎馬戦法を輸入するのに有利だったことが重要な一因だと考えられる。馬というのは実に強力なもので、征服をするのにも使えるし、足を活かしてより高速で広範囲の情報網を構築でき、それによって占領地の経営及び統一の維持にも役立つ。

 日本列島には、よほど古くには原生の馬が棲息していたとされるが、早くに絶滅して、歴史時代の馬にはつながらないらしい。考古学的知見からすると、古墳時代の三区分法の中期、絶対年代で五世紀に重なる頃から乗馬をしたと察せられるものが現れ、六世紀初頭には広範囲に行き渡るという。古墳時代後期になると1000を優に超える古墳から馬具が出ているそうで、馬を象った埴輪も多い。だからこの時期には馬が本格的に移入され、何らかの目的に利用されるようになったと考えられる。この馬がどんな役割を持った馬だったかである。

 交通手段という面から見ると、日本列島では古くから船が使われた。古代の船というのも実態がつかみにくいが、人間の活動の痕跡からして、金属器以前はるか昔の段階ですでにかなり使われていた。小型のものに関する限り、船は弥生文化期にはもう“枯れた技術”だった。当然ながら海に囲まれた細長い陸地という環境では船が便利だし、川も通路になる。川というと、下るのは良いが、上るのはどうするかと思われるかもしれない。江戸時代のことになるが、川船に綱を架けて人が岸を歩いて引っ張っていたことがある。これでも馬の背に乗せるよりずっと多くの人や物を運べる。こういうことはかなり古くから行われていたに違いない。

『河内名所図会』第六巻より。人力で十数人が乗った川船を牽く様子が描かれている。

 《日本書紀》を読んでいても、船というものは普通に登場する。例が多いので特に挙げないが、第一巻から当然にあるものとしてよく出てくる。船の存在は所与の前提と言ってもよい。馬も第一巻から出るには出るが、抽象的あるいは神話的・説話的にすぎるものを除くと、応神天皇の十五年に、

百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。即養於輕坂上厩。因以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。

百済王が阿直岐あちきを遣わして良馬二匹を貢いだので、軽の坂上さかのうへの厩に養わせ、因って阿直岐をして飼うことを掌らせる。故に其の馬を養うの処をなづけ厩坂うまやさかと曰うのだ。

 とあるのが最初だろう。これより前、神功皇后紀、新羅王が誓って述べたとする言葉の中には、

春秋獻馬梳及馬鞭

春秋には馬梳および馬鞭を献じましょう。

 というのもある。要するに神功・応神の頃からこの王権が馬を輸入し始めたということが伝えられていたようである。これが西暦400年前後の時期だとすれば、考古学的知見との一致点が見いだせそうに思える。さておき馬が入った時には、船はその地位をとっくに確立していた。

 雄略天皇紀になると馬の活用がまとまって記されている。

 例の一に、安康天皇崩御の後、雄略は市辺押磐皇子いちのべのおしはのみこを殺そうと謀り、巻き狩りに誘い出し、「彎弓驟馬(弓を構え馬を馳せ)」して射殺す。これは遊戯としての狩猟に使われる馬である。

 二に、雄略天皇の九年五月、紀大磐宿禰きのおひはのすくねは、戦病死した父の代わりとして新羅遠征に渡り、「兵馬船官及諸小官」を一手に指揮する。ここには軍馬が出るが、韓国でのことであり現地調達したものだろう。

 三に、同じく九年の七月に、田辺史伯孫たなべのふびとはくそんが娘婿の家に出産を祝った帰りの夜道で、自分の馬を応神陵の埴輪の馬と換えて乗るという、不思議な話を載せる。これは身分のある人の足としての馬であり、あるいは祭祀と関係する馬である。

 四に、十三年三月、歯田根命はたねのみことは、采女の山辺小嶋子やまのべのこしまこと姦通した罪の代償として、「馬八匹大刀八口」を払い、「小嶋子のためには馬の八匹といえども惜しいことはない」という意味の歌を詠む。これは動産としての馬である。

 この四例に、五世紀末から六世紀にかけての馬の使われ方の類型が示されているようである。ある程度の身分の高い人は財産として馬を持ち、乗って出かけたり遊んだりする。戦争には使わないことはないが、どのくらいに利用されたかは疑いが残る。もっともこれは史書の叙述上のことで、目的のために選択された結果だから、当時の実態がそのまま反映されているわけでもない。

 そこで、雄略天皇紀にも現れる埴輪の馬だが、この馬が実際にはどんな馬だったかである。古代の馬の像といえば、中国の“馬踏飛燕”が有名である。

Flying Horse, East Han Dynasty.Bronze. Gansu Provincial Museum

 これは極端な例かもしれないが、馬が奔走するのを見れば、物を作る人間ならどうしたってそれを表現したくなるに違いない。ところが埴輪の馬は、行儀よく立っていて、動きがなく、表情も柔和なものが多いという印象がある。製作技法上の限界はあるにしても、人物埴輪にはもう少し動きを付けたものがあるから、対比すると馬は一層とおとなしそうに見える。

 ただ私は埴輪の馬を全て検査したわけではなく、認知が偏っている不安があるので、専門家の意見も参考にしたい。そこで探してみると、東京国立博物館ウェブサイトのに載せる列品管理課主任研究員氏の記事に、

ところが、日本列島の馬形埴輪には耕作・牽引などに適した馬具は付けられていませんし、ましてや大陸の騎兵にみられるような激しい戦闘に耐えるような装備はほとんど見当たりません。

古墳から出土した少数例の馬冑(見取図:★4)なども稀少な舶載品とみられ、馬具としてはごく少数の特殊な例にすぎません。

大多数の馬形埴輪からは、少なくとも古墳時代の馬が農耕や戦闘に従事していた様子をうかがうことはできません。

こうしてみると、埴輪に象(かたどら)れた馬は乗馬に最大の「関心」があったようです(といっても馬の特性でもあるスピードが重視された様子はありません…)。

それも金銀に彩られたさまざまな馬具を鏤(ちりば)めた豪華な“いでたち”です。

ほかの動物埴輪と比べても、著しく“人の手が加わった”姿が特徴で、特定階層の人物と(まさにベタベタの・・・)深い関係にあったことは否めません。

東京国立博物館 - 1089ブログ

 とあるのは心強い。だがこれにしても、埴輪の馬を作る目的がそういうものだったからそうなのかもしれない。

 しかしこういうことは言える。史書の叙述にしろ、埴輪の馬にしろ、少なくとも王権との関係においては、この時期の馬が戦争にさほど役立ったということはなさそうだ。もし王者にとって重要な威力を馬が発揮したのであったなら、その痕跡がもっと残る可能性が高いだろうから。

 歴史学的に見ると、《魏志東夷伝》に、濊の土地の特産として「果下馬」というものが記されている。これは乗ったまま果物の枝の下をくぐれるような小型の馬だという。馬を日本に持ち込むには、当然だが船に乗ってもらわなければならず、そのためには果下馬のように小さくてかつ性格の温和なものが選ばれたということは考えやすい。軍馬としては余り優れていないことになる。

 さて馬がそうしたものでないことが分かったとしても、それだけでは歴史学的問題を片付けたことにはならない。それならどうして力の差がついて日本の統一が進められたかということである。

 雄略天皇の頃には、この王権は少なくとも近畿地方の多くを確実に領有したとみられる。これに加えて、この王権は遊漁民的勢力と結び付いていた。遊牧民がそうであるように、遊漁民も農業的地域よりも早くから広域社会を形成しており、これによってこの王権は東日本から韓国沿岸の一部に及ぶ水運を押さえることができた。

 船と馬は軍事・交通・通信・流通などの面で似た役割を果たしうるが、思うに、軍事面での違いはその征服能力にある。騎兵をうまく運用すれば陸上を面的に押し広げるように制圧していくことができる。これに比べると船師ふないくさの陸地に対して有効に働く範囲はかなり限定的であって、強襲はできても征服はしにくい。三国時代の呉が魏に及ばなかった所以である。

 大陸ではそうだが、しかし列島の環境では、水路の権益を押さえることで、線路を敷くように細長く手を伸ばし、各地に確保する拠点はわずかに過ぎなくても、そこからじわじわと影響力を広げることができただろう。そうして、長い年月をかけて、ゆっくりと優勢を占め、列島の中央権力としての地位を固めることができた。

 馬は権力者にとって言わば“自慢の外車”だったのだろうが、翻ってみればそれを最初に手に入れたのは船乗りだったはずだ。古墳からの出土品では装飾的な馬具が注目されるが、集落遺跡からは実際に使われたらしいものが見つかっている。民間ではおそらく船を牽いたり荷物を載せ替えるのに使われ始め、次第に働く馬の有用さが知られていったものと推察する。

五世紀の倭新関係(後編)

 (承前

 政治と商業と掠奪は、根が一つである。この三つの要素がいかに関係するかで歴史的な動きが決まると言ってもよい。前回に見た、ロシアの皇帝・商家・カザークの癒着は、その最も分かりやすい例の一つだろう。三者の組み合い方は違っても、要するに同じことは世界のどこにでもある。特に、国というものが伸張するときには、これらが互いに歯車のように噛み合って、威力を最大化しようとする。そしてこれが一度大回転を始めると、行き着く所まで行かなくてはやまない。

 前回までに見た、西暦400年前後の日本の場合にも、三つの要素が結合する様子が見られる。

 葛城襲津彦かづらきのそつびこは、新羅の人間を連れ去ったというが、人間には食料が必要だから財宝のように蓄えておくわけにはいかない。人間そのものを商品にするか、さもなくば商品の生産に従事させるかだ。掠奪というのは一般にそういうもので、自分で消費する分を除いては交易に出すのでなくては利益がない。だから襲津彦は掠奪と商業を代表してここに登場してくると言える。襲津彦自身には政商としての性質が濃く、実際には提携する遊漁民勢力が戦力として動いた。他方で政治を代表するのは神功皇后で、その父系は近江の息長氏だが、母親は葛城高顙媛たかぬかひめという。高顙媛と襲津彦の関係は分からないが、そう遠い縁でもないのだろう。

 葛城氏は、遊漁民勢力を把握して諸韓国との交渉で活躍する一方、奈良平野西南部の葛城地方に基盤を持っていた。ここに葛城氏が台頭してくるのがいつ頃のことかは明確ではないが、景行天皇乃至成務天皇が、その宮を近江に移したことと関係しているのかもしれない。その近江の息長から出てくるのが神功皇后であることは前に述べた。

 神功皇后は、新羅国から筑紫に帰ると、誉田別皇子ほむたわけのみこ、後の応神天皇を産み、この幼子を連れて瀬戸内海を東へ向かった。

 亡き仲哀天皇の子には、この他に、いとこの大中姫おほなかつひめに生ませた、麛坂王かごさかのみこ熊王おしくまのみこがあった。二人は神功皇后が誉田別を連れて帰ることを聞くと、王位継承権を奪うためにこれを迎撃しようとした、というのが記紀の筋書きである。真実はむしろ神功皇后の方が誉田別のために先手を打ったのかもしれない。しかしともかくもこの紛争は彼らの政敵を一掃する結果になったのだろう。神功皇后は、奈良平野に入って磐余の地に都し、かつてこの土地に拠点を置いた王権の基盤を吸収した。

 五世紀代に掛かると考えられる応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧の八天皇のうち、応神・仁徳・履中・雄略の四人が葛城氏の女性を妃とし、履中・反正・允恭・清寧の四人が葛城氏の女性を母とする。ここに神功皇后以下の倭王家と葛城襲津彦以下の葛城首長家との連合王権が成立したかに見える。ところがこの時期に葛城氏が権勢を振るったかといえばそうではない。

 神功皇后から仁徳天皇の時代にかけて、韓国との関係において出現するのは、襲津彦の他、葛城氏と同じく武内宿禰たけしうちのすくねの裔を称する者か、または斯麻宿禰しまのすくね千熊長彦ちくまながひこのように氏素性がよく分からない者が多い。後者は倭王家の直属でないために系統不明になったのだろう。これ以外では、神功摂政四十九年・応神天皇の十五年・仁徳天皇の五十三年に上毛野君の祖という人物がわずかに現れる。それが雄略天皇の九年になると、天皇が自ら新羅親伐を企図している。これは実現しなかったが、代わりに出征した人物の中には、大伴談連おほとものかたりのむらじという名も見えるし、葛城氏と因縁が浅くないらしい蘇我氏の者も明らかに直接の配下として現れる。

 葛城氏には、襲津彦の名が消えた後、もう再び強力な指導者が現れることがない。允恭天皇の五年、反正天皇の葬儀に手落ちがあったとして襲津彦の孫玉田宿禰たまたのすくねが殺され、その子の円大臣つぶらのおほおみ安康天皇殺害事件後のいざこざで雄略天皇に滅ぼされる。倭王家が権力の集中を進めたのに対して、葛城氏は襲津彦時代に獲得した領地や権益をおそらく子孫に分与したために、世代を経るごとに力の差が広がったものらしい。葛城氏が次第に零落するのに従って、その掌握していた遊漁民勢力も徐々に倭王家に直属することとなり、以前は間接的に関与していた諸韓国との交渉も、この王権にとっての直接的な問題となってくる。

 この時期は、前にも見たように、倭王南朝宋と盛んに接触して国際的地位の承認を求めた頃でもある。

 《宋書》によると、倭王讃による永初二年(421)以降数度の朝貢の後、後継の倭王珍が「使持節・都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」としての認知を求めたが、「安東将軍・倭国王」だけが承認された。《日本書紀》の構成に問題が大きいため正確な事件の前後関係が確かめられないのは残念だが、大まかに見て仁徳の晩年から反正までの間のことという見通しを仮に付けておきたい。

 倭王の過大とも思える請求が一部を除いて認められたのは、やっと元嘉二十八年(451)のことで、倭王済に「使持節・都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加えられた。南朝宋の末期、昇明二年(478)には、倭王武が「使持節・都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に除された。

 韓の諸地域における軍事指揮権を含む爵号の請求は、一つならずいくつかの意味を持っているらしい。しかしここで注目したいのは、これは倭王家が葛城氏集団を吸収していく過程と関係しているだろうということである。私は、葛城氏の抱えていた遊漁民勢力は、後世の倭寇や、匈奴などの遊牧民勢力のように、もともと多国籍集団としての性質を持っていたと仮定する。そう考えることで日本古代史における人や物事の流れが最もよく理解できそうだからである。そうした勢力を倭王家が接収したことで、任那における権益の主張、百済国への肩入れ、新羅国との対立といった、六~七世紀代の動きも導き出されてくる。