古代史を語る

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海東の護法天子――推古天皇(前編)

 推古天皇が即位したのは、大臣おほおみ蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくねによる崇峻天皇暗殺の後を受けた、隋の開皇十二年(592)に当たる歳末で、南朝の陳が滅ぼされてから約四年後のことだった。推古天皇の母は堅塩媛きたしひめ、堅塩媛の父は蘇我稲目宿禰そがのいなめのすくねで、稲目の息男が馬子である。

 この頃、長く続いた大型古墳の造営は下火になり、入れ替わるように仏教が現れてきた。百済の聖王(在位523~554)が仏像や経典をよこしてこれを勧めてきたのは、《日本書紀》では欽明天皇の十三年のことにしてある。聖王の代、百済高句麗の侵攻をたびたび受け、新羅も力をつけて脅威となっていた。また、南朝梁の太清三年(549)、朝貢に出した使節が侯景の乱に遭遇して帝都建康の荒廃を目の当たりにするという事件もあった。

 梁の武帝(在位502~549)の治世は、晩年こそ乱賊侯景に荒らされたが、自ら捨身するほど入れ込んだこの皇帝の庇護のもと、仏教が大いに栄え、寺院や僧侶も増えた。それは後に唐代の杜牧が《江南春》を作り

千里鶯啼綠映紅 千里はるばるうぐいすこのははなかげ

水村山郭酒旗風 水村かわばた山郭やまべ酒旗さかばうたい

南朝四百八十寺 南朝四百八十寺なんちょうしひゃくはっしんじ

多少樓臺煙雨中 多少いくばく楼臺たかどのあるか煙雨きりさめうち

 と詩ったのでその盛時が偲ばれる。この余恵が倭国にももたらされたのである。

 欽明は仏教を礼拝することについて群臣に諮問し、物部大連尾輿もののべのおほむらじをこし中臣連鎌子なかとみのむらじかまこが異議を述べたのに対して、稲目が擁護して仏像などを託されたと伝えられている。このときの稲目の言葉は、

西蕃諸國一皆禮之。豐秋日本豈獨背也。

西蕃諸国はひとしく皆これをうやまっております。豊秋日本とよあきづやまとがどうして独り背けましょうか。

 というので、蘇我氏は進取の国際派であって、物部・中臣両氏はここでは守旧派を代表している。反対の理由は、「天地社稷百八十神」を恒に祭ることが王権の基礎なので、それを改めれば「国神之怒」を招くだろうというのにあった。両氏が守ろうとした旧来の祭祀は、古墳に象徴されるものであったろう。

 日本式のいわゆる古墳は、後の五畿七道の広い範囲に多数が分布し、一部は韓国南部にも存在する。この古墳が分布する全体に、その大きさや様式を規制するような統一的な権力が及ぼされていたとは考えられない。もしそんな体制があったなら、古墳の数はずっと少なかっただろう。むしろ各地の有力者が独立性を保っていたからこそ、自由に流行の墓制を取り入れたのである。こんな時代の信仰からは統一の思想的根拠が得られない。

 稲目の仏教擁護は馬子に受け継がれるが、欽明の次の敏達のときにもこれを巡って対立があり、まだ蘇我氏の私祀にとどまっていた。推古天皇の治世、馬子はあまり表立った活動を見せないが、大臣としての地位を保つ。仏教はこの時期に始めて興隆する。

 この仏教は単なる信仰ではなく、種々の学問や美術を伴う総合文化だった。しかも中国社会は全く中世の段階に達していたので、古代の日本に中世の文化が仏教の形をしてやってきたのだ。その思想は銅像・絵画や建築の形で具体的に表現されるから、古代的社会に属する人々にも威厳が感じられるものだった。古代の段階では、質にこだわるほどの文化の下積みがないので、競争になるととにかく大きさや量で差をつけようとしがちだ。それは古墳そのものや銅鏡状の副葬品などによく表れている。中世の文化は、小さくても品質の高いものを好むので、その落差は歴然としていた。

 欽明天皇が初めて仏像を見たとき、

西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。

西蕃の献じた仏の相貌は端厳としていて、全く未だ曽て看たことがない。

 と歎じたというのも、もっともなことである。

 推古天皇は、その元年(593)、かねて飛鳥に建設中の法興寺に仏舎利を安置したのを皮切りに、二年には三宝興隆の詔を発し、三年には高句麗百済両国から高僧を招聘するなど、仏教振興の姿勢を示す。これは新しい外交政策を打ち出すための準備ともなった。外交面では、任那の権益を巡って新羅との間にともすると衝突を起こしそうな関係が続いており、書紀によると八年に改めて緊張が高まる事件があった。この年は随の開皇二十年(600)である。

 随の高祖文帝(在位581~604)の開皇二十年、《隋書》及び《北史》によると、倭王が初めて遣使してみかどいたった。文帝の下問に対して、倭王の使者が「倭王は天を兄とし日を弟とする」云々と答えたことが不興を買ったととれるように史書には記されている。この前後のことは前にも述べたから詳しくは繰り返さない。

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 この所には、倭王から隋朝に対して何か要求があったのかどうかには触れられていない。また《日本書紀》には、この遣使のあったことそのものが載せられていない。しかしよく考えてみると、南朝宋への遣使も載せていないので、冊封されることを目的としたものは載せないというのが書紀編集上取捨選択の方針だったのであり、この時はまだ倭王としての授爵を求めていたと推測してよいかもしれない。そうだとすれば、加えて、かつて倭王武が認められた新羅加羅などにおける軍事指揮権の再確認も要求しなかったとは考えにくい。しかし新羅はすでに加羅諸国を実質的に支配していたし、開皇十四年には上開府・楽浪郡公・新羅王を与えられている。また、南方に偏していた宋とは違い、隋は高句麗と接しており、朝鮮・韓国方面の情勢は切実な問題である。そのため倭王の要求を過分なものとして却けたというのが、「此れ太だ義理無し」とされたことの真相ではないだろうか。

 同じ年の十二月、文帝は仏教と道教を保護する詔を発する。これより前、北周武帝(在位560~578)は儒教を偏重して仏・道に厳しく当たったが、仏法尊重はすでに東洋の広い範囲で国際的常識になっているし、在来の思想である道教に配慮することも欠かせない。もちろん儒学も引き続き奨励されている。倭王の使者はこうした状況を見聞して帰ったのである。以下、次回に続く。

埴輪の馬はどんな馬か

 六世紀代といえば、《日本書紀》が編纂された時期にかなり近付いてくるので、より詳細で信憑性の高い内容を期待したくなる。ところが、この時期にかかるはずの顕宗天皇あたりから推古天皇の初頭にかけて読んでいくと、うんざりするほど韓国関係の記事が多いという印象が残る。日本側の記事もあるにはあるが、列島の政治的統合がどう進んだかどうかについては詳しく跡を追うことができない。《古事記》の方はもともと対外関係の記事をあまり載せないだけにもっと分かりやすく、顕宗・仁賢の即位に関する昔話じみた記述の他は、ほとんどが歴代天皇とその妃や子の名前などを列挙して終わる。

 これは、皇極天皇の四年(645)に政変があり、蘇我蝦夷そがのおみえみしらが殺されそうになった際、天皇記・国記なるものがほとほと焼失しそうになり、船史恵尺ふねのふびとゑさかがその国記を取って中大兄なかのおおえに奉献するということがあって、その時に多くの史料が失われたためだろう。

 推測のために先の状況を確認しておくと、日本における古代帝国的段階確立のための最終的な戦争である壬申の乱(672)は、天武天皇の行動開始からわずか半年足らずで収束している。これは統一の総仕上げではあったが、これ自体が統一のための戦争だったとは言えない。中国史を参考にすると、秦と趙が大いに争った長平の合戦が領土国家的段階から古代帝国的段階に移る転機であったとして、それから統一までは約四十年である。日本の場合は、壬申の乱以前数十年間に統一戦争が行われたということはない。

 古代中国における統一戦争は約四十年間であり、長いと思われるかもしれないが、これでも急激な変化である。秦はこの期間に他の六国を隣から隣へと次々に併合した。それが可能だったのは、その国が西の辺境に位置していたために、遊牧民勢力から良馬と騎馬戦法を輸入するのに有利だったことが重要な一因だと考えられる。馬というのは実に強力なもので、征服をするのにも使えるし、足を活かしてより高速で広範囲の情報網を構築でき、それによって占領地の経営及び統一の維持にも役立つ。

 日本列島には、よほど古くには原生の馬が棲息していたとされるが、早くに絶滅して、歴史時代の馬にはつながらないらしい。考古学的知見からすると、古墳時代の三区分法の中期、絶対年代で五世紀に重なる頃から乗馬をしたと察せられるものが現れ、六世紀初頭には広範囲に行き渡るという。古墳時代後期になると1000を優に超える古墳から馬具が出ているそうで、馬を象った埴輪も多い。だからこの時期には馬が本格的に移入され、何らかの目的に利用されるようになったと考えられる。この馬がどんな役割を持った馬だったかである。

 交通手段という面から見ると、日本列島では古くから船が使われた。古代の船というのも実態がつかみにくいが、人間の活動の痕跡からして、金属器以前はるか昔の段階ですでにかなり使われていた。小型のものに関する限り、船は弥生文化期にはもう“枯れた技術”だった。当然ながら海に囲まれた細長い陸地という環境では船が便利だし、川も通路になる。川というと、下るのは良いが、上るのはどうするかと思われるかもしれない。江戸時代のことになるが、川船に綱を架けて人が岸を歩いて引っ張っていたことがある。これでも馬の背に乗せるよりずっと多くの人や物を運べる。こういうことはかなり古くから行われていたに違いない。

『河内名所図会』第六巻より。人力で十数人が乗った川船を牽く様子が描かれている。

 《日本書紀》を読んでいても、船というものは普通に登場する。例が多いので特に挙げないが、第一巻から当然にあるものとしてよく出てくる。船の存在は所与の前提と言ってもよい。馬も第一巻から出るには出るが、抽象的あるいは神話的・説話的にすぎるものを除くと、応神天皇の十五年に、

百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。即養於輕坂上厩。因以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。

百済王が阿直岐あちきを遣わして良馬二匹を貢いだので、軽の坂上さかのうへの厩に養わせ、因って阿直岐をして飼うことを掌らせる。故に其の馬を養うの処をなづけ厩坂うまやさかと曰うのだ。

 とあるのが最初だろう。これより前、神功皇后紀、新羅王が誓って述べたとする言葉の中には、

春秋獻馬梳及馬鞭

春秋には馬梳および馬鞭を献じましょう。

 というのもある。要するに神功・応神の頃からこの王権が馬を輸入し始めたということが伝えられていたようである。これが西暦400年前後の時期だとすれば、考古学的知見との一致点が見いだせそうに思える。さておき馬が入った時には、船はその地位をとっくに確立していた。

 雄略天皇紀になると馬の活用がまとまって記されている。

 例の一に、安康天皇崩御の後、雄略は市辺押磐皇子いちのべのおしはのみこを殺そうと謀り、巻き狩りに誘い出し、「彎弓驟馬(弓を構え馬を馳せ)」して射殺す。これは遊戯としての狩猟に使われる馬である。

 二に、雄略天皇の九年五月、紀大磐宿禰きのおひはのすくねは、戦病死した父の代わりとして新羅遠征に渡り、「兵馬船官及諸小官」を一手に指揮する。ここには軍馬が出るが、韓国でのことであり現地調達したものだろう。

 三に、同じく九年の七月に、田辺史伯孫たなべのふびとはくそんが娘婿の家に出産を祝った帰りの夜道で、自分の馬を応神陵の埴輪の馬と換えて乗るという、不思議な話を載せる。これは身分のある人の足としての馬であり、あるいは祭祀と関係する馬である。

 四に、十三年三月、歯田根命はたねのみことは、采女の山辺小嶋子やまのべのこしまこと姦通した罪の代償として、「馬八匹大刀八口」を払い、「小嶋子のためには馬の八匹といえども惜しいことはない」という意味の歌を詠む。これは動産としての馬である。

 この四例に、五世紀末から六世紀にかけての馬の使われ方の類型が示されているようである。ある程度の身分の高い人は財産として馬を持ち、乗って出かけたり遊んだりする。戦争には使わないことはないが、どのくらいに利用されたかは疑いが残る。もっともこれは史書の叙述上のことで、目的のために選択された結果だから、当時の実態がそのまま反映されているわけでもない。

 そこで、雄略天皇紀にも現れる埴輪の馬だが、この馬が実際にはどんな馬だったかである。古代の馬の像といえば、中国の“馬踏飛燕”が有名である。

Flying Horse, East Han Dynasty.Bronze. Gansu Provincial Museum

 これは極端な例かもしれないが、馬が奔走するのを見れば、物を作る人間ならどうしたってそれを表現したくなるに違いない。ところが埴輪の馬は、行儀よく立っていて、動きがなく、表情も柔和なものが多いという印象がある。製作技法上の限界はあるにしても、人物埴輪にはもう少し動きを付けたものがあるから、対比すると馬は一層とおとなしそうに見える。

 ただ私は埴輪の馬を全て検査したわけではなく、認知が偏っている不安があるので、専門家の意見も参考にしたい。そこで探してみると、東京国立博物館ウェブサイトのに載せる列品管理課主任研究員氏の記事に、

ところが、日本列島の馬形埴輪には耕作・牽引などに適した馬具は付けられていませんし、ましてや大陸の騎兵にみられるような激しい戦闘に耐えるような装備はほとんど見当たりません。

古墳から出土した少数例の馬冑(見取図:★4)なども稀少な舶載品とみられ、馬具としてはごく少数の特殊な例にすぎません。

大多数の馬形埴輪からは、少なくとも古墳時代の馬が農耕や戦闘に従事していた様子をうかがうことはできません。

こうしてみると、埴輪に象(かたどら)れた馬は乗馬に最大の「関心」があったようです(といっても馬の特性でもあるスピードが重視された様子はありません…)。

それも金銀に彩られたさまざまな馬具を鏤(ちりば)めた豪華な“いでたち”です。

ほかの動物埴輪と比べても、著しく“人の手が加わった”姿が特徴で、特定階層の人物と(まさにベタベタの・・・)深い関係にあったことは否めません。

東京国立博物館 - 1089ブログ

 とあるのは心強い。だがこれにしても、埴輪の馬を作る目的がそういうものだったからそうなのかもしれない。

 しかしこういうことは言える。史書の叙述にしろ、埴輪の馬にしろ、少なくとも王権との関係においては、この時期の馬が戦争にさほど役立ったということはなさそうだ。もし王者にとって重要な威力を馬が発揮したのであったなら、その痕跡がもっと残る可能性が高いだろうから。

 歴史学的に見ると、《魏志東夷伝》に、濊の土地の特産として「果下馬」というものが記されている。これは乗ったまま果物の枝の下をくぐれるような小型の馬だという。馬を日本に持ち込むには、当然だが船に乗ってもらわなければならず、そのためには果下馬のように小さくてかつ性格の温和なものが選ばれたということは考えやすい。軍馬としては余り優れていないことになる。

 さて馬がそうしたものでないことが分かったとしても、それだけでは歴史学的問題を片付けたことにはならない。それならどうして力の差がついて日本の統一が進められたかということである。

 雄略天皇の頃には、この王権は少なくとも近畿地方の多くを確実に領有したとみられる。これに加えて、この王権は遊漁民的勢力と結び付いていた。遊牧民がそうであるように、遊漁民も農業的地域よりも早くから広域社会を形成しており、これによってこの王権は東日本から韓国沿岸の一部に及ぶ水運を押さえることができた。

 船と馬は軍事・交通・通信・流通などの面で似た役割を果たしうるが、思うに、軍事面での違いはその征服能力にある。騎兵をうまく運用すれば陸上を面的に押し広げるように制圧していくことができる。これに比べると船師ふないくさの陸地に対して有効に働く範囲はかなり限定的であって、強襲はできても征服はしにくい。三国時代の呉が魏に及ばなかった所以である。

 大陸ではそうだが、しかし列島の環境では、水路の権益を押さえることで、線路を敷くように細長く手を伸ばし、各地に確保する拠点はわずかに過ぎなくても、そこからじわじわと影響力を広げることができただろう。そうして、長い年月をかけて、ゆっくりと優勢を占め、列島の中央権力としての地位を固めることができた。

 馬は権力者にとって言わば“自慢の外車”だったのだろうが、翻ってみればそれを最初に手に入れたのは船乗りだったはずだ。古墳からの出土品では装飾的な馬具が注目されるが、集落遺跡からは実際に使われたらしいものが見つかっている。民間ではおそらく船を牽いたり荷物を載せ替えるのに使われ始め、次第に働く馬の有用さが知られていったものと推察する。

五世紀の倭新関係(後編)

 (承前

 政治と商業と掠奪は、根が一つである。この三つの要素がいかに関係するかで歴史的な動きが決まると言ってもよい。前回に見た、ロシアの皇帝・商家・カザークの癒着は、その最も分かりやすい例の一つだろう。三者の組み合い方は違っても、要するに同じことは世界のどこにでもある。特に、国というものが伸張するときには、これらが互いに歯車のように噛み合って、威力を最大化しようとする。そしてこれが一度大回転を始めると、行き着く所まで行かなくてはやまない。

 前回までに見た、西暦400年前後の日本の場合にも、三つの要素が結合する様子が見られる。

 葛城襲津彦かづらきのそつびこは、新羅の人間を連れ去ったというが、人間には食料が必要だから財宝のように蓄えておくわけにはいかない。人間そのものを商品にするか、さもなくば商品の生産に従事させるかだ。掠奪というのは一般にそういうもので、自分で消費する分を除いては交易に出すのでなくては利益がない。だから襲津彦は掠奪と商業を代表してここに登場してくると言える。襲津彦自身には政商としての性質が濃く、実際には提携する遊漁民勢力が戦力として動いた。他方で政治を代表するのは神功皇后で、その父系は近江の息長氏だが、母親は葛城高顙媛たかぬかひめという。高顙媛と襲津彦の関係は分からないが、そう遠い縁でもないのだろう。

 葛城氏は、遊漁民勢力を把握して諸韓国との交渉で活躍する一方、奈良平野西南部の葛城地方に基盤を持っていた。ここに葛城氏が台頭してくるのがいつ頃のことかは明確ではないが、景行天皇乃至成務天皇が、その宮を近江に移したことと関係しているのかもしれない。その近江の息長から出てくるのが神功皇后であることは前に述べた。

 神功皇后は、新羅国から筑紫に帰ると、誉田別皇子ほむたわけのみこ、後の応神天皇を産み、この幼子を連れて瀬戸内海を東へ向かった。

 亡き仲哀天皇の子には、この他に、いとこの大中姫おほなかつひめに生ませた、麛坂王かごさかのみこ熊王おしくまのみこがあった。二人は神功皇后が誉田別を連れて帰ることを聞くと、王位継承権を奪うためにこれを迎撃しようとした、というのが記紀の筋書きである。真実はむしろ神功皇后の方が誉田別のために先手を打ったのかもしれない。しかしともかくもこの紛争は彼らの政敵を一掃する結果になったのだろう。神功皇后は、奈良平野に入って磐余の地に都し、かつてこの土地に拠点を置いた王権の基盤を吸収した。

 五世紀代に掛かると考えられる応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧の八天皇のうち、応神・仁徳・履中・雄略の四人が葛城氏の女性を妃とし、履中・反正・允恭・清寧の四人が葛城氏の女性を母とする。ここに神功皇后以下の倭王家と葛城襲津彦以下の葛城首長家との連合王権が成立したかに見える。ところがこの時期に葛城氏が権勢を振るったかといえばそうではない。

 神功皇后から仁徳天皇の時代にかけて、韓国との関係において出現するのは、襲津彦の他、葛城氏と同じく武内宿禰たけしうちのすくねの裔を称する者か、または斯麻宿禰しまのすくね千熊長彦ちくまながひこのように氏素性がよく分からない者が多い。後者は倭王家の直属でないために系統不明になったのだろう。これ以外では、神功摂政四十九年・応神天皇の十五年・仁徳天皇の五十三年に上毛野君の祖という人物がわずかに現れる。それが雄略天皇の九年になると、天皇が自ら新羅親伐を企図している。これは実現しなかったが、代わりに出征した人物の中には、大伴談連おほとものかたりのむらじという名も見えるし、葛城氏と因縁が浅くないらしい蘇我氏の者も明らかに直接の配下として現れる。

 葛城氏には、襲津彦の名が消えた後、もう再び強力な指導者が現れることがない。允恭天皇の五年、反正天皇の葬儀に手落ちがあったとして襲津彦の孫玉田宿禰たまたのすくねが殺され、その子の円大臣つぶらのおほおみ安康天皇殺害事件後のいざこざで雄略天皇に滅ぼされる。倭王家が権力の集中を進めたのに対して、葛城氏は襲津彦時代に獲得した領地や権益をおそらく子孫に分与したために、世代を経るごとに力の差が広がったものらしい。葛城氏が次第に零落するのに従って、その掌握していた遊漁民勢力も徐々に倭王家に直属することとなり、以前は間接的に関与していた諸韓国との交渉も、この王権にとっての直接的な問題となってくる。

 この時期は、前にも見たように、倭王南朝宋と盛んに接触して国際的地位の承認を求めた頃でもある。

 《宋書》によると、倭王讃による永初二年(421)以降数度の朝貢の後、後継の倭王珍が「使持節・都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」としての認知を求めたが、「安東将軍・倭国王」だけが承認された。《日本書紀》の構成に問題が大きいため正確な事件の前後関係が確かめられないのは残念だが、大まかに見て仁徳の晩年から反正までの間のことという見通しを仮に付けておきたい。

 倭王の過大とも思える請求が一部を除いて認められたのは、やっと元嘉二十八年(451)のことで、倭王済に「使持節・都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加えられた。南朝宋の末期、昇明二年(478)には、倭王武が「使持節・都督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に除された。

 韓の諸地域における軍事指揮権を含む爵号の請求は、一つならずいくつかの意味を持っているらしい。しかしここで注目したいのは、これは倭王家が葛城氏集団を吸収していく過程と関係しているだろうということである。私は、葛城氏の抱えていた遊漁民勢力は、後世の倭寇や、匈奴などの遊牧民勢力のように、もともと多国籍集団としての性質を持っていたと仮定する。そう考えることで日本古代史における人や物事の流れが最もよく理解できそうだからである。そうした勢力を倭王家が接収したことで、任那における権益の主張、百済国への肩入れ、新羅国との対立といった、六~七世紀代の動きも導き出されてくる。

五世紀の倭新関係(中編)

 (承前

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 前回までに述べた所のあと、《日本書紀》と《三国史記・新羅本紀》の双方に、相互の関係についての記事がいくつかある。その中に、個別の対応が確認できるものが、もう一つある。

 それは、神功皇后紀摂政五年の条で、微叱許智みしこちが一時帰国だと偽って新羅に逃げる話がある。この事件は、新羅本紀には、訥祇麻立干とっしまりゅうかんの二年に、

秋 王弟未斯欣 自倭國逃還

秋、王の弟の未斯欣が倭国から逃げ還った。

 と簡単に載せられているだけだが、同じ《三国史記》に収録された「朴堤上はくていしょう伝」にやや詳しい記事があり、そのいきさつは書紀のものと大筋で一致する。この事件は日韓両国の史乗によって確からしさが認められる。訥祇麻立干の二年は、西暦418年に当たる。

 ただし、ここにも一つの問題がある。書紀では葛城襲津彦かづらきのそつびこが微叱許智を送る使者としてついて行ったことになっている。朴堤上伝では単に倭人などとあって名前はない。名前が出ないのは良いけれども内容に問題がある。書紀では欺かれたことに気付いた襲津彦が新羅の使者三人を焼き殺す。朴伝では、朴堤上が未斯欣を逃がした後でやはり焼き殺されて、そこでこの事件についての話は終わっている。書紀にはこの続きがある。神功紀摂政五年三月条の全文は、

五年春三月癸卯朔己酉、新羅王遣汙禮斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等朝貢。仍有返先質微叱許智伐旱之情。是以、誂許智伐旱、而紿之曰、使者汙禮斯伐・毛麻利叱智等、告臣曰、我王以坐臣久不還、而悉沒妻子爲孥。冀蹔還本土、知虛實而請焉。皇太后則聽之。因以、副葛城襲津彦而遣之。共到對馬、宿于鉏海水門。時新羅使者毛麻利叱智等、竊分船及水手、載微叱旱岐、令逃於新羅。乃造蒭靈、置微叱許智之床、詳爲病者、告襲津彦曰、微叱許智忽病之將死。襲津彦使人令看病者。既知欺、而捉新羅使者三人、納檻中、以火焚而殺。乃詣新羅、次于蹈鞴津、拔草羅城還之。是時俘人等、今桑原・佐糜・高宮・忍海、凡四邑漢人等之始祖也。

 というのだが、この最後の所、

乃詣新羅、次于蹈鞴津、拔草羅城還之。是時俘人等、今桑原・佐糜・高宮・忍海、凡四邑漢人等之始祖也。

そして新羅いたり、蹈鞴津たたらのつやどって、草羅城さわらのさしおとして還る。この時の俘人とりこらは、今の桑原・佐糜・高宮・忍海の凡て四つの邑の漢人あやひとらの始祖である。

 とあるのが、意義がよく分からない。欺かれたことに対する報復は、新羅の使者を殺すことで済ませたはずで、これほどの行動を起こす理由がない。君命も受けずに無辜の人間を略取するとはどういうことか。これは本来は別の事件だったものを一条の文にまとめてしまったか、あるいは襲津彦が使命に便乗して私的に掠奪をしたということだろうか。

 襲津彦の名は、《日本書紀》の神功摂政六十二年、応神天皇十四年及び十六年、仁徳天皇四十一年などに現れる。また、神功摂政六十二年の条に引く《百済記》に沙至比跪さちひこという名が見え、襲津彦と同一人物であるらしい。《古事記》には葛城長江曾都毘古かづらきのながえのそつびことか葛城之曾都毘古かづらきのそつびこという名前が見えるが、名前が出るだけで活動は伝えられていない。

 応神十四年の記事では、襲津彦は帰化する百済人を迎えに加羅国に行ったまま三年も戻らなかったという。十六年八月の条では、その理由を新羅の妨げによると推量しているが、いちいち新羅を敵視するのが書紀の例だから額面どおりには受け取れない。仁徳四十一年の条では、「紀角宿禰きのつののすくね百済に遣わした」という書き出しの文中に、襲津彦が唐突に現れ、あたかも韓国に住んでいるかの印象を受ける。《百済記》の沙至比跪は、それどころか新羅国に懐柔されかえって加羅国を攻めたことになっている。

 書紀の内容からすると、葛城襲津彦はかなり自律的な活動をしていて、朝廷の正式な大臣とか将軍といった者らしくない。もちろん葛城は奈良平野の地名で、葛城氏はその土地の豪族とされているが、五世紀代の早い時期において既にそうだったかどうかは定かでない。襲津彦その人の行動は、むしろ遊侠的であり、時に海賊的行為をするような遊漁民勢力の一派を率いる首長を思わせる。ただその一方で、君命を受けて出動したり、記では息女が仁徳天皇の皇后となっていることなどからすると、脚色はあるにしても、全く無関係の伝承を無理に付会したということではなさそうである。

 こういう人物について、参考になりそうな事例を世界に探せば、それがロシア史にある。

 リューリク朝のイワン四世は、ロシアで初めて皇帝ツァーリを称した人物で、その治世は日本の織田信長の頃と重なっている。長く遊牧民の勢力によって頭を抑えられてきたロシアは、この時代にようやく帝国的体制を築く端緒を開いていた。しかし国内にはまだ大貴族との抗争があり、辺縁にもまた遊牧民の脅威が無くなってはいなかった。

 この時代、ロシアの辺境には、カザークと呼ばれる勢力があった。カザークとは、ロシアの農耕的社会からあぶれた無頼者で、遊牧文化を摂取して騎馬を得意とした。農村に対しては、掠奪をすることもあれば、遊牧民の襲撃から守ることもあった。本来の遊牧民ではないが、外形的には遊牧民的勢力の亜種とも言える。

 イワン四世の頃、カザークの有力な一派を率いる首長で、イェルマークという者があった。カザークは公権力から見れば破落戸集団であり、イェルマークも官軍に追われていて、ある土地に逃げ込んだ。そこはストロガノフ家の領地だった。ストロガノフ家は辺境の毛皮商で、数多くの労働者を保有し、毛皮を獲るための土地の領有と、それを守るための武装をすることさえ勅許されていた。日本史に類例を求めれば、それは松前藩と似た所がある。

 この頃、ウラル山脈の東には、シビル・ハン国があって、モンゴル帝国の余勢を駆っていた。その方面をロシアではシベリヤと呼んだ。ストロガノフ家は毛皮資源のためにシベリヤが欲しかった。そこにカザークの一味を率いたイェルマークが逃げ込んだのだった。窮鳥懐に入れば猟師も殺さずというが、商家ならではこれを殺さぬどころか存分に活かした。ストロガノフ家はイェルマークをシビル・ハン国に差し向けたのである。かつてロシア人の弓矢は遊牧民に及ばなかったが、この時には銃器によって力関係が逆転していた。これは1580年代のことで、長篠の戦いに時期が近い。

 この最初のシベリヤ征服はストロガノフ家が私的に始めたが、獲得した領地は形式的には皇帝に献上された。皇帝にとっては大貴族の手垢が着かない純粋な天領となり、王権拡張の象徴ともなった。征服された土地の住民には租税として毛皮の物納が課される。商人がこれを裁いてヨーロッパに輸出する。シビル・ハン国の滅亡により東方への道が開け、皇帝の領土は日一日と拡大した。その遠征の計画は政府がすることもあれば商人が立てることもあった。賊徒だったカザークもようやく栄誉ある直参として征服に従事することとなる。

 このロシアの場合と上古の日本とでは、もちろん事情が大きく異なる。しかし煎じ詰めて言えば大きく共通する要素があるのではないか。

 この話しはもう少し続くが、長くなってきたのでまた次回に分ける。

五世紀の倭新関係(前編)

 《日本書紀》は天武天皇とその後継者の王権のために編まれた。だからその立場からする潤色や付会が多い。従来多くの論者が幻惑される所である。史書の記述に疑いがあるとき、それを確かめる方法の一つは、同じ事柄を扱った別の史書と比較してみることだ。書紀を読むための参考として最も手近なものには《古事記》がある。記紀両書の企図の違いにも関わらず一致する内容は、それだけ信憑性が高いと言える。しかしこれとて同じ時期の同じ朝廷で編纂されたものとしての限界がある。特に外政に関することになると、両書の比較だけからより客観的な事実を抽出するのは難しい所がある。この点で上古の韓国については高麗で編まれた《三国史記》を参照しなくてはならない。

 《日本書紀》は、短所としては目的に沿った偏向が強いが、長所としてはある程度まとまった歴史観を持っている。《古事記》は文学的に過ぎるけれどもやはり一つの世界観を形成している。《三国史記》は、成立が1145年と遅いために、原史料の損失から内容が十分ではないが、当時の中国歴史界の傾向を受け継いであまり作為を加えていない点で扱いやすさがある。それぞれが異なった特徴を持っているので、それを踏まえた上で比較をすると、それなりに得るものがありそうである。

 問題の多い新羅関係の記事について見ると、記紀では仲哀天皇神功皇后の所まではほぼ具体的な存在を見せない。しかし《三国史記・新羅本紀》では、それ以前から倭人倭国などの字がしばしば現れる。例としていくつか挙げると、第二代南解次次雄の十一年、「倭人が兵船百余艘を遣わして海辺の民戸を掠めた」とか、第六代祇摩尼斯今の十二年春三月「倭国と講和した」、第十三代味鄒尼斯今の六年夏五月「倭兵が至ると聞き、ふねかじおさよろいつわものを繕う」、第十六代訖解尼斯今の三十五年春二月「倭国が遣使して婚を請う。むすめは既に嫁に出たとしてことわる」など、他にも多くある。

 これらの事件は記紀に対応する記事がないので、照合によって信憑性を確かめることはできない。しかし一致しないからというので一概に棄却することもできない。それぞれの史書を編纂した者の目的や立場の違いによって濾過された結果として不一致が生じた可能性がある。隣り合う集団の間には何らかの交渉が行われるのが常なので、記されたとおりの時と内容であったかは別としても、これらの事件はありうべきことではある。ではそれが実際あったことだと仮定して、記紀に載せられなかったのはどうしてだろうか。

 その答えは、前回までに考えてきたことによって理解できると思う。つまり神武から景行ころまでの記紀の主役たる王権は、奈良平野に拠点を置き、その影響圏は瀬戸内海方面に偏していた。その間に日本海側には別の勢力が形成されていたので、歴代の所謂“天皇”はその方面の事件には関与する所がなかった。日本海側の勢力と関係の深い神功皇后がこの王権の牛耳を執るに至って、初めてそれが日本的王権の由緒にまつわる問題として記紀の視野に入ってくるわけだ。

 前回に述べたことだが、新羅本紀の実聖尼師金元年「倭国との通好し奈勿王の子未斯欣みしきんを質とした」という記事が、書紀の「新羅王が微叱己知波珍干岐みしこち・はとりかんきを質とした」というのとようやく一致する。西暦400年頃の事件とみられる。

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 書紀ではこのとき、神功皇后が華々しく武装船団を率いて新羅に押し寄せ、新羅王は恐れて降伏を申し出たことになっている。しかしこの軍団は書紀の筋立ての上でさえ全く活動していない。これはおそらく口承文芸を取り入れたのだと思われる。もし講談ならできるだけ大げさに尾鰭を付けて話しを引き延ばした方が面白い。実際には普通の外交の一幕であって、日本側の原史料も本来はごく簡単な記述しかなかったのだろう。

 このとき、高麗高句麗)・百済両国王が、新羅が降伏したと聞いて、ともに日本に“朝貢”を絶やさないことを誓った、と書紀は述べる。これも当時の状況からしてありえることではない。非常に東洋的な言い方になるが、“朝貢”とは相手が“天子”であってこそ成立する。これは、七世紀後半の日本が滅びた両国からの多くの難民を保護することになった状況から、逆算的にその由来を過去に求めたのだ。新羅に対する優位の主張も、編纂現在の必要から析出したものである。

 記紀編纂に係る時期の事情から、過去の事件を脚色するということが、日本の古代史像を作り、さらにはそこへ明治国家の要求から再度の偏向が行われた。この二重の幻影が多くの知性ある研究者をも迷わせてきたのだった。

 これ以後も、新羅本紀には、五世紀代のこととして、「倭人」や「倭兵」が「辺を侵した」とか「城を囲んだ」といった記事が繰り返し現れる。書記の側にも、個別に対応が認められるかどうかは別として、この後からようやくこれらと対照できそうな記事が現れてくる。ここにもほぐさなければならない問題があるが、長くなるので次回に分ける。

神功皇后と海の権益

 《日本書紀》によると、晩年の景行天皇は、纏向まきむく日代宮ひしろのみやから志賀の高穴穂宮たかあなほのみやに移って、そこで崩御までの三年を過ごした。《古事記》の方にはこのことは見えないが、次の成務天皇が高穴穂宮で天下を治めたとある。穴穂とは、今の滋賀県大津市穴太あのうで、琵琶湖の南西にある。両書には不一致があるが、大まかには景行・成務の交代する頃に何らかの政治的変動があったことを示している。これまで歴代の天皇は奈良平野つまり律令時代の大和国の中にあった。それが近江国に移ったということは、当時としてはかなりの大きな変化だったに違いない。

 この移動の傾向は、成務の次の仲哀天皇の時に一層明確になる。仲哀の皇后は、神功皇后こと気長足姫尊おきながたらしひめのみことで、気長は息長とも書いて近江の地名であり、今の滋賀県米原市の辺り、琵琶湖の北東に当たる。記紀によると仲哀はほとんど王者としての実質を持たず、もっぱら神功皇后が活躍する。仲哀は高穴穂宮を本宮として引き継いだのかどうか明らかでない。その宮地に関する記事は、書紀・仲哀紀の二年二月の条に、角鹿つぬが行幸行宮かりみやを立てて居処としたとあるのが最初で、これを笥飯宮けひのみやと謂った。角鹿は今の敦賀で、笥飯は気比である。米原は北は敦賀に近い。仲哀がなぜ角鹿に行宮を作ったかは記されていないが、むしろ神功皇后にその理由があったと考えるのがまずは妥当だろう。

 書紀によって話を続けると、仲哀天皇は角鹿行幸の直後になぜか南海道方面へ出かけた。この時は神功皇后と多くの官人は角鹿に留められた。仲哀が紀伊国に至った時、熊襲が叛いたと聞き、この対応のために海に浮かんで穴門あなとへ向かった。穴門は後の長門である。その際に角鹿へ使いを出し、皇后に「すぐにその津から出発し、穴門で逢うように」と伝えた。神功皇后は「渟田門ぬたのと」を経て穴門の豊浦とゆらに着いたことになっている。渟田は出雲国盾縫郡沼田ぬた郷、今の出雲市北東部に当たると思われる。かつて宍道湖は西側でも細い水道で海につながっていたと考えられ、その地形は渟田のというのと一致する。

 仲哀天皇紀伊から穴門へ、つまり瀬戸内海を船で行った。瀬戸内海といえば、神武天皇のこととされる九州南部から奈良平野への勢力の移転に、この海域で活動する遊漁民的集団が介在したろうということを前に考えた。

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 彼ら遊漁民と奈良平野を拠点とする王権との関係がその後も続いたとすれば、彼らは平時には交通や貿易のために、時には海軍力としても、その権力の維持発展に寄与したはずだ。仲哀の行動にも瀬戸内海系遊漁民が関わっていよう。

 これに対して、神功皇后は角鹿から日本海を通って穴門に渡る。

 両皇さらに筑紫へ渡り儺県ながあがた橿日宮かしひのみやに入る。今、福岡市に香椎宮かしいぐうがある。ここで一事件が起こる。仲哀天皇熊襲を討とうとしてこれを諮ったとき、神功皇后は神憑りになって、まず神威によって新羅をまつろわせるべきことを説いた。仲哀はこれを信じず、そのために祟りを受けて死んだ、ということになっている。しかし神が政策を指図したり人を殺したりするはずがない。神がしたとされることは、実際には自然現象でなければ人のしたことなのだ。この事件は、日本海側の遊漁民勢力が、瀬戸内海の同種集団より優位に立ったことを意味していそうである。

 新羅でのことは、記紀の叙述は身内びいきが過ぎるようだ。一方に都合の良い記事は、裏をとってみなければならない。韓国現存最古の史書に、高麗の金富軾が編んだ《三国史記》がある。12世紀という遅い時期の成立だが、それまでに伝えられた原史料をあまり作為なしに集成したものらしい。彼我両史によって対照のできる事件は、《日本書紀神功皇后紀》仲哀天皇九年冬十月の条の、

新羅王波沙寐錦、卽以微叱己知波珍干岐爲質、仍齎金銀彩色及綾・羅・縑絹、載于八十艘船、令從官軍。

ここ新羅波沙はさ寐錦むきむは、即ち微叱己知みしこち波珍干岐はとりかんきを質とし、くわえて金銀・彩色及び綾・羅・縑絹をもたらし、八十艘の船に載せ、官軍に従わせた。

 とあるのと、《三国史記・新羅本紀・実聖尼師今》の、

元年 三月 與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質

元年三月、倭国と通好し、奈勿王(先代の王)の子の未斯欣みしきんを質とした。

 というので、実聖尼師金の元年は西暦402年に当たる。この年数も厳密には信用しかねるが、大まかには400年前後の時期にこの事件があったと見てよい。微叱己知と未斯欣とは同じ音を別に書き写したもので、波珍干岐は新羅国の官位の一つである。

 新羅本紀では、新羅の領域を侵犯したり掠奪をするのは「倭人」や「倭兵」で、そうした文脈では「倭国」を主語にしない。しかし通好や講和のときには「倭国」を使う。これを文字通りにとれば、新羅を寇掠するのは“倭”に属すると見なされる人々ではあっても、それは国として行ったものではなかったことになる。これは後の倭寇の場合と似た所がある。明は倭寇に悩まされ、足利氏に度々取り締まりを要求した。室町幕府の統治能力の低さが倭寇の活動を可能にする一因だったとすれば、これは別に不当なことではない。

 日本書紀においても、神功皇后新羅に渡ってそこで戦争はしていない。ここでは両者の主張は一致している。新羅としては、日本海系遊漁民と関係の深いらしい神功皇后に象徴される勢力に問題解決への寄与を期待し、神功皇后側としても、これを利用して権力を拡大しようとしたと考えうる。

 一方で熊襲のことは、すでに景行天皇の代に遠征をしたことになっている。これもどの程度が真実だと言えるかは問題が大きい。しかし畢竟当時の水準ではさほど広い範囲を制度的に支配することはできず、そのために仲哀天皇も重ねて遠征を企てたというのが記紀歴史観である。つまり新羅国も熊襲国も外国であり、仲哀天皇神功皇后の対立は対外政策の相違である。

 ただしこちらの関心は新羅熊襲そのものよりも、むしろ中国への通路を確保することにあったと思われる。神功皇后の活躍した時期が西暦400年前後だったとすると、それに続く413年、即ち東晋安帝の義熙九年、倭国が方物を献じたという記事が《晋書》に見える。

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 この際、韓国を経る北回りで行くか、九州を巡る南回りで通るかで、これに誰が関与できるかが変わり、前者なら日本海系遊漁民、後者なら瀬戸内海系遊漁民が、大いに利益を得ることになったのだろう。

建国の王者―崇神天皇の時代

 古代史の発展段階における領土国家時代は、後世の観念から見ても国らしい国ができてくる時期である。都市国家時代には、今の小売店と商圏の関係のような、古代都市とその勢力圏があるだけだったが、領土国家は領土と国境を持つ。かといってこれをあまり近代的な領土や国境の観念に引き寄せて解釈するのもまちがいのもとだが、ともかくも国らしい国の最低限の骨組みができてくる。

 古代の領土国家とその延長線上にある古代帝国は、もともと都市国家の結合によってできるので、中国やギリシャ・ローマなどでは都市国家網としての性格を色濃く受け継いでいた。しかし日本では、都市国家の伝統があまり深まらないうちに次の段階へ進んだので、より速くより純粋な領土国家ができた。ここにも後発先至の法則を見ることができる。

 考古学的に見ると、日本の都市国家時代は弥生文化に現れる環壕集落が営まれた時期に当たる。大型古墳が盛んに造られる頃には、環壕集落は解消されており、領土国家時代に入ったことを示している。両時代の境界が絶対年代にしていつ頃と厳密に言うことは難しいが、三世紀後半から四世紀前半の間にその過渡期があると思われる。

 日本史上の領土国家時代の始まりは、崇神天皇によって象徴される。崇神天皇の有した領土国家の範囲は、《日本書紀崇神天皇紀》の記述を参考にすると、西は奈良平野と河内平野との境なる大坂、東は東国への関門となる墨坂、北は山背へ通る那羅山までに及ぶ。これはほぼ律令制の大和国に相当する。また、河内や山背南部に対しては、力の差から優越的な地位を獲得している。

 崇神天皇の内政の記事は、ほぼ祭祀の整理をしたことで占められている。それまで王宮の中で祭っていた天照大神あまてらすおほみかみ大国魂神おほくにたまのかみを外に移し、奈良平野全体の重要な神格であるらしい大物主神おほものぬしのかみのために河内から太田田根子おほたたねこを招聘したことが注目される。また、書紀に

然後卜祭他神吉焉。便別祭八十萬羣神。仍定天社。國社。及神地。神戸。

然る後に他の神を祭らんかとうらなう、吉なり。便すなわち別に八十万の群神を祭り、かさねて天つ社・国つ社、及び神地かむどころ神戸かむべを定める。

 とあり、また《古事記》の相当する所には、

又於坂之御尾神。及河瀬神。悉無遺忘。以奉幣帛也。

また坂の御尾の神より、河瀬の神に及ぶまで、悉く遺し忘れること無く、幣帛を奉る。

 などとあることは、地味のようだが見落とすことはできない。つまり崇神天皇は、奈良平野の各地にあった都市国家、あるいは都市国家の段階にも達しない小勢力を併合したので、個別に行われていた各々の祭祀も兼併し、大物主神はそれらの代表格であり、自家の祭祀もそのために位置付けを考え直さなければならなくなったのだろう。他方で外政については、具体的な記事は武埴安彦たけはにやすびこ吾田媛あたひめとの戦争くらいしかない。武埴安彦は山背から、吾田媛は河内から、兵を率いて奈良平野に入ろうとした。これを謀反などと呼ぶのは一方的な観方で、第三者的に言えば国際的な武力衝突事態である。

 北陸・東海・西道・丹波への「四道将軍」の派遣は、ただ行って帰ったというだけで、何ら内容がない。書紀で出雲から神宝を召し上げる話は、肝心の部分が記の方では倭建命が出雲建を斬る話と同じ筋立てになっていて、所謂“どこにでも置ける”という説話であり、信憑性に問題がある。しかしそれならこれらが全然真実でないかといえばそうとばかりも言えない。崇神天皇の治世のこととして後に記録されることになった時代には、相前後して各地個別に領土国家が成立したはずだ。だからこれらの記事から潤色を除いて煎じ詰めて行けば、外交にも新しい状況があって、それに対応する新しい行動が要求された、ということくらいは実際にあったこととして認められよう。

 このようにして国らしい国を初めて築いたという崇神天皇は、書紀編纂の時代にもやはり始祖たる王者として意識されていた。そこで、

秋九月甲辰朔己丑。始校人民。更科調役。此謂男之弭調。女之手末調也。是以。天神地祇共和享。而風雨順時。百穀用成。家給人足。天下大平矣。故稱謂御肇國天皇

秋九月甲辰朔己丑、人民をしらべることを始め、くわえて調の役を科し、此れを男のゆはずの調・女の手末たなすえの調と謂った。是れを以て、天神地祇は共に和享して、風雨は時に順い、百穀はって成り、家ごとにち人ごとに足り、天下は大いに平らぐ。故に称えて御肇国天皇と謂う。

 とある所の、「御肇国天皇」の肇国というのは、見慣れない漢語で、漢籍にも用例が少ないが、肇は“はじめる”“ひらく”の意味だから、意味する所は建国に同じ。つまり「御肇国天皇」をやや説明的に訳せば、「建国の事業を指揮した天皇」ということになる。ここには崇神天皇を建国の始祖とする歴史観が明らかに表現されているのだ。

 これに比べて、神武天皇は、この地域の一地点に根拠を築いて「帝位に即いた」というだけで、内容的には全く建国者として描かれてはいない。書紀の述作者は漢典から様々な字句を引いて文章を潤色をしているから、もし神武天皇を建国者にしたければ、たとえそうした伝承がなかったとしても、いくらでもそう仕立て上げることはできた。始置百官、改正朔、易服色、などなど、ありきたりな言い方が私にも思い当たる。

 なお書紀における神武の「始馭天下之天皇」と崇神の「御肇国天皇」にはともに「はつくにしらすすめらみこと」という訓が付けられているが、字の意味は全く違う。そしてそれがどんなに古いものであったとした所で、訓は本文に対する一種の注釈に過ぎず、これについていくら考えても本文の研究にはならない。書紀の本文は和文じみた半漢文ではなく、中国人が読んでも読めるような漢文なので、やはりまずは漢文として読んで解るように書かれている。本文に従えば、書紀の編集者が両帝に同じ尊称を与えたと考えることはできない。記の方では崇神だけが「所知初国はつくにしらす天皇だと呼ばれている。